小暗い悪意うずまくインヤンガイ。しかしそんな世界にも、活気ある人々の暮らしは存在する。生きている以上、人は食事をする。実は、インヤンガイは豊かな食文化の花咲く世界であることを、旅人たちは知っていただろうか――？ インヤンガイのどの街区にも、貧富を問わず美食を求める人々が多くいる。そこには多種多様な食材と、料理人たちとが集まり、香ばしい油の匂いが街中を覆っているのだ。いつしか、インヤンガイを冒険旅行で訪れた旅人たちも、帰りの列車までの時間にインヤンガイで食事をしていくことが多くなっていた。 今日もまた、ひとりの旅人がインヤンガイの美味を求めて街区を歩いている。 厄介な事件を終えて、すっかり空腹だ。 通りの両側には屋台が立ち並び、蒸し物の湯気と、焼き物の煙がもうもうと立ち上っている。 インヤンガイの住人たちでごったがえしているのは安い食堂。建物の上階には、瀟洒な茶店。路地の奥にはいささかあやしげな珍味を扱う店。さらに上層、街区を見下ろす階層には贅を尽くした高級店が営業している。 さて、何を食べようか。●ご案内このソロシナリオでは「インヤンガイで食事をする場面」が描写されます。あなたは冒険旅行の合間などにすこしだけ時間を見つけて好味路で食事をすることにしました。このソロシナリオに参加する方は、プレイングで、・あなたが食べたいもの・食べてみた反応や感想を必ず書いて下さい。！注意！インヤンガイではさまざまな危険がありますが、このシナリオでは特に危険な事件などは起こらないものとします。
白い蒸気が襲い掛かる。華奢な身体に温かな湯気を浴びて、 「わ？！」 フェリシアは紫水晶の色した瞳を閉じる。掛けた眼鏡が真っ白に曇る。肩から垂らした二本のおさげ髪が揺れる。 「おっと、ごめんヨ」 屋台の上に並んだ蒸し籠のひとつを開けながら、湯気の向こう、男が悪びれもせずに笑う。ひとつどうだい、と蒸し籠を傾け、路の側に立つフェリシアに示して見せる。 水滴のついた眼鏡を拭い、屋台に近付く。蒸し籠から立ち昇る湯気は、温かく、甘い。籠の中には、食欲をそそる湯気に包まれて、鮮やかな桃色の饅頭がズラリ鎮座している。頬が緩む。そうでなくてもお腹が空いている。ぺっこぺこだ。 でも。 女の子は大抵みんな、ダイエッターだ。お肉がついてしまうのは真っ平ごめんだ。ああ、でも。 湯気をまとって、つやつや光る桃饅頭を前に、フェリシアは真剣に悩む。 「ハイハイ、蒸し上がったヨー」 男は屋台に並べた蒸し籠を次々に開けていく。爽やかな竹の匂いの混じった甘い湯気があがる。桃饅頭でいっぱいの籠の隣には、竹皮に包まれた蒸しもの。その隣には白いふかふかの生地に丸く包まれた饅頭。そのまた隣に、中身の黄色い餡が透けた半透明の生地も不思議な小鳥の形したお菓子。 「ちまきに肉まん、桃饅頭に水晶饅頭、うまいヨー」 呼び込みを始める男を、フェリシアはキッと見詰めた。インヤンガイのご飯は、と呪文のように呟く。 「ヘルシー素材も使ってるから絶対平気」 「はいヨ？」 「全種類、ください！」 「毎度！」 竹の菜箸で蒸しものが挟まれ、蝋紙にひとつずつ包まれる。まとめて詰められた大きな袋を受け取り、フェリシアは足取りも軽く歩き出す。路の先には、両側に露店や天幕が広がる。『酒菜集市』と呼ばれる界隈だ。 鮮やかな朱や蒼の雨除け布が頭上に張られ、空も、インヤンガイ独特の出鱈目に重なる建物も、隙間からしか覗けない。明るいなと思って眼を上げれば、龍や蓮の絵が描かれた色鮮やかな提灯が露店の屋根に所狭しと掛けられている。土産物かと思って店を覗き込んでも、並んでいるのは提灯ではなく、褐色や紅や黄の鮮やかな瓶。天井からは樹皮や枯葉にしか見えないものや花が吊るされている。漢方薬屋だろうか。 瓶の中、何か物体が浮かんでいるのを見つけて、好奇心のまま覗き込む。アルコールの匂いが甘く鋭く鼻を突く。 酒漬けにされているのは、見慣れぬ花や果実に樹木、とぐろを巻く蛇、舌を出した蜥蜴。花や果実に眼を輝かせ、蛇や蜥蜴に思わず難しい顔をする。店の奥から仙人のような老爺が顔を出し、呑むかね、と薦めて来るのを、 「ううん、いらないですっ」 慌てて首を横に振り、外へ飛び出す。 擦れ違う人と肩が触れそうな狭い路には、熱せられた胡麻油の香ばしい煙や、蒸し籠から溢れ出した蒸気の香り、火に落ちたタレが焼ける匂い、様々の匂いに充ちている。 煉瓦と漆喰の壁際には幾つもの卓と簡易椅子が並び、人気の露店にはズラリと行列が出来る。お腹が空いたと泣く子ども、肩が触れたの触れないので喧嘩を始める男達、それを囲んで野次る人々、喧嘩に構わず呼び込みを続ける露店の商人。酒菜集市は喧しいほどに賑やかだ。 その賑やかな人々に紛れ、フェリシアはあちこちの露店を渡り歩く。両手に抱えた紙袋は、買い込んだ食べ物で見る間に膨れた。蜂蜜を被った揚げパンに甘辛いタレの絡む唐揚、胡桃と木の実の月餅、戦利品の重さを確かめるフェリシアの顔に、笑みが零れる。どこで食べよう。 (飲み物も買わなくちゃ) その前にもう少し買い込もうか。露店は数え切れないほどある。見慣れない食べ物も、珍しい食べ物も、たくさん食べてみたい。薄紫の眼が嬉しさいっぱい、きらきら輝く。 露店攻略に掛かるフェリシアの真剣な上に楽しげな眼が、 (花火が刺さってる！) 店舗の外にまで溢れ出した卓上、どかんと置かれた大皿料理を飾る小さな花火を発見する。火花を盛んに飛ばす花火の下には、孔雀の形した色鮮やかな料理。否、料理なのか。料理だとするのなら、どうやって食べるんだろう、食べられるものなのかな、と近付いて、 「はいナ、いらっしゃい！」 元気のいい店員に捕まった。 「外の卓なら持ち込み大丈夫ヨ」 フェリシアの抱えるお菓子いっぱいの紙袋を目敏く見つけ、店員は空いた席を示す。半ば強引に酒樽に板を載せただけの簡易椅子に座らされ、 「お客さん楽しそうで良いこと良いこと。ごゆっくりー」 青磁の碗に注がれた黒いお茶を出されてしまう。 「べ、別にはしゃいでるわけじゃ……」 ないわ、と最後の言葉は尻つぼみになる。それもこれも、抱えた紙袋から立ち昇るいい匂いのせいだ。頬が緩む。袋からまだ湯気の残る桃饅頭を取り出せば、顔いっぱいに幸せな笑みが零れる。 淡い桃色の饅頭に口をつける。ふかふかした生地の中には、上品な甘さを残して舌に溶ける白い豆餡。 紙袋の中から視線を感じて、ふと見下ろせば、白い濾紙に包まれた黄色い小鳥の黒胡麻のつぶらな目。しばらく見詰め合った後、頂きますと小鳥型した水晶饅頭を取り出す。半透明の皮はもちもち、中身の餡はとろりとした卵のクリーム。優しいクリームの中、不意に歯応えを感じて首を傾げる。くにくにとした、ほんのりと甘い丸いもの。 「タピオカよ」 様子を見ていたらしい店員が笑った。雪花ヨ、と卓に鉢いっぱいのカキ氷を乗せる。練乳の蜜を隠すほどに、白玉に小豆に胡麻団子、落花生や金時豆、何だか見たこともない鮮やかな緑色の豆も、山と飾られている。オマケ、と碗の端に立てられた小さな花火に歓声を上げかけて、口を押さえる。代わりに匙で氷の山を崩さぬようにそっと掬い、口に含む。 「美味シ？」 満面の笑顔が、問いへの答えだ。 紙袋の中身を全部食べてしまっても、もうひとつの紙袋には手をつけない。これはロストレイルで待つ、乗務員のマナさんへのお土産。 お腹はいっぱい、口にも喉にも美味しい味が残って幸せもいっぱい。けれどまだ物足りない。食べていないものはたくさんある。 しばらく考え、 (妙案だ！) 何を思いついたのか、真顔で頷く。 ごちそうさま、と元気な店員の居る店を離れ、来た路を少し戻る。人込みの隙に見えてくるのは、さっき逃げるように離れた怪しい漢方薬屋。 「こんにちは」 古びた硝子戸に手を掛けて、中を覗き込む。焼酎漬の蛇や蜥蜴に囲まれて、立派な白髭の老爺が椅子に座っている。フェリシアを見て、歯のない口で楽しげに笑う。 「消化薬か」 「……わかるんですか」 この界隈を訪れた者は大抵欲しがる、と言いながら、足元の火鉢に掛けていた鉄薬鑵を取り上げる。陶器の碗に注がれたのは、苦い匂いの黒い液体。 差し出され、僅かに戸惑った後、意を決する。一息に呷る。 「う……！」 口も眉も曲げて苦い顔をするフェリシアを見て、老爺は人の悪い笑顔を見せた。そうして、もう一杯、と今度は別の鉄瓶を差し出す。 不満顔のフェリシアに、まだ食うんだろう、と白眉を持ち上げる。 めいっぱい苦い顔のまま、フェリシアは二杯目を、これも一気に呷る。呷って、あれ？、と眼を瞬かせる。これは苦くない。むしろ、 「甘酸っぱくて、美味しい……」 くるくると表情を変える少女を見遣り、老爺は目を細めた。楽しんでおいで、と送り出され、フェリシアは再び酒菜集市へと繰り出す。 まだまだたくさん、おいしいものを探すのだ！ 終
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