大姐が残した日記には僕にしか読み取ることのできない暗号が隠され書かれていた。 予言だ。大姐は天人のように美しいひとだったから、たぶん僕なんかが持つことのできない特別な能力を持っていたんだ。 大姐は凶刃に倒れ、彼岸へと旅立った。僕は知っている。大姐を殺めたのはその予言の能力を畏れた悪魔の使者だ。だからこそ未だにその足取りすらも掴めないままなのだ。 僕は確信した。大姐の残したこの日記に書かれている予言はすべてが必ず起こることなのだと。 幾度となく触れ、汚れて黄ばんだマウスに指をかける。一件目、二件目、そこに書かれていたものはやはり事実だった。悪魔の手足となっていた輩どもが制裁をうけたのだ。 大姐、あなたはやはり天に選ばれた聖女だったんだ。僕は祈りながら三件目の記事に目を落とす。 雨、売女、胎、死 そこに浮かび上がるいくつかの言葉を、僕だけが理解することができるんだ。 ◇ インヤンガイ、封箱(フェンシャオジ)地区ではこの数日たて続けに殺人が生じている。――とは言っても、むろん、インヤンガイという土地柄を考えれば、連日に及ぶ事件など目新しいものでも珍しいものでもない。インヤンガイには探偵という存在が数こそ知られてはいないものの多数存在している。事件の大半は彼らが積極的に解決してくれもする。 が、封箱地区には探偵と呼べる者はいない。インヤンガイならばどこでも目にすることのできる風景――縦長に伸びる家屋、その壁に這うパイプ、パイプからたちのぼる排気、吐き出される生活排水。狭い路地のそこここに怪しげな露店が点在し、人々は訪れる者を監視しているかのように、ねっとりとした視線を投げつけてくる。ただそれだけの、何一つとして変哲のない、小さな区域だ。 これまで目立った事件もなかったこの地区だが、今は廃屋と化している小劇場で生じた事件をきっかけにしてか、今再び、小さな波紋が封箱地区を静かに揺らし始めている。「薬屋の裏で商売してた女がいただろう。今度はあの女が殺されたんだそうだよ」 質屋の店主は丸く大きな顔にのせた小さなサングラスを鼻の頭で動かしながら口を開けた。「なんでも、今度は腹を裂かれて腸がぞろりと飛び出てたって話だ。それを野犬どもや鴉どもがつついてたっていうじゃないか。想像するだけで恐ろしいね」 言いながら、ユエが運んできた皿や壷をくまなく検めている。没落した商家が売りに出したものだ。憑き物があるとかで、曰く持ちの品らしい。ユエは曰くつきの品を諸々取り扱う質屋の店主を手伝い、わずかながらの賃金を得て生活をたてている。「その前は爺さんだったな。その前は子供だったかな。頭を潰されたり、四肢を千切られたり、散々なことだ」 店主はそう言うとユエに向け数枚の紙幣と小さな包みを差し伸べて言を繋いだ。「なんて話をした後に悪いんだがね、ユエ。こいつをリュオンのところに届けてきておくれ」 ユエはうなずきながら包みと紙幣とを受け取る。 リュオンとは電脳中心を営んでいる壮年の男だ。彼の店は質屋がある場所からいくぶん離れた場所にあり、しかもその近辺はごろつきが頻繁に出歩いている。場合によっては呼び止められてしまうこともあるほどだ。もっとも、ユエの場合はたびたびリュオンのところに出入りしているためもあって、厄介事に巻き込まれるということもないのだが。 しかし、日も落ちてきている。これからリュオンのもとに使いに行けば、戻るのは確実に日没後になるだろう。なるべくならば日没後にはあまり出歩きたくはない。 ユエの心情を察したのか、店主はサングラスの位置をなおしつつ口を開けた。「頼んだよ、ユエ。――そういえばリュオンがおかしなものを見つけたとかなんとか言っていたな」 そう言って小さくうなずいた質屋に、ユエは小さな会釈をひとつ残し、場を後にした。 リュオンはパソコンの前で頬杖をつきながら、なくなりかけたタバコを口に運び火をつけた。 愛用しているタバコは古い銘柄で、今となっては質屋を介さないと手にいれることもできない。残りは2本。だが、まもなく質屋の使いであるユエが持ってきてくれるはずだ。 マッチで火を点け、煙を吐き出す。電脳中心はゲーム機やパソコンを置いている。客の足は集まるときもあればそうでないときもある。今日は開店時から客の足はほとんどない。 画面に表示されているのは見知らぬ女が書いた日記だ。否、女は一時期足しげくリュオンの店に足を寄せていた。せいぜい20代半ばほどの、地味な見目の女だった。その女が作っていたホームページの中の日記だ。 ある日突然姿を見せなくなった女だが、どうやらごろつきたちの抗争に巻き込まれて死んだらしい。 もっとも、女の生死になど関心はない。関心があるのは、女が遺したこのホームページだ。 掲示板は、女が死した後も盛況している。むしろ女の死後に盛況し始めたと言ってもいいだろう。 その掲示板に書かれている、その内容こそが、リュオンの関心を引いているのだ。 ――聖女の予言がまた当たった ――汚らしい売女に裁きがくだった ――あのジジイの頭がトマトみたいに潰れて ――次はまた女だ 一通り目を通した後、リュオンは再び煙を吐き出し、ユエの訪れを検めるかのように視線を窓の外に向ける。 赤錆色を浮かべた空に、白く鋭い三日月が浮かんでいた。 ◇ 今度のキーワードはこれだ。赤錆、刃物、めった刺し、若い女 決行は今日だね、大姐。
小路は迷路のようにいくつもの横道を覗かせた。傾斜のないまったくの平坦な路面であるはずなのに、小路を押し潰すほどにせり出した建物の壁面に蔦のように這っているパイプが路面にまで這っているせいか、決して平坦ではないように感じられる。蒸気を吐き出すパイプを越えて小路を歩き進むのだが、そこここに見受けられる住人たちが寄せるじっとりと粘りつくような視線が居心地の悪さを増幅させる。彼らは炉辺に粗末な露店を開いている者であったりもするようだし、ただ単に何をするでもなくそこに座っているだけの者であったりもするようだ。が、皆が一様に、まるで体内に入り込んだ異物を見るかのような視線を寄せてきているのだ。 「僕たちはどうも招かれざる存在のようだねぇ」 三つ揃えの背広にコートを合わせたいでたちの壮年の男――柊木新生が間延びしたような口調で告げた。どうも言葉を発するのはタバコの煙を吐き出すついでであったらしい。指なしの黒革の手袋でつまみ持っているタバコは今しがた新しく火が点けられたばかりのもので、吸い終えたタバコは常備している携帯灰皿の中に押し込まれている。パイプを踏まないように留意している他に、新生は実のところ何も気になどしていないようだ。 新生の数歩前を早足気味に進むのはツヴァイだ。新生とは親子ほどの年の差のある青年ではあるが、まるで気後れするでもなく、躊躇する様子も見せずに小路をどんどん歩き進んでいく。 「俺さぁ、自分で言うのもなんだけど、推理力っての? わりと天才的だと思うんだよな」 言いながら振り向き、新生の顔を見る。新生は「ふぅん」と小さくうなずくばかり。 「今回のこの事件、俺なりに呼び名つけてみたんだけどな。封箱連続殺人事件 鴉たちは見た! とかそういう系?」 「前を見て歩かないと転ぶよ」 「んあぁ? 平気平気。俺、天才だし」 新生がかけた心配などまるで気に留めるでもなく、ツヴァイは言葉通り器用に小路を這うパイプを避けている。 「まあ、なんかスゲー陰気くせー話って思うんだけどな。俺が思うに、犯人は視力0.1の肉屋の親父かなんかだぜ。夜に仕入れに出たときにな、ウシと人間を見間違ってバサッと殺っちまったんだ」 どや顔に満面の笑みを浮かべているツヴァイを見据え、新生は穏やかな笑みを満面にたたえた。 「僕は生憎と特殊な能力は持ち合わせていなくてね。地道に聞き込みをやらせてもらったんだが」 言いながら、ふと、ついさっき話してきた質屋の男を思い出す。 どこか閉塞的にすら感じられる住人たちの中で、質屋はずいぶんとましだったように思える聞き込みは質屋の他にも多く声をかけてはみたが、ほとんどの者は支離滅裂なことしか口にせず、情報らしい情報を入手することは出来ずじまいだった。その中にあって、質屋は話の通じる相手だった。その質屋からこの封箱地区で過去に生じてきた事件の概要や最近の情勢に関する話を聞くことができたのだ。 「俺の知り合いがさ、関わったらしいんだよ。あの質屋が言ってた、小劇場? であったっていう事件に。そんで、そういえばヤツから話聞いたことあったなとか思い出してさ」 ツヴァイが口を開く。いわく、質屋で働くユエという少女が、比較的最近に生じていた事件に係わりをもち、その知人を含めた数人が司書から依頼されて解決に当たったのだという。確認したところ、ユエは新生とツヴァイが質屋を訪れる前に出かけてしまったとのことだった。 「またトラブっちゃうんかね、ユエって子」 ツヴァイがわずかに眉をしかめる。 インヤンガイは夜を迎えた。 新生は煙を吐き出しながら空を仰ぎ、「……とりあえずユエって子を追いかけようか。個人的に、前の事件の話なんかも聞いてみたいしね」安穏とした笑みをたたえたまま、短くなった煙草を灰皿の中に押しやった。 決して趣味が良いとは言えない派手な電飾のなされた看板には、電脳中心と記されていた。その文字の下には小さく遊戯中心とも書かれているが、文字の大きさから察するに、電脳中心と呼んで障りはないだろう。 トタン屋根をくぐり、鉄製のドアを押し開く。同時に溢れ出てきたのは多彩な電子音だった。耳をつんざくような音の奔流に、天摯(あとり)は片耳を押さえて眉をしかめる。 「耳がおかしくなりそうな場所じゃのう。店主! 店主はおるかの!?」 自分の声が電子音に消されないように、天摯はわずかに声を大きくして店内を見渡した。 十畳分ほどの空間内に筐体のゲーム機が数体置かれていた。一番手前には小さなカウンター、その向かいには衛生間と記された木製のドアがある。一番奥には人ひとりがようやく歩けそうな程度の幅の階段があり、ちょうど何者かがその階段を上っていくのが見えた。見たところ、客の姿はないようだ。 「おや、客かい」 天摯の呼ぶ声を聞いてか、あるいは偶然なのか、衛生間と書かれたドアから若い男が顔を覗かせた。剃りあげた頭を片手で撫であげながらタバコを口に運ぶ。 「おお、ぬしがこの店の主かの」 相変わらず片耳を押さえ大きな声でそう問いかける。男は苦笑しながら煙を吐き出し、カウンターの中に入った。カウンターには小さなパソコンがひとつ、カップがひとつ、あとは紙が一枚と鉛筆が一本あるだけだ。男はパソコン前の椅子に腰を落としてから頬杖をつく。 「なに、ここの音にもすぐに慣れるさ。で? あんたもお客かい?」 「慣れるようなもんなのかのう……。ところでここが電脳中心という所でいいんかの?」 「外に看板はなかったか?」 「あの派手なやつじゃろう。しかしこの街はあちこちで派手な看板を見かけるんじゃが、特色なんじゃろうのう」 独り言のように言いながらうなずき、男の前にあるパソコンを指差して続けた。 「その箱は何かの?」 問われ、男は「ああ」と呟いた後に応える。 「これはパソコンだよ。あんまり性能のいいヤツじゃないんだけどな。最近じゃバーチャルリアリティ空間に意識を繋いで遊ぶ壷中天なんていうものもあるらしいが」 「ほほう。何やら難しい話じゃのう。そのぱそこんちゅうのはどんな事ができるんかいの? それと、その辺に並んでおる大きな箱もぱそこんなんかいのう?」 興味津々といった色を隠しもせず、天摯は矢継ぎ早に質問を編み続ける。何しろ、天摯の世界には無かったものばかりがあるのだ。関心は尽きない。 那智・B・インゲルハイムは電脳中心の二階にあったパソコンの前に座り、検索して探し当てたホームページを眺めていた。 インヤンガイに足を踏み入れた後、那智は他の三人に向けて小さく会釈こそしてみせたものの、ろくに言葉を交わそうとするでもなく、先んじてこの電脳中心へ足を寄せていたのだった。インヤンガイを訪れるのは初めてではない。むしろ数ヶ月ほど前にも足を寄せていた。しかも前回も今回と同じく、封箱地区で生じた事件に関わるために来ていたのだ。多少は地理も把握している。 電脳中心は小劇場からは多少の距離をもった場所にあった。繁華街、と呼んでいいのだろうか。それなりに拓けた場所ではあるようだ。インターネットカフェと呼んでも差し支えはなさそうな店だ。なるほど、電脳中心といったところか。 一階にはゲーム機が数台設置されていた。いずれもレトロな感の否めないものではあったが、そもそもゲームの類をしたことのない那智にはとても興味深いものばかりだった。だが今は眼前で表示されているホームページのほうに心をくすぐられている。――店主である男が、おそらくは私用のものであろうと思われるパソコンで閲覧していたホームページだ。写真やイラストといったもののない、薄い灰色の背景に黒文字でテキストだけを表示したシンプルな作りがなされている。日記、だろうか。日付と、それぞれに短くまとめられた文章が添えられている。ともすれば散文詩のようにも思える、意味をなしているようには思えない文章だ。 「この世界にもパソコンというものがあるとはね。少し驚きだなぁ」 何の前触れもなく後ろから顔を覗かせた新生の声に、那智は、しかし特に驚くこともなく、マウスをかちかちと動かしながら頬を緩める。 「質屋はどうでした?」 「ん? あぁ、ユエっていう子とは会えなかったよ。質屋の親父の話だと、この店に向かっているはずなんだけどね」 新生はそう言って首をかしげた。 「追い越して来ちゃったのかな」 視線を新生に向けて微笑むと、那智は静かに席を立つ。 「私はここの店主に確認したいことがあるので、失礼」 やはり小さな会釈を残し、再び一階へと向かった。 残された新生は那智が見ていたホームページに目を落とし、小さくうなずいてから頬を撫でる。 「“大姐の予言”……ねえ」 呟き、目を細めた。 パソコンの画面には日記と思えなくもないような文章が表示されている。 電脳中心にもユエの姿がないのを確認した後、ツヴァイは電脳中心の周りを歩きまわり、ユエを捜すことにした。質屋があった辺りに比べれば比較的拓けている印象はある。小路は大路になっているし、車やバイクのようなものも見受けられる。派手な電飾のなされた看板が明滅し、いかにもいかがわしそうな飲み屋もあった。何より、ガラの悪そうな風体の男たちがそこかしこに立っている。どれも皆一様に、ツヴァイを、異質を見るような目で見ていた。しかし、ツヴァイは怯むどころか逆に彼らに近付いて行って声をかける。 「なあ、おまえらさ、ユエちゃんを見てねぇかな?」 ガラの悪そうな男たちはツヴァイの行動に面食らったような顔を見せたが、ユエの名前を出したことが幸いしたのか、訝りながらも口を開いた。 「……ユエの知り合いか?」 「俺の知り合いがな」 「……ユエに何の用だ?」 「質屋に訊いたら電脳中心ってとこに向かったって言うんだけどな。まだ来てねぇらしいんだよ。もしかすると肉屋に狙われてるかもしんねぇしさ、とりあえずユエちゃんを確保したいんだよな」 腕を組みながら応えたツヴァイに、男たちは不審を顕わにした表情で眉をしかめる。 「肉屋なんか聞いたこともないな。おまえ、誰に何を頼まれてこの辺を探っているのか知らないが、さっさと帰ることだ。この辺は余所者がうろつくような場所じゃねぇ。おまえたちがどれだけ注目を浴びているのか、分かっているのか? なあ」 「用が済んだら帰るって。それよりも、とりあえずユエちゃんだよ。ユエちゃんを捜さねぇと」 言いかけたその時だ。どこかで女の叫び声がして、ツヴァイは弾かれたように顔をあげた。同じく、男たちものそりと顔を持ち上げ、声のした方角に視線を向けて口をつぐむ。 「肉屋だ! 肉屋が出たんだ!」 言って走り出そうとしたツヴァイは、しかし、それを阻むためか、男たちによって進行を遮られた。 「この辺には女が大勢いる。身体を売って日銭を稼ぐんだ。それを邪魔しちゃいけねえ。そうだろ?」 「知ったこっちゃねえな!」 そう返すと、ツヴァイは拳を振り上げて男たちに挑みかかっていった。 「訊きたいことがいくつかあるんだけど、いいかな」 ゲーム機の前にあった椅子をカウンターの脇に寄せて座り、那智は両手を組みその上にあごを乗せた姿勢で電脳中心の店主の顔を覗いた。 「ええと、そうだな。名前を知らないことには話もし辛いかもしれないね。私は那智。君のことは何と呼べば?」 穏やかな笑みを浮かべた那智に、男はパソコンを弄っていた指を止めて顔を向ける。 「リュオンだ」 「それじゃあ、リュオン。君はユエのことを知っているんだよね」 「吸ってるタバコが、質屋を通さないと手に入らないやつでな。ユエにはいつも届けてもらってる」 「なるほど。この辺はけっこう強面な人たちが多くいるみたいだけど、女の子ひとりで歩いたりしてて、絡まれたりとかしないのかな」 訊ねた那智に、リュオンはわずかに眉をしかめた。那智はかまわずに言葉を次げる。 「それと、大姐って呼ばれてる人はここの常連だったのかな?」 リュオンの表情がわずかに変わった。那智はリュオンが見せた表情の変化を見逃さず、しかし自分は表情を揺らがせることなく、わずかに首をかしげる。 「私はね、思うんだ。いっそのことユエを囮にすれば、今回の犯人は捕まるんじゃないのかな、とね」 「……犯人、だと?」 リュオンは訝しげに目を眇めた。那智はうなずき、口を開く。 「大姐のホームページを見たんだ。次に殺人が起きるのは今日、この後だ。――違うかな?」 大姐が開いていたホームページを見る限り、それは日記サイトというよりはむしろ散文詩を書き散らかしただけの趣味のサイトに近いように思えた。 新生の後ろから顔を覗かせた天摯が、やはり興味深そうに目を瞬かせる。 「この狭い箱の中にいろんなからくりが詰まっとるというのは本当なんじゃのう」 「からくり、か。まぁ、その通りだね」 新生は肩越しに天摯の顔を検めた後に小さな笑みを浮かべ、それからすぐに画面に向き直ると表示されている一文に指を這わせた。 「ここに書かれてある一文なんだけどね。“穢れた女の胎内から生まれ出でるものが世界の穢れを整える”とあるだろう」 「気味の悪い詩文じゃのう」 「今回の一件に関わるだろうと思われる事件が、つい最近も起きていてね。娼婦が腹を裂かれて死んでいたそうだよ。その前は爺さんが、その前は子どもが死んだそうだ。爺さんは頭が潰れていたそうだし、子どもは手足を千切られていたそうなんだ」 新生は聞き込みから揃え集めた情報を口にしながら、表示されている散文詩の一部分ずつを指で指し示していく。そこには、取りようによっては人の死を思わせるような文章が書かれてあった。それに目を通しながら、天摯は小さく唸る。 「要するに、兇漢はこの文言を再現しようとしとるわけかい」 「断言はできないけどね」 言いながら、新生はマウスを動かし、画面下の一文を表示させた。 「“赤錆びた三日月は穢れのない少女の心を容赦なく打ちのめす”」 歌うような口ぶりで読み上げると、新生はタバコを口に運び火を点ける。 「もう日没は迎えたかな」 言って、視線だけを移ろわせ窓の向こうを見据える。ガラス窓は決して大きいものではないし、換気などには不向きではあるだろうが、空景色を確かめるには充分な大きさだ。天摯もまた窓の向こうに目を向ける。 まだいくらか赤味を残してはいるが、それでも夜の訪れはもうまもなくだろう。もっとも、ネオンなどで照らされたこの一郭には、夜の闇と呼べるものとは一見無縁であるのかもしれないけれど。 「まだ犠牲者は出るんじゃろうな」 独り言のように呟いて、天摯は片頬を撫でつける。 「狙われるのは若いおなごと見ていいのかのう」 「僕もそう思う」 うなずいた新生を横目に検め、天摯はゆったりと目を細ませた。 瞬く間に男たちを叩きのめした後、ツヴァイは悲鳴が聞こえた方角に向かった。 品のない電飾に満ちた看板、それに飾り立てられた街並み、大路のそこここに座る薄汚れた出で立ちの住人たち、寄せられるじっとりとした視線。 いくつ目かの角を折れたところで、ツヴァイはようやく足を止める。 そこには少女の髪を掴んで引きずる老いた男の姿があった。 「おいこらジジイ、おまえ何やってんだ!」 叫ぶと、考えるよりも先に再び走り出していた。 「誰が狙われたっておかしくはないさ」 リュオンはそう言って新しいタバコの封を開け口に運ぶ。 「仮にあんたの提案通りにユエを囮にしたとしても、だ。あんた、犯人がひとりしかいないと、真剣に考えているのか?」 言いながら煙を吐いた。煙は那智の顔にも当然かかったが、那智は表情をわずかほどにも変えることなく微笑んだままだ。 「例えばだけどね。大姐は抗争に巻き込まれて死んだという情報を入手してきた。それが事実であったと仮定して、じゃあ大姐の身内や知己が敵討ちのために殺人を犯しているのかと言うと、そうではないだろうと思うんだ。彼女が生きた証を残すため? そうでもない。そうであるなら、被害者はもっと限定されるはずだろうし、もっと派手な事件になるはずだ」 組んだ両手の上にあごを乗せたまま、那智は声の調子を変えることもない。まるで用意されていた台本をそのまま読み上げているかのようだ。 「たぶん、大姐は神聖化されているんだろう。――裏付けるように、掲示板にコメントがいくつもついていたね。崇めさせたいんだ、できるだけ多くの者たちに。そう画策する連中がいる。……違うかな?」 「ところで、子どもの死体に関する疑問があるんだけれどもね」 女物のヴェールを頭からかぶり微笑む天摯を見据え、新生もまた微笑みながら口を開く。 「子どもとはいっても乳児というわけではなかったようだ。十かそこらの年の子は、そこそこ体格も大きくなっていると思うんだよねぇ。……人間の四肢を引き裂くには相応の力が要るよね。牛に四肢を紐なんかで繋いで、その牛を使って引き裂かせたっていう刑もあるらしいけど。少なくとも、人間ひとりの力では四肢を割くことはできないはずなんだ」 「もっともじゃの」 「つまり、さ。今回の事件の犯人は複数いるんじゃないかと思うんだ」 「ほう」 天摯の目が新生を映す。 「インヤンガイには暴霊がいると聞く。初めはその暴霊による仕業かなとも考えたんだけどね。それなら四肢を割いたりすることも可能かもしれないしね。……しかし、それにしては殺し方がありきたりだしさ」 新生はパソコン前を離れ、窓のそばに背をもたれかけながら腕を組んでいた。 「仮に複数いるとすれば、同時期に複数の被害者が生じるかもしれんというわけじゃのう」 ヴェールをまとった天摯は中性的な容貌のせいもあってか、一見すると若い女のようにも見える。その姿のまま微笑めば、騙される男も少なからずは出てくるだろうとも思われた。 「……さて、わしはこの格好でちぃとばかりその辺を散歩でもしてきてみるかの」 「それじゃあ僕は離れてついていこうかな」 言って、同時に頬をゆるめる。しかしその次の時、新生はふと動きを止めてトラベラーズノートを手に取った。 「おや、ツヴァイくんが何かを見つけたようだよ」 ページを開き表示されていた文字を検めた後、新生はそう言って意味ありげな笑みを浮かべた。 トラベラーズノートに記されていたのはツヴァイからのメッセージだった。どうやら犯人らしい男を確保、被害に遭いそうになっていた少女を無事に確保したらしい。しかし、その少女はユエではなかったという。 那智はノートをしまい、二階から下りてきた新生と天摯を横目に捉えると、ゆっくりと腰を持ち上げた。 「最後に、もうひとつ」 リュオンを見つめたまま、那智はゆっくりと目を細ませる。 「タバコの箱、新しいよね。……本当はもうここに来てるんじゃないのかな?」 誰が、とは言わなかった。しかしリュオンには伝わったようだ。 「……この辺を根城にしているごろつき共は、あの女のファンだったのさ。俺には分からんが、たまにいるんだろう? 好きだから殺してしまうというやつだ。あの女が抗争に巻き込まれて死んだということ自体がウソなのさ」 「……なるほど」 「あんた、さっき俺に訊いたよな。なぜユエは絡まれたりしないのか」 那智は笑う。 「逆に言えば、いつ狙われてもおかしくなかったってことかな」 安全であるはずなどなかったのだ。そんなことなど、知る者は誰皆知っている。だからこそ滅多に電脳中心に客が訪れることもない。 「嘘吐きばかりだね」 微笑んだままそう言い置いて、那智は電脳中心を後にした。新生と天摯はすでに街の中に姿を消している。 空は未だわずかに夕日の名残を滲ませていた。 ツヴァイは老いた男の腕をしめあげて壁に押しやり、横目に少女の姿を見とめて声をかける。 「大丈夫か?」 少女は年齢こそまだ若いが、服装から、娼婦であることが見て知れた。 怯えたように体を縮めて小路の端にうずくまっている少女は、ツヴァイが声をかけると体を震わせながらかぶりを振る。引きずられたせいで黒髪は乱れ、そこここに少女のものと思われる髪が落ちていた。 男はそれなりに身なりもよく、老齢であるわりには体つきもしっかりしている。トラベルギアであるナイフをかざして問い詰めると、男はいくぶんの抵抗を見せた後に力を落としツヴァイの言葉に従うようになった。 男は少女を犯した後に殺そうとしていたのだという。 「娼婦や男娼どもがいくら死んだところで誰も気にしやしないだろう!? しかし彼女の予言の通りに死体を作れば、それは意味を持った死体になるんだ。なあ、そうだろう!? そいつらだってむざむざ死んでいくよりは意味をもって殺されるほうがいいに決まってんだ!」 男はそうまくしたてると、後は狂ったように笑うばかりだった。 天摯の姿はインヤンガイの街中、しかも寂れた一郭の中にあって、充分すぎるほどの異彩を放っていた。細身の身体はゆったりとした装束で包み、整った顔はヴェールで覆い隠す。日頃目にすることのない装束をまとった、一見すると少女のようにも見える風貌のその姿に、好奇の視線が多く集まるのは無理からぬ話だろう。 離れた場所では新生が何食わぬ顔でタバコをくゆらせていた。スーツにコートという出で立ちはインヤンガイにおいても珍しいものではない。まして、今は周囲にいる人々の視線のほとんどが天摯に寄せられているのだ。監視めいた視線が寄せられることもなく、新生はひっそりと夕闇の中に身を紛れ込ませる。
このライターへメールを送る