折り重なる軒の隙間を抜けて、絹のように柔らかな雨が降る。橘神 繭人(タチガミ マユト)は灰色の雲の積み上がる空を見上げる。眉の上で短く切った黒髪の一筋に、霧雨がくるり、粒になる。 「繭」 声と共、陽に焼けた腕が伸びてくる。天摯(アトリ)の掌が、繭人の額の前に差し出される。細かい雨を遮る。 「止まぬな」 天摯は繭人の隣に並び、繭人の視線を追うて空を仰ぐ。繭人の髪についた雨の雫を掌で払う。繭人は澄んだ琥珀の眼をほんの僅か、戸惑ったように瞬かせる。天摯の掌を見、幼子のように繊細に笑う。 「止まないね」 あどけなく笑む琥珀の眼につられ、天摯は藤色の眼を細める。鋭い刃のように細く硬い身は、けれど今は穏かに優しい空気に包まれている。 「天摯さんも」 繭人の指先が遠慮がちに伸びる。天摯の結い上げた白の髪に触れて、霧雨の粒を摘む。髪に挿した簪の冷たい桜花に光る雨粒を拭う。 「傘を求めるほどではないがの」 有難う、と天摯はのんびりと笑む。傘を差しても身体にまとわりつきそうな霧雨を掌に受ける。砂利の散らばる石畳の道を、二人で辿る。煤けた石壁の家に塗炭の家が不安定に寄りかかり、瓦の屋根に腐りかけた板壁の家が無造作に載る。無秩序に重なり連なる建造物の群。道の両端にはヘドロのような水が流れ、鼻を突く臭いを放つ。その臭いを押し退けて、何処かの家の換気扇から古い油と強い香辛料の臭いが熱気を含んで溢れ出す。 暗い霧雨の中、ぽつりと灯る裸電球の光に眼を上げれば、風に捲れかけた塗炭の軒の下、そこだけ不自然に植物の鉢植えが列成して並ぶ。濃紫の朝顔、朱ののうぜんかずら、藍の鉄線、薄紅の夾竹桃、黄金の紅花、純白の白粉花、――インヤンガイでは別の呼び名があるのだろうか。それとも、よく似た別の植物なのだろうか。植物と心通わせ育てる力持つ繭人は、思わぬところで旧知に行き会うたように淡く笑む。ほの暗い世界にあっても、花達は明るい色を咲かせている。 鉢植えは道にまではみ出して置かれている。迷路のようになった花屋の店先、種々の花に囲まれて、女が一人、立っている。花を見るでもなく、唯立ち尽くしていた女に、店の奥から出て来た老婆が声を掛ける。新聞紙に包まれた大量の植物の根のようなものを差し出し、紅の小さな提灯のような実をつけた植物の束を差し出す。女は包みを受け取り、植物の束は押し返す。嘲笑に近く、首を横に振る。通りがかりの二人には眼もくれず、足早に立ち去る。女の纏う、甘い香水の匂いが繭人の胸を突く。 「……鬼灯」 そっと息を吐くように、繭人は呟く。 花屋の老婆はかなしい息を吐き出す。出入り口の近くに置いた水を張った桶に鬼灯の花束を差し込んで、店内に戻る。店の奥の椅子に腰掛け、物言わぬ人形のように動きを止める。 「面白い形をしておるのう」 隣を歩く繭人の琥珀の眼が、僅かに曇っている。それを眼の端で見ながら、天摯は気遣うように明るい声を出す。 同年代の少年同士に見えて、二人の生きてきた年月は永遠に近く、違う。 十七ほどに見える繭人は元の世界で二十七年を生きてきた。 同じ年頃に見える天摯は元の世界で千年以上を生きてきた。 世界を違えていても、生きてきた長さをどれだけ違えていても、天摯は繭人を同胞とする。縁あってターミナルで出会い、故あって同じ屋根の下で暮らすこととなった繭人を大切に思う。出会った時から、どこか危うげな心抱えて萎縮する繭人に、もう一人の同居人と共に手を伸べ続けている。 「……地下茎や根は、胎児を堕とすんだよ」 繭人は、細く苦しい息を吐く。入り組んだ路地の何処かへ立ち去った女の背中を求めるように、動揺した視線を彷徨わせる。少年とも少女とも取れる、優しげな顔に苦痛の表情が浮かぶ。 親に望まれない子供。母親から疎まれ、父親には拒まれ、世界の光を見ることもなく葬られる子供。愛されない子供。さびしい子供。 (俺は) うろたえた視線の先のどこにも、女の背中を見つけることは出来なかった。見つけたところでどうなるものでもないのかもしれないけれど、と繭人は濡れた地面に目を落とす。 (……鬼灯、呑ませたことはあったのかな) おとうさんは、おかあさんに。 おとうさんには憎まれていたように思う。おかあさんに抱いてもらった記憶は皆無だ。 世界樹を基とする樹木神と交感し、世界を律する名家のひとつ、橘神家。その橘神家を護る樹木神への生贄たる『花贄』として選ばれた時の、両親の安堵にも似た表情は、繭人の心に傷となって残っている。 (俺も、) 丸くなる冷たい背中に、暖かな掌が添う。 「疲れたかえ?」 結い上げた白髪揺らして、天摯が覗き込んでくる。暖かな掌が、背中を優しく擦ってくれる。雨に濡れた背中なんか冷たくて気持ち悪いのに、と繭人は思う。そんな風に思う人では決してないと、共に暮らすうちによく知っていても。 「大丈夫だよ」 あの世界の人は誰も、こんな風に背中を撫でてはくれなかった。 「もう大丈夫」 繭人は繰り返す。唇を笑みで彩る。遠く黒く渦巻く雨雲へと視線を上げる。 「行こう、天摯さん」 「そうじゃのう」 暖かな掌が背中から離れる。おまけのように、ぽん、と肩を軽く叩いてくれる。 「きっと、待っておる」 強い光を宿した紫の眼が、路地の先を見据える。 インヤンガイの片隅、入り組んだ路地の奥の奥。 漆喰が剥がれ落ち、黒煉瓦の覗く窓の無い高い壁に囲まれた袋小路に、少年は一人きりで立ち尽くしている。雨に濡れた小さな背中を丸め、薄いシャツ一枚に覆われた華奢な肩は力なくして落ち、泥塗れの裸足の爪先を見下ろして首は深くうなだれ、――細いうなじに、大人の大きな指で絞められたらしい青黒い痕を見つけて、繭人は泣き出しそうに顔を歪めた。 ――袋小路に、少年。殺された。暴霊化。今はまだ泣くばかり。けれど、 依頼してきた世界司書の言葉が頭を掠める。 ――放っておけば、暴れる。街区、壊れる。人、たくさん死ぬ。だからどうか、心を助けてあげて。浄化してあげて。 こちらに向けた背中に、生気は無い。悲しみがあるばかり。寂しさがあるばかり。 「……ぬし」 天摯が呼んでも、肩を震わせるだけで振り向く気配は見せない。殺されたその時も雨が降っていたのだろうか。短い髪から雨の雫が落ちる。蒼白い頬を雨と涙が並んで伝う。肉体持たぬ少年の暴霊の足元に大きな水溜りが出来ている。 「父さんに」 震える肩と同じに震える声で、少年は囁く。一度言葉を零せば、後は溢れる。二人に背を向けたまま、呟き続ける。 「褒めてもらいたかった」 「頭を撫でてほしかった」 「抱き締めてほしかった」 「がんばったのに、足りなかった」 「足りなかったから、僕がだめだから、だから、」 「だから、だめだったのかな」 泣いて嗄れた声に熱が籠もる。両脇に垂らした掌が拳になる。 「父さん、……父さん、父さん、」 叫ぶ。僕は父さんに、としゃっくりあげる。 「愛して、ほしかった……!」 血を吐くように身体を折る。両の拳を顔に押し付ける。後ろで立ち尽くす二人に眼もくれぬまま、唯、泣く。 少年の肩に手を伸ばそうとする天摯を、繭人はそっと引き止める。痛みを堪えるような眼で少年の小さな背中を見詰め、 「おとうさんを、探そうよ」 小さな声で懇願する。 通りに戻り、花屋の老婆に尋ねてみれば、少年の父親の居場所はすぐに知れた。教えられたように狭い路地を抜ける。道を進めば進むほど、空を覆い尽すように家々は高く頭上にそびえた。蜘蛛の巣のように重なり合う宙廊が空を隠した。澱んだ空気と薄暗がりが地表に沈む。雨さえ届かなくなる。 崩れ落ちた宙廊の瓦礫を乗り越える。半ば瓦礫に埋まった灰色の扉を押し開ける。隧道のように暗い道を潜り抜ければ、そこは硝子張りの小さな庭園。 暗鬱な空から降るのは雨ばかり。温室に光はない。熱もほとんどない。カラカラに乾いて枯れた鉢植え、反対に周囲の草木を呑みこんで旺盛に育つ樹々。覆い被さる巨大な葉を押し退けて、歩を進める。枯れた花々に囲まれた東屋の長椅子に、男が一人、酒瓶に護られるようにして伸びている。草木の香に紛れて、饐えた臭気が鼻を突く。 温室の央にあたる長椅子の上空だけ、屋根がない。霧雨がしとしとと男の周囲だけを濡らす。 こちらに向けた丸めた背中と、肩の形が少年に似ていた。 天摯は来意を告げる。男の肩が僅かに震える。 肩を震わせることで、返事としたつもりでいるらしい。それ以上の応えはない。 「……ぬし」 天摯は男の傍へ大股で歩み寄る。痩せた肩を掴み、引き摺り起こす。起こされて、初めて天摯が傍らに立ったことを男は知る。酒瓶に囲われて、けれど、もうとうに酒気は抜けている様子。意外に理性を確りと保っている老いた目が、不意に起こされた不快感に瞬きする。 「殺められたぬしの子が暴霊化しておる。ぬしに会いたいと、」 続けようとする言葉を、男は口の端に浮かべた皮肉な笑みで拒絶する。 「何じゃ」 天摯の鋭い声に、男は黙する。天摯の手を振り払い、地面に転がる酒瓶を拾い上げる。空に気付いて投げ捨てる。大あくびをし、再び横になる。帰れ、と手を大儀そうに持ち上げる。 「天摯さん」 不意に、繭人が悲鳴のような声をあげる。天摯が慌てた視線を巡らせれば、繭人は手近の樹木に寄りかかるようにして眼に涙を浮かべている。天摯と眼を合わせ、繭人は首を横に振る。どうしようもなく、悲しい眼をする。樹に縋り、座り込む。 男の傍に立ったまま、天摯はおっとりと首を傾げる。考え込むように傾ぐ頭で、結い上げた髪が揺れる。流れる仕種で、髪に挿した桜花の簪を抜き取る。もう一度男の肩を掴み、長椅子の上に仰向けに転がす。抵抗する間も与えず、男の胸に膝を乗せる。 「な、」 それだけで、男は身の自由を奪われた。胸を押さえる膝は身軽そうな少年のものとは思えぬほどに重い。両手を使い、膝をどかせようとしても僅かも動かぬ。 「あの子はの」 穏かに、天摯は濃い紫の眼を細める。片手は男の肩を掴む。もう片手は鋭く尖った先端の簪を握る。 「植物の見た記憶を読み取る力を持っておってのう」 唇に優しげな笑みを佩く。 「ぬし、此処でぬしの息子に何をした?」 柔らかな笑顔で、丁寧に問う。男は目を背ける。無精髭の口を引き結ぶ。 「言えぬかえ?」 天摯は簪持つ手を振り上げる。男の片目に振り下ろす。 男は悲鳴を上げる。両腕で眼を庇おうとして間に合わず、僅かに持ち上げただけで終わる。体が強張る。 「わしに教えてはくれんかのう」 簪の尖った先は、男の目の僅か手前で止まっている。震える睫毛が簪の先に触れる。 「殺した」 眼を閉ざすことも叶わず、男は喉を震わせる。 「殺してやった」 「息子をか」 天摯が重ねて問う。 「……息子?」 男は唇を歪ませた。喋るよ、と投げやりに言う。天摯は男の目に突きつけていた簪を引く。胸に乗せた膝をどかせる。長椅子に腰を下ろす男の前に、巌のように立ち塞がる。 「あれはおれの息子じゃねぇ」 男は吐き捨てる。 あの子供は、妻と隣の男が通じて出来た不義の子だと。 そのことに気付いて、 「二人共殺してやった」 足を投げ出し、手を投げ出し、脱力した姿勢のまま、男は鬼の形相となる。この街ではよくあることだと眼をぎらつかせる。 「あれが、親が殺されたことにも気付けねぇくらい赤子の頃だ」 流石に赤子は殺められず、育てた。頑是無い笑み浮かべる赤子を憎みきれず、手を引いた。飯を食わせた。けれど、 「どんどん似てきやがるんだ、あいつらに」 自分を裏切った妻に。妻と通じた隣人に。 「どんどん、どんどん、」 男は自らの手を見下ろす。育てて来た子供の細い首を絞めて殺した手。妻の首を絞め、隣人の胸を腹を眼を刃で刺し抉って殺した手。 「首絞めた顔も、あいつらに似てやがった」 絶望の息を男は吐き出す。親子の血に塗れた両手で顔を覆う。 天摯が動くよりも先、 「じゃあ、俺も、」 少し離れた樹の根元に座り込んでいた繭人が悲鳴にも似た嗚咽をあげる。振り返る天摯の眼に、男とは違う絶望を琥珀の眼に沈めた繭人が映る。 男の絶望が殺めてしまった者の絶望だとすれば、繭人のそれは、―― 「僕も、殺されるべきだったんだ……!」 男は目を剥く。繭人の言葉を天摯よりも早く理解する。唇に嘲りがこみ上げる。ああ、と呻き声を漏らす。 「おまえもか」 繭人を隠すように巨大な木の葉が揺れる。 「だけど、それでも、」 男の嘲笑を受けて、繭人はぎくりと立ち上がる。琥珀の眼を埋めていた涙が散る。 「それでも、愛してほしかった」 言葉を落とす。木の葉に紛れ、逃げ出す繭人の背に、男は侮蔑を投げる。 「おまえも穢れ――」 「黙れ!」 繭人を言葉で刺そうとする男の頬を、天摯は殴りつける。細身の、けれど全身鋼のような筋肉に包まれた少年の拳に、男は長椅子から転げ落ちた。地面に投げ出されて土に汚れ、男は狂ったような笑みを零す。弾けさせる。 大声で泣くように笑い転げる男の胸倉を、天摯は掴む。 「逃げたら、」 笑みに歪む眼を間近で睨み据える。 「地の果てまで追い詰めて死ぬより苦しい目に遭わせてやる」 嗤う男を地面に捨て、天摯は繭人を追う。 おとうさんだと思っていた。 出来ない子だと頬を張られても、お前などいらないと背中を蹴られても、生まれて来なければと突き退けられても、それでも。 がんばればきっと笑いかけてくれると信じた。勉強して、強くなって、誰よりもおとうさんの役に立てるようになれば、認めてくれると思っていた。だって僕のおとうさんだと思っていたから。おとうさんとおかあさんの子だと思っていたから。 繭人は暗い道を駆ける。走る身体の中で、心は暴れる。天摯やもう一人の同居人の優しさに包まれ、隠れ始めていた心の傷が易々と露わになる。 おかあさんは、おとうさんのお父さんに、―― 僕は、マユはおとうさんの子供じゃなかった。おじいさんだと思っていた人の子供だった。おかあさんは望んでマユを生んだんじゃなかった。おとうさんはマユが嫌いだった。だから、マユを殴った。蹴った。おまえなどいらないと怒鳴った。でも、でも、それでも、 霧雨を分けてがむしゃらに走っていた足が止まる。涙に曇る眼が、行き止まりの壁を見仰ぐ。瞬きして涙を落とせば、傍らに暴霊の少年が居た。半透明に透ける寂しい身体で、袋小路に追い詰められてうずくまっている。 「さみしい」 少年が呟く。 「うん、……寂しいね」 繭人が答えて頷く。おとうさんとおかあさんを思い出して、傷口を押し広げられたように痛む胸を片手で押さえる。暗い雲に覆われた空を仰ぐ。 「寂しいし、辛かろう」 天摯の声は、不意に訪れた。足音も気配も一切立てず、天摯は二人の傍に近付く。優しい声で、続ける。 「どんなことをされようとも、愛されぬならば憎んだ方が良かろうと、その方が楽だろうと他人に思われようとも、」 ぬしらにとっては親じゃものな、天摯は繭人の背中を撫でる。うずくまって動かぬ少年の傍らに膝を突く。 「どうあっても――それでも親を慕う気持ちも、責められるものではない」 離れられぬために自らが傷付こうとも、それは尊い気持ちに違いない。 泣き続ける暴霊と繭人を、天摯は静かに静かに諭す。 その手には、花屋の老婆から貰い受けて来た鬼灯の花束がある。うずくまる少年の足元に、灯の色した鬼灯の花束を供える。 「綺麗じゃろう」 老婆はあの時、鬼灯の根を求める女に、霊魂を浄化する作用があるのだと、だから堕ろす子に供えておやりよと言っていたのだ。 「足元を照らす提灯のようじゃ」 天摯の優しい声と笑顔に、伏せていた少年の顔が上がる。泣き腫らしたその頬に天摯は手を伸ばす。身体持たぬ暴霊である少年の頬に、触れることは出来ない。僅かに冷たい空気に触れる。 「奴を改心させるにはもう暫くかかりそうじゃ」 力及ばす相済まん、と天摯は頭を下げる。 「先に楽しい所へ行って待っておれ」 必ず、と付け足す。 「優しい父御を後で向かわせよう」 力強く頷けば、少年は泣き笑いの顔で頷き返した。鬼灯の花束から、一本がふわり、宙に浮く。鬼灯を胸に抱いて、少年は立ち上がる。 「残りは父さんに」 言い残し、鬼灯と共に、消える。 少年を送り出して後、天摯は残りの鬼灯の花束を手に立ち上がる。少年にしたように、繭人の泣き腫らした頬を掌で擦る。 「約束は、守らねばな」 藤色の眼を細め、唇の端を酷薄に持ち上げて笑む天摯に、繭人は何となし救われる気がした。涙の滲む琥珀の眼を、泣き笑いの表情に崩す。零れる涙を、天摯の掌が拭う。 「うん」 繭人は頷く。 「守らなくちゃね」 終
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