光る風は徐々に薫りを孕み、季節は花から緑へと移りゆく。 新緑が深緑に変われば次の季節はすぐそこだ。 このチェンバーには四季があるのだろうか。以前は桜に覆われていたというのに、今は豊かな緑が霧雨に煙っている。「あら。ようこそ」 その小屋の扉を押し開けると、女――咲耶(サクヤ)は華やかに笑った。緩く束ねた亜麻色の髪を柔らかく揺らし、窓の外に視線を投げる。「また雨が降り出しましたのね。楽(がく)は当分お預けですわ。姉さまはご不満のようですが、湿気は楽器に良くありませんもの」 どうやら簡易な居宅らしい。八畳ほどのフローリングにはテーブルセットが並べられ、奥にはキッチンらしき設備も見える。 音もなく、絹のような小雨が降っている。霧のように立ちこめるそれは柔らかな紗にも似ていた。窓の外の深緑は緩やかに頭(こうべ)を垂れ、ただただ優しい雨にくるまれている。 雨の音は眠気をもたらすという。しかし控え目な慈雨は子守唄を口ずさむことすら躊躇っているのか、静謐に草木を包み込むばかりだ。「風雅なものですわね。姉さまもこの景色を楽しめばよろしいのに」 雨垂れの軌跡を目で追いながら咲耶はそっと苦笑した。「晴耕雨読と申しますでしょう? 雨の日には雨の日なりの励み方がありますのに。けれど」 耳を澄ませば密やかな雨音が聞こえてくる。否、雨音ではない。ティーポットの中で、紅茶の葉がひたひと開いて行く音だった。「姉さまのお気持ちも無理からぬことですわね。我らロストメモリーはこの町から……停滞した場所から出られませんもの。楽に限らず、創作には良い意味での刺激が必要――」 温かな紅茶は白磁のカップに入って旅人の前へと供された。柔らかながらも華やかな香りは雨に濡れた深緑を思わせた。「だからというわけではありませんけれど」 咲耶はつややかに笑った。「何か聞かせて下さいませ。こんな日にはお茶飲み話を楽しむのも良いでしょう?」
「……少し苦い」 カップに口をつけた璃空は正直な感想をこぼし、咲耶は「あら」と微笑んだ。 「少し安心いたしました。味覚は年齢相応なのですわね」 十三歳の璃空は仏頂面を作った。 音もなく、雨が沈黙を包み込む。かすかな雨垂れだけが遠く、近く耳朶を打つ。 「私は」 やがて口を開いたのは璃空だった。 「未熟だ。……だが、早く大人にならなければならなかった」 矛盾していると自嘲しながら、紅茶にミルクを垂らす。乳白色はいびつなマーブル模様を描きながらゆるゆると融けていく。 「慈雨か。ちょうどこんな雨の日のことだ――」 紺碧の瞳をわずかに翳らせ、雨に煙る記憶を手繰り寄せる。 覚えているのは泥濘の感触。霧雨の匂い。 そして、物言わぬ骸の硬さと冷たさ。 くすぶる戦場に泣き声が響いている。霧のような雨がたゆたっている。細く、脆く、ひどく優しく。泣きじゃくる幼子をくるむように。 璃空という名の幼子は泣いていた。ひたすら泣いていた。泣けば母が抱き上げてくれて、父が頭を撫でてくれたから。だが、どれだけ泣き叫んでもいらえはない。父と母は骸となって眼前に転がるのみだ。幼い璃空は雨を憎んだ。両親の体がこんなにも冷たいのは雨のせいだと思いたかった。 泥濘を踏む足音が近付く。現れたのは見知らぬ人物だった。 「……僥倖、か」 泣きじゃくる璃空を前にその人物は呟いた。それが師匠との出会いだった。 妖と呼ばれるものが居る。上級と低級の差こそあれ、どれもが人に害を成す。 ならば璃空の両親も妖に襲われたのか、それとも人どうしの戦いに巻き込まれたのか。それは誰にも分からない。璃空は幼かったし、師匠が戦場の片隅で璃空を拾ったのは全てが終わった後だった。 それでもひとつだけ明らかな事がある。恐らく両親は璃空を守ってくれたのだろう。戦場に居たにもかかわらず、璃空は軽傷だった。 璃空を見つけた時、僥倖だと師匠は言った。僥倖という言葉の意味を璃空が知ったのは暫く後になってからだった。 (僥倖……思いがけない幸運) 足を引きずって帰路へと着きながら璃空は物思いに耽っていた。一歩足を進める度に痛みが全身を貫き、血が滴る。いつものことだ。大陸でも有数の倒妖師である師匠はとんでもない実戦主義者で、一つ符術を教える度に何とか倒せるだろうと言って璃空を敵の前に放り出すのだった。おかげで璃空は幾度となく死にかけた。 (何が幸運だったのだろう。両親が守ってくれたことか。それとも、土砂降りにならなかったことか……) 血糊の残る両手を茫と見つめる。妖もまた命だ。小さな手は血と命に塗れている。 山中の住処はがらんとしていた。また弟子が逃げ出したのだろう。師匠は戦い以外では頼りにならず、ものぐさで嫌味で横暴で人嫌いで、居着いた弟子は璃空が初めてという有り様だった。 師匠はいつものようにごろ寝していた。璃空が帰還を告げてもおざなりな返事を投げてよこすだけだった。 「僥倖」 自身の傷に包帯を巻きながら璃空は独りごちる。 「この師に出会ったことも幸運のうちなのだろうか」 聞こえているのかいないのか、師匠は寝転がったまま放屁した。 勤勉さゆえか、それとも素質があったのか。師の下で璃空はめきめきと頭角を現した。だが、変わり者の師匠と暮らしながら妖と渡り合う璃空の姿は人々にとっては奇異と畏怖の対象だった。 時折、日用品や食料の調達のために璃空は近くの人里へ降りた。田舎の常で、住人どうしの繋がりは排他的に堅固だった。親から言い含められているのだろう、同じ年頃の子らに怯えの視線を向けられる度に璃空の心は軋んだ。修行と戦いの日々は璃空を性急に大人に仕立てたが、子供の本能までもが封じられたわけではなかった。 「………………」 買い出しを終えた璃空の足がふと止まった。フードからはみ出る髪が湿気を吸って、重い。いつの間にか、空と土の間を霧のような雨がたゆたっていた。 あの時もこんな雨ではなかったか。 がさがさと不穏な足音が響き、璃空はふっと我に返った。髪の毛と物思いをフードの下に押し込み、息を潜める。 一目で堅気ではないと分かる男たちの姿が木々の間に見え隠れする。眼下の里を指しながら良からぬ相談をしているらしい。 (賊か) 考えるより先に体が動いていた。 「去れ」 躊躇なく進み出た璃空は凛と告げた。賊は身構えたが、子供と見て侮ったのか、にやにやとしながら得物を抜くばかりだ。 「去らぬのなら――」 符が宙を舞う。解き放たれた風はかまいたちと化して標的へと襲いかかる。だが、しぶく朱に璃空はわずかに目を揺らした。 目の前に居るのは妖ではない。人間だ。 「……去れ」 低く告げると、賊どもは負傷した仲間を抱えて退散した。 その時だった。 背後から別の足音が近付いたのは。 「……あ」 振り返ると、一人の少女がその場にへたり込んでいた。黒髪の上を細かな雨の珠が彩っている。瞳の色は璃空と似ているが、璃空よりも軽やかで鮮やかな青だ。里の子供だろうか。一部始終を見られしまった……。 「……大丈夫か」 璃空は動揺を抑えて少女に手を差し出した。少女は腰が抜けているようで、全体重をかけるようにして璃空の手を握り返した。璃空の足がよろめく。そのままぬかるみに足を取られ、二人一緒に転んだ。それは微笑ましい一幕だったが、璃空にしては有り得ない失態だった。 「あ、その……済まない。大丈夫か」 改めて助け起こすと、少女は俯いたままこくりと肯いた。だが、華奢な肩は小刻みに震えている。どこか痛めたのかと璃空が狼狽した瞬間、金平糖のような笑い声が弾けた。きゃらきゃらと笑う少女の前で璃空はぽかんと口を開けることしかできなかった。 「良かった。強いけど、あたしたちとおんなじだ」 少女は嬉しそうに笑った。 「買い物の用はありませんか」 と問う璃空に師匠は首を傾げた。買い出しなら先日行ったばかりだ。 「……いえ、その。何かお役に立てればと」 「成程」 師匠は意地の悪い笑みを浮かべ、一枚の紙片を投げてよこした。保存の利く加工食品の名前が乱雑な字で書きつけられている。璃空はぱっと笑みを咲かせ、弾むような足取りで山を駆け下りた。 「今日もお使い?」 里に着くと、黒髪の少女がすぐに駆け寄って来る。 「ああ。大した用でもないのだが」 「いつもお手伝いしてるんだ?」 「手伝いというよりはこき使われている。全く、ものぐさな師匠にも困ったものだ」 璃空の心は浮き立っていた。 手を繋ぎ、交わすのは他愛のない言葉ばかり。家族のこと、昨日の食卓のこと、天気のこと……。少女は璃空の手を引き、他の友人に紹介してくれた。しかし子供達は璃空を怖がるばかりだった。 「気にしなくていい。いつものことだ」 しょげ返る少女に璃空は心からの言葉をかけた。しかし少女はふるふるとかぶりを振り、璃空の手を握り締めた。 「璃空ちゃんはあたしたちを助けてくれたのに。……でも……」 璃空は黙って先を促した。聡くて敏い璃空は、少女の手が震えていることに気付いていた。 「――ああやって、人も殺すの? 妖みたいに」 純真な問いの前で璃空は唇を引き結んだ。 数多の妖を殺してきた。妖とはいえ、命を奪うことに何の疑問もなかったといえば嘘になる。 だからこそ。 「殺さない。あの賊も追い払っただけだ」 少女の顔に安堵が広がる。 「人は殺さない。今までも、この先も」 致命的な矛盾に気付いていた。けれど、目の前の少女の笑顔も大切だった。 「本当?」 「約束する」 指切りを交わしながら、初めての友達を得た幸運を噛み締める。 (これを僥倖と呼ぶのだな) 西の空から鈍色の雲が近付き始めていたが、笑い合う二人は気が付かなかった。 翌日。師匠がばたばたと起き出す気配で璃空は目を覚ました。髪が重い。窓の外には霧のような雨がたゆたっている。 「何か?」 ついて来いと言い置いて師は外に飛び出していく。人が変わったように機敏な動きだ。璃空の背筋を戦慄が駆け抜けた。 戦いだ。 璃空は瞠目した。 鈍い鉄の臭気。錆びた鋼でもあったし、血でもあった。霧雨がもったりと死臭をくるみ、里じゅうを覆い尽くしている。 倒れた家屋。崩れた土塀。その下で朱にまみれ、呻く人々。腕がない者もいた。首のない者もいた。蹄、馬のいななき、下卑た笑い声、金属音。賊だと吐き捨てる師匠の傍らで璃空は唇を震わせた。馬具と、馬に跨る男たちの顔に見覚えがある。あの時追い払った連中だ。 「復讐……?」 賊は璃空が里の人間だと誤解したのか。その可能性に思い至った時には、師匠は颯の如く駆け出していた。 聞き慣れた少女の声が璃空の名を呼ばわる。生きていたのかと安堵すると同時に反射的に頭を引っ込めた。大振りの刀が頭上を薙ぎ、髪の毛が数本切れて宙を舞う。 「見ぃつけた」 卑劣な優越に満ちた賊の声。璃空の視界が怒りに染まった。 「おのれ!」 符を発動する暇すら惜しい。ぎいいいん。ぶつかり合う刀、飛び散る火花。少女が悲鳴を上げる。下がれと怒鳴ろうとして、璃空の瞳がかすかに、しかし決定的に揺れた。柄を握る手の中にあの震えが甦ったような気さえした。 ――人も殺すの? 妖みたいに。 「……くっ」 ほんのわずか、隙が生まれる。賊が得物を振り上げる。かわせない。符は間に合わぬ。少女の絶叫。 (やられる――) 次の瞬間、とすん、と小さな重さが降って来た。 「――――――!」 黒髪の上を細かな雨の珠が彩っている。璃空よりも軽やかで鮮やかな青の瞳はどろりと虚空を見上げるばかり。 自らの体を盾となした“友達”は璃空の上で絶命していた。 「あ……」 ――殺すの? ――殺さない。今までも、この先も。 「あ……あ……」 ――本当? ――約束する。 「茅音―――――!」 くすぶる戦場に泣き声が響いている。霧のような雨がたゆたっている。細く、脆く、残酷なほど柔らかく。泣きじゃくる璃空を嘲るように。 せめて土砂降りであったなら。雨が激しく体を打ってくれたら多少は気が逸れたかも知れぬ。だが、これほど優しく降る雨の中でどうして眼前の骸から目を逸らせよう。少女の体は冷たく、硬かった。彼女がこんなにも冷たいのはこの雨のせいではないと知っていた。 璃空は幾度も少女の名を呼んだ。そうすればあの笑顔を向けてくれるような気がしたから。泣きながら少女の血をすくい、はみ出たはらわたを懸命に腹に戻した。そうすれば生き返るような気がしたから。 泥濘を踏む足音が近付く。現れたのは師匠だった。璃空を襲った賊はいつの間にか絶命していた。動転した璃空が殺したのか、師匠が倒したのかは分からない。 「……僥倖、か」 師の言葉はわずかに残っていた理性を奪った。璃空は礼儀も忘れて師匠の胸倉を掴んでいた。 「私が生き残った事が僥倖か! 茅音が……茅音が――」 師の平手打ちが泣く子を黙らせた。 「おまえは己の未熟を知った。僥倖だ」 静かに告げる師匠の前で、璃空はがくりと膝を折った。 「己が未熟を知った者は生涯精進することができる。それも僥倖だ。……我ながら、良い弟子を持った」 柔らかな雨が茫とたゆたう。 胎児のように体を丸め、璃空は甲高く慟哭した。 音もなく、雨が沈黙を包み込む。かすかな雨垂れだけが遠く、近く耳朶を打つ。 「大切なご友人との約束だから躊躇ったのですね」 目を伏せる咲耶の前で璃空はゆっくりとかぶりを振った。 「約束する前から躊躇はあった。……躊躇いは人を殺すと知った」 カップは既に冷めてしまった。ミルクはいつしか完全に溶け、紅茶の色を柔らかく変えている。 「ずっと考えていた、命を奪うのは悪行だと。だが、私は」 静かに目を上げ、晴れやかに笑う。そして何かの決意表明のように、あるいは宣言のように告げた。 「約束を破ることになっても、臆病で大切な人を護れぬほうが怖い。だからもう迷わぬ。……笑顔が、好きだからな」 命を奪う事が咎ならば、その咎を死ぬまで背負おう。竜刻の地の砂漠でそう誓った。 クリスタルのように透明で硬質な少女の前で、咲耶はふわりと微笑む。 「良いお話をありがとうございました。紅茶、冷めてしまいましたわね。淹れ直しましょう」 「いいや、もうおいとまさせていただく。長居して済まなかった」 ミルクティーはふんわりと心地良く、ほんの少し苦かった。 <幸運の意味・了>
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