男がひたりと紙を貼る。死人の顔にかぶせてる。 そら見ろ顔がなくなった。白い紙には黒い顔。死体の顔は真っ平ら。 男は紙を凝視して、やがてにたりとほくそ笑む。 白い玉砂利軋ませて、今日も旦那のお帰りだ。 縁側の碁盤に白と黒が散らばっていた。といっても両者の並びは規則的である。静かにぶつかり、せめぎ合いながら領地を広げていく。 「ぬう……」 黒の碁仇は鼻の頭に汗を滲ませた。 「手詰まりかな」 白の奇兵衛は神秘的な紫の目で微笑んでいる。温和な横顔といい貫禄ある物腰といい、まるで大店の主だ。 「いいや、まだまだ。長考させてくれんかね?」 「ごゆるりと」 灰色の髪を揺らし、奇兵衛はゆったりと立ち上がった。 「どこへ?」 「散歩へ」 「へえ」 碁仇はぎょろりと意地悪く笑った。 「お前さんのいぬ間にずるをしたらどうする」 「さあ」 奇兵衛は微笑を崩さない。 「私らは信用第一だからねえ」 紙がひらりと翻る。死人の形相写し取る。死体の顔はつるりと剥げて、身元も何も分かりゃしない。 断末魔のまま紙の上。まるで不気味な水墨画。だけれどだあれも気に留めぬ。渋面作るは司書ばかり。 ハァ繰り返しったら繰り返し。今日も死体が転がるぞい。 「さて」 奇兵衛は手慰みのように扇子を開いた。図書館ホールの掲示板を眺める。貼り出された依頼は物騒なものばかりだ。 書類を片手に司書がやって来て、奇兵衛はさりげなく脇へ退いた。 「ああ、どうも」 馴染みの司書は疲れた表情で会釈する。奇兵衛は常連客に接するように微笑んだ。 「お忙しそうで」 「仕事だからな」 司書はこわばった手で掲示を貼り替える。奇兵衛はゆっくりと目を細めた。「連続殺人」、「顔なし死体」。 「下手人はまだなのですか」 「というより、何度告知しても応募がないんだ」 「それは異なこと」 奇兵衛の扇子がはためき続けている。ゆるゆると、暑気にあてられた蝶のように。 「しかし分からぬ話でもない。他人の生き死になど知ったことではないのやも」 「放っとくわけにもいかないだろ。依頼、受けてくれないか?」 「私はただの紙問屋でして」 奇兵衛は扇子を閉じながら微苦笑した。 「あの旦那はどうでしょう。同心や岡っ引きの類だったそうですよ」 閉じた扇子で指した先には青白い顔の若者が立っている。しかし司書は無愛想に鼻を鳴らした。 「あの人は気難しくていかん。一度声をかけたらむげに断られた」 「あんなに青い顔をして。具合でも悪いのでしょうか」 「さあ、どうだかな」 司書は持ち場に戻っていく。若者は周囲に目もくれず、亡霊のような足取りで去った。 奇兵衛が帰ると碁仇はまだ長考していた。 「随分難渋しているようだね」 「ああ、ずうっと……む」 碁仇はぽんと膝を叩き、黒い石を手に取った。ぱちり。白の陣と対峙する。奇兵衛はひょいと眉を持ち上げ、碁仇は鼻孔を蠢かせた。 「会心の手だろ」 「油断してしまった」 奇兵衛は薄く苦笑いした。 贔屓の相手にゃ愛想良く、馴れ合わぬ者にゃ興味ない。 面白いから殺すのさ。面白そうゆえ殺すのさ。殺す救うを分けるのは、たった一人の胸三寸。 胸の中にゃ何がある? さしずめ泥か、真っ暗闇。 ぱちり。ぱちり。白石と黒石が盤上で競い合っている。 白の奇兵衛は庭に目を投げた。玉砂利が陽光に輝いている。とはいえここはチェンバーだ。石も太陽もまやかしにすぎぬ。 「全く異なこと」 そろりと風が吹き込んで、灰色の髪がさらりと流れる。 黒の気勢が鈍り始めた。碁仇は今日も長考だ。 「ぬう……ち、ちいと待ってくれんかね」 「ごゆっくり。時間はいくらでも」 奇兵衛は手慰みに懐紙を取り出した。何か折ってみようか。 玉砂利が軋む。顔を上げると、庭先に蒼白な娘が立っていた。 「こんちは。近くに寄ったもんだから」 娘は不健康な顔で笑った。 「これはこれは。さ、どうぞ」 奇兵衛も穏やかに相好を崩す。座るよう勧めると、娘はすぐに胡坐をかいた。 「どうだね、近頃」 「本当に助けられた。全部奇兵衛さんのおかげだ」 娘は痩せた手で頭を掻いた。腕を組んだ碁仇がちらと眼を上げる。 「何事もほどほどに」 奇兵衛は懐紙を弄びながら微笑んだ。 「度が過ぎれば薬も毒だ。どうぞお気をつけて」 「分かってる」 娘は従順に頭を垂れる。次いで、落ち窪んだ眼窩で奇兵衛を見上げた。 「ただねえ、どうしても別のが欲しいんだわ」 「ほう」 懐紙を折る手が止まった。 「例えばどのような?」 「さあて……何と言っていいもんか……」 「む」 碁仇の声が割り込んだ。ぱちり。奇兵衛は「おや」と目を大きくした。 「首の皮一枚繋がったねえ」 「ふふん。ずっと考えてた」 碁仇は誇らしげに胸を反らせる。青白い顔の娘はのろのろと腰を上げた。 「じゃあ、これで」 「お話は?」 「今日はやめておく」 にたりと笑って娘は去った。 「気味が悪いねえ」 碁仇のまなこが娘の背を追う。ぱちり。奇兵衛が白を打つ。碁仇は碁盤と向き直り、居心地が悪そうに尻をもぞもぞとさせた。 「人でも殺しそうじゃないか」 「よしなさい」 奇兵衛が静かにたしなめる。碁仇は「冗談だよ」と口唇を曲げ、黒石を手に取った。 「人殺しと言えばよ」 ぱちり。黒が前進する。 「聞いたかい。顔なしの死体」 「ああ。司書が頭を抱えていた」 ぱちり。白が出陣する。 「奇怪なもんさね。顔はどうなったんだか」 「さあ……元からのっぺらぼうかも知れんよ。何せ様々な者がいる」 次の手を待つ奇兵衛は懐紙で紙奴を折っている。滑らかな手つきに碁仇は鼻を鳴らした。 「慣れたもんだ」 「紙が私の商売さ」 「そりゃそうよ。ところで、ずうっと考えてたんだが」 「相変わらず長考がお好きで」 ぱちり。 「碁のことじゃないよ。ほれ、のっぺらぼうの話。死体のツラぁ、拓みたいに写し取られたんじゃないかってさ」 「突飛なこと。して、根拠は?」 ぱちり。ぱちり。白と黒の応酬。 「だってよう、お前さん」 碁仇のまなこがぎょろついた。 「そんな紙持っちゃいなかったかね」 碁盤ががたりとひっくり返り、白と黒とがごっちゃになった。 碁仇の首をポンとはね、奇兵衛がにたりと笑ってる。 白い玉砂利軋ませて、今日も旦那がお出かけだ。 奇兵衛出かけりゃ顔なし死体。司書の依頼は閑古鳥。だあれもなんにも言いやしない。 旦那は毎日出かけてく。ハァ繰り返しったら繰り返し。繰り返しったら繰り返し。 そうらどこかで紙が舞う。 0世界の時間は停止している。空は動かず日も暮れない。体内時計を狂わせて調子を崩す者もいると聞く。奇兵衛は雑踏をそぞろ歩いた。顔見知りと行き交えば足を止めて世間話。知らぬ相手なら黙って通り過ぎるだけだ。この世の大半は赤の他人で、相手もまた奇兵衛を気に留めぬ。 『急募! 顔なし死体の調査』 塀の貼り紙をちらと流し見、気ままな散歩をただ楽しんだ。 数多の者らとすれ違う。数多の者らが通り過ぎていく。奇兵衛は扇子で襟元をあおいだ。透けるような和紙に木の骨が浮いている。 顔にひたりと扇子を当てた。紙の香りを静かに吸い込む。どんなに上等な麝香より芳しい。 扇子を外すと老人が立っていた。 「こんちは、奇兵衛さん」 青白い顔の老人はしわがれ声だった。 「ああ、どうも」 奇兵衛はそつのない微笑で応じる。老人は瞬き一つせず、ぐいと顔を突き出した。 「この前の話なんだが」 「そうだった。あの時聞けなくて申し訳ない」 「聞いてくれるのかい」 黄色く濁った眼球が皺の狭間でぎらついている。奇兵衛はにこりと微笑んだ。 「信用第一。お客の要望にはできるだけ沿わねばね」 扇子がはたはたと動き続けている。ひどく優美に。涼しげに。 「じゃあ言うけどさあ」 老人はにたりと笑って奇兵衛にすり寄った。 「おくれよ。あんたの顔」 「ほう」 奇兵衛は静かに首を傾けた。 「それだけ顔を変えて、まだ別のものが欲しいと?」 初め、老人は中年の男だった。次に見かけた時は若者になっていた。その次は娘に。顔を変えるのは簡単だ。死に顔の拓を自らに貼ればいい。 「どれもしっくりこないんだよぉ」 老人は枯れた猫撫で声で笑う。 「ならば自分の顔に戻せば良い」 奇兵衛は冷静だ。 「だから、どれもしっくりこない。どれがどれやら。俺がどれだか」 「それは異なこと」 「なあ。おくれよ」 老人は懐に手を忍ばせる。 「あんたの顔、初めて見た時から気になってた。ずっと尾けていたんだよ、あんたが出かける度に」 不自然なまでにまっさらな紙が取り出される。 「あんたも元は同心だろ? 罪人にお上、暗がりばっかり見てきたろ? あんたのここにゃ――」 枯れ枝のような指が奇兵衛の胸を突く。 「俺と同じもんが詰まってる」 「それはそれは……突飛な」 さすがの奇兵衛も苦笑するしかない。老人も笑っていた。笑いながら慟哭していた。ひどくいびつな形相であった。 「あんたの顔ならきっと合う。なあ、おくれよう。ねえ、ねえ」 数多の者が通り過ぎていく。むせび泣く老人を誰一人として気に留めぬ。 「仕方のないお人だねえ」 縋りつく手を払おうともせず、奇兵衛はぱちんと扇子を閉じた。 「場所を変えようか」 はてさてこの後どうなった? だあれもなんにも知りやしない。 だけれど不思議なことがある。顔なし死人が絶えたとよ。 これにて一件落着ぞ。ハァめでたいなったらめでたいな。今日はとびきりめでたいな。 玉砂利の上に白い紙奴が落ちている。奴の頭はもげている。奇兵衛は糊を取り出し、奴の首を繋いだ。 「お」 縁側に横たわっていた碁仇がむくりと起き上がった。寝ぼけ眼がぼんやりと瞬きを繰り返している。 「帰って来たのかい」 「すっかりお待たせしてしまった」 奇兵衛は碁盤の仕度をした。 「あたた。首がミシミシ言ってあ」 「寝違えたのでは?」 微笑む奇兵衛の傍らで紙奴がひょこひょこと歩き出す。 三者は何事もなかったように碁を打ち始めた。 「顔なし死体が出なくなったってのはほんとか?」 ぱちり。今日は碁仇が白だ。 「そうらしいねえ」 ぱちり。奇兵衛の黒が進む。奴が見守っている。 「幕切れが唐突じゃねえかい。一体どうしたんだかね」 「さあ。私が明るいのは紙だけだ」 「紙、ねえ」 碁仇はふんと鼻を鳴らし、紙奴もひたと奇兵衛を見つめた。 「あいつにあの紙さえ見せなきゃな」 そう言ったのはどちらであったか。奇兵衛は黒石を手に肩をすくめた。 「欲しいと言うから渡したまでで」 何をするかは尋ねなかった。あの男を一目見て分かったのだ。勤めで闇を覗きすぎた者の眼だと。 「だが、ちと無粋だったよ。せっかく放っておいたのに」 「あいつぁ闇に呑まれたのかね?」 「恐らくは。あるいは歪んだ0世界の仕業か……いずれにせよ面白い」 ぱちり、黒い石。碁仇も白を打ち返す。奇兵衛は手を止め、短く唸った。 「長考してもいいぞ」 碁仇が得意げに鼻を膨らませる。 ぱちり。別の手が割り込み、黒を打った。奇兵衛は感嘆した。 「会心の手だ」 「そうだろう。待たせたね」 奇兵衛の隣に奇兵衛が腰を下ろす。奇兵衛が二人並んでいる。碁仇は口をへの字に曲げた。 「紛らわしいことしやがって。どっちがどっちだい」 「さあ。何にしろ」 奇兵衛は奇兵衛を見て笑った。 「面白いねえ、人間は」 ……ぱちり。 (了)
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