公然の秘密、という言葉がある。表向きは秘密とされているが、実際には広く知れ渡っている事柄を指す。秘密とはこの世で最も脆いもののひとつ、それを打ち明け共有出来る友を持つ者は幸いである。胸に抱えた秘密の重さは人に話してしまえば軽くなるものだし、更には罪悪感を連帯所有することで深まる絆もあるだろう。 ……さて。あなたはそんな、誰かに打ち明けたくてたまらない秘密を抱えてはいないだろうか?それなら、ターミナルの裏路地の更に奥、人目を避けるように存在する『告解室』に足を運んでみるといい。 告解室、とは誰が呼び始めたかその部屋の通称だ。表に屋号の書かれた看板は無く、傍目には何の為の施設か分からない。 ただ一言、開けるのを少し躊躇う重厚なオーク材のドアに、こんな言葉が掲げられているだけ。『二人の秘密は神の秘密、三人の秘密は万人の秘密。それでも重荷を捨てたい方を歓迎します』 覚悟を決めて中に入れば、壁にぽつんとつけられた格子窓、それからふかふかの1人掛けソファがあなたを待っている。壁の向こうで聞き耳を立てているのがどんな人物かは分からない。ただ黙って聴いてもらうのもいいだろう、くだらないと笑い飛ばしてもらってもいいだろう。 この部屋で確かなことは一つ。ここで打ち明けられた秘密が部屋の外に漏れることはない、ということ。 さあ、準備が出来たなら深呼吸をして。重荷を少し、ここに置いていくといい。
「告げるに解くと書くんでしたかね」 「そのように書き表す言語がいくつかあると聞くが」 奇兵衛は告げ解くと書き表されるその部屋……告解室のつくりを興味深そうに眺め、誰が見ているわけでもないが指先でその文字を空に書いた。解、の字を崩した指先が書く最後の一画は、すいと雫を落とすように降りる。柳のようにしなやかな、告げる必要もなく最初から解けている何かが纏われているような所作だった。 「ふむ、ふむ、成る程」 「やけにご執心……というか、興味を持たれているようだね」 一人がけのソファ、小さなサイドテーブル、そして隣の空間と繋がっていることを示す小さな格子窓。たったそれだけが収まるのにちょうどいい、四畳半にも満たないこの空間で、いったいどれだけの秘密が言葉となったのだろう。そしてそんな秘密を外に吐き出さなければ平衡を保てなかったのであろう人の心というものは、どれほどに脆いのかあるいは強いのか、それら全てを情報として理解は出来るものの、共感を覚えるほどには寄り添えない奇兵衛の心が、この部屋でそわりと好奇心の一端を覗かせる。 「面白いじゃあないですか。人間てのはどうしてこう、己の心に納めておけないことを抱えてしまうんでしょうな」 「さてね。此処に来たからには、君もそうなのではないかとわたしは思うのだけれど」 「私が? ……どうでしょうなあ」 ここで言葉にされたであろう多くの秘密の残り香がそうさせるのだろうか、すっと深く息を吸い、奇兵衛はソファに浅く腰掛ける。告解を受ける者の問いかけは反芻され、少しの沈黙を経て。 「分かりませんな、どうにも」 「……そうか。皆誰しも、自分のことが一番よく分からぬというからね」 「そういうものなんでしょう」 袖に手を入れ腕を組むような仕草で、奇兵衛はゆっくり息を吐く。細められた目は、格子窓の向こうではないどこか遠いところを見ていた。 __膿鳥の旦那、あんた本気かい __そうですとも、こうしなけりゃあにっちもさっちもいかないことくらい…… 「……そういうものなんでしょうな」 ◆ 私の元居たところには、下天講というのがありましてね。平たく言えばこの世の終わりというやつです。そうですなあ……ちょうどいくらか前に、旅団の連中が家ごとやってきた事があったでしょう、あれよりよっぽど恐ろしいやつとでも言っておきましょうか。 とにかく、私はそいつを止めなけりゃあならなかった。ところがね、口惜しいことに敵の罠にかかっちまった……全く、今思い出しても忌々しい。 何の備えもなしに神山の噴火を止めることなぞ出来るわけがないんです、ええ……そうです、備えがあれば話は別ってやつで。 私の頭が足りてるとは自分じゃあまり思っちゃあいない性分ですがね、誰でもこうするだろうというやり口を思いつくのに時間はかかりませんでしたなあ。はて、私も必死だったということでしょうか……柄にもない。 「差し支えなければ、そのやり口というのを教えてもらっても?」 ……ええ、構やしません。 きっと貴方も思いつくことですから。 簡単です、大を生かす為に小を切り捨てただけのこと。 どのみち全てが助かる道理なぞ無いんですから、小をひとつ捨ててそれが大の為に働いてくれるんなら御の字だ。……この世界にも少なからず居るでしょう、手段を選んでいる場合じゃあない時はあるってのを肌身で分かっているのが。 「……本当に致し方ないのなら、あるいはね」 そうでしょう? 全くあの時はそういう時だった。 ですがね、一緒に居た連中にはそれが分からなかったんですなあ。嗚呼……まあ、この街にも大勢居ますがね、ああいうのをよしとしない、情に厚いのが。一度叱られたことがあります。それについちゃ私が間違っているのかもしれませんし、そうじゃあないのかもしれない。どのみち、確かめることも出来やしません。 人間というのは欲が深いですな。故に、面白い。 心底、大も小も助かると曇りの無い眼で信じて言い張る。 理不尽なくせして嘘とは思わせない、あの強さは一体何なんでしょうなあ。 ……彼らが下天講を止めてくれるとね、私は信じていたんでしょう。 だからああして、私を莫迦呼ばわりしてくれたのが面白くってね。 __莫迦か! 皆で帰らねぇで何が同心なもんかね! __莫迦で結構、雁首揃えて仏になるよりいくらかましってもんだ __あんたのそういうところが…… ……あの後、はて、何と言われたのだったか。 それにつけても、お頭たちのあの顔ったら無いですよ。事の次第を飲み込んだ途端血相変えて、必死に止めようとして。ああ、可笑しい。 もうお分かりでしょう? ◆ 「もうお分かりでしょう?」 「切り捨てられた小が、きみ自身ということをかね」 「……ええ、お察しの通りで」 奇兵衛は水差しからグラスに水を注ぎ、ついとそれを口に運んだ。喋りすぎたような、そうでないような。渇いた喉を撫でるように、胃の腑へおりてゆく水の感覚。鳩尾のあたりにじわりとその冷たさが広がり、ふとある思いが去来する。 「それが最善だと思うのなら、きっときみは自分以外でも躊躇いなく切り捨てるのだろうね」 「……そうしない道理は無いでしょうなあ。…………いや」 本当にそうだろうか。 わずかに汗をかいたグラスをサイドテーブルに置き、濡れた手のひらを乾かすようにすり合わせ、奇兵衛はいつもの道理と結び付けられなかったその思いをそっと口にする。 「……それが彼らだったなら、私はきっと別の手立てを考えたでしょうな」 「そうか」 嫌だ、と。何故かそう思った心。それがかつて分からないと首を傾げ、今も分からないと思っている、人の心のありようそのものであることに、奇兵衛はきっと気づくことは無いのだろう。ただ、そう思ったことへの驚きは奇兵衛の心に、小さな何かを齎したかもしれない。とっくに乾いた手のひらをまだ合わせたままの姿はまるで、何かに祈りを捧げるようでもあった。 「後悔はしちゃいないんですよ。同じような目にあったとして、私はまた好きなようにするんでしょう」 「自分の為に、かい」 「そうですなあ……ええ、人の為よりかは随分と好ましい」 くつくつと笑い、奇兵衛は合わせた手を解いてグラスの水を飲み干した。 「それも間違いでしょうかね」 「さあね」 人の心が、人ならざるものの心に跡を残して、それはそのまま心のかたちとして奇兵衛のなかに在った。それとは決して、決して気づくことなしに。
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