今にも零れ落ちそうな灰色の空に、血を凍らせたような黒い鳥が飛んでいる。 ――おぎゃあああああん 潰れた赤ん坊の悲鳴が聞こえてディラドゥア・クレイモアは身を震わせた。 不毛の地とされる<カルタゴ>は止まぬ雪に閉ざされた、冬の世界だ。身を凍てつかせる寒さもそうだが、雪狼、雪の巨人、氷鳥と油断できない敵が多い。そして、魔物はいつも赤ん坊の声をあげて人を惑わす。 ディラドゥアは腰にさした勝利のルーンが刻まれた剣をいつでも抜ける態勢にして、白い息を吐き出し、走り出す。 声が聞こえたところに行ってみると女が雪狼に襲われていた。 ディラドゥアは雪狼の前に身をおどらせて、一匹は胴体を叩き切った。その隙を狙って二匹が襲ってきた。一匹はナイフを投げて脳天をついた。が、もう一匹が腕が噛みつかれた。痛み。平気だ。これくらい。剣の柄で頭を殴り、腹を蹴り、最後は心臓を突く。 「あ、ありがとう」 女の声にディラドゥアは振り返った。 「なにをしているんだ!」 客相手には丁寧な言葉を使うべきだが、頭に血が昇ってそれを忘れてしまった。 「死にたいのか! 列から離れるな!」 「ごめんなさい。ただ、薬草があったの、それを採ろうと思って」 女がうなだれた。 「ディラ」 養父が険しい顔をして立っていた。そもそも、彼の表情はいつも石のように動かない。 「仲間たちが探していた。はやく戻るといい」 女は恐縮したままそろそろと歩き出す。ディラドゥアはちらりと養父を見た。 なにかしらの咎めがあると思ったが、結局は何も言わなかった。 いつもそうだ。 傍にいても、何も言わない。助けることもない。 どうせ、――心の中で黒い闇に唾を吐く。 死んだとしても、またやりなおしがきく。なにもかもを投げ出すような憎悪にまみれながらそんなことを考え、灰色の空を睨んだ。黒い鳥はもういない。 ディラドゥアがカリバーンに再会したのは、冷たい煉瓦造りの部屋にあるベッドの上だった。手当されていたが、身体のいたるところが痛んだ。 最後の記憶を思い出そうとしてすぐさまに叫びをあげた。 今まで見ていた当たり前の日常のなかにいた両親、弟――それは夢。現実では大切なものはすべて鮮血に染められてしまっている。 もう戻らない。 激しい憎悪は赤から黒に変わり、心を満たした。 ディラドゥアは感情に動かされるままにカリバーンの与えた巻物を使い、全身に使って否定することを選んだ。 「起きたか」 静かな声がしてそちらへと目を向けると、闇の中にカリバーンが立っていた。 「……カリバーン」 「ここは探索者の本部である<調律機構>だ。知っているか?」 ディラドゥアは頷いた。 父の語る話にときどき名前は出ていた。種も、出身も、国も関係なく、大小さまざまな理由で己の求めるものを探す者たちで構成され、どの次元からでも金によって依頼を受け引き受ける組織。 「お前はここに己の意志できた。もう一度問おう。神に復讐したいか? そのために己の魂も肉体も捧げ、義務として生きられるか」 黒い瞳は夜のように果てなく、己の心を見透かすように強い力があった。 ディラドゥアは己の手をきつく握りしめた。そんなの問いは今更だ。 「なる! 強く、強くなる! あいつらに、俺の街を、家族を奪ったやつらに復讐してやる!」 カリバーンの目が悲しんでいるように見えたのは錯覚だろうか。 「なら、渡したバッチに己の血を染み込ませて飲み込め」 ディラドゥアはすぐさまに自分の片手に、きつく握りしめられたままの燃える憎悪の炎から取り出したような金色のバッチを睨みつけた。 そして、何ら躊躇いもなく、自分の掌を爪で傷つけると血を流し、飲み込んだ。 とたんに胃に焼け付く痛みが広がり、思わずベッドのなかで暴れまわった。 「それは魂を縛る呪い、空虚なる永遠を甘受する……お前の魂は死ぬことはなく、魂は何度殺されようとも、再びこの地に蘇ることになる」 「不死に、なったってこと?」 「厳密には違う。肉体は成長し続け、魂もまた変化する。魂の望みを達成しない限り、お前は死ぬことはなく、はじめからやり直すことになる」 「はじめから?」 カリバーンは目を眇めるばかりで答えらしい答えは得られなかった。 だが、そのあと、すぐにディラドゥアは己の身を持って呪いを知ることになる。 <調律機構>の者たちは、ディラドゥアを快く、受け入れた。なかでもさして歳の変わらない翼人の娘は姉ぶってあれこれと世話を焼かれて、辟易とさせられた。 「ここは求める者の場所よ。力こそすべて。だからね、ディラ、強くなりなさい」 彼女はこめかみの翼を広げて笑った。 「修行は、<転移の間>で出来るわ。あそこには他の階層に行くための巻物があるから、そこで出会う魔物を殺して、知識を奪いなさい。ここに己が得た知識を集めることは義務よ。その分だけ報酬をもらえるし、ああ、いろんな次元の依頼を受けてもいいわね。まずは強くならなくちゃね」 ねぇと彼女は続けた。 「ここにいる者はみんな仲間よ。けど、敵でもあるわ。気を付けてね。ディラ」 <転移の間>は、大きな広間の床に魔法陣が書かれ、端に並べられた棚には巻物がいくつもあった。 ディラドゥアがやってくると受付の老人が微笑んだ。 「ここには多くの世界の智がある。それを読み解くのはお前さんたちだよ。さて、お前さんには、これか、これがいいだろう。旅慣れてないやつにはちょうどいいやつだ。気を付けて行っといで」 老人の助言に従って、ディラドゥアがはじめに訪れたのは緑豊かな森林だった。 美しい緑のなかに突然と放り出され、ディラドゥアは驚いた。 何も知らない場所で、途方に暮れて突き進むと、いきなり草むらから現れた黒い毛の狼に襲われた。 抵抗も空しく、ディラドゥアの首は獣の牙によって食い散らかされた。 死して、生きる。 気が付いたとき、ディラドゥアは血にまみれていた。 魂に刻まれた、空虚なる永遠を甘受する呪い――。 自分は死なない。死んだら生き返る。 胸を焼く痛みを、屈辱を、何度で繰り返し、生まれるのだ。 笑い泣きたい気持ちになった。 求めるものを得るまで自分は死なないのだ。 上等だ。この憎悪を満たすためならば、いいだろう。 そのまま森を彷徨い、何度も獣に恐れ、殺され続けた。何度も、何度も、そのなかでディラドゥアは死のなかで学んだ。狼たちの行動、その次にはクマ、イノシシ……わが身を抱いて、血を流し続けた。 ここにはタチの悪い夢魔がいるらしい、夜になるたびディラドゥアは悪夢へと連れ出された。 血まみれになる家族、笑っている憎い神 ――あっはははははは 笑い声。 無力な己。 憎い憎い敵に手が届かなくて、心が哭く。 憎悪は、ディラドゥアの孤独を食いつくしていった。 森の奥で、同じような探索者と遭遇した。一緒に行こうと言われたのに言葉を交わす相手に飢えていたディラドゥアはあっさりと受け入れた。 仲間がいること、頼ることがこんなにも安心するとは思わなかった。 森の奥で、黒い毛に覆われた巨大な狼と対峙した。そのとき、どんっと背中を押されて狼の前に囮として出された。 信じていたのに、絶望の目で仲間であった彼らが逃げていくのを見た。 狼の牙が、ディラドゥアを切り裂いた。しかし、それは、裏切りよりも優しかった。 ああ、だって、死んでも、またやり直しはきく。 死、死、死、死――は甘く。 生、生、生、生――は昏く。 それからは何人かの探索者が声をかけてきても無視をした。そして、一人で多くの世界へと赴き、剣を振るった。 敵を殺すために卑劣な奇襲も厭わなかった。己を鍛えることに全身全霊を注いで、血が出ようと、肉体が悲鳴をあげようとも剣を片手に握り続けた。 死んでも、またやりなおしかきく。 それはディラドゥアを自棄にさせた。 己の命を大切と思わずにがむしゃらに立ち向かい、死んで、学び、そしてまた死んだ。 死は甘い誘惑だった。 生は昏い絶望だった。 金がなくて人が捨てた魔導書を拾って読み漁った。それを恥ずかしいとは思わなかった。自分には知識が必要だった。 時としてはディラドゥア自身も裏切った―― 一緒に行こうとドワーフを誘い。彼を囮にして魔物を仕留めたことがある。 ドワーフは囮にされても生きていた。そして、ディラドゥアを責めたりはしなかった。かわりに仲間としてついていこうとした。 「俺は……囮にしたのに」 「けどの、わしはお前さんに旅のなか助けられているのも真実じゃ。互いに利用している。それでいいじゃないか。ただ囮にするときは事前にいっとくれよ」 いつの間にか翼人の少女も一緒にくるようになった。 「ディラが心配なのよ」 ――へんなやつら。 ある日、カリバーンに声をかけられた。 普段、ディラドゥアが行く道のあとを数歩下がってついてきている彼にしては珍しいことだった。 「護衛の依頼があった。俺と一緒に来い」 護衛は、白い不毛の大地を旅する商人を十日に及んで護衛する大掛かりなものだった。 「あの、」 遠慮がちに声をかけてきたのは、先ほど叱った女だ。 「あなた、私をかばってくれたでしょ。狼から」 「……それは仕事だから」 「うん。けど、助けてくれたから」 そういって女が採ったばかりの薬草で、遠慮がちにディラドゥアの腕の怪我を手当し始めた。 「あなたは正しいわ。何か一つの過ちが、みんなの危険にしてしまう」 女はそのとき泣き出しそうな顔をした。 「あなたが生きていてくれてよかった。私ね、怖いのよ。旅のなかで、あなたたちが命を張って守ってくれている。それはお金を払っていることだけど……うまくいえないけど、ただそれだけの関係とは思わない。私たちは仲間だわ。いま」 仲間。 極寒の大地は厳しい自然に立ち向かうため、生きている者は協力しなわなくてはいけない。それだって利用ではないかと思うが、手当された腕は、ひどくあたたかかった。 あのとき、もし自分が死んだら女は守れなかった。守れたとしても、こんな風に笑えただろうか? 次の日に目的の村につくと、祭りが催されているのに商人たちはディラドゥアたちをぜひともと誘った。 酒が振舞われ、音楽に踊り、みなが笑いあう。 ディラドゥアは離れたところでひっそりと炎を見た。 「ディラ」 「カリバーン……俺、死んでもいいと思った。やり直しがきくから」 そのたびにドワーフは悲しげ顔をし、翼人は怒った。それを聞き流し続けたのは強くなりたい焦りと心に巣くう生き残った罪の意識だった。 「俺は間違っていたんだ」 燃える炎に、踊る人々の笑顔。 死は甘く、生は昏かった。けど、いまは ドワーフや翼人が手をふっている。どんっとカリバーンに背中を叩かれた。照れくさく思いながら駆けていった。 死は昏く、生は光溢れ。 ディラドゥアは訓練し続けた。憎悪を抱えても、それでも仲間を信じることも、疑うことを学び続けた。 積み重ねるために、生きていくのだ。 旅支度をしたあと、カリバーンの部屋に足を向けた。 最近は旅に同行することはなくなり、かわりに揺り椅子に腰かけていることが多くなった。 「旅に、行ってきます、父さん」 「ディラ……お前は、私を恨んでいるか」 伸ばされた手を、慌てて掴んで首を横にふった。 「ディラドゥア……あのとき、お前を助けれることが出来て、俺は救われたんだ」 笑おうとして失敗した。 「そんなお前に過酷な路を選ばせた。それしかお前を生かす術を俺は知らなかった」 「……きっと何度やり直しても、俺はあの選択をしたよ」 憎悪を抱えたまま、何もせず生きて行くなんて出来ない。どれだけ過酷な道でも進むことを選択したはずだ。 カリバーンはくれた、戦う路を。けれどそれだけじゃないものも不器用にも与えてくれた。 「行きなさい。どこまでも、お前の信じるままに……大丈夫だ。きっと正しい道を選べる」 「……父さん……いってきます」 去っていく息子を、カリバーンはじっと目を細めて愛しげに見送ると、ゆっくり眼を伏せる。 そして、英雄は旅に出る。満たされた魂が解放された先へと、
このライターへメールを送る