葛根、麻黄、桂皮、甘草(かんぞう)、柴胡(さいこ)、人参、半夏(はんげ)、麝香(じゃこう)、沈香、蟾阻(せんそ)、熊胆(ゆうたん)、犀角(さいかく)、それから竜骨。 インヤンガイの一街区、リューシャンの、薬師通り(くすしどおり)と呼ばれる一角では、その名の通り、さまざまな薬効を持つ多種多様な生薬が扱われている。わざわざ遠方からも買い付けに来る薬師の多さが、この辺りで商われる品物の優秀さを表していると言えるだろう。 その、活気に満ちた薬師通りを歩き、ヒイラギは馴染みの店で目当ての生薬を買い込んだ。 「いつもありがとうよ。これ、おまけ」 「いえ、こちらこそ助かっています。……いいんですか? これ、大黄(だいおう)ですよね。しかも、かなり質のいい」 「ああ、たくさん仕入れたら、少し多めに入れてもらえてね。せっかくだから、お得意様に利益を還元しようと思って。よかったら、使っておくれ」 穏やかな笑顔の、恰幅のいい女主人は、そう言って笑った。馴染みの相手ゆえ、ヒイラギも、ありがたく押しいただく。 ちなみに、大黄とはタデ科の多年草で、古くから用いられてきた薬用植物である。大黄に含まれるアントラキノン誘導体やその配糖体の持つ大腸の蠕動運動促進作用を利用し、健胃・瀉下剤に用いられる。要するに、壱番世界でいうところの漢方薬である。 「さて……」 目当てのものも買えたし帰ろう、と踵を返しかけたところで、そういえば、と女主人がヒイラギを呼び止める。 「何かあったんですか?」 「お客さんは聴いたかい? 記憶を読んで、家族や友人に化けて、相手を油断させては憑依するっていう暴霊の話」 「いえ、初耳です。それが、この辺りに?」 「そうなんだよ。その人にとって忘れがたい、特に印象の好い人間に化けるんだってさ。不思議に思って近づくと、精神を乗っ取られて霊力を啜られちまうんだそうな」 「その口ぶりでは、被害が出ているようですね」 「あたしが聴いた話だと、もう五人くらいやられてる。おっかないし、赦し難いし、何より哀しい話だ。やられた連中は、死んだ父母や子ども、遠く離れて二度と会えない友人なんかに化けてたって言うよ。誰にだって、そういう相手がいるもんじゃないか、そこにつけ込むなんて、ねぇ」 「……本当に」 そんなものがうろついているのなら、一度探偵に話を聞きに行ったほうがいいんだろうか、などと思いつつ店を辞し、帰途に着く。 あちこちの通りからうまそうな匂いが漂い、『人が生きている』ことが判る、騒がしくも活気のある街並みを歩きながら、ヒイラギは女主人から聴いた話を反芻していた。 遠く離れて二度と会えない友人、家族、死んだ人々。 心の底に残る、大切な思い出を読み取って、暴霊はそれに化けるのだという。きっと暴霊は、疑似餌のように、これ見よがしに思い出を転がし、かかった獲物を釣り上げては愉悦とともに喰らうのだろう。 それをひどい冒瀆だと思う。人の記憶を穢す、唾棄すべきやりかただと。 彼は決してお節介な性質ではないが、忘れ得ぬ思い出を――たとえそれが苦いばかりのものだとしても――持つ身として、放ってはおけない、と思う。 探偵のところへ詳しい話を聞きに行こう、と思い立ち、帰り道とは違う通りへ踏み込んだ先で、ヒイラギは息を呑んだ。 「――!」 薄汚れた通りの、角を曲がっていった人物。 横顔をちらりと見ただけだが、間違いない。 あの、色素のない、繊細に整った造作を忘れるはずがない。 別れの日より少々成長しているような気がするが、おそらく目の錯覚だろう。 「ユエさま……」 故郷陥落の日、突然の夜都侵攻に混乱を極める集落で、側付きの従者である自分を、主人のための捨て駒となり死ぬことをこそ貴ぶ『影』を庇い、崩れ落ちる瓦礫の中に消えたヒイラギのあるじだ。 ヒイラギは、その時の絶望がもとで覚醒し、今、ここにこうしているのだ。 主人の心根を知り尽くしているだけに、あのときの彼にはああする以外の選択肢はなかったのだと理解していてなお、今も陥落の日を思うと心臓が痛い。護れなかった、手が届かなかった、彼のために死ねなかった無力な己への後悔と慚悸と憤りでいっぱいになる。 「……」 ヒイラギはぎりりと奥歯を噛んだ。 彼の、大柄な身体から、静かな、しかし激烈な怒気が滲み出す。 記憶を読まれたことはしかたがない。 いかにヒイラギが、多くの異能を所持する優秀な傭兵といえども、世界を隔てれば彼以上の猛者、手練れとて少なくはない。故郷にはいなかった強大な存在に打ちのめされたこととて皆無ではない。 しかし、何よりも、かの暴霊が、あるじの姿を盗んでいることが、ヒイラギには耐え難く許し難い。 ヒイラギは静かにギアを握り締めた。 探偵に話を聞いてからのほうがいいとか、特性も弱点も知らないままは危険だとか、単独で当たるのはまずいとか、そういった常識的なことはすべて、今のヒイラギから消え失せている。彼にあるのは、許せない、必ず滅ぼすという、盲目的で猛烈な怒りのみだ。 “目視した位置への転移”能力を用いて背後へ転移、無言のまま鋼糸を繰り、あるじの姿をした『暴霊』へと無言のまま襲いかかる。不意打ちは卑怯だなどという考えは、側仕えの影でも、傭兵でも暗殺者でもあるヒイラギにはない。要するに、敵を殺せればそれでいいのだ。 薄暗がりにきらめき、鋼糸が『暴霊』を襲う。 絡め取り締め上げ、斬り裂くそれは、しかし『暴霊』に届くことはなかった。 「――ッ!?」 なぜなら、驚愕に真紅の眼を見開いた彼が、ほとんど紙一重の必死さで身をよじり、鋼糸を避けてしまったからだ。 気配のない彼の殺気を読み取り、回避した『暴霊』の身のこなしは称賛に価したが、それはヒイラギの怒りを助長しただけだった。 『暴霊』の眼が驚愕に見開かれたことも、その表情がとても生々しい命の色をはらんでいたことも、ましてや『暴霊』の頭上に真理数が浮かんでいないことも、ヒイラギの目には入っておらず、彼はなお無言のまま追撃を開始する。 必ず滅ぼす。 あるじの姿を取ったことを後悔させる。 その思いで、彼は鋼糸のギアへ火をまとわせた。 * * * 驚いた。 心底驚いた。 こんな驚愕は、生きたまま心臓を抉り出されそうになって以来かもしれないとすら彼は思った。 ――賢明な読者諸氏にはもうお判りだろうが、ヒイラギが暴霊と思い込んで不意打ちし、今も執拗に追撃を加えているのは、お気に入りの露店めぐりに訪れた帰りのロウ ユエ本人である。 殺意というより危機感のようなものがあって回避してみれば、絡め取られればただではすまないであろう鋼糸が、つい一瞬前まで彼が立っていた場所を抉っていった。 こんな手練れに狙われる覚えはない、と相手を見てみれば、幼いころから自分の傍に仕え、世話をしてくれた側仕えの青年である。なるほど彼ならそのくらいのことはやってのけるだろうと理解はできたのだが、釈然としない。 彼が生きていて、ユエと同じく覚醒しターミナルに来ていたことは、先だってのロストレイル襲撃時、治療の応援に出た先で知っていた。それ以降、さっさと姿を消したヒイラギを探し続けていたのだが、まさかこんなところで鉢合わせるとは。 「……なぜ、俺はお前に攻撃されなきゃいけないんだ?」 とはいえ、幼馴染と言って過言ではない彼と再会できた喜びに変わりはなく、かすかな笑みとともに問うた瞬間、 「その口で俺を呼ぶな、穢れる」 忌々しげに吐き捨てられ、ユエは一瞬本気で凹みかけた。 そこまでの憎しみを向けられるようなことを、実は故郷での自分はやらかしていたのだろうかと、思わず沈思黙考に入りたくなる。 しかし、火をまとった鋼糸がユエを切り刻み焼き尽くさんと繰り出され、避ければ避けた先に暗器が投擲され、念動で弾くと同時にヒイラギがユエの間合いに飛び込んできたため、正直いって凹んでいる場合ですらなかった。ヒイラギの両手には、掌に収まるサイズの小刀があり、それらは驚くほどの正確さでユエの急所を狙ってくる。 ――本気で殺す気だ。 「待て、正気になれヒイラギ! お前と戦う理由なんてないだろう!」 「黙れ……ユエさまのお姿を騙った罪、その身をもって償え……!」 「騙るも何も俺は本物だが!」 「偽物ほど賢しい口を利くものだ!」 怒声とともに鋼糸が舞い、暗器が飛び、異能が揮われる。 ユエだからどうにか防げているが、一般人ならなすすべもなく殺されているレベルの本気っぷりである。大盤振る舞いとはこういうことか、と若干遠い目で思いつつ、なんとなく事情を察してユエは胸中に溜息をつく。 要するに彼は、ユエを偽物だと思い込んでいて、我があるじを騙るとはけしからんとか許し難いとかそういう理由で、彼を全力にて殺しに来ているのだろう。 しかし、せっかく再会できた幼馴染である。 下手に反撃するわけにもいかず、鍛え上げた動体視力と反射神経で避け、ギアで受け、異能で打ち消して防戦に徹する。 双方の実力からいけば、勘違いで相討ちなどということにすらなりかねないため、どうにかして説得できないかと解決の糸口を探るものの、ヒイラギにはにべもない。 「その、なんだ。そう、真理数! 真理数がないだろう俺には。これがどういうことが今のお前にならわか……」 「暴霊の屁理屈など聞く耳持たん」 「ああもう、暴霊って都合がいいな!」 思わず突っ込まずにはいられない。 自分も案外慌てているのかと、妙に冷静な部分がつぶやく。 「そういえば、昔っから頑固なやつだった……」 聴く耳持たないのはお前だろう、と胸中に裏拳を放ちつつ、間断なく襲い来る攻撃を防ぎ続ける。 ユエは、ヒイラギに殺されるのも嫌だが、ヒイラギに自分を殺させるのも嫌だ。彼は、暴霊だと思い込んで殺したのが本物のユエだと知った時、二度目の絶望を味わわねばならないのだから。 そのこともあって、必死で頭を回転させ、打開策を練っていたユエは、視界の隅に奇妙な影が映っていることに気づき、その不可解さに眉をひそめる。 ――それは、見覚えのある姿をしていた。 見覚えがあるも何も、鬼の形相で自分を殺しに来ているヒイラギとそっくりだ。しかし、あれがヒイラギでないことは、今さら確認するまでもない。 「よそ見を、」 どこまで侮るかと怒りに眦を吊り上げ、ユエの視線の先に気づいてヒイラギが押し黙る。 「――ヤナギ」 それから、ぽつりと、双子の兄弟を呼んだ。 呼ばれた瞬間、それがニタリと嗤った。 その表情に、ぞくぞくと、背筋を冷たいものが這い上がる。 あれは生きていない。この世のものではない。 それがはっきりと判った。 「まさか、暴霊が二体も……!?」 ヒイラギには突っ込みたいが、それどころではない。 ――あれは危険だ。 放っておけば、この先、数えきれない犠牲が出る。 ユエは剣を握り締めた。 ヒイラギの双子の兄弟、ユエにとってはヒイラギと同じく側仕えの世話役だった青年の姿を取る暴霊を見据える。かけらも残さず、一撃で。そう決めて踏み込もうとしたら、ヒイラギの鋼糸がユエを襲った。 「大切な記憶を読み取り、人を欺く化け物どもめ……死者を穢すその行為、許すまじ」 彼が冷ややかに激怒していることはひしひしと伝わってくるが、ユエとしてはこの石頭めと一発殴りたい気分だ。 「待て、だから……」 言葉を継ぐ暇も与えず、またしても鋼糸と暗器、異能の大盤振る舞い。 ギアと異能でそれを防ぎつつ、ヤナギの姿をした暴霊を目で追い、ユエは息を飲んだ。 にたにたと嗤ったそれが、ぶわり、と膨らんだのだ。 ヤナギから、暗闇の色をした、鞭のような触手のような、気持ちの悪い何かが突き出てくる。それは大きく膨らむと、ふたりへ覆いかぶさるようにのしかかった。ユエよりもヒイラギのほうがそれに近く、ユエに意識を集中させていたのもあって隙が大きい。 「――危ない!」 ユエは横向きに跳び、黒い触手に絡め取られそうなヒイラギの身体抱えるように地面を転がった。 「なッ」 驚愕の声を上げるヒイラギ。 頭上を、獲物を見失った触手がざわざわと通り過ぎていく。 ヒイラギを地面に押し倒したまま、しばらく息をひそめていると、ややあって、 「――……温かい?」 ユエと密着した格好のヒイラギから、困惑した声が聞こえた。 「当然だ、生きているんだから」 答えつつ立ち上がり、体勢を整えてギアを揮う。 黒い触手が、びぢっ、と気色の悪い音を立てて断ち切られ、消えた。 「補佐しろ、ヒイラギ!」 言い捨て、暴霊めがけて走り出す。 ヤナギの姿を失ったそれは、もうほとんど暗闇色の何かの塊だった。 「――御意」 真正面から暴霊へ挑むユエを阻もうとする黒い触手は、宙できらりと鋼色が舞うたび、なすすべもなく断たれて消える。鋼糸に火がまとわされると、それらは紙のように容易く燃え上がり、ユエに道を譲った。 ユエの正面に、暴霊の塊。 「悪いが、狩らせてもらうぞ……!」 ギアに念動を乗せ、勢いよく振り抜く。 ばづん、びしゃん、という派手な破裂音、そして水音。 横に薙ぎ払われた暴霊は、まっぷたつになったまましばらくぐらぐらと揺れていた。しかし、ぐねぐねと蠢いていた触手もすぐに動きを止め、あの薄気味悪い感覚も、寒気も、すべてが遠ざかり消えてゆく。 すぐに、遠くの喧騒が響いてくる。 「やれやれ……」 ユエは大きなため息をつき、ギアを腰に戻した。 まだやるのか、と確認のようにヒイラギを見やれば、彼も鋼糸や暗器を懐へ仕舞い込んでいる。どうやら、ようやく判ってくれたようだ。 ホッとしたことは事実なので、 「久しぶりだな、ヒイラギ」 ユエが微笑みとともに言うと、ヒイラギは頷こうとしてそのまま固まった。 ざざあ、という擬音語がふさわしいような勢いで蒼白になる。 ユエは、流れるような動作で土下座の姿勢に入るヒイラギを、何とも言えない表情で見下ろす羽目になるのだった。 * * * 「大ッッッ変申しわけありませんでしたッッ!!」 ――コメツキバッタという昆虫がいる。 バッタ科に属する、細長く緑もしくは淡褐色の身体を持つ、ショウリョウバッタの別称であるが、後脚をそろえて持つと、米を搗(つ)くような動作をするためこの名で呼ばれる。比喩的に、やたらに頭を下げて媚びへつらう人間のことを差す。 という薀蓄はさておき、事情を理解してからのヒイラギの動きはまさにコメツキバッタさながらだった。 ヒイラギがあるじを襲った、おおよその理由はユエの想像通りで、先ほどの暴霊の件もあり、別段怒りも湧いてこない。 要するに、ヒイラギは、あのときユエが死んだと思っていたのだ。 実際、覚醒した時は瀕死だったし、あの場面からしてそう思い込んでしまっても致し方ないとは思う。そして、死んだあるじの姿を騙った暴霊に対して、後悔を抱いていただろうヒイラギが激烈な怒りを覚えたことも、想像に難くない。 「いや、まあ、いい。とりあえず顔を上げろ、あと公衆の面前で土下座される俺のいたたまれなさ辺りを考慮して早々に立ってくれるとありがたい」 勝手に殺すなと思いもするが、それよりも何よりも、お互い無事で再会できた喜びのほうが大きい。 「……無事で何よりだ」 声に喜色が混じったのを感じ取ったのだろう。 まだ恐縮しつつ立ち上がったヒイラギの目に、さまざまな感情を含んだ感慨が去来する。彼がもう少し暑苦しい性質なら、この場で男泣きに泣いていたかもしれない。 「ユエさま、私は」 「気に病むな、俺は俺の思うように動いただけだ。――心配かけたな」 「いいえ……そんな、もったいない」 ヒイラギがこうべを垂れる。 あるじのために死ぬことを幸いとすら称する『影』の胸中は察するに余りあるが、それでも陥落の日のユエには、あの選択肢しかなかった。お互いに、それだけのことなのだ。 「だから、まあ、何だ」 「は」 「……とりあえず、茶でもどうだ? 再会を祝して」 肩をすくめ、言うと、初めてヒイラギが笑った。 「あなたはお変わりない」 「お前もな」 世話役の目に安堵が揺れるのを見て、ユエはまた微笑む。 そして、帰ったらたくさん話をしようと心に決めつつ、この辺りで一番の茶房へ案内すべく、先に立って歩き出すのだった。
このライターへメールを送る