パペットのエレクにとうとう友達ができた。エレンという名の、黒い兎のぬいぐるみだ。 『やあエレン! 気分はどう?』 エレニア・アンデルセンの右手でエレクが生き生きと振る舞う。左手のエレンはぴょこんと顔を上げたが、それだけだった。おかしな話ではある。エレンを操っているのはエレニアなのだから。 『どうしたのエレン。お話ししようよ』 清涼な風がエレニアの黒髪を梳きほぐす。目の前の湖面が静かに波立ち、陽光を弾いてきらきらと輝く。光を集めたような煌めきがある青年の髪と重なる。 『とても綺麗だね』 石膏像を見れば彼の横顔を思い出す。赤い木の実を目にすれば彼の瞳が脳裏で瞬く。依頼を終えたエレニアの足は彼とのひとときをなぞるようにこの湖へと向いた。もっとも、彼と一緒に訪れたのは洞窟の地底湖であったのだが。 ほんの少し目を閉じればあの日の情景が甦る。彼の足音、交わした言葉、柔らかな笑顔、それから…… この手をくるんだ、あの手の温もり。 思い出すだけで指の先端に熱が灯る。 伸びやかな風が湖畔の叢を揺らす。風は、遮るもののない景色の中を軽やかに渡っていく。エレニアは慎重に、臆病に息を吐いた。この身を満たす彼の記憶を一つもこぼさぬよう。 さわさわさわ……。風が吹き溜まる。 ロストレイルの出発時刻が近い。依頼を終えたのだからもう帰らねばならない。 気を取り直すように立ち去ろうとした時、湿った草に足を取られた。咄嗟に草の中に手をつく。ほっと息を吐いたエレニアははっと息を呑んだ。 エレンの腹部がわずかに破れてしまった。小さく、決定的な傷口から綿のはらわたが覗いている。 熱を帯びた指先が我に返ったように冷えていった。 偶然ではなく必然だと信じたい。あるいは本人の意志が必然をもたらすと。何にせよイルファーンはチャンスを逃さなかった。数多の存在が流れるターミナルで、求める背中をしかと見出したのだ。 「エレニア・アンデルセン」 雑踏に掻き消されてしまいそうな手首をしっかりと掴む。驚いて振り向けられた顔の中、青の瞳が大きく膨らんだ。 「良かった。やっぱり君だった」 「あ……『こんにちは!』」 言葉をこぼしかけたエレニアはすかさずパペットの口を借りた。 「また会えたね。今着いた列車に乗っていたのかい?」 閉ざされた唇の前でもイルファーンは臆さない。エレニアは微苦笑しながらトランクを持ち直し、肯いた。右耳の大きな羽根飾りがかすかに揺れる。 『依頼でヴォロスに行って来たんだ』 「この前一緒に歩いたのもヴォロスだった。偶然だね」 『本当だね』 「ああ、本当に」 イルファーンの瞳が自然に緩んでいく。 「縁があるのかなと僕は思うけど……どうだろう?」 ピジョンブラッドの双眸には意図も駆け引きもない。石膏の頬に煌めくのも新雪のような喜びばかりだ。 『……そうだったら素敵だね』 鳥がさっと頭上を横切り、エレニアの瞳を影が掠めた。 「では縁があることにしてしまおう。焼き菓子が好きだと言っていたね、ごちそうさせて欲しい」 『覚えててくれたんだ?』 「エレニア・アンデルセンのことは一つも漏らさず覚えているよ」 イルファーンは日だまりのようにエレニアの手を取った。 エレニアのトランクをロッカーに預け、二人はカフェへと滑り込んだ。オープンテラスの日当たりの良い席に腰を下ろす。あちこちに咲くお喋りの花の中、紅茶の香りが優しくほどけた。 『美味しい。元気が出る』 エレニアがタルトを口に運び、エレクが屈託なく笑う。二人の頭上で深緑の梢が囁いている。 「良かった」 イルファーンは手元の紅茶に金色の蜜を垂らした。 「疲れた時には甘い物が良いと言うからね。いや、疲れているなら引っ張り回さない方が良かったかな」 『そんなことないよ。また会えて嬉しい』 「本当に?」 眼差しをエレクからエレニアへと移していく。目が合った途端、エレニアの瞳がわずかに揺らぎながら逸れていった。しかしイルファーンはそれすら包み込むように微笑むのだ。 「僕も嬉しいよ。君はとっくに知っているだろうけど」 エレニアは眉尻を下げて微苦笑した。 「この前渡したあの子は元気かな? 黒い兎の」 『ん、うん』 エレニアは伏し目がちにフォークを操った。香ばしく焼かれたタルトがほろほろと崩れていく。 『エレンっていう名前を付けたんだよ』 「エレン」 慈しむように口の中で転がす。 「とてもいい名だ」 『ありがとう』 エレニアの面に朗らかな安堵が浮かんだ。 『真名には魂が宿るって聞いて、一生懸命考えたんだよ。あの子にも魂が込められたかな? まだ実感できないんだけど』 「エレクに魂を吹き込んだ君なら大丈夫さ。エレクとエレン……やっぱりいい名前だね。ちょうど色違いだし、まるで僕たちみたいだ」 かすかに空気が漏れる音がした。エレニアが笑ったのだ。笑い声には程遠い、息を震わせるだけの音。エレニアは自分の声を出さない。 「お菓子のおかわりはどうだい?」 イルファーンは急かさない。ただ静かにエレニアの前にいる。 『ありがとう、もうお腹いっぱい。食後に少し歩いてもいいかな』 「もちろん。君とは色々な話をしたい」 『ええ? 何を話せばいいんだろう』 エレクは悪戯っぽく腕組みしてみせた。温かなカップから絹糸のような湯気が立ち上っている。幾筋もの湯気は、近付き、離れ、また近付きながら溶け合っていく。 「話題なんか何でもいい。エレニア・アンデルセンと話すことが大事なんだ」 『じゃあ、イルファーンさんの好きなものを教えて』 「僕?」 イルファーンは豆鉄砲を食らった鳩のように瞬きをした。次いで緩やかに苦笑する。 「僕のことを聞かれるとは思わなかった」 『おあいこだよ。この前はこっちのことを沢山聞いてくれたんだから』 小さく微笑が漏れた気がした。頭上の木々の葉擦れだろうか。エレニアはエレクの向こうで微笑んでいる。 「そうだな。僕は人間が大好きなんだ」 『人間……?』 「そう、人間」 不思議そうなエレニアの眼差しに丁寧に相槌を打った。 「人間を愚かだと言う者もいるね。そうだとしても、僕は人の全部が好きなんだよ。人を愛し、人と生きて、人と在りたい……同輩には愚かだと言われたものだけど」 風の溜息に似た、静かな吐息が漏れた。 沈黙が落ちてくる。 『どうして愚かなんて言うの?』 やがてエレクはことんと首を傾げた。 『とっても素敵だなって思う』 エレニアがにっこり笑う。イルファーンはただ微笑み返した。心地良い温度が喉元まで溢れて、言葉を作り出すことができなかったのだ。 初めて対面した時から不思議で仕方なかった。イルファーンはどうしてこんなに綺麗なのだろう。どうして日だまりのように微笑むのだろう? エレニアが抱き続けてきた疑問は呆気なく氷解した。イルファーンは人間という存在が好きなのだ。太陽が大地を照らすように人間すべてを慈しんでいる。ならばエレニアに隣を歩かせることに格別の意味があろうか。 「どこに行こうか」 イルファーンが微笑む。真っ白な髪が陽光を弾き、絹のように輝いている。きっと、すべての相手にこうやって笑いかけるのだろう。 『どこだって楽しいよ』 それでもエレニアの言葉に嘘はない。この心地良い今を、もう少し。 「じゃあ、この前見つけた場所へ」 イルファーンは内緒話でもするように人差し指を唇に当てた。 トラムに揺られて街並を過ぎ、いつしか周囲は草木へと変わる。知らぬ間にチェンバーの入り口をくぐっていた。さらさら、さわさわ。足元と頭上で瑞々しい緑が囁いている。 『こんにちは。お邪魔するね!』 エレクが梢に向かってお辞儀をした。葉の間から木の実と小鳥が顔を出す。イルファーンは気持ち良さそうに目を細めた。 「僕は太陽も好きなんだ。明るい場所は心が浮き立つ」 『この間の洞窟も神秘的だったよ』 「だから今日はここに来たんだ。明るい場所で君を見てみたかった」 屈託のない笑みだった。頭上の緑がはにかんだように揺れる。と思ったら、ふわふわの尾が覗いた。リスだ。 『ご機嫌いかが?』 エレクが呼びかけるとリスはぴゅっと引っ込んでしまう。イルファーンが涼やかに笑った。 「恥ずかしがり屋なのかな」 『残念。話してみたかったのに』 「本当に大したものだ」 イルファーンの視線がリスからエレクへ、そしてエレニアへと下りてくる。 「エレクには魂が宿っていると思わざるを得ない。エレニア・アンデルセンの力だね」 『ええ? 買いかぶりすぎだよ』 「そんなことはない。良かったら今度エレンを見せてくれないか? 君の手で動く姿を見てみたいな」 『ん、うん』 エレニアの脳裏で傷口の姿がフラッシュバックした。 透き通った風が水音を運ぶ。小川でもあるのだろうか。せせらぎに誘われるように二人は進む。 叢の先に輝きが横たわっていた。 小さな川が流れている。きらきちらちら、日の光を照り返しながら。水面の煌めきは絶えず形を変えながらどこまでも続いていく。悪戯な光の精が戯れているかのようだ。 「水遊びも良さそうだ」 イルファーンは履物を脱いで叢を掻き分ける。エレニアもつられるように靴を脱ぎ、はたと手を止めた。草の湿り気が素足を這い上がる。湖畔で転びそうになった記憶が甦る。 「滑りやすい。気をつけて」 振り返ったイルファーンが屈託なく手を差し出す。洞窟を訪れた時と同じように。エレニアは洞窟でも足を滑らせた。 『遠慮しとく。また転びそうだし』 仕方なく、ごまかすように笑った。ほんの少し眉尻を下げたまま。 イルファーンはひょいと眉を持ち上げ、微笑の日だまりを顔いっぱいに広げた。 「大丈夫。怖がらなくていいんだよ」 優しくエレニアを引き寄せる。 静かな水飛沫が上がった。 何が起こったのかエレニアには分からなかった。目に映る景色が急激に変わったのだ。気が付いた時にはイルファーンの胸板ばかりが視界にあった。足元を浸す小川に気付いたのも、飛沫が作り上げた虹を認めたのも数瞬のちのこと。 「ほら大丈夫。何ともない」 イルファーンはエレニアの腕を取り、浅い流れの中に立たせてくれる。エレニアはエレクを動かすことも忘れて視線を彷徨わせた。何か。何か言わねば。 「あ、に、『虹だね!』」 ようやく会話を繋ぐ。虹に気付いたイルファーンは大らかに面を綻ばせた。 「本当だ。運がいい」 刹那の虹はほどけて消え、小川の煌めきに溶けていく。 「別の場所だけど、この前も虹を見たよ。虹の青藍は特別綺麗だろう? エレニア・アンデルセンの目を思い出した」 『虹の色合いなんてとても曖昧なのに』 つい意地悪な言葉が飛び出た。こんな話をしたいのではないのに。 「だけど、とても綺麗だったよ」 イルファーンの声が、微笑が、エレニアの罪悪感を融かしていく。 彼はどこまでも人間が好きなのだ。しかし今はエレニアの前で、エレニアのためにこうしている。それを思えば胸が甘やかに苦しくなる。 ――どうすべきか、どうしたいか、分かってはいるけれど。 玲瓏な歌声で我に返った。せせらぎに乗せて、イルファーンが歌を口ずさんでいる。詞は聞き取れぬものの、妙なる調べに惹きつけられてやまなかった。 「僕の故郷の唄だよ」 エレニアの視線に気付いてイルファーンが微笑んだ。 「エレニア・アンデルセンも一緒にどうだい?」 エレニアは固く唇を引き結んだ。 小川のせせらぎは止まらない。光の欠片がエレニアの脛をくすぐっては去っていく。押し流されそうになって、足に力を込めた。しかしそれだけだった。川底の泥砂に埋め込まれた足はどうしても動かない。 過去の傷が意地悪く口を開ける。昔、エレニアの声に魅了された男はエレニアの声だけを恋うた。 「エレニア・アンデルセン」 宝物でも呼ぶようにイルファーンが言葉を紡いだ。エレニアの名を、エレニアだけに向かって。 「この前、たくさん話してくれたね。君が何を恐れているか、少しは知っているつもりだ。だけど僕はそのままの君に好感を持った。エレニア・アンデルセンは人間の中で特別だと思ってる」 柔らかなせせらぎが続く。 「声で僕が魅了されたらどうなるって言うんだい? 元々好きだった人をもっと好きになるだけさ。それがそんなにいけないこと?」 銀色の小魚がエレニアの足に口づける。こわばりが次第に解きほぐされていく。 自分の声で話せたなら。本当の声でこの微笑みと向き合えたなら。 けれど、どうしても喉に異物がつかえている。 『……あのね』 だからエレニアはエレクを選んだ。 『その前に謝らなきゃいけないことがあって』 イルファーンが目をぱちくりさせる。 『エレンのこと。本当は依頼に連れて行っていたんだ。でも……ごめんなさい、破けちゃった。転びそうになって手をついた時に。せっかく買ってくれたのに本当にごめん』 二人の傍で魚が跳ねた。銀に輝く腹を躍らせ、流れの中へ戻っていく。快活な魚はすいすいと泳ぎ、川の煌めきの一部と化した。 「そう。そうだったんだ」 その瞬間、風が吹いたのかとエレニアは思った。イルファーンの応えはそれほど軽やかで涼やかだったのだ。 「じゃあ直そう。傷ができたなら縫えばいい。簡単なことじゃないか」 日だまりの中で、エレニアの唇が幼子のように震えた。 魚が躍る。銀の腹が煌めく。きらきらちらちら、川も魚もしなやかに輝いている。 「いっそ僕が直そう。後でエレンを貸しておくれ」 『そんな。自分でできるよ』 「僕にさせてほしい。言霊なら一瞬だけど、針と糸を使って縫うよ。時間をかけて丁寧に」 イルファーンは悪戯っぽく笑いながら水を蹴り上げた。細かな水滴が輝きながらエレニアに降り注ぐ。 「そうすれば返すためにまた会える」 『……やったな!』 エレニアもお返しとばかりに水をかけた。水飛沫と笑い声の応酬が続く。虹が次々と咲いては消え、また咲き誇る。 「こんなにはしゃぐのは久し振りだ」 イルファーンは子供のように笑いながら額の水を拭う。髪の毛から滴り落ちる雫は水晶の欠片のようだ。 「服は大丈夫かい。楽しくて、つい」 『平気。とても楽しかった』 快活に応じるエレクの向こうでエレニアがにっこり笑った。 閉ざされた唇がゆっくりと花開いていく。 「ありがとう」 風が吹いた。風は、幾重もの意味を込めた一言を運んでくれただろうか。 エレニアは間もなく答えを知る。 「ありがとう」 イルファーンの面に微笑みが溢れたのだ。 「エレニア・アンデルセンの声が聞けて嬉しい」 彼の言葉が終る前にエレニアは相好を崩していた。ひどく静かに、無防備に。日だまりのような感情に包まれ、そうすることしかできなかった。 エレンはイルファーンの手へ渡り、エレクだけが残された。 『待ち遠しいな。きっと綺麗に直してくれるね』 エレクは相変わらず快活だ。 『今度こそ魂が宿るかな?』 「……うん」 エレニアはそっと肯いた。 また会うと約束した。今度は何を話そうか。 (了)
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