最後列は三日月灰人の指定席だ。教室でも礼拝堂でもそこしか居場所がない。 (見ろよ、陰気なツラ。目鼻ものっぺりしてやがる) (髪なんて死神の色だぜ) 灰人の日本人的な容貌は悪い意味で人目を引いた。異物は神学校でさえ疎外される。おまけに灰人の学校は全寮制で、配膳を受けるために食堂に並べばわざと肩にぶつかられた。体格も運動神経も貧弱な灰人は簡単に食器をひっくり返してしまう。 「あーあ。グズ」 「食うよな? ちゃんと食うよな?」 床に落ちたクリームシチューを指して少年たちが迫る。灰人は気弱に目を揺らした。その隙に両腕を取られ、あっという間に後ろ手に跪かされる。 「食べなければならないのですか」 罪人のような姿で蚊の鳴くような声が出た。 「神が与えたもうた糧だぞ」 「無駄にするのかよ。神学の徒のくせに」 「食べるよ」 と答えたのは灰人ではなかった。 ブロンドの少年が割り込み、平然と四つん這いになる。どろりとしたシチューに鼻先を突っ込んだ彼は犬のように食事を始めた。食堂が水を打ったように静まり返っていく。 「主と今日の糧に感謝」 食事を平らげた少年は膝をついたまま十字を切った。 「でも僕の分が余ってしまった。……そうだ」 そして灰人の目の高さで微笑む。 「お前、食べてくれよ。糧を無駄にしたくない」 少年は金髪碧眼というオーソドックスな西洋人だった。おまけに人気者で優等生ときている。そんな彼が灰人と同室だったのは何の巡り合わせなのだろう。 「どうして助けてくれたのですか」 二段ベッドの仕切り板に向かって灰人は尋ねた。灰人は下段に、少年は上段に横たわっている。 「食事を無駄にしたくなかっただけだ」 素っ気ない答えが降ってきた。 「……私に関わらないほうがいいです。巻き込まれますよ」 苛められるのは自分が悪いのだ。根暗で消極的なこの性分がいけないのだ。 「なんで?」 少年は起き上がり、灰人のベッドを逆さまに覗き込んだ。 「汝の隣人を愛せって言うだろ」 包み込むように注ぐ言葉に灰人は声を失った。 「お前もあいつらのこと恨まないでやってくれよな。すぐには消化できないだろうが」 「過つのが人、許すのが神です」 「お前、いい牧師になるよ」 二段ベッドの上下から笑い声がこぼれた。 授業でも礼拝でも灰人は相変わらず最後席に座った。しかし灰人はもう一人ではない。異端の灰人の隣には正統な西洋人の少年が陣取っている。 「悲嘆の中の希望、か。どう思う」 聖歌の合間に少年が囁く。一番後ろの席は二人きりの内緒話に好都合だ。 「シッ。今は主に語りかけましょう」 灰人は瞑目し、頭を垂れて唱和した。聖歌に紅潮する灰人の頬を少年の碧眼が見つめている。少年に救われて以来、灰人の信心はますます篤くなっていた。 「貴方は私のような人間を救って下さった。きっと神の思し召しです」 「お前を助けたのは僕じゃなくて主なんだな」 少年は指先を持て余したように金髪を掻きむしる。わずかな苛立ちを読み取り、灰人は朴訥に首を傾げた。 「何かあったのですか?」 「分かるのか」 「貴方は私の無二の友人です」 「参ったな」 少年の腕がだらりと垂れる。 「成績が下がってるんだ。昨日注意を受けた」 灰人ははっと息を呑み、目を伏せた。 「それは……私のせいでは」 少年と灰人は夜更けまで語り合う間柄になっていた。互いの生い立ち、宗教観、時には勉強を見てもらうこともあった。 「違う」 少年は毅然と宣言した。青く燃える目に撃ち抜かれそうになり、灰人はびくりと肩を震わせる。 「いけないのは僕だ。お前じゃない」 それっきり少年は口を閉ざした。 夜が来る。 灰人は一人で食事を摂って部屋に戻った。もっとも、ほとんど喉を通らなかったのだが。少年は灰人から離れた席で食事を終え、さっさと部屋にこもってしまった。 「戻りました」 声をかけても返事はない。部屋の中は真っ暗だ。二段ベッドの上階に黒々とした影が仰臥している。 ぎし……とベッドが軋む。 灰人は身を竦めながら寝床に滑り込んだ。少年の眠りを乱したくないのに、どうしても音を立ててしまう。仰向けになれば天井の仕切り板が視界を塞いだ。この向こうに少年の背中がある。 枕に嘆息をうずめた時、頭に何かをぶつけられた。反射的に跳ね起きると枕元に林檎が転がっていた。 「食べろよ」 上段の少年が逆さまに灰人を覗き込んでいる。悪戯っぽい笑みを浮かべながら。 「ほとんど食べてなかったろ? 見てたんだぞ」 「……はい」 灰人の腹が鳴き、二人の笑みが重なった。 穏やかな時が流れていく。 灰人と少年は友情を深め合っていった。時には衝突することもあったが、全てを受け入れるのが神の教えだ。仲直りの合図はいつも林檎だった。少年が灰人のベッドに林檎を投げ込むこともあったし、灰人が少年の机に林檎を置いておくこともあった。一つの林檎を二つに割って分け合った。 「神の存在が証明できるのか」 「この世界こそが神の証明です」 いつもの議論。いつもの林檎。果実を頬張り、灰人の歯に固い物が触れる。瑞々しい果実に艶やかな種子が埋もれていた。円熟した、欠けも傷もない種だ。 「……そうだ」 この日から灰人には秘密ができた。 寮の裏庭にしゃがみ込む灰人に少年が歩み寄る。 「何こそこそしてるんだ」 「は、はい?」 肩を叩かれ、灰人は飛び上がった。肥料とジョウロを慌てて後ろ手に隠す。少年はわざと意地悪く笑いながら灰人の背後に回り込んだ。手作りの花壇には瑞々しく幼い葉が顔を出している。 「何か植えたのか?」 「お、お許しを。決してやましい意図は――」 「隠し事くらい当たり前だろ。神でもあるまいし」 笑い飛ばされ、灰人はほっと胸を撫で下ろした。安堵するあまり、少年の唇の歪みにどうしても気付けない。 「林檎の種をまいたんです」 花壇に向き直り、無垢な芽に水を注ぐ。 「この前食べた時にとっておきました。貴方と私の思い出がこの地に根付いたら素敵じゃありませんか?」 少年は無言で眉を持ち上げた。柔らかでデリケートな緑がジョウロの雨に打ち震えている。 「……実がなるまでには何年もかかる」 やがて少年が低く呻いた。 「承知の上です。卒業してからも世話に来ます」 「何度も冬を越さなきゃいけない。それに、こんな日当たりの悪い場所でか」 「だから、皆さんには内緒です」 「成程な」 唾棄するような囁きだった。湿った風が仄暗い昼を這い回る。裏庭は寮の背に囲まれている。 「種をまけば同じ実がなるわけじゃないぞ。実を結んだとしてもろくな物はできない」 「しかし主はこう仰せです」 灰人は目を閉じ、両手を胸の前で組み合わせた。 「“地は青草と実瓜を生ずる草蔬と其類に従い果を結びみづから核をもつ所の果を結ぶ樹を地に――”」 「何でもかんでも神の言う通りじゃないってことさ」 不機嫌な一言が酔ったような暗唱を両断する。 「親木から葉芽を作って接ぎ木をしてやらないと。人間の手を加えなきゃいけないんだよ。この種だってお前が世話をしたから芽を出したんだろ」 「とはいえ葡萄から林檎が生えるわけはありません。それに、我々にできるのは水や肥料を与えることくらいです。固い種を破って葉を芽吹かせるのは神のみわざではありませんか」 「相変わらずだな」 少年の金髪が嘆息に似て揺れた。 「もう一回訊くぞ。お前、本当に神がいると思うのか」 「無論です」 「なら何故この世界はこんなに悲劇に満ち溢れてるんだ? 飢餓や戦争がなくならないのは何故だ? 新聞を開けば陰惨な報道だらけだ」 「考え方ひとつです」 灰人の眉間が皺で固くなった。 「どんな時でも信ずることが肝要なのですよ。だって、貴方と私が出会えたのも――」 「主のお導きか」 少年は吐き捨てた。 夜が来る。 「起きていますか」 二段ベッドの仕切り板に声をかけると沈黙ばかりが返った。少年と灰人は上段と下段に隔てられている。 静かに時が流れていく。 「悲嘆の中の我らが希望……」 「聖なる歌はあめつちに満ちて……」 空席だらけの礼拝堂に聖なる歌だけが響く。地域にも開放されているのに訪う者は少ない。 「信仰はどこにいったのでしょう」 灰人は嘆くばかりだ。隣で少年が鼻を鳴らした。 「みんなとっくに気付いてるのさ。神なんかいないって」 「神の御姿は信ずる者にのみ見えるのです」 「なら僕が神に背いたらどうする?」 凍てつくように青い双眸が灰人を射る。 灰人はわずかに唇を震わせ、そして……弱々しく微笑んだ。 「何があろうと私は貴方を受け入れます。貴方が私を救ってくれたように」 いらえはなかった。 時は決して止まらない。 少年はいつしか黙り込んでいた。喋るのも億劫なほどに心を病んだのだ。 『この世界に神などいない。今夜それを証明してみせる』 「あ」 灰人は声を上げた。手元の書き置きが風にさらわれていく。 少年は灰人の元にメモ一枚残して郷里に帰ることになった。出立の時間すら教えぬままに。 灰人は後ろ髪を引かれながら夜の礼拝へ向かった。 「我らと歌え……」 「主の御心よ……」 清らかな声が神と愛を讃える。灰人は手を組み合わせて頭を垂れた。この祈りは少年の元に届くだろうか。 ゆっくりと目を開いた時、視界の隅を何かが舐めた。 はっと視線を彷徨わせる。窓の外で何かが燃えている。炎だ。無言の紅蓮が、こちらを見ろと叫ぶように夜を焦がしている。 「悲嘆の中の我らが希望……」 灰人は動けない。祈りを途中で投げ出すことはできない。 「聖なる歌はあめつちに満ちて……」 せせらぎのように讃美歌が流れる。煉獄の中心で真っ黒な影が身をよじらせている。最後列に座る灰人だけが見ていた。火焔の姿は灰人の席からしか見えなかった。 「アーメン。アーメン」 何と壮麗な合唱だろう。何と静謐な業火だろう。 (神よ) 逃れるように目を閉じる。暗闇が広がり、組み合わせた手が震える。 (彼を救いたまえ。救いたまえ――) アーメン。アーメン。アーメン……。 灰人はとうとう礼拝堂からまろび出た。 走る。走る。炎は黒い塊となってくすぶっている。やがて灰人は犬のように四つん這いになって嘔吐した。どろどろになった食い物がぶちまけられる。胃は空っぽになっても痙攣を止めない。強酸の胃液が食道を焼く。目の前には黒焦げの親友が転がっている。 「どうして……どうして」 小さな欠片が喉から飛び出し、地べたの胃液にぽとりと落ちた。 未消化の林檎だった。 少年が死んでも時は流れ、灰人は悲嘆に暮れた。考えても考えても彼の行動が理解できない。そのうち、彼の心に触れたい一心で遺品整理を思い立った。 少年のキャビネットからは腐った林檎の芯が出てきた。 「……食べてくれたのですね」 少年と過ごす最後の日に林檎を半分置いておいたのだ。 腐敗した芯の下には日記が横たわっていた。手に取った拍子にページの間から紙片が滑り落ちる。 『灰人へ 読んでほしい』 紛れもなく少年の字で、灰人は刹那息を止めた。 自殺の理由が書いてあるのだろうか。知りたい。怖い。だが、何があっても受け入れると言ったのは灰人だ。 酸素を求めるように窓を開け、パンドラの箱を開いていく。 『気付くのが怖かった。でももうごまかせない』 『僕は恋をしている。許されざる恋を』 指先が震える。 『灰人。灰人。君のことしか考えられない』 「ああ――」 『この愛は教義に悖る。僕は異端で、罪人なのか』 『灰人は正統な信者だ。煉獄に道連れにするわけにはいかない』 『灰人は僕を受け入れると言ったけれど』 軽やかな風が分厚い日記帳をめくっていく。押し込められ、追い詰められていた想いが次々と飛び出してくる。 『全てを許すのが神だと灰人は言った。神は――』 パンドラの箱の中は絶望だけで、灰人はよろよろと逃げ出すしかなかった。 『――神の愛から零れた人間を決して救わないのに』 置き去りの日記を風がくすぐっていた。 「主よ」 礼拝堂には灰人一人。灰人の前にはキリスト像のみ。 「あなたは……本当に……」 言葉は決して続かない。キリストは黙して語らない。 神学校の裏庭には奇形の林檎がなったという。 (了)
このライターへメールを送る