服に着られるという言い回しがある。分不相応な装いや着こなしのなっていない様を揶揄するものであろう。現在の三日月灰人はまさに服に着られていた。真新しい牧師服は硬く、どうしても肌に馴染まない。 「……あの」 詰め襟の下から蚊の鳴くような声が出た。咳払いをし、喉を湿らせる。 「恐れ入ります。三日月と申します」 小包大のボール箱を抱き直しながら門扉に呼びかける。 「神学校の……いえ、卒業したのですけれど――」 その瞬間、何かを打ち壊すような音を立てて門が開かれた。 「何かご用ですか」 現れたのはいかめしい面立ちの壮年男性だ。ブロンドに青い目というオーソドックスな白人である。 「ご同業ですね。初々しい」 男は胸の前で十字を切った。さりげなく、けれどもどこか機械的に。条件反射のようなそのしぐさは灰人の記憶を容赦なく掻き乱した。『うち、代々そういう家系だから。厳格なプロテスタント』。親友の苦笑いが脳裏に立ち現れる。肉が焼ける臭いをも嗅いだ気がして顔面を覆いたくなる。 「……不躾な訪問をお許し下さい。私、三日月灰人と申します」 込み上げる胃液を飲み下しながら目を伏せた。 「神学校時代、ご子息に大変お世話になりまして。それで、実は」 「私には息子などおりません」 巌のような声が頭上から突き刺さる。え、と顔を上げた瞬間、険しい眼光に射すくめられた。 「ご存じでしょうが、自殺は神に背く大罪です。そんな不信心な者がこの家にいるわけがない」 「いえ、ですが、確かにここだと」 灰人は慌てて箱を開け、開封済みの書簡を取り出した。リターンアドレスはこの家を示している。 「ご子息とは寮で同室でした。失礼とは思いましたが、私が遺品の整理を……。それで、ご両親にお届けをと」 「ですから、息子などおりません」 男は唾棄するように言い放って背を向けた。 「受け取るべき物もございません。どうかお引き取り下さい」 「ですが、あの」 「お引き取り下さい」 がちゃんと門扉が閉ざされ、灰人だけが取り残された。 「あの……あの……」 箱を抱えて――あるいは箱にしがみついて――途方に暮れる。門の先では質素で瀟洒な白い家が沈黙している。 「お願いです。せめて中身を見て下さいませんか」 哀願は白壁にぶつかり、虚しく跳ね返ってきた。 親友は灰人の目の前で自殺した。灰人の記憶に焼き付けるように己を業火に呑ませたのだ。傍にいた灰人は親友の死を止められず、彼の心を知ったのも遺品の日記によってであった。 灰人は学校を卒業し、牧師になった。親友は段ボール一箱分の遺品となって灰人の腕の中にいる。 門は口を開こうとせず、灰人はうなだれるしかなかった。のろのろと踵を返す。『お前、いい牧師になるよ』。親友の笑顔が脳裏で揺らめく。 「……何もできませんでした」 遺品の箱が答えるわけもない。 道の両側から木立がせり出し、視界はやけに薄暗い。進むことができぬのなら来た道を戻るしかない。しかしどこへ戻るというのだろう? 灰人は牧師だ。務めを果たさなければならない。教会に勤めて……神の声を……。 『この世に神などいない』。親友の声なき叫び。 眩暈さえ覚える。舗装された道が大蛇のようにくねって見え、新品のロザリオに必死で縋りつく。 「あの」 「はっ!?」 背後から声をかけられ、飛び上がりそうになった。ずり落ちかけた眼鏡を直しながら振り返るとうら若い娘が立っている。色白でブロンド、瞳は青。見覚えのある唇の形に灰人の息が止まった。 「貴女は」 「兄さんの友達って貴方?」 二人の声は期せずして重なった。 娘は親友の妹だという。寮暮らしの兄と文通を続け、灰人のことも聞いていたそうだ。 「では、ご存じ……なのですか」 曖昧で臆病な問いかけだ。しかし妹は察したように微笑んだ。 「はい。全て」 「ではご家族も」 「知っているのは私だけです。兄が、両親には内緒にと」 「申し訳、ありま」 灰人の言葉は最後まで続かない。引き出された罪人のように膝をつき、俯く。妹は慌てて屈み込み、灰人の肩に手を触れた。 「やめて下さい」 生傷を抉るように優しい声。視線を合わせることすらできなくて、灰人はきつく瞑目する。 「やめて下さい」 妹は丁寧に繰り返した。 「本当に……兄さんが言っていた通りの方ですね」 「え」 顔を上げる。目の前で、親友そっくりの口唇が微笑した。 「兄さんの手紙、貴方の話ばかりでした」 灰人の胸を慟哭が衝き上げた。 「私……は……」 堤防が決壊したような嗚咽が始まる。親友は教義に想いを否定され、苦しんでいた。ならば灰人は神を恨めば良かったのか。牧師たるこの身にそんなことが許されようか。そもそも親友の心に気付かなかったのは灰人だ。そんな自分に涙を流す資格などないと頑なに思い続けてきた。 「大丈夫ですか」 白いハンカチが差し出される。灰人は感謝し、眼鏡を外して涙を拭った。これほど柔らかな布を灰人は知らない。 「すみません。お見苦しいところを」 ようやく眼鏡をかけ直す。鬱積していた体液が少しだけ軽くなった気がした。 「本当に……お手間を取らせて。貴女にも、貴女のお兄さんにも」 指先の行き場を求めるように箱を撫でさする。 「彼は最良の友でした」 「兄も同じことを言ってました」 親友は初めて顔を合わせた時から灰人を気にかけていたそうだ。いつも視界の隅に灰人を捉え、級友に小突かれる姿に気を揉んでいたらしい。 「何でも貴女に打ち明けていたのですね。一人きりで抱え込んでいたわけではなかったのですね……」 救われた気がすると付け加えようとして灰人は口をつぐむ。何が「救われた」だ。親友を追い詰めたのは他ならぬ灰人なのに。 「離れてても身内ですから。兄と暮らした期間は貴方より長いんですよ」 妹は悪戯っぽく笑ってみせる。 「兄の成績が下がったこと、ご存じですか」 「はい。私の勉強まで見てくれていたので……」 「代わりに貴方の成績が上がったと兄は喜んでいました。自分も負けないようにしないと、と」 いつしか話題は親友の人となりへと移っていく。 「彼は理数系の科目が得意でしたね」 「目に見えないことも理屈ですっきり説明できる感じが好きだと話していました」 「そう、そうです。私にはさっぱりだったのですが……。彼は私に見えないものを見ていたのでしょうか」 スタンドの明かりの下で参考書を覗き込み合った夜。欠伸をする度に小突いてくれた親友。 「貴方と一緒に林檎を育てたとも言っていました」 「学校の裏庭にこっそり種をまいたんです。やめておけと散々言われましたが」 「本当に? 貴方が寝込んだ時には代わりに水をやったと聞きましたよ」 「え、そ、そんな」 「あ、内緒だったのかしら。兄は昔から林檎が好きで……。成長を随分楽しみにしていたみたいで」 「私もです。林檎、しょっちゅう一緒に食べました。仲直りの合図みたいなもので、随分――」 “救われたものですよ”。何気ない一言は胸の底で淀んだままだ。 路肩の木立がざわざわと騒ぐ。 「……私は彼を救えませんでした」 再び視線が落ちていく。頭上の梢は濃く、足元は薄暗い。 「傍にいたのに。親友……だったのに」 しゃっくりのように息が乱れる。 「私が鈍感で盲目だったばかりに」 神の存在に疑いを持った親友に耳を傾けようとすらしなかった。 灰人は神を盲信していただけだったのだろうか。いくら問うても答えは出ない。誰に問えばいい。どれだけ問えばいい。神がいたとして、目の前に現れてくれるわけでもない。 それでも灰人は牧師になった。そうだ、灰人は牧師だ。だから。でも。だけど……。 灰人ばかりがのうのうと生きている。 ひやりとしたものに顔を撫でられ、ぎくりとする。ただの風だ。だが、生乾きの頬にはやけに冷たく感じられるのだった。 「彼はどうして、死……んだのでしょう」 不可視の手で胸を掴み上げられる思いがする。 「彼を追い込んだのは私です。私を殺せば良かったんです」 「やめて下さい」 毅然とした声が降って来て、灰人は電流に貫かれたように顔を上げた。 「兄が自ら死を選んだのは神に絶望したからでも、ましてや貴方を恨んだからでもない」 撃ち抜かれそうな眼差しに灰人の足がぐらつく。 「兄と同じ部屋で暮らしてたんでしょ。気付かないの?」 やけに静かだ。梢がいつの間にか静まり返っている。 「ただ、貴方に覚えていてほしかったんです。ずっと。忘れないで欲しいと」 さああああ……。我に返ったように木立がそよぎ始めた。 灰人の足元で薄闇がほどけていく。葉が風に揺すられ、少しだけ陽光を透過したのだ。 「これ、読んでみてください」 妹が灰人に歩み寄り、封筒を差し出す。 「兄からの最後の手紙です」 灰人は震える指で便箋を取り出した。 『この手紙が届く頃、僕はこの世にはいない』 乱れ、震えた手蹟に胃の腑が収縮する。 『決意に変わりはない。だけど、お前も知っている通り彼は優しすぎる』 便箋の上で音もなく木漏れ日が踊っている。 『僕の選択が彼を苦しめてしまうかも知れない。それだけが気がかりだ。心残りだ。でも、そんな彼だから』 インクでめちゃくちゃに塗り潰した跡がある。どんな心が記されていたのか。 『そんな彼だから大切なんだよ。勝手なようだが、本心だ』 「ああ」 『もし彼と会うことがあったら伝えてほしい』 「ああ――」 『ありがとう、済まない、でもありがとう。どうか』 再び慟哭が膨れ上がる。 『どうか幸せになってほしい、と』 膝がわななく。灰人は耐えた。懸命にこらえた。 「ね?」 親友そっくりの口唇で妹が微笑む。さらさらと、親友と同じ金髪がそよ風に流れる。友の筆跡を胸に抱き、灰人の膝がとうとう折れた。こうべを垂れる様は咎人のようにも、敬虔な信徒のようにも見えた。 「この手紙……コピーさせていただけませんか」 「もちろん」 妹のおもてがぱっと華やぐ。 「原本は貴方が持っていて」 「でも、それは」 「いいんです。父さんと母さんには内緒ですよ。代わりに、遺品を少し分けてくれません?」 「は、はい。そのつもりで来たので」 灰人は慌てて箱の中をまさぐった。つややかで滑らかな感触が指先に当たり、はっとする。 腫瘤のように膨れた林檎――親友と二人で育てた果実だ。 「よろしければ、一緒に食べてくれませんか」 「ええ?」 「さっきお話しした林檎です」 遺品の中からナイフを取り出し、滑らかな手つきで二つに割る。格別器用なわけではないが、林檎の皮剥きなら慣れている。 「形は少し個性的ですが、とても甘くて美味し……」 片割れにかぶりついた灰人はくしゃくしゃと顔をしかめた。妹の口もきゅっとすぼまる。ひどく酸っぱい。奇形はしょせん奇形なのか。 「ん。アップルパイにしましょうか」 やがて妹は朗らかに笑った。 「砂糖で煮て、シナモンを振って。お菓子にするなら酸っぱい方がいいんですよ」 「そうなのですか?」 「風味が出て、とても美味しいの。今度作って送りますね」 灰人の住所が遺品と共に妹の手へ渡る。箱を覗き込んだ妹は苦笑いだ。 「兄さんらしい。勉強道具ばっかり」 「あ、日記もあって……」 灰人も手を突っ込む。妹は日記帳を取り出し、数秒思案してから灰人に差し出した。 「持っていってください。多分、貴方に向けて書かれてるんでしょ?」 厚い日記帳を前に灰人は目を揺らす。 「……はい」 やがて、押しいただくようにして受け取った。 美味しいアップルパイはもうすぐだ。 (了)
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