ナレッジキューブを動力に変え、車輪を回し、ロストレイルが走る。 行く先にレールが敷かれ、車輪はレールの上をぐんぐん進む。 地上から海上へ、海上から空中へ、空中からディラックの空へ。 ブルーインブルーの真っ青な空に、ロストレイルは飛び立っていく。 蒼空に駆けるその姿に、かつて自らの世界の空にロストレイルを見た時の情景が思い起こされた。 そして「覚醒」を経てロストナンバーとなった時の決意に胸が震えた瞬間、その高鳴りは今も忘れていない。 この世界の向こうには何があるんだろう。 この列車はどんな世界に連れて行ってくれるんだろう。 この運命は何をもたらすのだろう。 そして。 この冒険では、自分は一体どんなことができるのだろう。 ロストナンバーとなったものの経緯はさまざまだが、ロストレイルはひとつの象徴であり、誰にでもあるひとつの「きっかけ」であった。 はるか頭上、高度を増したロストレイルの姿が消える。 ディラックの空へと移動したのだろう。 誰かが呟いた。「……やっぱ、こうやって地面から、空にあるロストレイルを見ると思い出すよなー」「そうだなー。最初、何かと思ったもんなー」 誰ともなしに相槌を打つ。 そして訪れる沈黙。 鳥の鳴き声が、風のそよぐ音が、虫の声までもが耳に染み入ってくる。 まだ夕日の時間ではないが、もう何十分もすれば夕焼けがまた綺麗だろう。 砂浜に座り込む。 あるいは水際に裸足で進む。 水にさらわれた砂が、足元をくすぐった。 ざざぁ……ん。 さざめく波は、否応なしに海の存在を語りかける。 雄大な海。 海水は生命を飲み込み、包み、自由を与える。 ブルーインブルーにおいて、その海の圧倒的存在感は揺るがない。 見渡せば。 そこは小さな島だった。 ブルーインブルーにしては珍しく放逐された地上だが、岩場がちな地上部と砂浜で成り立っているようで、資源らしきものは見当たらない。 島の中心から5分も歩けば砂浜、あるいは海岸に辿り着く事から島の直径は500メートルもないだろう。 少し小高い丘に登れば島の全景を見通すことができる。 見渡せば三百六十度の水平線。なんと素敵な自然だろうか。 今夜はほんの小さな問題など忘れ、このまま柔らかな砂の上で眠ってしまおう。 そう、とっても小さな問題。ほんの少し予定が狂ったことなど気にしない。 おなかすいたなぁ、とか。 喉かわいたなぁ、とか。 ぜーったい、蚊とかいるよね、とか。 パスホルダー以外はロストレイルの中なんだけど、とか。 ……今、出て行ったロストレイルに乗って帰るはずだった。なんて。 そんなことは、今、気にしても仕方がないのだ。 ほら、大空が赤く染まってきた。 綺麗な自然を見て、心を和ませようじゃないか。 でないと「置いてかれたー!」って叫んじゃいそうだし。
● 一日目、朝 序章 ざざーん、と波が打ち寄せては返す。 何度も何度も続くその数を数えたわけではないが、見飽きる程度には眺めていた。 ロストレイルを青空に見送ってから一夜があけ、太陽が空高くあがっているにも関わらずチェキータは、小さな猫の姿で木陰でごろごろと転がっていた。 背中に感じる砂はさくさくと心地よいし、潮風は頬に涼しいので、潮の影響で少し毛皮がべとべとしている以外は特に不満もない。 海に飛び込めば気持ちいいかも知れないが、その後で毛皮から塩を精製するのはごめんだった。 こんな状況はめったにないぞ、と知りつつも本能か何なのか、危険も獲物もあたりにないこの状況で、彼女がとった行動はやはり猫らしくにゃあと鳴いてのんびり寝転ぶことだった。 毛皮に日光があたる事を厭い木陰で眠る猫とは逆に、セルヒは太陽の下でうつ伏せに寝転がっている。 彼女は燦燦と降り注ぐ太陽を背に、甲羅干しをしていた。 陽光の下、浜辺での昼寝は例えようもないほどの心地よい眠気を与えてくれるが、油断は頭痛や眩暈、たまに過剰な日焼けという副産物をもたらす。 だから、この眠気に負けてはいけないのよセルヒ、と自分を叱咤する声を、まぁ結局、夢の中で繰り返していた。 要するに一人と一匹が昼寝でもしながら迎えを待つという選択肢を選んだわけで、ファーヴニールは腕を組んで考えていた。 あと一人、ロストナンバーがいる。 その彼女、フカ・マーシュランドも女性である。……らしい。どこで見分けていいのかよくわからない。 二足歩行する魚類、というのは彼の常識からすれば一般的に見るものではないが、サメとイルカを足して二で割ったような生物がすっくと立ち上がっている様はなかなかに圧巻であった。 そのフカ・マーシュランドもついさっき海へと還って……もとい、海を散策に出かけたため、ファーヴニールは話し相手に事欠いていた。 そこで彼はまず、状況を整理する。 置いていかれたのはどうやら、この小さな島を散策していたロストナンバー四名らしい。 うち一人はファーヴニール、男。つまり、彼のこと。 そして、木陰で寝ている猫。 砂浜で寝ている妙齢の女性。 最後にさっき紹介したフカである。 そこまで認識すると、男1で女性が3名と口にする。 そして彼は爽やかに「うん、よし。俺アウェイ!!」と笑顔を浮かべた。 ● 一日目、昼過ぎ チェキータ うにゃあ、と欠伸をしてチェキータは目を覚ます。 そして、そういえば朝御飯がまだだったとあたりを見渡した。 一緒にこの島にきたロストナンバー達の姿が見えないところを見ると、散策にでも行ったのだろうか。 ぐきゅうと鳴る自分のおなかの音を耳にして、彼女はぐぃーっと伸びをすると欠伸をひとつしてから、ゆっくりと立ち上がった。 ぴこぴこと尻尾を振り、島の中をこれまた適当に歩く。 耳をすましてみて、鼻の感覚を研ぎ澄ませてみても、野生動物特有の気配はまったくない。 ねずみくらいはいるかと思ったが、どうやら無人島ならぬ無生物島らしい。 野生の獣らしきものが生息している気配がない、つまり、餌になるようなものがない。 ならば空を飛ぶ海鳥でも捕まえることができればいいのだがと考えながら彼女は歩く。 何があって何がないのか。 真水、ない。食料あるいは獣類、ない。日陰になる程度の木、ある。 ヤシのような木があった。少ないが実もなっている。 武器、ない。おうち、ない。マタタビ、うにゃあ! もちろん、ない。 ぐるりと島を回って、それが間違っていないことを認識し、狩猟本能を満たせる機会はとても望めないことを知ると、彼女はにゃんてこったいとばかりに身悶えはじめた。 ● 一日目、夕方 セルヒ 「い、痛たたたたた……」 水着の跡もくっきりと、セルヒは背中に葉っぱをあててもだえていた。 燦々と降り注ぐ太陽を体いっぱいに浴び、迎えがくるまでは甲羅干しだと考えていた彼女にとって、まさか日が傾くまで迎えがこないことは予測のしようもなく、散々に振りそそいだ太陽の光は、彼女の体にくっきりと日焼けを作成した。 背中にあてたバナナの葉に似た大きな葉はひんやりとして気持ちよかったが、それがこすれるたび、彼女は「ひぃっ」と痛みに悶える。 「大丈夫っすかー?」と声をかけてくれたのはファーヴニール。 ただし、まぁうら若きとは言いがたい状態ではあるけれども、オトメがもろ肌脱いで日焼けに苦しんでいるところを、年頃の青年に見せるわけにはいかない。 「ええと、ファーヴニール? ストップ、そこから近づかないで。あ、ところで、水持ってないかしら? 喉が渇いたのだけれど」 「ええと、……ないかも。ポケットにコーラのグミ入ってたけど、食べます?」 「遠慮しておくわ。余計に喉が渇きそうだしね」 はーいと応えてファーヴニールが立ち去った事を確認し、彼女はふたたび大きな葉っぱに全身の痛みをゆだねる作業に戻った。 ● 一日目、日没 フカ・マーシュランド 「まったく…ちょっと狩りに出ている間に列車がいなくなっちまうなんてさ。世話が焼けるわよねぇ、ほんと。もう、ノートで連絡は取れてるんだから、心配する必要なんて無いわよね。迎えが来るまでは適当に時間を潰させてもらうさね。……つうかさ、さっきコレ仕留めて来たんだけど。アンタ等も食う?」 きょとんとするセルヒに喋りきったのは人間大の魚である。 いや、イルカやサメを彷彿とさせる姿からは海獣類というべきだろうか。 その彼女から食う? と差し出されたのはどうやら海産物らしい。 「……ええと、これ、何かしら」 セルヒの言葉通り、フカが差し出したものはサカナのような匂いを持っているが、なんかこう、ぶよぶよしていてぐにょっとしていてうにゃうにゃしていて、かつ、どろっとしていた。 「さぁ? 食べられるならいいんじゃない?」 「え、ええと、ちょっと遠慮しておこうかしら」 「そう?」 と、フカはそのうにょらうにょらした物を口にいれると一気に飲み込んだ。 愛想笑いをするセルヒも、フカが謎の物体Xを口にいれた瞬間は目を見張る。 まぁ、見た目通りに自分の常識で測れない相手なんだ、とセルヒは自分を納得させたようだった。 彼女も、ついでにその横で寝転んでいるファーヴニールも、丸一日経過してそろそろ元気がなくなっているようだ。 と言うより、なんだか病人のように……。 そこまで考えて、ふと、フカは思いついた事を口にした。 「アンタら、喉渇いてんじゃない? 大丈夫?」 こくり、と頷く二人。 その顔はやや青ざめているように見える。 「ああ、やっぱりね。見た感じ、此処いらには真水は無さそうだし……、どうしたもんかしらねぇ、私は海水飲んでも平気なんだけどさ。とりあえず、ご飯の方は私が海に潜れば何とかなるとしても……」 そこまで喋るとフカは二人がこちらを見つめていることに気づいた。 どうしたの? と問いかける。 「いや、……お気遣いいただいて、ありがとう」 「ん!? べ、別に気を遣っているとか、そんなわけじゃないわ。私は唯、あんた等に衰弱して欲しくないだけよ。こんな辺鄙な所だし、話し相手でもいないと退屈しちまうだろうしさ! ふ、ふんっ……」 ファーヴニールの頭に「ツンデレってやつかー」という言葉が浮かぶ。 それはそれとして、衰弱してほしくないという気持ちだけでも嬉しい。 残念ながら、ファーヴニールもセルヒも、脱水症状間近なくらい衰弱しているのだけれど。 ● 一日目、夜 チェキータ 「狩りの時間だー!」 彼女の小さな猫目は月明かりを受けて爛々と光っていた。 光っている理由は他にもある。 そう、これから狩りを行うのだ。 「狩りだ。狩るしかない!」 彼女は好物の獣。それも大型の海獣を発見していた。 あいにく陸上の生物はいなかったが、ならばと魚を狙って浅瀬へ向かった時に、大きな魚らしき影が移動する姿が見えた。 彼女の狩猟本能は一気に目覚めて眠気を吹き飛ばし、爪に毛皮にそして髭に爽快な緊張感を走らせた。 猫族の狩りである。 手の下にある肉球は彼女の移動を敵に悟らせない。 爛々と光った眼球は僅かな光量でも彼女に獲物の姿を映し知らせる。 爪は研ぎ澄まされ、髭はぴんと立っていた。 一歩、二歩。 獲物に襲い掛かっても逃げられない距離まで近づく、それまではひたすらガマンだ。 三歩、四歩。 獲物の魚はきょろきょろと落ち着かなさげにあたりを見渡している。 少しマズい。 こちらを見てくれるなと祈りつつ、彼女は歩を止めない。 五歩、六歩。 射程圏まで、あと二歩の距離、一歩の距離、……入った! 自分の射程距離に入ると、彼女は一気に走った。 小さな猫の姿が一瞬にして全長4メートル近いジャガーの姿へと変貌し、獲物の首に食らいつこうとしたその瞬間、獲物が体を沈めた。 意図して避けたのではないのだろう、偶然に身を屈めたところにたまたま攻撃がかすめただけか。 だが、その獲物は信じられないという顔でこちらを見つめていた。 しかし問題はない。 初動で捕まえられなかったからと言って、二撃目は確実に目の前の海獣を捕らえることができるはず。 彼女は再び腰を落とし、飛び掛る構えを取った。 「ちょ、ちょちょちょちょっ、ちょっと待ってよ、アンタ! 何!? 怪物なの? ってか、ロストナンバーじゃないの!?」 目の前の獲物が何か叫んでいるようだが、気にしない。 気にしな……え? 目の前でフカが激昂していた。 なんだかぴんと胸を張っているようだ。 「フザけんじゃないわよ!? この私を食べるつもり!? 上等じゃないの、やれるもんならやってごらんなさよ!」 と、言われたので。 ……やれるもんだろうからやってみようとしたら、人間二人に止められた。 ● 一日目、深夜 ファーヴニール 「あれ、起きてるの……?」 寝返りをうったセルヒは、膝を抱えて水平線を眺めていたファーヴニールに声をかけた。 うん、と応えた彼はヤシの実を転がすと、それを拾い上げて、セルヒに差し出す。 「さっきチェキータちゃんが取ってきてくれたんだ。野生のヤシの実はおいしくないけど、水分の補給くらいはできるよ」 そう言うと彼はヤシの実の頂点をあっさりと穿った。 セルヒの目からは一瞬、彼の腕が倍以上に太くなった気がしたけれど、きっと脱水症状による幻覚なのだろう。 礼を言って受け取り、セルヒはこくこくと実の中にある水分を喉に流し込む。 乾いた体にマズい水が染み渡っていき、じんじんとした全身の痺れと共に回復していくのが分かった。 ようやく人心地がついたとばかりに、彼女は深くため息をつく。 ところで、と話を切り出した。 「寝ている時に声が聞こえたけれど、あれは何かのおまじない?」 「……へ?」 「たしか、「鬱鬱鬱鬱鬱鬱」とか「諸行! 無常!」とか「メメント・モリ!」とか」 「幻聴です」 「え、でも……」 「幻聴です」 ファーヴニールはまっすぐな瞳で嘘をついた。 納得はできていないようだったが、セルヒはとりあえずそういう事にしておく。 視線をあげるとまだ暗い水平線、月明かりに照らされて白い波が見える。 風にそよぐ草木も、気の早い海鳥も、「なめんじゃないわよ!」とか「うにゃー!」とか言いながらどたばたしている巨大な猫とサメも見える。 「平和ねぇ」 「……いや、俺にはとてもそーは見えないんですが。おっと、もう少し寝たらどうですか? 脱水症状起こしてたら大変ですよ。もう少し飲んだら眠ってください。大丈夫、俺が見張りくらいしてますから」 微笑みを浮かべたファーヴニールの顔に、セルヒは微笑み返す。 今まで寝ていたところにもう一度横になった彼女は、 「そう? ……あ、そうそう。女の中に男が一人だけれど、変なことしたら帰れると思わないことね」 とだけ告げて、すぐに寝息を立て始めた。 「はいはい」とファーヴニールは呟くと、ヘンな事ねぇ、やっぱアウェイだなぁ、とクスクス笑った。 朝になったら日陰を見つけて少し眠ろうかな、と考える彼のそばでは、とうとうチェキータの爪がフカの喉元近くまで迫っていた。 ● 二日目、早朝 フカ・マーシュランド 「しかし待つ、つってもどんだけ時間が掛かるのかしらねぇ……。せいぜい、数時間ってとこかと思ってたら、……まさか数日とか……いや、まさかね」 朝日が照らす青い空を見つめ、そこにロストレイルの影がないことを確認すると、フカはもう一度、まさかね、と呟いた。 「まぁ、こんな状況は滅多にないんだ」とはチェキータの言葉。 今は人型をとっており、フカの横でヤシの実のジュースを飲んでいる。 ぐぐっと飲みきると彼女は空になった実を足元にそのまま落とす。 砂浜の上、ヤシの実はさくっと砂に落ちて転がった。 「それより狩りだ。狩りをしよう。肉がなければ、魚でいい。……おっと、その前に拠点確保かな。昨日は幸い雨がふらなかったけれど、せめて屋根があるところを探しておかないと、スコールでも来たら大変だ」 「そうねぇ。私は別にスコールでも何でも構わないけど、そういえば猫は水が嫌いなんだっけ? お風呂とかどうしてんのよ」 「失礼な。毛繕いは完璧だ」 とにかく、拠点を確保する必要がある、と結論づけるとフカはまだ眠っている人間二人を眺めた。 海で生活できる自分と違い、人間やこの猫にとっては快適な環境とは言いがたいに違いない。 自分が砂漠に放り出されたようなものかと思うとぞっとする話だ。 この二人が目覚めたら手分けして島の中で雨露をしのげる場所を探し、それがなさそうだったら木が何かを利用して作ってしまおう、と考える。 そこまで考えたところで。 「チェキータ、だっけ。あんた、わりと強いじゃない」 「君もな。獲物を狩りにいって、勝負になるとは思わなかった」 「勝負ぅ? ナメんじゃないわよ、重火器つかったらアンタなんて敵じゃないんだからねっ!」 「その時は重火器を使われないうちに狩るよ」 ばちっと視線がからみあったかと思うと、お互いの腕が伸びる。 その腕とヒレはクロスカウンターよろしくお互いのボディへ到達し、双方の拳は相手の腹部へ同時にめりこみ、そして二人は同時に大地へ沈んだ。 「はふぅ……」 争いの音がうるさかったのか、セルヒが目を覚まし、二人仲良く眠る姿を見て、ふっと微笑んだ。 「あら、一緒に寝るくらい仲良くなったのね。良かったわ」 ――と。 ●二日目、昼 セルヒ 岩がちな地形の中、小さな丘の上で折れた木々を拾い、即興で組み合わせて蔓で縛り上げる。 上に大ぶりの葉を広げてしまえば、即興で日差し程度は防げる簡易的な屋根となった。 ぱんぱんと手のほこりを払ったセルヒは、できたばかりの日陰で膝を抱えて座り込む。 さくさくと砂を踏む音がして、近づいてきたのは人間大のサメだった。 フカ・マーシュランドである。さすがに昨日で見慣れたこともあり、もう驚くこともない。 セルヒは膝をかかえていた手を頭の高さまであげ、力なく振った。 「あら、あんた。昨日は甲羅干ししてたのに、今日はヒキコモリなの?」 「ええ、海で遊ぶのも良いのだけど、この日差しの下に一日中は肌が大ピンチだもの。 大人になると色々と大変なのよ……」 肌のために簡易的な部屋を作ってしまうとは、とフカは感嘆する。 部屋といっても日差し以外は素通しに近い。雨でもふらなければいいのだけど、とセルヒは返事をかえした。 ふと、フカは木の隅に掘り込まれた猫型の彫刻に目をとめる。 猫――昨夜の決闘を思い出して顔をしかめた。 どうやらファーヴニールが家を建てるのを手伝う、と言って掘り込んだものらしい。 なんで彫刻……? と疑問符が浮かんだものの、とりあえず気にしないことにする。 「しかし」 フカは海の方を眺めた。 マリンブルーの海域は晴天の陽光を反射して、きらきらと光っている。 普段ならば、極上のバカンスを楽しむこともできただろう。 「……来ないわね……。マジで数日待たせる気じゃないわよね……?」 フカが示唆するのは迎えのロストレイルである。 すぐに迎えをよこす、という返事があってからすでに二回の朝を迎えた。 さすがに日干しになって全滅するまで音沙汰がないということもないだろうが、へたをすれば体調を崩すくらいの心配はするべきかも知れない。 体調、という言葉でふとフカは自分の腹を抑えた。 「……しっかし……、昨日、食ったやつだけでは全然足りないわ」 「ああ。あの……、……あの、何? どろどろの物体X?」 「何か食い応えのある大物とか狩れないかしらねぇ……たとえば、海魔のようなさ」 物体Xのぬるぬるした姿を思い出し、セルヒはあははと乾いた笑いを浮かべた。 ●二日目、夜 ファーヴニール ぱしゃぱしゃと水しぶきの音がする。 月明かりの下、チェキータは波に入り、小さな魚を手ではじいて捕らえていた。 猫というより熊の動きを連想させるが、俊敏さは桁が違う。 すばしこい小魚を楽々とはじきあげ、ついでに貝を掘り出している。 その姿を見つつファーヴニールは流れ着いた木屑に火を起こす。 ぱちぱちと燃える炎を見つめ、彼はふぅとため息をついた。 ざぱーんと波は打ち寄せる。 漁を終えた彼女はしとめた獲物をかき集める。 小魚ばかりだが、猫の姿のときの彼女一人分としては申し分がない。 チェキータが獲物を抱えるため、猫型から人型へと姿を変えたその背後、スイカ大ほどの軟体生物が海面から顔をあげた。 鮮やかな蛍光の紫をもったぬらぬらとした体表。オトナの頭ほどもあるアメフラシが海面へと躍り上がった。 襲われる! と本能で悟ったチェキータは身を翻し、逆に攻撃をしかける。 足場は悪いが飛び上がれば負けることはない。 ぬらぬらした紫のナマモノはただ、そこに浮かんでいた。 「頭を噛み砕いてやるー!」 「それ、噛み砕くと苦いよ。たまに毒あるし」 「にゃぁぁぁああああぁぁぁぁー!? に、苦い」 「あ、ごめん。遅かった」 ファーヴニールはぽりぽりと頭をかく。 海魔、と一口に言ってもその実力は様々だ。 今回のように、犬猫やコドモなら危ないかも知れない程度のものもたくさんいる。 ロストナンバー、特にチェキータくらいのレベルにしてみれば、まさに獲物だ。 一瞬、食えるかな? と迷いが浮かんだが、ぬらぬらした表面を目にして、ついでにじたばたする猫に目を移し、やっぱりやめておくことにした。 しかしそんなに海魔がいるのかと、注意のため目をこらして水平線を眺めた矢先のことだった。 遥か沖、月に照らされた水面に一艘の陰が見える。 「船だ!」 ファーヴニールは目を見開き、水平線の彼方、大海原を行く帆船に大きく手をふった。 おおいおおいと呼びかけてみるものの、船が進路を帰る気配は一向にない。 「くそっ、手を振るだけじゃ無理か……こうなったらっ!」 彼は大きく息を吸い力を貯める。 パスホルダーから彼のトラベルギア、ライフルの先に刃を取り付けた銃剣を取り出す。 刃を気にしなければ、ライフルとして使うことに問題はない。 ファーヴニールは即座に照準をつける。船体や帆に穴をあけるのはマズいと大砲に照準をあわせる。 何キロメートルも離れている以上、照準は無駄かも知れないが彼は細心の注意をこめた。 そして、叫ぶ。 「エンヴィアイ・ライフルモード! アクセラレイトショットッ!!」 海面を走った静電気がばちっと音をたて、どこからか「うにゃっ!?」と声が聞こえた。 彼のギアは、電界が弾丸に動力を与える電磁加速砲。 発射された弾頭は潮風を切り裂き、帆船へと向かう。 命中した箇所まではみえないが、命中したと信じたい。 ファーヴニールが必死に目を凝らして眺める先、帆船のポールにいくつもの帆があがりだす。 帆は風を受け止めて、船の方向を大きく変える。 「よし、気づいてくれた! 進路を変えてくれた!」 ブルーインブルーの商船には生き残る術がある。 攻撃されたら逃げる。それだけの単純なものだ。 そして、この場合。 「……うおおォォォォ! マッハで引き返していくゥゥゥ!?」 当然の状況に帰結した。 ●三日目、昼 フカ・マーシュランド 「まったくもう、そんな海魔がいたなら呼んでくれれば、あたしが食べるのに」 いやいや、紫でぬるぬるでぬらぬらだったんですけどと説明するファーヴニールに、それがなによ、と応じる。 彼がフカの目を見る限り、本当に食べるつもりだったようだ。 と、すると、そこらへんにまだ漂っていないかしらという言葉も本気らしい。 三日目の朝を迎え、さすがに一同の消耗は激しくなってきた。 とは言え、一応、海の生物であるフカ・マーシュランドにとってみれば、ブルーインブルーはそれほど過酷な環境でもないらしい。 そういえば気軽に海へと入り、何かしら行っている。 今朝も休日のブランチよ、と魚や貝、海草を並べ、自身も魚を丸呑みしていた。 どうやらメンバーの中で一人、フカはまだまだ元気らしい。 「シャワー浴びたいなー」と口にしたセルヒに、フカは「海に水はいっぱいあるわよ」と返答する。 「海は素敵なのだけど、潮風で肌や髪がベトベトするのは困り物なのよ。0世界に帰ったらシャワー浴びたい。あと絶対にエステに行かなきゃ。シミが出来たら最悪だもの」 「甲羅干ししてた人のいうセリフ?」 「女には色々あるのよ」 「あたしも一応、うら若きオトメなのにっ」 漫才のような会話をして、二人は同時に笑い出す。 種も、美の基準も違えど、綺麗になる手段については乙女の会話は共通らしい。 すぐに保湿がどうの、ケアがどうのという話になる。 女性とはいえ、チェキータの方は昼寝中。オトメにもいろいろあるようだった。 「それにしても、魚も美味しいんだけど肉が食べたい気分」 セルヒがふと口にする。 視線の先をおいかけると海鳥が岩場にとまっていた。 食料の乏しい島は海鳥の棲息所というほどの環境ではなかったが、陸地が希少なブルーインブルーのこと、こんな島も休憩所として海鳥には需要があるらしい。 アァ、アァと鳴く鳥を指差し、セルヒは一同を見回す。 「ほら、鳥肉!鳥肉が飛んでる! 石投げて射落とすから、誰か海に拾いに行ってくれないかしら」 言うが早いか、彼女は本当に小石を拾うと「えいっ!」と放り出した。 小石はぐんぐん伸び、ついには海鳥へと到達する。 アオッと悲鳴があがり、海鳥は岩場から海へと落下した。 「へぇ、やるじゃない」 「私の特技なの。投げられるものは大体、目標にあてられるわ。相手が逃げない限りね。それより、フカ。今の海鳥、捕まえてこれる?」 いいけどスカスカでほとんど身がないと思うわよーといいつつ、フカは海へと進み出た。 その後ろ姿を見送り、セルヒはいそいそと料理の準備を始める。 「上手くお肉が採れたら焼き鳥にしましょ。生鳥が捌けなくても羽を毟って丸焼きにしちゃえばいいのよ。火なんてモノクルをレンズとして光を集めれば楽勝」 ぴんと指を立てて、モノクルで太陽の光を集める実験まで開始する。 程なくして戻ってきたフカが「ダメねー、海魔に捕られたわ」と口にした直後、セルヒの顔色は怒りに染まった。 ●三日目、深夜 猫と鱶 激戦は程なくして続いていた。 戦慄は闘争心へと変わり、不意打ちの恐怖はぞくぞくとした武者震いへと変わる。 鉄と爪が交差する音が響き、俊敏な足音は砂浜にいくつもの足跡を刻み込む。 見飽きたとばかりに欠伸するファーヴニールや、すでに眠っているセルヒがいても。 そして、何より相手がロストナンバーだと分かっていても。 「そこに獲物がいる! もう狩るしか! 狩りだ! 狩りの時間だ! にゃー!」 「だから、あんたの獲物じゃないっての。私だって相手が猫とあっちゃ、手加減なんかしないわよ!」 銃声や火薬の匂いがしはじめたら、止めに入ったほうがいいのかなー、と、やんわり考えるファーヴニール。 彼がぼーっと空を見上げると、満点の星空が目に飛び込んできた。 「あ。今、気づいた。ブルーインブルーも夜空って綺麗なんだなー」 ファーヴニールは一人、呟く。 「えものー!」 「ちがうってのに!」 聞こえてくる喧騒さえ気にしないことにすれば、かなり気持ちのいい島だった。 とりあえず、あちらでじゃれあっている猫と鮫がいるなら、今夜はぐっすり眠ってもいいだろうか。 あふぅ、と彼は欠伸を繰り返す。 潮風は髪を揺らして気持ちいい。 星は瞬き、月はゆらゆらと柔らかい光を浮かべ、ロストレイルの明かりが夜空を駆けている。 「……なんだ、ただのロストレイルか…………。ロストレイルゥー!?」 彼は立ち上がり、トラベルギアを取り出すと銃撃を試みようとして、昨日、船に逃げられたことを思い出し銃口をおろすと、パスホルダーからノートを取り出し、エアメールで司書へと文字を飛ばした。 「たった今、頭の上を通り過ぎましたよ。と」 数分後、了解という文字が浮かんできた事を確認し、彼は座りなおす。 いつのまにかケンカしている音が聞こえなくなったと思ったら、セルヒがチェキータの首根っこを捕まえ、説教をしていた。 「あなた、まだ若いから分からないかも知れないけれど、睡眠不足っていうのはね!」 確かにお化粧のノリが全然違うからねぇ、と彼はくすくす笑う。 どうやら三日間の「バカンス」も、そろそろ終わりを迎えるらしい。 それを伝えることができるのは……、とりあえずセルヒの説教が終わってからだろうか。 ●四日目、朝 於、ロストレイル 「生きるって……凄いね! マジ凄いねッ……!!」 迎えに出てきた車掌の手をとると、ファーヴニールは感情をこめまくった感想を述べた。 このままだとあの紫の海魔を食べなきゃいけないのかと戦慄したことも、すぐに思い出に変わるだろう。 セルヒに首根っこを抑えられておとなしくなっているチェキータに、フカがウィンクを決める。 「あんた、なかなかやるわね。今度は手加減しないわよ。コロッセオでもどこでも相手になったげるから、いつでも勝負を申し込みにくるといいわ」 こくこくと頷くチェキータ。 セルヒはと言えば、シャワーがないならとおしぼりを要求し、体を拭き始めている。 飛び立ったロストレイルの窓から、無人島が見下ろせた。 あそこで三日過ごしたんだなーという感慨と、改めて不毛の島でよくやっていけたものだと思い返す。 何となく。 またブルーインブルーで休暇を取れたら、また行ってみようかなと。 そんな事も考えながら。
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