ナラゴニアとの戦争後、チェス盤は樹海へと変わった。どこまでも広がる木々、それは誰もが知る植物から、知らないものまででたらめな法則で生えている。地面の感触は土で、掘れるようだが、掘ったところでどうなるかはわからず、水場はなく、生物もいない。 静寂に包まれたそこに潜む影があった。 世界樹旅団側に属する数名は捕獲されることもなく、混乱する戦場からこの樹海へと逃亡し、既に数日が経っているが樹海から出てこないところを見ると和解に応じる気も低い様だ。 とはいえ、今の状態では異世界から逃亡することもできず、ましてや世界樹はあの状態……ターミナルから出られないが、危険な存在をそのまま放置し、せっかく復興に向かう者たちに害がないとも限らない。 そうした理由から樹海の探索隊が結成された。 今回、それに応じたのは白虎が人化したような白藍、鼠の金星、翼人の朱洛、人間のラッキーだ。獣の嗅覚と視覚、聴覚を発揮して、かなり奥まで進むことに成功した。それらの情報は随時、ノートに書き込まれ、樹海の地図の作製にもあてられた。「本当に静かだなぁ。これだとピクニックにもいいかもねぇ」「ラッキー、あなたって、どうしてそう能天気なのちゅかぁ!」 ラッキーの肩に乗ってぷんぷんと金星が怒る。「二人とも……しかし、空から探索している朱洛からのノート連絡では、あまり変化はないようだな。一度、ターミナルに……っ!」「愚者の回転木馬」 どこからかその言葉が発せられたのか、白藍にはわからなかったが一瞬にして声に視界がぐにゃぁと音をたてて歪み、それにあわせてどこからかしゅん、しゅんしゅんと鈴の音が聞こえて聴覚を支配する。 まるで回転木馬に乗ったように世界がぐるぐると回転するが、そのスピードばどんどん増していき、酔ったときのようなひどい吐き気がこみあげてきた。嗅覚に頼ろうにも、周りは木々の匂いしかしないため己がどこにいるのか知りえる助けにはならない。次の瞬間、白藍のわき腹に衝撃が走った。「っ!」 見ると、背後に黒い――ふっしゅうー。何か漏れ出すような吐息。ざっしゅ! ――勢いよく白藍のわき腹からサーベルが引き抜かれ、血が溢れだす。「白藍!」「金星ちゃん、待って……うっわー、まるでホラーゲームみたいなんだけど」 肩に金星を庇って対峙したラッキーの顔が強張る。それはまさに全身を黒装束……ヘルメット、ゴーグルの双方に輝く赤い光、ガスマスク、軍服、軍靴に包ませた人型の化物だった。 それはラッキーまで間合いを詰めると、片手に持つサーベルを伸ばす。間一髪でラッキーが避けるが、もう片方の手が伸びて、腕に隠された隠し刃がラッキーのわき腹を掠めた。「ちゅううう!」 金星が吼え、飛びかかった。彼女のトラベルギアの針が巨大化して、その化物の片腕を突き刺す。 しかし。 その化物は片腕が引きちり……ざらぁ。なんと腕の中身は砂だった。それが零れ落ちても気にせず、金星を蹴り飛ばして気絶させると地面に落ちた片腕を拾い上げるとくっつけた。数秒で腕は元の状態に戻ってしまっていた。 それを空で見ていた朱洛が慌てて降りようとしたとき、木のてっぺんまでくると、ぐんっと体が重くなった。「っ!」 ありえない重力が朱洛の体にのしかかる。しゅらん、しゅらんと鈴の音がまるで嘲笑う様に耳に響く。「私は、視覚、聴覚、それ以外にも感覚に関する者が操れるんですよ。すいませんねぇ。ターミナルの愚か者さんたち」 堕ちていくなかで聞いた声。地面に落ちた朱洛の双翼は乱暴に地面に串刺しにされた。悲鳴すらあげられず、朱洛は意識を失わせた。 数秒ののちに探索隊を全滅させた黒服の化物と、黄色と赤の派手なピエロ衣装に笑った仮面をつけた二人だけが立っていた。 彼らは世界樹旅団の残党であり、未だに樹海に隠れていた者たちだ。「クロさん、その人間と虎はワームを呼び寄せる餌にしましょうか。残りのこの鳥と鼠は、追っ手たちの餌に。では、はじめましょうか」☆ ☆ ☆「言葉はかなり悪いが残党狩りだ」 黒猫にゃんこ――現在は三十代のダンディな男性になっているのは、重々しく告げた。「せっかくの復興を邪魔されたらたまったものじゃない。説明したように今の状況で投降せずに潜んでいるということはまだ戦う意志がある、もしくはこちら側との歩み寄りに対して否定的ということだ。お前たちは彼らをすみやかに発見後、どういう手段にしろ無効化させてもらいたい。もちろん、生きたまま捕獲できればいいが、それも難しいだろうから最悪の手段も考えておけ」 導きの書を黒は撫でて説明した。「今回、樹海の探索にあたっていたチーム、金星、白藍、ラッキー、朱洛との連絡がとれなくなった。そのあと、ノートにこんな挑発文が届いた」『はやく取り返さなくては、彼ら全員の命はありません。どうぞ。私たちの宴におこしくださいませ。世界樹旅団のピエロことアルルカンより』「お前たちへの依頼は、こいつらの無効化、さらに人質にとられているだろう四名のうち二名である金星と朱洛の保護だ。正直、こんなことをしてくるってことはそれそうとうに自信があるのか、酔狂なのか、はたまた……なにかたくらんでいるのか知らんが、気を付けてくれ。あいつらがいるだろう場所はラッキーたちが樹海の地図の製作が途絶えたところだろうから、頼む」
無秩序に生い茂る木々がどこまでも果てしなく広がる樹海の中を歩くのはそれだけで精神にも肉体にも疲労を覚えるものだ。 今回は樹海を探索ではなく、目的地がはっきりしているぶんだけまだマシなのかもしれないが、依頼を引き受けた五人の女性陣……まだうら若き彼女たちの顔は暗い茂みのなかを歩くせいか、憂鬱に見えた。 特にセリカ・カミシロンの顔は緊張に強張り、暗い。これまでに出会った旅団員のことを思えばこうなることは予想出来ていた。簡単に和睦できるほどに二つの組織の溝は浅いものではない。しかし、それでもやりきれず、どうしてと恨めしさを覚えてしまう。 いきなり肩を掴まれたセリカは思考の渦から現実に引き戻された。振り返ると可愛らしい人形のようなジューンが立っていた。 「大丈夫ですか? セリカ様」 「え、ええ」 「そろそろ目的地につくので、桂花様が作戦会議をしたいとのことです」 「わかったわ、ありがとう」 セリカは胸に抱える気持ちを上手に底へと封じて気丈に微笑み、仲間たちの元へと歩いて行った。 臼木桂花は樹海のなかでもいつものスーツ姿に険しい顔でこの場に集まったセリカ、ジューン、黒いドレスの死の魔女、鮮やかな衣服の華月を見た。 この依頼は女性のみ、更には見た目だけとはいえ自分が一番年上だと判断した桂花は無意識にもリーダーシップを発揮する。今までの仕事の経験からか桂花の声は自然と他の仲間たちが耳を傾ける力を持っていた。 「ジューンさん、ここ周辺の状況ってわかるかしら?」 「はい。本件を特記事項β6、ゲリラ襲撃による人質殺傷事件に該当すると認定。リミッターオフ、ゲリラに対する殺傷コード解除、事件解決優先コードA7、保安部提出記録収集開始……周辺のサーチを開始します。……樹上の人質2人の内、1人が重体です。何らかの手段を取らない限りゲリラとの交戦中に死亡する可能性があります。樹上人質の周囲に1体、人質の居る木の下に1体のゲリラを確認。地上に居るゲリラに通常の生命反応を認めません。特殊能力を持ったクリーチャーの可能性があります」 「ありがとう。助かるわ。この場で治癒能力があるのは……私だけなのね? だったら私が捕まっている二人に治癒弾を撃つわ。それで戦闘中ぐらいは保つでしょ?」 「あの、私も、応急手当の道具を持ってきてきたの。樹に登ることも考えて、体にくくりつけているんだけど」 セリカが言うと桂花が頷いた。 「木登りできるの?」 「子供のころに何度か……けど、やるわ。ほっておくことはできないもの」 「わかったわ。敵は私が弾を撃ったら、こっちに向かってくると思うの。その間にお願いできるかしら? 出来るだけ敵を引き離して挟み討ちにする予定だけど、セリカさん、貴女が危険なのは変わりはないわよ」 「ええ。みんなのことを信頼してるわ。人質は任せて」 「あのっ、敵がもしセリカさんを攻撃しようとした場合は、私の結界で守ることが出来れば」 華月が穏やかに、セリカを励ますように言うとセリカは微笑み返す。 「そうだ。敵がどんなものかわからないし、ノートを書く暇がないかもみしれないから、一応、これを用意しておいたの」 桂花が差し出したのはイヤークリップ型無線機が四つ。――何度か同じ依頼を引き受けた桂花はジューンに無線機が内臓されていることを知っていた。 「ジューンさん、確か無線機関係の技術があったわよね? これで貴女がみんなに指示を出せるようにしてほしいの」 黙っていたジューンのピンク色の瞳がどこか虚空を見つめて呟く。 「桂花様、ですが、セリカ様は細かい機器が御得意ではないとのことでしたので、皆様分のヘッドセットタイプ無線機を私も用意しました。こちらでしたらイヤークリップ型より耐久性に優れていますが、どうでしょうか?」 「そうなの? そうね、セリカさん、あなたのことを考えるとジューンさんが用意してくれたもののほうがいいわね?」 桂花とジューンの気遣いにセリカは申し訳なさそうに口を開いた。 「出来れば、テレパシーの能力を使用したいと思うんだけど、いけないかしら? ……敵の近くなら無線機から漏れる音や声でばれてしまう可能性があるでしょう。それに、本当にごめんなさい。そういう機械類と私、相性が悪いみたいで、触っているとどうしても気分が悪くなってしまうの」 「そう、体質的なものは仕方ないわね……テレパシーのほうががやりやすいならセリカさんの判断に任せるわ」 「桂花さん、ありがとう。ジューンさんもいろいろと気を使ってくれて、華月さんも、ありがとう……私自身、バリアを張れるから出来る限り自分と人質のことは一人で対応するつもりよ。そうなると敵と戦うことをみんなに任せてしまうけど」 セリカの言葉に桂花は頷いた。 「人質を守るのは大切な仕事よ。十分な働きだわ……敵との戦いたけど、ジューンさん、華月さん、私は火炎弾、氷結弾で対抗するつもりよ。長距離だし、敵のことも考えれば誤射もあると思うの、すぐに治癒弾を撃ってフォローするつもりだけど、いまのうちに謝っておくわ」 「長距離からの戦闘におけるリスクは承諾しました。アンドロイドはコロニー内での近接戦闘しか想定されておりません。私は戦闘開始後に全力でゲリラに接敵、電磁波及び電撃を使用し鎮圧します。殲滅、捕獲については皆様の判断に従います」 「私も、槍だから接近戦になると思うわ。ジューンさんや桂花さんの足を引っ張らないように気を付けるわ。その、出来れば彼らを渡しの結界で捕獲出来ればいいと思っているのだけれど」 「あら、気が合うわね。私もそのつもりよ」 桂花が眼鏡越しに若葉のような瞳でセリカを見る。セリカは力強く頷いた。 「私は、……捕獲したいわ。彼らを。人質も無事に救いたい」 「あらあら、みなさん、それでいいのかしら? ケラケラケラ!」 今まで沈黙を守っていた死の魔女が黒いドレスの裾を引いて優雅に笑った。 「私、世界図書館と旅団、仲良くやっていけると思っておりましたの。けれどお友達になれない人がいて残念ですわ。ですから、私からお友達に御誘いしてあげるつもりなんですわ! ケラケラケラ!」 死の魔女の告げるお友達――それは死体を彼女の魔法によって動かす状態を指している。滴り落ちた血のような瞳には今回の敵を生きたまま捕獲しようという気持ちは微塵もない。 「あらあら、私、みなさんのお気持ちに反論するつもりはございませんわ。説得もしてみますわ。一応……けれど、だめでしたら、仕方ありませんわよねぇ? こんなところで朽ちていくよりは私のお友達にしたほうがよろしいと思いますわ! ケラケラ!」 不吉な笑みと言葉を漏らす死の魔女に若干の不安はあれ、依頼に臨む個々の考えは自由でなので誰も口出しはしない。なによりも捕獲したくとも出来ない場合は、彼女のような覚悟をはじめから持っている者が一人でもいたほうが心強い。 ぱんっと桂花は手を叩いた。 「さ、行きましょう。それぞれ出来ることをしに」 まるで人のように瞬くジューンの瞳。その華奢な身を包むひらひらの可愛らしいメイド服は森のなかではいささか異質なはずなのになぜか樹海とマッチしていた。その横を歩く華月は緊張した面持ちで、死の魔女はどこか退屈げな眼差しを向けている。 「地上部に落とし穴その他のトラップは存在しません」 それは傍にいる二人以外にも、単独行動をとっている桂花は無線で、またテレパシー能力者であるセリカは華月、桂花の許可を得て心を繋ぎ、今の情報を手に入れてもいるはずだ。 『じゃ、行くわよ……!』 桂花が緊張を孕んだ声で告げた。 ぱん、ぱん、ぱん――静寂の森にヒステリックな悲鳴のような爆発音が轟く。 桂花が治癒弾で吊るされた金星と朱洛を撃ったのだ。気絶している二人は撃たれたところで目覚める気配はない。それでも多少なりとも顔色が良くなったことを桂花は確認すると目標から背を向けた。 「ポチ、頑張って吠えなさいよ!」 肩に乗っているポチを叱咤しながら全速力で駆ける。 敵はあれだけの挑発文を送るのだから絶対に強い。下手したらすぐに追いつかれる……! そもそも司書から聞くと今回の探索隊は戦闘面ではかなり強いメンツばかりだったはずだ。そんな彼らが、それも獣人が多い構成ということはそれだけ五感も鋭く、森のなかでは有効に作用したはずが、あっさりと倒された 「五感が鋭い、もしかして……!」 桂花の前に風が吹いて、ポチが吼えた。 「――っ!」 緑の葉が渦を巻きながらぱさぱさと落ちていくなかに黒い影が見えた。 しまった、そう思ったときには黒いそれが迫ってきていた。 「っ!」 桂花はトラベルギアの引き金を引く。それは腰のサーベルを抜くと火炎弾を弾き、さらに身を低くして間合いを詰める。直接攻撃では負けると判断した桂花は凍結弾を地面に撃つ。凍りついた地面に黒いそれの動きが鈍った。その隙をついて桂花はバックステップ。それは凍った地面に拳を撃ちつけて薄い氷を粉々に打ち砕くとしゅうううと音をたてて顔をあげ、手を大きく振った。とたんに銀の刃が――細い無数の鉄の矢が桂花の薄肌を切り裂く。 「こんちくしょうがぁ!」 獣のように、痛みの熱に全身を燃やして桂花は吼えると弾丸を連続で撃つ。撃つ、撃つ。破裂、破裂、破裂。 炎は踊り、舞い、叫ぶ。 黒いそれはサーベルを振りあげ、一発目を引き裂くが二発、三発の弾丸は見事に命中。 熱風に弾かれて桂花は地面に転がると、息も絶え絶えに起き上がってそれを睨んだ。業火の如く燃える炎に包まれた黒い影は立っていた。 「冗談でしょう?」 ポチが必死に吼えている。――しゅうぅ。黒いそれは――黒いヘルメット、ガスマスク、黒い軍服のような衣服に赤い目を光らせて桂花を捕えていた。 桂花は下唇を噛みしめると火炎弾をまき散らしながら駆けだした。 「本物の化物……っ!」 弾丸を合図に華月、ジューン、死の魔女は駆けだした。 桂花の銃弾に敵の一人は確実にそちらへと向かったはずだ。残り一人が人質を見張っているのを別の方向から人質のところに向かうセリカのためにも時間稼ぎと足止めをする必要がある。 樹の前まで来ると華月は警戒しながら周りを見回し、ジューンのピンクの瞳もまた周囲を見回す。 「敵はどこに」 「今サーチを」 「ふふ、あらあら、そんな手間はいりませんわ。さぁて、私の可愛いお友達さんたち、遊んできなさい」 死の魔女は唇を吊り上げると、スカートの裾を持ち上げた。そこから大量の黒蝙蝠たちが現れる。 黒い渦を巻いて蝙蝠たちがゆらゆらと揺れて踊るなか……しゃん、しゃんしゃん。どこからか人を嘲るような鈴の音が響いた。 「愚者の回転木馬」 華月は足元に五芒星の陣を出現させて他者の術を遮断する結界を展開していたが、そこにぐらっと自分の周辺が揺らぐのを感じた。しゅらん、しゅら、ん、しゅらららん――ぐるぐるぐると目に見える光景が回転し、耳に響く鈴の音と樹海のなかだというのに無臭、何を頼りにすればいいのかと混乱した。 「華月様!」 どこか遠く、鈴の音の果てに華月はジューンの声を聞いた。気がした。とたんに激痛が右腕を襲う。 「っ!」 さらに足にも広がる痛みに華月は一瞬怯みかけて、咄嗟に目を閉じて己の弱い心を叱咤する。すると、不思議なことに痛みが消えた。 これは、違う。まがいものだわ! 旅団の力は世界図書館のように制限がなく、強力なパワーはときとしてロストナンバーの予想を越えて襲ってくることもあるそうだ。 暗示、もしくはそれに似た術。結界は物理的なものを防ぐことに重きを置いているので、あとは己自身の心の持ちようで術をはね飛ばすことが出来るはずだ。 冷静に、目を閉ざして、肌で感じるままを受け取る。しかし、敵の気配がまるで読めない。 「敵は華月様の右20度3mです……反撃を!」 ジューンの声に華月はトラベルギアの槍を手に持つと、それにありったけの結界の力を持たせて突く。 そっと華月が目を開けると、嘲笑っていた世界は停止し、音はなく、匂いもあった。 今までにないものが現れたとすればそれは数匹の黒い蝙蝠を足元に倒したピエロだった。 「貴方が……アルルカン?」 「招待を受け取っていただけたようでなによりです。余興を少しは楽しんでいただけましたかぁ? お嬢さん」 華月は漆黒の槍に握る手に力をこめた。 「しかし、困りましたねぇ。私の技が効きづらいようで、そして、そちらのお嬢さんには効かないようだ、ふふ、生物ではないですね」 「私は機械です。感覚はありません、全ては計測の結果です」 ジューンは淡々と応える。 「ケラケラ! なんですの、今のは! 既にあらゆる感覚が死んでいる私の何を狂わせるとおっしゃるのかしらねぇ?」 死の魔女が挑発するのにピエロは合点いったように頷いた。 「うむ。機械と死体とは、こちらの分が悪いですねぇ」 少しも困った様子はなく、ピエロはさも演技がかった態度でわざとらしく片手を頬にあてて首を傾げた。 「私達は優しい優しい世界図書館ですから、あなたに選択する権利を差し上げますわ。ここで私達に始末されるか、連行されてから始末されるか、お好きな方を選ぶが宜しいのですわ。何ならここですぐにでも自決して頂いて結構ですわよ? 手間が省けて大助かりなのですわ」 それは説得というにはあまりにも乱暴な挑発に、ピエロは首を傾げたまま困ったように肩を揺すった。 「つまりはなにをしてもあなた方は私たちを殺すということですねぇ。それでしたら殺されないように努力しましょう。ただ殺されるのはこちらとしてもいやなので」 「ケラケラ! そんな努力なんてなさらなくても結構ですわよ! 今スグ私のお友達にしてさしあげますわ!」 「死の魔女さん! 待って、私たちは」 華月が口を開こうとしたときには既に何もかも遅かった。ピエロはもう他者の言葉に耳を傾ける気はないらしく、かわりにしゃらんっと鈴の音が嘲笑うように響いた。 死の魔女は笑いながらピエロを指差して蝙蝠たちに命令を下す。 「さぁ、可愛い私のペットさんたち。ごはんの時間ですわ」 しゃん、しゃん、しゃん……鈴の音が響く。 「愚者の観覧車」 「あらあら、なんですの! 今度はどんな芸を見せてくださるのかしら! まぁ!」 蝙蝠たちがいきなり何かに引っ張られるようにして地面に落ちていく。それにピエロは無感動に片手に握るフラフープのような、丸く、鈴のついたそれを鳴らす。 ピエロが笑う。 とたんにジューン、死の魔女は予想もしない、本来はない五感を味わった。 「二人とも、どうしたの!」 はじめは不意打ちを食らった華月はもう術にかからないためにも結界を強化して難を逃れたが二人は違った。 ジューンと死の魔女が戸惑う。その眼は遠く樹海の果てを見つめ、肌は空気の冷たさに震え、嗅覚は多くの香りに混乱をしていた。 いま、二人は五感を味わっていた。それも通常の数十倍の濃厚さで全身を支配する。 セリカは樹のところまでくると、深呼吸をひとつしてよじ登り始めた。仲間たちが敵を引きつけている間に人質たちの安全を確保するという重大な役目が今の細い両肩にのしかかっていると思うと自然と身が引き締まる。 子供のころのおぼろげな記憶と経験だけを頼りに登るのは正直、かなり無茶な話だ。手袋をした手が滑るのに思わず指先に力をいれると爪に痛みが走る。必死に樹にしがみついた状態で足を動かし、腰を浮かして這いあがる姿はとても人に見せられない。 ようやく小枝のところまでくると、一度そこに身を預ける。テレパシーで繋がった仲間たちの声がセリカにはちゃんと聞こえていた。桂花の焦りと興奮、華月の不安が聴こえてくると自分はなにをしているのかと焦燥感に押しつぶされそうになる。 今スグに駆けだしたい衝動を理性でねじ伏せる。いくら桂花の治癒弾に撃たれたといってもこのまま吊るされていては金星と朱洛の命にかかわる。そう思えば目先のことばかりに目を向けてはいられない。 「私が、やらなくっちゃ!」 けれど、仲間の声を聞くと我慢できない。 華月の困惑にセリカは視線を下に向けた。 ピエロとそれと対峙した仲間たち。なにをしているのかは遠目ではよくわからないが、セリカはたまらず声をかける。 (しっかりして! 敵は目の前よ!) 敵の姿と弱弱しい鈴の音を華月越しに理解したセリカはすぐにピエロの持つその鈴のついた不思議な物に注目した。 「もしかして、あれが……?」 セリカは拳を握りしめる。 トラベルギアで放たれたるレーザーは、この木の上からでは届くかはかなりの賭けだ。 「いちかばちか!」 セリカは呼吸を整えると枝の上に立つと腰を落とし、じっとアルルカンを睨みつける。 「いけぇ!」 白く唸る一撃が木々のなかを蛇のように曲がりくねりながら飛び、アルルカンの武器を半分に打ち砕くことに成功した。 (桂花さん! お願い) (華月さん、いまよ!) 託すように叫び、セリカ自身は人質に向かって渾身の力を振り絞って進んでいく。 (金星さん、朱洛さん……! 返事をして!) 弾丸が飛び、アルルカンの肩を突き刺した。一瞬にして氷結した腕にアルルカンが振り返る。木々のなかから突撃してきたのは桂花だ。その後ろを追う黒いそれ――クロは地面を蹴って飛ぶと容赦なく、足を狙って斬る。 血が飛び散り、桂花が倒れるがクロはトドメを刺さず、アルルカンに駆け寄った。ふらつくその身体を片腕で支える。 「はぁ!」 華月の槍が飛ぶのにクロは手に持っていたサーベルを真っ直ぐに構えて突く。 一瞬の剣戟。 槍と刃が互いの刃を交わし、逸れ、停止。が、華月の槍は伸びる。それにクロはサーベルを素早く持ち直し、上に弾く。 「っ!」 クロはサーベルを華月に投げる。予想外の攻撃に華月は身を強張らせ、肩に刃がかすめた。 ふっしゅー。 「クロ、さん? すいません……今のうちに彼女たちを、私は樹の上にいるお嬢さんを始末します」 ふっしゅうー。 クロはアルルカンを腕から名残惜しげに離すと構え、華月たちに突撃した。 「させないわよっ!」 桂花がトラベルギアを構えるのに、割れた鈴の音が響く。不愉快な音に桂花の視界がぐるぐると回り始めた。 「悪いけど、躊躇うつもりはないのっ。ポチっ」 ポチが吼える方向に桂花は引き金をひく。アルルカンは間一髪で火炎弾を避けたが腕を掠めたのに仮面越しに焦りの舌打ちを漏らした。動きが鈍いのは片腕が撃たれ、凍っているせいだ。 桂花は息も絶え絶えに立ち上がると笑った。 「石に齧りついてでもアンタに負けを認めさせてやるわよっ!」 「勇ましいお嬢さんだ」 「お嬢さんなんて御世辞は結構よ。悪いけど、アンタたちを捕まえてターミナルに連れて戻るわ。いいように死なれるつもりはないわよっ!」 「……そうして、見せしめに殺すと? あの黒いドレスのお嬢さんが言いましたが、ターミナルの人たちは私たちよりも趣味が悪い。負けた者の生死すら自分たちの権利だと?」 アルルカンは心底うんざりとした口調で、再び鈴を鳴らし始めた。 「私はね、あなたたちみたいな人が嫌いなんですよ。殺されるよりもずっとね。どう死のうが、どう生きようが、それくらい、自由にさせていただきます」 ぎりぎりのところで避けきったと思ったが、髪の毛がさっと数本切れて宙に落ちる。すぐさまにトラベルギアの槍を握りしめて突く。クロは避けない。一撃を胸で受け止め、迫ってくる。 ざらぁ。なんと槍の刺した傷口からは砂が溢れているのだ。それも刺した感触はまるでかたい地面を突いたような、そんな手ごたえのなさ。 「攻撃が効かないっ!」 驚愕の声をあげる華月にクロが迫ってくる。咄嗟に結界を自分の顔の前に張り、守る。がんっ! 自分をぶつことはないとわかっていても振り上げられた拳の重みに身が震える。それも赤い目は華月を見下ろし、何度となく振り下ろされる。打撃が効果ないと判断するとクロは片足をあげた。その踵に刃がついているのにさすがの華月も危機を覚えた。 「くっ!」 クロの肉体を突いたトラベルギアを力任せに抜くと一瞬だけ迷った。このまま避けるべきか、それとも攻撃するべきか。 迫ってくる刃に華月は覚悟を決めた。 「はいゃあああ!」 切迫の声。 トラベルギアに結界を纏わせて踵落しを弾き、進む銀狼のような刃は真っ直ぐにクロの腹を狙う。 クロは避けずにその重い一撃を我が身で受けた。まるでたかい壁と壁がぶつかりあうような激しい衝動。 クロの身がゆらっと揺れたあと、大きく片腕をあげて華月を殴りつけ地面に倒すと自分の身に刺さったトラベルギアを無造作に引き抜くと乱暴に二つに折って投げ捨てた。 「っ!」 華月は瞠目してその様子を見つめ、すぐにクロに視線を移した。赤い双方の眼が迫ってくる。 「華月さん、仲間に結界を張ってください」 すっと華月の前に出たのは死の魔女だ。 「この場にいる全員に、今スグにしてくださいですわ」 「は、はい!」 何度か落ちかけて擦り傷だらけになったセリカはようやく人質に辿りつくと、必死に逆さずりになっている金星、朱洛を引っ張って枝に座らせた。それだけでもふらふらだが、すぐに体にくくりつけた応急手当セットで傷の手当てをしていく。 「二人ともしっかり! もう大丈夫よ!」 金星が薄らと目を開けた。 「……セリカさん?」 「金星さん!」 「心で、あなたの声、聞こえていたわ。ありがとう」 再び金星が意識を失うが、その声に励まされたセリカは自分のなかから力が湧きだすのを感じた。 片腕をあげて、自分と彼らを包む結界を展開すると、そっと二人の手を握りしめる。 「大丈夫よ。私が絶対に守る。ターミナルにみんな一緒に帰るのよ」 「666ページ。死を恐れよ、死は幸いなり」 華月が結界を張ったのを確認した死の魔女は一人舞台に立った役者のように朗々とした声で告げる。それは禁断の書の一節。聞いた者の恐怖を与え動きを止め、最悪心が死ぬという危険なものだ。しかしクロは迷わず動く。 「あらあら、効きの方ですわねぇ! ふふ、特殊と思いましたけど、五感のほとんど作用してないのですわね。ケラケラ! ああ、だからあのピエロさんと一緒に行動していたわけですわね。けれどお連れ様はそうではないようね?」 死の魔女の嘲る眼にクロは踵返した。 アルルカンの動きが一瞬とはいえ止まるのに、ジューンは迷わず突撃すると腹部を手刀で打撃し引き裂く。 しゅらんと鈴の音が響く。 「愚者のっ、人形劇!」 「私には効きません」 更に折らないように細心の注意を払って頸椎を打撃する。 しゅらんっと鈴の音を響かせてアルルカンが倒れる。クロは死の魔女の攻撃を中断し、すぐさまにアルルカンに飛ぶが、その身体を包む――結界があった。 「やった、のね?」 桂花が荒い息で尋ねた。 「結界に、二人とも別々に封じることに成功したわ」 ふらふらと華月はアルルカンとクロのそれぞれ閉じ込めた結界に歩いていく。その目には不安と恐怖、憐れみが宿っていた。 「貴方たちを世界図書館へ連れて行くわ」 結界のなかのクロは拳を打って抵抗しつづける。それに倒れていたアルルカンがゆっくりと動いた。 ジューンの一撃は昏倒を狙ってのものだったのに、アルルカンは咄嗟に己の痛覚を消し去ったのだ。それでも引き裂かれた肉体ではとてもまともに動くのは不可能だ。真っ赤に血塗られたピエロは砕けた仮面から見える口元に笑みを浮かべる。 「それで、あなたたちの好きに殺されるわけですねぇ。それくらいならここで自害を選ばせていただきましょうか」 「違います! 聞いて、私達は!」 「ああ、クロさん、すいません。あなたと一緒に死んであげると約束したのに果たせなくて……愚者の、サーカス」 アルルカンは自分の首に鈴のついた半分壊された武器の尖った箇所を迷うことなく首に押し当てると切り裂く。 真っ赤な血が結界を満たす。 「あ……!」 華月は絶句する耳にクロが叫ぶように結界を打ち続ける音が木霊する。 「そんなっ」 がっつんと激しい音がして華月は振り返った。 「結界が……意識集中が途切れたから、」 戦闘中に結界とトラベルギアの合わせ技を使用した疲労と混乱がくわわった結果、クロの捕えていた結界に穴が、彼は片腕を刃に変えて薄い膜を硝子のように叩き割るとアルルカンの前に駆け、その前に立つと構える。 ざらぁ。 クロの片手が砂を吐き捨てる。まるでそれが彼の血か、涙のように。 砂は瞬時に刃に変わり、華月に振り下ろされる。 「っのぉ!」 桂花の火炎弾と氷結弾を放つタイミングでジューンが華月の体にかぶさり、その場に倒れて庇う。 「中身は砂だとしたら、氷結弾で動きを封じれるわよね?」 「ケラケラ! まぁ、そんな生ぬるいですわ! こんなものでも最低限の仲間意識はおありなのでしたら、慈悲深い私が最後のトドメを」 「待って!」 死の魔女が禁断の書を開こうとするのに華月は叫んだ。 ジューンの腕から立ち上がった華月は震えながらクロと向き合った。赤い双方はじっと華月を見つめる。 「私たちは、貴方達が否定しない限りは、私たちもするつもりはないわ。受け入れ、たいの。まだ、まだ間に合うわ。その人を助けたいなら、お願い」 華月の言葉にクロは動きを止めてアルルカンを一瞥したあと、一歩前に出ると腕を突きだした。華月は拳を握りしめてじっとクロを見つめる。彼女の前まで伸びた砂の刃は、鼻先に触れるぎりぎりで止まった。 華月の瞳と赤い目の視線が空中でぶつかり、クロの刃はゆっくりと退いた。 「桂花さん、急いで、治癒弾を」 「わかっているわ!」 桂花の治癒弾にクロが一瞬だけ警戒したように身を強張らせたが、華月と見つめ合った状態で動かない。 「結界を張るわ。ここではまともな治療は出来ないから……それで少しでも傷の進行を遅らせるわ」 よく見れば炎と氷、更に槍の穴と服はかなり破けて、砂もちらちらと零れ落ちているのでかなりの深手であるクロは黙ったまま――しゃべる手段がもしかすればないのかもしれない。アルルカンの体に寄り添うのは自分も同じ結界のなかにはいりたいと言っているようで、華月は黙って二人を結界のなかに優しく包み込んだ。 「みんな! 無事? ……旅団は?」 セリカは目を覚ました朱洛と協力して金星を運び、木から降りてきた。セリカの眼が結界を見つめ、問うような視線を投げかける。 「皆様、総意の捕獲でした」 ジューンが答えた。
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