それをセリカ・カミシロが知ったのは、すでに依頼を受けた者たちが出発したあとだった。「インヤンガイで……理沙子が、キサが……」 言葉として口から出すことでようやく認知する。 とたんに心臓が痛くなった。呼吸が苦しい。必死に自分を落ち着ける。しかし手が震えた。「まだ、まだ間に合う! 私も、私も行くわ!」 セリカは声を荒らげる。 司書の黒猫にゃんこ――三十代の男性の黒は顔をしかめた。「既に依頼を受けた者たちが向かった」「お願い! 行かせて!」「だめだ。お前には危険だ」「……っ、だって、だって、私は……私は決めたの。理沙子、キサ、それにハワードさんの一家を守るって、誓ったのよ!」 興奮しすぎて自分で必死に抑えようとしているのに涙がこみ上げて、零れ落ちた。 黒が危険だと口にしたのは自分が強くないから? それだったらこんなにも悔しいことはない。今まで何度も自分の弱さに嫌気を覚えたが、今ほど自分自身が許せない。 怒りはすぐに諦念に変わった。 いくらきつく拳を握りしめても、自分はここにいるしかできない。「……チケットを、手配して、黒」「セリカ?」「私、行かなくちゃいけないの」 セリカは空色の瞳で黒を見つめた。 インヤンガイ、ハワード・アデル邸。 セリカが咄嗟に思ったのはハワードのことだ。だって、あの人は、理沙子がいなければ獣になるしかないって 門の前までくると空気を震わせる殺気にセリカは気が付いた。 呼吸が苦しくなるほどの威圧と怖気。 セリカは震えながら進んで、庭に転がる男たちを見た。「あっ」 死んでは、ない。まだ セリカは震えながら先に進む。本能は逃げろと告げる先の、先―― 庭に狼がいた。 否、人だ。 --ハワードのことをあなたに頼んだら、きっと大丈夫と思うの --私が死んだら、あなたにハワードのこと愛してほしいってお願いしたのよ --だって、彼、弱いもの 高級なスーツ姿に、片腕にはアサルトライフルを持った男が立っていた。そのまわりには倒れた人間。 セリカは目を離さずに見た。 たった一人立ち尽くしているハワード・アデルは微笑んだ。「次に狼に食われるのはお嬢さん、君かい?」 銃口が真っ直ぐに向けられる。――狼が牙を剥く。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>セリカ・カミシロ(cmmh2120)=========
錆びついた鉄の擦りあう音が殺意にも似た沈黙のなかに微かに響く。 セリカ・カミシロはじっと目の前の狼を見ていた。 向けられ底なし沼のような銃口、しかし、不思議なくらい恐怖心は湧いてこなかった。 弱いんだ。 何度も理沙子が口にしていた言葉をようやくセリカは実感する。彼は弱いのだ。悲しいくらいに。 テレパシー能力のあるセリカには目の前の狼の傷が見える。孤独と絶望の黒い雨に降られて濡れぼそり、一匹で寂しく立ち尽くして、暴れまわるしか出来なくて、傷つける牙と爪しかもったなくて。 肌がぴりりっと痛いほどの殺気は心細い遠吠えに聞こえた。 戻って。ひとに、もどってきて。 おねがい まだ、間に合うから セリカは切実に呼びかける。 言葉よりも心を、牙を剥く狼に向けて。心の声を狼は良く磨いた爪でひっかいた。爆発音のあとセリカの右頬に痛みが走る。 銃弾が擦れて滴る血と焼け焦げた熱に体がみっともなく震えた。 しっかりして、私の体! セリカは自分の弱い身体を叱咤する。怯えないで、進んで、あの人のところまで! セリカは目を逸らさない。ギアを、両手からゆっくりとした動作ではずして、地面に投げ捨てた。これがあるから狼は怯えるのだ。これ以上傷つくことを、痛みを味わうことを否定して。 殴られたら痛い。それを知っているから殴られる前に相手を殴ってしまう。 急ぎすぎてはいけないと焦がれる気持ちを理性で押さえつけて、じりじりと近づいていく。再びの爆発が、セリカの足元に落ちた。 大丈夫。 セリカは口元に笑みを浮かべて、狼の牙に触れた。鉄と火の混じった香り、手の平に火傷しそうな痛みが襲うが、セリカは表情にそれを出さないように努めた。牙を奪われることに狼はささやかな抵抗を示したが、ゆっくりと手のなかから滑り落ちていく。 銃を地面に捨てたセリカは狼の震える体をしっかりと抱きしめた。細い両手では折れてしまいそうなくらいに力をこめる。 ありがとう 狼は人に戻ることをいやがるように、セリカの小さな肉体を両手でしっかりと抱きしめた。呼吸すら奪われるような強い抱擁にこめられた気持ちをセリカは静かに受け入れた。 どれくらいそうしていたのか。ようやく呼吸が苦しくないほどの抱擁の力が緩んで彼は顔をあげた。 「あの、この周りの人たちは」 遠慮がちにセリカはようやく理性の色を瞳に宿したハワードに問うた。まだ生きているのだから放置しておくわけにはいかない。 「……部下だ」 「え」 「……殺してやろと思った。私の邪魔をするから」 ハワードはぼんやりと答える。 「私は魔術で武器を構成するが、それは霊力を魔力に変えてのことだ。他から奪うのが一番効率がいい……すべて殺しつくしてやろうと思ったんだが」 ハワードはセリカを離すと倒れている部下を見て懐から携帯電話を取り出すとどこから連絡をいれた。すぐにスーツ姿とラフな姿の男の二人組が現れて倒れている彼らを抱き起して、病院に連れていくと告げた。 「お前は」 男の片方――ロイドは以前、依頼で顔を会わせたことがあった。彼は険しい顔をしてセリカの頬に無遠慮に触れた。 「いたっ」 「手当しておけよ」 「ええ」 「ありがとう、お姫様。あんた、強いな」 「私は、お姫様じゃないわ」 むっとセリカは言い返すとロイドは笑った。 「悪かったよ、セリカ。……気をつけろよ」 警告にセリカは黙って頷いた。 セリカはハワードを連れて屋敷のなかに戻った。居間に入るとソファに座ってもらい、勝手知った台所でミルクティーを淹れた。 ソファに腰かけているハワードのもとに行くと、一瞥ののち目を伏せて無視される。セリカはめげずにハワードの前に腰をかがめて、その手にカップを握らせる。 「飲んでください」 ハワードが無言なのに、その手にぎゅっと力をいれる。 「落ち着きますから」 ハワードはその言葉に観念したようにカップに口をつけた。ゆっくりと、舐めるように飲む横にセリカは腰かける。 「私、依頼には間に合わなかったの」 セリカはぽつりと告げる。 「けど、かわりに仲間が向かってる。だから、もう少しだけ待ってください……私たちを信じて、ここにいてください」 「……裏切ったら」 ぽつりとハワードは告げる。 「君を殺してもいいのかい、お嬢さん」 九月のサフィアのような透明な瞳に射抜かれて、セリカは震え上がった。 「ここまでしてもらって十分だ」 空っぽのカップをハワードは持ったまま立ち上がるのにセリカはあわててその背に追いすがって声をあげた。 「私は、邪魔ですか! 一緒にいさせてください。どういう結果になるかを待たせてください」 ハワードは背を向けたままだ。 「ハワードさん?」 訝しく思うセリカにハワードは肩を揺すって嗤いながら振り返った。 「私の先ほど言ったことが君には理解できたかな?」 「!」 「私がその気になれば、君を殺せる。だからここにいないほうがいい」 いま、ハワードが自分になにをしたのか、セリカは察した。自分の体の、決して口にできない秘密を彼はあえて指摘した。背を向けたままでいたのは、その確認のためだ。 かっと頬に熱が集まる。痛いというよりも、苦しい。 怒りがわいてこないのは狼が怯えているからだ。自分よりも強く、賢いというのに臆病でそのために逃げようとしている。 「います、ここに」 「セリカ」 「ここにいます。だって……私たち旅人は、インヤンガイや、あなたたち家族に不幸をもたらしてばかりだわ」 「責任を?」 セリカはピンク色の唇を噛みしめて、首を横に振る。 「少しは、感じて、いるわ……けど、そういうのじゃないの。ここにいるのは、私は、私は……嬉しかったの」 理沙子が信じてくれたことが ハワードが受け入れてくれたことが 私はこんな体だから、きっと一生一人でいるしかなくて、途方もない孤独も、なにもかも仕方ないのだと受け入れた。 そうして諦める言い訳を口にして、無理やりにでも納得するしかなかった。でなければ何を憎めばいいのか、恨めばいいのか、行き場のない絶望と憎悪のぶつけ先がわからず、きっと世界というものを乱暴に壊したいと願っていただろう。 それをひっくるめて、理沙子は抱きしめてくれた。あのときの親愛のキスをセリカを覚えている。 だから、ここにいる。 私でもぬくもりを知って、それを大切にして、感じながらも、生きていいのだと思わせてくれた、光を与えてくれたその恩に少しでも報いたい。 それは義務や責任とはもっと違う、セリカの思いだ。 「私は、この家の幸せを守りたいって思うから、……前よりずっと、ずっと強く……いまも感じてる」 セリカは笑う。 この言葉以上に気持ちをハワードに向けて流し込む。もしかしたら、まだ激しく否定してくるかもしれないけれど、それでも諦めない。 もう諦めるための言い訳を口にしたくないから 「あなたを守りたいから……悩んだの。私なんかじゃきっと邪魔だって思った。けど、今ならわかるの。あなたを人でいられるように、孤独にしないように」 「知った口を叩くな!」 怒気を孕んだ声が空気を震わせてハワードはセリカを睨みつける。 「護るだと? ろくに……そんな体でか! 私はいつでもお前を殺せるのに! 私が人をやめようと、お前に関わりがあるか!」 「あるわ。私は、そばにいるって決めたの」 セリカの言葉にハワードは虚を突かれた顔をして次に険しいものになった。 「お前が何になれる」 「剣にも、盾にも、傘にも、私に出来ることなら何にでもなる」 「私の力で簡単に砕けるのにかっ!」 「強くなるわ。私……もっと強くなるわ。自分のためじゃなくて、今はあなたを守れるために強くなりたいって思うから」 空色の目を逸らさずに、セリカが訴えつづけると、不意に世界はぐるりと回転する。 食器の割れる音が悲鳴のように響く。 ソファに押し倒されたセリカの金の髪が蜘蛛の巣のように広がり、胸には小型の銃が冷ややかに押し当てられる。 セリカは目をぱちぱちと瞬かせて、自分に覆いかぶさるハワードを見た。 「私は、ひどい男だ」 「ハワードさん」 「私は、自分の大切なものに害があるならば、否定し続ける。違うな。私は自分が可愛いのさ。そのために戦うことを放棄して、安易な道へと進む」 「人は誰でもそうするものです」 ハワードが傷ついているのは自分の弱さのせいだ。 己の弱さへの嫌悪の痛みをセリカは正しく理解できる。自分が弱くて後悔することはいっぱいあったから。 「泣かないでください」 セリカはハワードの頬に手を添えた。ハワードはみっともないくらい震えていた。 「私がいます。ここにいます。あなたが人でいられるように、私は、あなたに殺されません……絶対に」 「なら」 絞り出すようにハワードは呟く。 「もし、きみを殺すなら、きみの手で殺してくれ」 ずるずるとハワードは力を失って、セリカの体に沈んだ。もうなんの役にも立たない武器を自ら放棄して、怯えた子供のようにセリカにすがりつく。 セリカは両手でハワードを優しく抱擁した。 あなたが大事。 とても大事。その気持ちをわかってほしい。それだけわかってくれればうれしい。口に出したいのに、言葉が出てこない…… もどかしい。 いまセリカは心しかたあげられるものがなくて。ハワードは言葉と武器しかもたなくて。 セリカの胸を熱い雨が濡らす。それをセリカは全身が受け止める。 誰かを傷つける力より、守る力がほしい。自分のためではなくて、この人のために。 それがセリカを進ませる。 誰かを思うのは力だ。 独りよがりかもしれない、けれど、それでもいい。私は私の気持ちをちゃんと貫く。 今、抱くぬくもりを守ろう。震える背中を撫で、さらりとした髪の毛を慈しみながらセリカは思う。私は覚醒したとき、絶望した。けれどそれも今のためだったのだと理解すると歓びすら感じられる。 嫉妬も、絶望も、悲しみも、苦しみも、全部受け止めたい。ううん、受け止める。 だからセリカは笑えるのだ。いま。 不思議と今までの苦しみをすんなりと受け入れる事が出来るのはハワードがいるからに他ならない。 「私がここにいます。ずっと、います」 セリカはハワードの額にそっと己の額をあて祈るように囁く。童話の赤ずきんが狼をあっさりと信じたのは、ただ信じたかったから。 「誓います。私はあなたに殺されない、そばにいます。あなたを守ります」 誓いの口づけを落としてセリカは目を閉ざす。狼は黙っていたが僅かに笑った気配がした。優しい口づけが返された。信じよう、と。 永遠にも等しい時間をセリカはあえて笑顔で通した。ハワードは何も言わなかった。赤ずきんを食べて空腹を満たした狼のようにセリカがするように任せた。その間にハワードはぽつぽつとセリカに自分のこれまで辿った道を語った。両親が殺されてからの不幸の嵐、奴隷のように虐げられるなかで才能を見いだされてアデル家に引き取られ、復讐に復讐を繰り返した人生。 「私にとって力は力だったんだ。けれど時間が経つうちに理解した。……なにもないということは虚しい。君は昔の私のようで見ていてハラハラした」 「そう、だったのね」 「君は私より強かったが」 「そんなことないわ、それは……あなたがいたから」 ハワードは微笑んだのにセリカも微笑んだ。そのときノートに連絡がはいったのにセリカはあわてて開く。 「連絡が! 行きましょう」 「セリカ、その前に聞いておきたい」 「え、あ、はい?」 「私のそばにいて、守ってほしい。どういう結果であろうと……私は、私の願いはたった一つ、せめて人として生きて死にたい」 「ハワードさん」 「ハワードで結構。今後さんづけで呼ぶ場合は、そうだな、いっぱいキスを送ろう」 「え、ええ」 慌てるセリカを笑いながらハワードは立ち上がった。 「行かなくては」 「私も、一緒に行きます。一緒にいます」 セリカはハワードの手を励ますように握りしめた。 「一緒に、考えます。私は誰かのかわりにはなれません。けれどあなたの苦しみや痛みを、私のものとして受け入れて、一緒に悩みます。それが解決できるまで……私を、信じてください」 「ありがとう」 玄関に進んだセリカは、外に出るのに一応、自分の姿を点検しようとして壁につるされた小さな鏡を覗いて、それを見た――自分の頭上に煌いては消える、儚い真理数を。
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