セリカ・カミシロの人生において無力と後悔は常に同時にしかかってくる重い岩のような存在だ。 セリカは無力だ。だからいつもなにか選択するたびに力不足で失敗を、もしくはそれと同じだけの満足のない結果にへこたれてしまう。それが自分が高すぎる理想を求めたせいだとはまだ気が付いていない。努力は常に一定の評価を得られるものだと信じて疑わない彼女は全力で走っていく。そうするしかない、のもある。 今日もまた殴られたような憂鬱な顔をしてベンチに腰かけていた。白い床を睨むように見つけると奥がツンと痛んで溢れそうになる涙を押しとどめた。喉の奥にのしかかる小骨のような不愉快さを必死に嚥下しようとして失敗していた。 血を失った白皙の頬にぴとっと冷たいものが触れてびくっとセリカは震えて顔をあげた。振り返るとロイドが缶ジュースを差し出した。 「あ、ありがとう」 枯れた草のような弱弱しい礼を述べてセリカはそれを受け取った。 ロイドは横に腰かけると、自分の缶を開けてさもおいしそうに飲む。砂漠を旅する旅人のようにセリカの目も唇も心も飢えて水を欲していたが、どうしても手にあるそれを飲む気が起きない。 「帰らないのか?」 「私は、ここにいるって決めたの」 「お前がここにいる必要性ってあるのか?」 「……」 痛いところに爪をたてられたようにセリカは押し黙る。 キサは依頼にあたった仲間の尽力により世界図書館に保護されることとなった。 セリカは何度かアデル家に訪れていたが、欠片の宿ったキサは十六歳くらいの女の子になっていた。白黒のドレスに長い髪の毛のひと房だけまだらの、今にも泣きそうな女の子はずっと仲間たちの背に隠れてハワードを恐れてうかがっていた。ハワードの瞳はサフィアのように無感動な透明色で、娘に何か声をかけたり、一瞥することもなく理沙子を病院まで運んでいった。 親子なのに 瞼の裏によみがえった光景にひどく複雑なものがこみあげてくる。親と子だからといって理解しあい愛し支え合えるのは幻想であることぐらいは様々な依頼をこなして理解している。 けれどセリカの理想の幸せが詰まったアデル家では、そんなことは起こってほしくなかった。 仲間たちがキサを連れてロストレイルに乗り込むのを見送って、インヤンガイに残ったのは少しでも彼らの役に立とうと考えたからだ。自分ならできると思った。けれどそれは子どもが甘い砂糖菓子を食べることを夢見るような幻想に過ぎない。 ハワードは理沙子の病院を決めたあと、多忙を極めて滅多に会っていない。 危険だからと帰還を促されても居つくセリカにハワードは何も言わない。その背を必死に追いかけたが追いつくことは出来なかった。唯一、出来るのはハワードが一日に一度は訪れる理沙子の面会時間に病院のフロアで待つだけ。 「ハワードさんは、私のこと信用してないのかしら」 「信用とかじゃなくて今は忙しいし、あれについてはマダムの自業自得」 マダムというのは理沙子のことだ。 セリカはじっとロイドを見た。ロイドは歯を見せて笑った。 「こうなることはわかってマダムはあえて行動したんだ」 「どういう意味、それ」 セリカはようやく戦う者の目でロイドに挑む。 「理沙子は、彼女は子どもを守ろうとしたのよ。それは仕方のないことだわ」 「マダムは、子どもじゃなくてボスを選ぶべきだったのさ。仕方がない? 本当にそうか?」 セリカは拳を握りしめた。 「うちのボスの性格を知ってるだろう」 「……」 「よく考えてみろよ、俺たちみたいなマフィア組織を束ねてるんだ」 「それは、ハワードさんがすごいから」 「けど、人間だ。叩かれれば痛い。平気な顔をしていてもな」 セリカは押し黙る。 飲めよ、とロイドが促すのに爪をアルミ製の小さな輪っかにひっかけて弾こうとして失敗した。眉根を寄せると、爪の端が先ほどの衝撃で捻じれた形で剥がれて刃のように尖っていた。じりじりとした痛みが襲うが幸いにも血は出てないし、切ればなんら問題はない。自分もまたこんな存在なのだろうか。血は出ない、痛みはあるが容易く切り離すことのできる。セリカはそっと指を口に含んで、歯で爪を噛み切った。改めて歪んだ爪の形を見つめる。 ロイドは笑ってセリカの手から缶を取ると封を切って差し出しすのを受け取り、口つけた。 「ハワードさんが……理沙子を監禁まがいに、病院に閉じ込めているのはそのせいなの?」 セリカは憂鬱に俯く。 病院に入ったあとの理沙子に会っていない。一命をとりとめて、個室に移されたがそこを教えられなかった。いくら知りたい、介護させてほしいと言われてもハワードは否定した。最上階の個室に理沙子はいるらしいが、部屋から出ていないように思える。 いまのハワードは理沙子に近づくものを許せないのだ。にげてしまった理沙子も、その原因も 「親子なのに」 「だからだろう? 俺はびっくりしたね。あのキサを見たとき」 「どうして」 「ボスに似てる」 即答されてセリカはますます困った。 「それっていけないこと」 「これは俺の想像だけど、ボスにとっちゃ、あんまりうれしくないと思うぜ」 問おうとしたときロイドが立ち上がったのに首を動かすとハワードが面会を終えて帰ってきたのにセリカも立ち上がる。 「ハワードさん」 「このあとの会議の資料はそろっているか? ロイド」 セリカを無視してハワードは尋ねる。セリカは押し黙って下唇を噛んだ。 「用意してます。ただ、ボス、そろそろ、セリカのことに気にかけてやってください。この娘はずっとあなたの傍にいる」 ハワードは眉根を寄せてロイドを睨んだ。 「一応、俺、口説いてるんで、かっこつけさせてくださいよ」 「私をダシに使うとはいい覚悟だな」 ロイドの軽口にハワードは肩を揺すった。 「セリカ嬢、君はそろそろ帰るべきところに帰りなさい」 「か、帰りません」 セリカはハワードと目を合わせると緊張したまま答えた。 「私は、ここにいます。ここにいたいと言いました。護りたいとも……そのために、私自身がどういう立場になっても構いません」 たとえ世界図書館と対立したとしても。 「……煉火が死んだ」 セリカは目を瞬かせる。 「五大マフィアの一角である黒耀重工のボスだ。君たちの仲間が殺した。……武器密売をしていたあの組織がなくなり、雇われていた傭兵たちは暴れ出し、経済にもかなりのダメージを受けていくつかの街では地獄と化してる」 「それは」 「私が、君たちに娘のことを守ってくれと頼み、結果煉火を殺した。本来、火の粉は振り払ったあと、正式な会を開いて彼女を裁くつもりだったが……私が直接的原因ではないにしろ、依頼したせいでこうなった以上、他の組織から責任を払うように迫られている」 セリカは拳を握りしめた。 「なら、私が、私が謝罪を」 「謝罪がなんの役に立つ。殺し合いを止められるか? 欲望に満ちた人間を満たせるか。意味のないことだ。それに私は責任を払う立場だ」 セリカは何も言えなくなった。 「ここは危険なんだ。私も、立場的に危うい」 「ボス、そんなことは俺たちがさせません」 ロイドの声にハワードは嘆息した。 「……いつ戦争が起こっても不思議ではない。ただで殺されてやるつもりはないが、私のところが武装したとなれば他組織の火薬庫に火をつけるだけだろう」 武力放棄宣言をしている手前、自衛以上の武装を許されないヴェルシーナは戦争となればもっとも不利だ。 セリカはこの先のことを思う。何が出来るだろうかと。 「私は私のするべきこと、さらには家族を守ることで精いっぱいでセリカ、君を守ることはできない。それに……理沙子のことを言えば、彼女は私を裏切った。あの子は私に、皮肉なことだが似ていた。髪、目、顔立ちも……理沙子に似てくれればいいものを」 「ハワードさん」 「あの子を見るたびに私は私の最も嫌いだと思うところを見るのだろう。あの子が私の子であるがゆえに……私はそんなもの、耐えられない」 「そんなこと」 「理沙子の子だから愛そうとした。しかし、あの子は私の血も継いで、理沙子は私よりも優先する」 セリカの理解を超えた嫌悪だ。 人と人を繋ぐ絆は美しいものだけではない。ときとして鎖のように、重みとなってのしかかる。 血が繋がっているからこそ許せない。 似てしまったからこそ憎んでしまう。 ハワードは理沙子に対する今回の一件で覚えた不信、娘が自分に似ていたことへの同族嫌悪にも等しいものを覚えていた。 ハワードが自分の娘に目を向けなかったのはせめてもの理性だったのか、それとも逃げだったのかはセリカにはわからない。 本来、キサが普通に成長するなかで直面するべき問題を欠片のせいでハワードはなんの準備もなく向き合った。さらに理沙子が裏切ったというタイミングも悪かった。 ハワードが今娘に感じるのは憎悪もしくは嫌悪だ。 本来母性や父性は子を育てながら作るものだ。 理沙子もハワードも家族縁が薄かった。不幸ゆえの無知と足りなさを補うべき時間の解決も、互いの信頼を欠落してしまっている。また組織同士が揺れて、それをなんとか抑えようとするハワード自身は多忙と危険にさらされている。 「ハワードさん」 「理沙子は私とともに咎めを背負う必要はない。それはキサもだ。あの子は君たちに渡してよかったのかもしれない。私自身は不愉快でたまらないがね……会議の時間だ」 セリカは颯爽と歩き出すハワードの背を見つめた。 「けど、私は、私は何があってもあの人たちの味方でいたい。護りたい。もし、もし出来るならハワードさんたちの言葉をキサちゃんに届けるわ」 「セリカ」 「私一人じゃ無理でも、きっと協力してくれる人がいるから連絡をとろうと思うの」 セリカは気丈に笑うとロイドは眉根を寄せた。 「自分で動くならともかく……知らない奴が関わったらボスもマダムも、あんたのこと信頼しなくなると思うぜ」 「そんなこと」 「俺らはお前らの信頼してない」 ずばりと言われてセリカは口ごもる。 「個人的な問題に赤の他人が関わってきたら、それこそお前がぺらぺらとしゃべったてことだろう? そんなおしゃべりなやつに秘密話してばらされたら困るからな。お前は覚悟しても、その協力するやつらはお前みたいに覚悟しているのか? 自分に出来ることをまずは考えたほうがいいと思うぜ、まぁ、がんばるのはいいことだけどさ」 「私はお姫様、じゃないもの」 「それで、俺がもしここで協力するっていったらデートしてくれるわけか?」 セリカが唖然としているのにロイドは笑ってその腰を抱いて顔を覗き込んだ。 「俺は組織の人間だから他人事じゃないし、それに口説いてるっていっただろう?」 「冗談はやめて。私はアデル家の味方よ。どんなことになっても。けど再帰属できるとか考えては」 キサが真理数を失って自分が得たことの罪悪感、キサのが戻るなら私のをあげてもいいと思う。私はいいの。どんな結果でもこの一家を守ると決めたから。 「あなただってイェイナは」 「元気だよ。直接会っちゃいないが、病院で自立支援も受けてだいぶ回復したてのは聞いた。あいつは俺のこと、一生憎んで、それを糧に生きる。俺はあいつの人生をずっと支えるし、責任はとる。それが俺の罪だが貪欲だからな。別の意味で俺もいかれてるのかもしれないな」 セリカの複雑な顔をするとロイドは肩を揺すって嗤うと耳元に唇をあてた。 「考えておいてよ、お姫さま」 「っ」 ロイドはさっさとセリカを解放した。 「飲み物奢ったお礼分は今度な。さてと、そろそろ行かないと」 からからとロイドは笑って歩きだしたがすぐに足を止めて振り返った。 「こないのか?」 「え」 「このあと会社寄って家に帰るだけだし。飯作ってくれよ。ボスが食べるかもしれないし、俺も腹が減ってるんだ」 セリカはいびつな形をした爪の指を睨んで、すぐに拳を作り、歩き出した。
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