零世界・ターミナル。 明るい光に包まれた陽気な街中をある者は仲間たちと遊ぶため、ある者は新たな依頼のため、またある者はささやかな休日を過ごすため……大勢の人が各々の目的を持って煉瓦作りの道を闊歩する、とても賑やかな通り。 セリカ・カミシロは指定したカフェ前で落ち着きなく首を左右に振って待ち合わせの相手がいつ来てもすぐに見つけられるようにと心がけた。 ――オイ、どっち見てんダヨ ジャック・ハートの無遠慮な、けれどセリカにとっては気さくさと優しさ溢れるテレパシーが脳に届いたのにセリカは首を上にあげた。 ――ジャック! ジャックはなんとセリカの右斜め上の街灯の上で、にやにやと笑って見下ろしていた。その顔は悪戯が成功したやんちゃな男の子みたいだ。 ジャックはすぐにセリカの前に転移する。 わざと片膝をついて、燃えるような一輪の赤薔薇を差し出した。片目をつぶってウィンクをする派手な演出が実に様になっている。 「今日はデェトのお誘いとは嬉しいゼェ」 「ち、ちがうわよ!」 セリカは真っ赤になって憤慨するが、すぐに口元に笑みを浮かべる。戦いのときは勇ましいが普段はこうして派手な演出で笑わせて、支えてくれる。今だってジャックの態度に緊張が一気に解けてしまった。 ジャックは立ち上がると、肩を揺すって笑った。 「受け取ってくれヨナ?」 「……ありがとう」 セリカは薔薇を受け取ってそっと匂いを嗅ぎ、肩から力を抜く。今日、呼び出した目的をどう伝えようかと思い悩んでいたのがジャックと向き合っていると不思議と大丈夫だと思えてくる。 「じゃあ、ちょっと付き合えヨ」 「え」 「デェトは、男が女を楽しませネェとナ!」 「デェトって、そんなつもりは」 ジャックは戸惑うセリカの右手をとるとやや強引に歩き出す。 セリカはぱちくりと瞬くとやれやれとあとをついていく。ノートで大切な話があると連絡したのだからジャックもセリカがなにかを伝えようとしているのはわかっているはずだ。 だが急ぐものでもない。だったら今はジャックに甘えることを許した。 それがターミナルで出会い、築いてきた二人の信頼関係なのだから 二人は二階建ての赤色の洒落たレストランに入った。案内された二階で外の景色が見える窓際の席に座るとそこからターミナルの街中を見えるのにセリカは目を眇めて景色を楽しんだ。 ジャックはセリカにホスト業をしていることを面白おかしく語るのにセリカは熱心な聞き役にまわり、おなかを抱えるほど笑った。 タイミングよく運ばれてきた料理に二人の会話は一時中断した。ジャックはうまそうだと口にし、セリカは笑いすぎて零れ落ちた涙をぬぐいながら応じた。 食べ終えたら、話さなくちゃ…… セリカはこのときが少しでも長く続けばいいと、ゆっくりと味わい、咀嚼し、嚥下する。皿の上の料理はじわじわと減り、とうとう、最後のひと欠片も口のなかに飲み込んでしまった。 「デ、なんだヨ」 ジャックも皿を空にして、赤ワインで喉を潤しながらなにげなさを装って尋ねた。 セリカは真っ直ぐにジャックを見て告げる。 「……知ってるかもしれないけど……私、真理数が出たの。いろんなことがあったけど、私はインヤンガイに帰属しようと思うの」 「ああ、お前はそろそろ帰属するンだろうと思ってた……寂しくなるナ」 ジャックはさして驚かない。 世界計の欠片を所有するキサが保護された事件は有名だ。セリカはそのときアデル家の支援に向かい、真理数を目覚めさせた。 アデル家にいるハワード・アデルと理沙子・アデルはセリカにこの世界に、自分たちの元に来てほしいと願った。 危険は多いけれど、もし、あなたさえよければ、私たちを支えてほしい、一緒にいてほしい、と乞われた。 揺れる真理数は覚醒者に憧れと旅の終わりの寂しさを与える。 「オメデトウっていうべきかァ?」 「その前に、お願いがあるの」 「アァン? なんだヨ、ぱぁーとお祝いしてほしいっていうなら、そりゃあ」 「違うの」 セリカは俯き、下唇を噛みしめた。ぎゅっと拳を握りしめる。 「きぃのこと、覚えてる」 「……ああ」 今まで明るかったジャックの声のトーンが一気に低くなる。顔は大きな苦虫を噛み潰したように渋いものに変化した。 「お前とオレがはじめてだったか? 一緒にこなした依頼だろう? ハッ、それがどうしたヨ」 「きぃが、あのとき歌っていた曲を知りたいの」 「歌ァ?」 「きぃはあのとき、羽化寸前までいって、歌ったわ。それがみんなの傷を癒した、あの曲を私は知りたいの。私、出来ればあの子の言葉を、ううん……歌を継いで行きたいの」 セリカはまっすぐにジャックを見つめる。これを告げた以上、ジャックには自分の秘密を話さなくてはいけない。その覚悟も、家を出るときにしてきた。 決して多くはない依頼のなかでセリカがずっと後悔している出来事。 守ろうとして守れなかった幼い少女の悲劇。 結局、セリカはその少女を助け出すことが出来なくて、悩み続け、苦しみ続けて、自らの手を汚すという償いを選び、決着をつけたが、あのときのことがどうしても小骨のようにセリカの喉にひっかかっていた。 ロイドとインヤンガイでデートをしたとき、思い出したのだ、自分の昔の夢を。燃えるような存在感のある女性が歌った姿、それに幼いセリカは怖いもの知らずにああなりたいと母に告げた。 幼い自分と歌に願いをたくした少女の姿が重なった。 ジャックが眉根を寄せる。 あの場にいたセリカならば、きぃの歌声を直接耳にしたはずだ。それをわざわざ改めて知りたいと聞いてくることが解せないのだろう。 セリカは緊張に乾いた唇を舌で舐めて、息を吸い込む。 「私、耳が聞こえないの」 「セリカ」 「……黙っていて、いいえ、騙していてごめんなさい」 セリカは深く頭をさげた。心苦しさとこのあとのジャックの口から飛び出すかもしれない罵言を考えると震えが走る。 けれど、それもこれも自分がしてしまったことだ。覚悟はしている。 ――顔をあげろヨ ――ジャック 不安と恐怖を混ぜた心の声を漏らしてセリカは顔をあげると、ジャックはにっと笑った。 「気にスンナ」 「ジャック」 セリカは苦しげに顔を歪める。 「隠すのは自由じゃねーかァ? 騙されたは思ってねェヨ。お前にはお前の苦労があったンだろう?」 セリカは目の奥から溢れそうになる涙を必死に抑えつけようと努力した。 「私ね、あなたが視力をあっさりと捨てたと報告書で見て……私、私は、聴覚のことで、自分のことをあまりにも悲観しすぎていて、恥ずかしくったわ」 呪いを受けて、今まで聞こえていたものが聞こえなくなった混乱したが、そのときはシズネが支えてくれたからセリカは立ち上がることが出来た。 シズネの愛があったからこそ、セリカは覚醒した。今、生きている。しかし、一人ぼっちになったことがセリカを再び迷わせ、頑迷にした。 両親を失い、愛に飢え、迷い、傷つけ、苦しみ――一番信頼する人を欲する思春期の時期のセリカでは仕方のないことだった。 不安と恐怖がセリカに薄皮のような表向きを取り繕わせ、内側に奈落のような苦しみを生み出した。 仕方がない、自分は耳が聞こえないから……そう言い訳を繰り返した。 けれどターミナルで依頼を引き受けていくなかで多くの人に支えられ、経験して、包まれて理解したのだ。 自分が隠しているから人は遠のいてしまう。 セリカを大切に思うアデル家の人々は、セリカが秘密を話すことを待っていた、この世界にいてほしいと欲してくれた。あなたの心を聞きたいと。苦しみを分かち合いたいと。 セリカとて気持ちは同じだった。だが、自分のことをちっとも言葉に出来ないために一度、距離が開いてしまった。 だからもう迷わない。躊躇わない。だって 私は、私のままでいいって口にしてくれる人たちがいるから。受け止めてくれる人が、そのままでもいいとハワードも、理沙子も、ロイドも言ってくれた。 こんなにも簡単なことだ。出来れば、今の内にターミナルにいる大切な人たちにも伝えて謝りたいとも思った。 ――そりゃ、ちょっと美化しすぎたぜェ ジャックは苦笑いを零す。 セリカは顔をあげるとジャックは頭をがりがりとかいた。 「俺ァ元々透視があったし、完治の可能性もあった。別に不自由しちゃいねェが、お前は違う……今までよく頑張ったナ」 優しい微笑みと労いの言葉は予想していなかった。 セリカの涙腺はとうとう崩壊し、必死に止めようとしても真珠のように透明な涙はいくつもいくつも溢れて止まらない。 許されたこと、受け入れてもらえた嬉しさが胸のなかに広がっていく。 「あり、がとう。ジャック」 ジャックはニィと右頬を持ち上げて笑うだけ。泣くなとは言わない。慰めもしない。 流れる沈黙は優しく、言葉にしなくても、テレパシーでなくても、二人を繋げた。 セリカは好きなだけ泣くことをこのときだけは己に許した。 悲しみではなくて、歓びの涙なのだから。 好きなだけ泣いたセリカを、ジャックは優しくエスコートして店を出て訪れたのは緑豊かな公園だった。 優しい植物の瑞々しい香り、中央に作られた立派な大理石の噴水からは水が零れている落ち着いた雰囲気に、憩う人の姿もまばらだ。 セリカはジャックに手を引かれるのに風景を見つめて、心をゆっくりと落ち着けていくとジャックはまるでタイミングを計ったように振り返った。 「きぃの歌、酔狂だが、お前らしい……教えてやるヨ」 「本当? ありがとう!」 ぱっとセリカの頬に歓びの朱がさす。 「俺の頭から直接送ってやる。そのほうが確かだからナ」 「ええ、お願い」 「ちょっと集中力するから、そこに座れよ」 示されたベンチにセリカは大人しく腰かけるとジャックは横に座り、セリカの顎を優しく持ち上げる。 セリカはぱちくりする。 「ジャック」 「いいから黙ってろ、集中してんだ」 口づけを交わせそうなほどに近い距離で、互いの目を閉じて、額をくっつけあう。ぬくもりと心が、ゆっくりと溶け合う。 暗闇の舞台。セリカは立ち尽くしていた。目の前にまばゆい光の粒が集まり一人の少女の形となり、ゆっくりと唇を開いた。 ――Somnus Somnus ――In pace ――Quia defendam somnia tua ――Tenebris alta loneliness ――Considerabit vestram videre ――Et psallam tibi gaudium pro 優しくも、強く。 儚くも、気高く。 翼を広げる蝶のように、力よく、幼い少女の歌声が脳に直接響いてくる。 ジャックは自分が見た映像を、声を、直接脳に送ってくれていることにセリカは感謝した。 それはささやかなコンサート。椅子も、ライトもないけれど。暗い夜闇のなか、月を背にして少女は歌う。楽しげに。愛しげに。 あのとき、あの瞬間、届かなかった声が今、届いてくる。 セリカの憧れた、燃えるような強い力を持った歌姫ではないけれど、その少女は銀光のなか、月光花のようにひっそりと咲いている姿に幼いときの感動が、再び心にさざ波のように広がってくる。 歌いたい。 歌いたい、私も! セリカは歌詞に泣きたいほどに胸が苦しくなった。目の前の歌姫の言葉を、歌を自分のものにしたい、私の唇に乗せて紡ぎたいと切に思う。 その気持ちだけで現実にいるセリカは唇をゆっくりと、震わせながら動かす。 拙くも、必死に。 長く音楽から逃げてきたツケのせいで、どうしても音程がとれなくてもどかしい。ジャックは辛抱強くセリカに歌を教え、音程が違えばテレパシーで丁重に指摘した。 一晩だけ、祈りをささげられた歌声は、きっと少女がもっとも届けたかった人には届くことはなかった。けれど記憶の底に沈むこともなく、忘却からすくいあげられて、浮き上がり、形を取り戻す。 ようやくセリカは少女の歌を「耳」にする事が出来た。 暗闇のなか歌姫は微笑む。その姿が幼い少女から最後に会った女性のものに変化したのにセリカの胸が苦しくなった。 きぃちゃん、私は 女性は穏やかに微笑むとセリカに近づき、その手をとった。 ――Campanas, et de omni jure quod committitur ambulare C'mon resonante そして歌姫は微笑んで光の粒となって消えていくのをセリカはじっと見届けた。 胸に広がる優しいぬくもり。 歌姫が、セリカに、託してくれた……歌が息づいている。 「……ありがとう、ジャック」 薄らと目を開いてセリカは小さなため息を漏らした。いま見た光景はジャックが作ってくれたのだろうか? 不思議そうに見つめるとジャックは笑って何も言わないのにセリカは言葉をあえて飲み込んで、両手を胸に押し当てて、自分のなかに新たに収めた歌を丹念に味わった。 「お疲れ様。大変だったでしょ? 私に歌を教えて」 セリカは遠慮がちに笑う。 「ハッ、そんなことねーヨ、仲間だろう?」 「……ジャック、あなたがマフィア達にしたことも知っているわ。近い将来、私たちは衝突するかもしれない。私が大切にしているのはマフィアだから。でも、自分は大切な人達を守るだけ」 「そうかヨ。まァ仕方ねーだろ」 あっけらかんとジャックは答えたのにセリカは苦笑いする。そうして言い切れるのはジャックの強さだ。けれど、もうそれを羨むことも、そうなりたいとも思わない。 自分には自分の強さがちゃんとあると今はわかっているから。 けれど本来のセリカの気質として申し訳なさもやはり感じてしまう。 「私、あなたに頼ってばかりだったのに、結局何一つ返せなかった。ダメな仲間だったわね……ごめんなさい」 「お前ナァ」 ジャックは呆れた顔をした。 「仲間ッてのは返すモンじゃねェ。支えるモンで助けあうモンだ。お前は良い仲間だったヨ」 その言葉にセリカは目を瞬かせて、続いて微笑んだ。 「お前が再帰属すれば、俺とお前は敵になるが、それは仕方ねェ。それでもお前は今はまだ仲間だ……お前の無事と幸せを祈ってる。次に会ったら遠慮せず殺しに来い」 「そうね……聞いてくれる? 歌を。間違えるかもしれないけど」 「聞かせてくれヨ。間違えらテレパシーで教えてやる!」 ジャックの言葉にセリカは立ち上がると翼を広げた蝶のように軽やかに全身を伸ばす。 噴水のところまでくるとくるりっと振り返った。ここにはジャックの他にも憩いでいる人々も不思議そうに視線を向けてくる。 セリカのはじめての舞台。 緊張が身体を強張らせるが、セリカは深呼吸する。 目を閉ざしてゆっくりと唇を開く。 まだ不安はあるけれど、背中を押してくれる仲間のために、待っていてくれる人たちのために。 なによりも私のために セリカは歌う。自分の心のままに、祈りをこめて。
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