どうしよう。 なにもすることがないわ 白いふわふわの絨毯が敷かれたリビングでセリカ・カミシロは茫然と立ち尽くしていた。 勝気な海色の瞳を限界まで見開いた顔は小さな子どもが迷子になったように頼りない。そんな顔でじぃと目の前の光景を見つめるセリカはサクラ色の唇を噛みしめる。 私、できることをしたいのに、 右手に巻き付いた白いリボンが頼りなく、さらりと揺れる。 「セリカ様、どうぞ、ソファに座ってください」 「どうなさったんですか、セリカ様」 女中たちが声をかけてきたのにセリカは、はっとした。掃除、洗濯、料理とすべてにおいてプロである彼女たちは大切なセリカになにかあればすぐに察して声をかけてくる。 「い、いいえ。ただ、とっても完璧ね」 セリカは慌てて言葉を口にして、にこりと笑う。 けど、これだと私のすること、なくなっちゃう。 子犬が大好きな骨付き肉をとられたような気持ちでセリカは心の中で呟く。 「花を飾っていてきれだし、心が安らぐわ。食事も、先ほど見たけど完璧ね」 本当に、完璧……。 セリカの褒め言葉に女中たちは嬉しそうな顔で頭をさげて次の仕事に精を出す。セリカは邪魔になるわけにもいかず、とぼとぼと歩いて理沙子の部屋に向かう。 ドアをノックしてそっとなかをのぞく。 「理沙子? 用意は出来てる? 病院は十時からよ……って、また、こんなにも散らかして!」 「あら、ハーイ、セリカ。えへへ」 「えへへって、もう」 絨毯の上に散らかった服やバックをセリカは片づけていく。天蓋付きベッドにも放置されている。 理沙子はそういう散らかしたものに無頓着に服を着替え、髪の毛を整えていく。 足を失った理沙子は毎日、リハビリのために病院に通院していて、今日は十時にロイドが迎えにくる手筈となっている。 「どうしたの、浮かない顔ね」 「だって……私、何も出来てないわ」 インヤンガイに再帰属して、アデル家にガーディアンとして身を寄せた。 ガーディアンはその家を守護する、揺るぎない信頼によって成立している。その地位は大変に高く、家主たちと同じ権利をそのまま所有している。 しかし、まだまだ学ぶことの多いセリカはその権利に戸惑うばかりだ。屋敷にいる使用人、それにハワードの部下たちはみな、セリカをきちんとガーディアンとして敬意と畏怖をもって扱ってくれるが、それに自分がちっとも合わなくて落ち込んでしまう。 再帰属したら、もっとばりばり役立つと決めたのに…… ハワードは自分の支配する街、それ以外の混乱した街を落ち着け、安寧ある日々を送らせるために奔走している。 再帰属した日を境に彼がどれだけ多忙なのかわかった。朝の早くから深夜までその姿を見ないのだ。 思えばここ三日ほど姿を見てなくて、心配になる。 私になにか手伝えたら、いいのに。けど、仕事はわからないから、余計な手間を増やすだけかもしれない。 悔しい。 彼の役に立ちたいのに。なにもできない。 せめて家くらいは寛げるように掃除や洗濯、料理だってしたいと思うけど、それも最近は女中がしてしまう。彼女たちは彼女たちで自分の仕事をしているのだから恨むわけにはいかないけど。 理沙子の足が動かないこともそうだが、街の経済が傾いたのに会社を新しく作り、人を雇い入れることにハワードは力を注いでいる。この屋敷にいる女中たちもなにかしらの問題を抱えていたのをハワードが拾い上げたのだ。 嬉しかったのはハワードが女中たちの選択をセリカに一任してくれたことだ。 ――家のことはわからないから君が使いやすい人材を選びなさい、ここの書類の女たちはみんな信頼できる 権利をはじめてつかって、女中たちを選んだ。あのときは嬉しかった。ちょっとだけ認められたと思ったから。けど、そのあとはなにかしたくても、気持ちだけが空回りばかり。 選んだ彼女たちはとても有能で、アデル家にとても感謝し、日々、セリカが驚くほどの働きぷりを見せてくれる。 だからこれといって言うことはない。 ううん、私のほうが知らないことが多いから。 セリカが口にする、過ごしやすい家を目指して廊下には塵一つ落ちないほど掃除をして、ベッドのシーツは太陽を浴びてふかふか、料理は消化によく、栄養のあるもの――これについてはセリカはインヤンガイの料理に詳しくないのであれこれと指示が出来ないから味見するくらいしかやることはない。 せっかく、ハワードが信頼してくれたのに。 私、持て余してる。 「セリカ、いらっしゃい」 「ええ」 しゅんと俯いてセリカは理沙子に近づく。 ハワードにとって、理沙子と過ごす時間は大切な癒しだわ。だからいつ帰ってもきても理沙子と寛いでいられるように、理沙子にも元気でいてもらわなくちゃ。 理沙子は歩けるようになるため、苦しい治療だってがんばってるんだし。 私は、支えなくちゃ! ぷっ。 いきなり理沙子が噴出したのにセリカは目を丸めた。 「ど、どうしたの? 私の顔、なにか変?」 「違う、違うの。そうじゃなくてね、嬉しくて、人って笑うのよ。ふふふ」 「なによ、理沙子、髪の毛、とかすわよ」 「よろしく。……あなたは、ハワードが好きよねぇ。なんか奥さんみたい」 「えええぇ!」 セリカは真っ赤になる。ずっとハワードの役に立ちたいと考えていたが、まさか、それを指摘されるとは思わなかった。頬に血が集まって熱くなる。 鏡のなかの理沙子はくっくっと機嫌よい猫のように笑っている。 「私の判断は間違えてなかったわ。あなたがいたらハワードは大丈夫ね」 「なによ、いきなり。不吉なこと言わないで、理沙子には元気でいてもらいたいわ」 「あなたがいるとハワード、嬉しそうよ。ふふ。そうだ、提案なんだけど、ハワードの役に立ちたいなら、私の影武者やらない?」 「もう、だから、どうしていきなり……影武者?」 「私は、この足だから、しばらく歩けないもの。だからね、公式の場所にあなたがハワードと出てほしいのよ。彼、これからたぶんいろんなところに出るだろうし」 「私で、いいのかしら」 「セリカだからいいのよ。まぁ、その前に勉強することは多いでしょうけど……ロイドが来たみたいよ」 理沙子の言葉にセリカは手を止めて窓から外を見ると車が見えた。 「あなたなら出来るわ、セリカ」 理沙子は鏡越しにセリカに視線を投げて、微笑んだ。 黒ベンツの車はゆったりと移動して、病院の一角についた。そこで医者と看護婦が出迎え、セリカは理沙子とともになかに入った。 リハビリの前に担当医から回復の状態、義足のことについてざっと説明される。セリカは理沙子の後ろにロイドと控えて、目を細めて、一言も読み漏らさないようにと努めた。 ハワードはこういうところで金に遠慮がない。使うときは使う。最高の医者と、最新の技術、腕の良い義職人を理沙子のために用意した。それでも理沙子が背負う痛みや負担を減少させるのは些細なもので、セリカは痛みに悶える理沙子を見ていつもはらはらしてしまう。今日は歩く練習を一時間するというのでやることもなく手持無沙汰になってしまったセリカは病院のテラスに移動した。 椅子に腰かけて、自分の手を見る。いつも携えている鞄のなかには勉強道具がはいっている。この時間に勉強をこなしているが、今はそれよりも。 ガーディアンなのに、役立てない。 このままじゃだめ。 もっとがんばらないと。 結界はギアがなくても張れるようになったけど、それでも自分を守る程度だし、もっと腕を磨かないと。 思考に没していると不意に目の前に差し出された紙コップにセリカは目を瞬かせる。 「ロイド、ありがとう」 ロイドはコーヒーを飲みながらセリカの横に腰かける。セリカはそっと苦い味わいを噛みしめながらちらりとロイドを見る。 「久しぶりね」 「大学の卒論で忙しかったからな」 ロイドは欠伸を噛みしめる。 「そっか」 「ま、大学の卒論は仕上げたし、あとは卒業だけなんだよな。通信のほうもようやく終わった」 んーとロイドは伸びをする。 「本当に、すごいわね」 「お前もがんばってるだろう」 そう言われて少しだけ嬉しくなるけど、まだ足りないと自覚もしている。 銃の腕も磨きたい。 もしものとき何もできないじゃだめだから、ロイドに相談したいけど、忙しそうだし ぽんっと頭を撫でられてセリカは驚いて顔をあげる。 「先、卒論とか通信学習の終わらせたっていったろう? これからわりと暇だぜ。なんかあれば言って来いよ」 「ロイド」 「せっかくだし、今度の土曜日にでも久しぶりにデートしようぜ」 「え」 「前は銃選びと、手入れとか教えて終わっただろう? そこの店の近くでさ射的が出来るとこるがあるんだよ、うまい飯も食わせてくれるぜ」 再帰属したあとロイドはセリカを誘い、銃を販売している店に行き、一丁の銃をプレゼントして、手入れなどの細かなことを教えてくれて、食事をした。今はそれだけの関係だ。 「いいのかしら、ハワードが忙しいときに」 「ボスは仕事中毒も入ってるからいいんだよ。あの人、生き生きしてるぜ」 「そうなの? 最近会えてなくて」 「寂しいわけか」 くくっとロイドは笑った。 「し、心配なだけよ。もし襲撃とかあったらとか」 「安心しろ、ボスたちを襲う根性あるやつなんて早々いねぇよ」 「けど」 ぶすっとセリカが反論するとロイドは肩を竦めた。 「別にお前が戦わなくてもいいだろう」 守るための結界を張れるのが自分なら、 「……そう、かもね。ハワードにはじめてもらった銃、結局戦いには使わなかったの。けどね、いまはそれでいいと思ってるの。護るための武器があってもいいのよね?」 守るために自分はいる。 夜が来る。ターミナルの感覚に慣れていると、その変化に体が驚いて一気に眠気が襲ってくる。あのころ、眠ることが怖かった、けれどいまはもう怖くない。ここはセリカの家で、居場所で、護ってくれる人たちがいる。 セリカはパジャマ姿で眠たげに落ちてくる瞼をなんとか開くと窓際で星を見上げて、祈る。 キサが帰ってこれますように。 疲れていてもこれだけ欠かさない。小さな祈りが、いつか届くと思うから。 じっと外を見ていたセリカは家に近づいてくるライトに気が付いて慌ただしく玄関に向かった。そこにはハワードがいた。 会えた! 歓びから笑みがこぼれるのを必死に抑えようとして失敗する。 「お、おかえりなさい」 「まだ起きていたのか、はやく寝なさい」 「あ、あの」 何か言葉を言おうとして出てこない。 うれしい 会えた 元気なのかしら。大丈夫なのかしら。とっても安心する。 迷っているとハワードの手がセリカの頬に触れ、くすぐるように髪の毛を撫でるのにセリカは口元を緩めた。 「今日はもう家にいるの?」 「いや。少し休むためにきただけだ」 けど帰ってきてくれた。 休むためでも。ううん、休むためだけにちゃんと帰ってきてくれた。 「……セリカ」 「はい!」 「そのくせをどうにかできないか。こちらが困ってしまう」 「え? な、なに」 セリカは戸惑う。彼女は知らない、自分のテレパシーが好意を寄せる相手に対して解放され、自分の気持ちがばれてしまっていることを。誰もそれを口にしないのはセリカの心に触れることが嬉しいからなのだ。 ハワードは自覚のないセリカにため息をついた。 「いや、いい。あと、これを」 「? 学校、これ」 「学歴はつけておいて損はないぞ」 ハワードは、不意に腕を伸ばして、セリカを抱き上げた。お姫様だっこされておろおろしているセリカは寝室に運ばれ、ベッドに横にされた。 書類はベッドの横の机に置いて、ハワードはセリカの右手をとる。 「眠りなさい。何も恐れずに、眠るまではここにいよう」 「はい」 ゆっくりと額に落とされたキスがくすぐったくて目を閉じると頭を撫でてくる手のぬくもりがした。 セリカが安寧に落ちるまでハワードが傍にいてくれる。少しでも傍にいたいからぎりぎりまで起きていたいけど、眠りはゆっくりと意識を浚っていく。 だいじょうぶ。 私、がんばれるわ。いくらだって
このライターへメールを送る