世界の半分を呑み込んで横たわる闇は、天にぽっかりと空いた穴のようだった。 吊り下げられた二つの月が、冷たくか細い光の糸を零している。 そこは小さなちいさな村だった。 淡い凛光に照らし出された街並みは古く、ひっそりと闇の奥底に沈んでいる。 そこに人の影はなく、人の声もまた莫かった。 笑う者もない。 嘆く者もない。 怒る者もない。 ただ、渇き荒れ果てた大地の上を、朽ちた樹影が蛇のように這い回っている――否。ひとを喰らう人外の者たちが這い回り、我が物顔で闊歩している。 建物という建物の扉は堅く閉ざされ、灯りのひとつも洩れてはいない。 堅く閉ざした扉の向こうで、人々は互いに身を寄せ合い、強張り蒼褪めた頬で俯いているのだろう。 一歩でも外へ踏み出せば、そこには血に餓えたケダモノどもが待ち構えている。 逃げることもできず、そして自ら死を選ぶこともできはしない。 息を殺し、感情を押し殺し、耳を塞ぎ続ける――そうすることでやっと、この村で生きてゆくことができる。 今日は誰の悲鳴も聞こえませんように。 どうか目の前のこの扉が壊されませんように。 自ら鍵を掛け引き篭もった牢獄の中で、人々は祈り、赦しを乞い続けるばかりだった。 そう、だから。 この村には、誰もいない。 どこにも、誰も、いてはいけない。 神に見捨てられ、朽ち果てた村。 ――ここは、そんな場所だった。 どこからか悲鳴が響いた。 低く、闇を引き裂くような鮮烈な声。 続く銃声。 闇の生き物の羽音が幾重にも重なり響き渡る。 深い闇の底に沈んだこの村のどこからか、僅かな動揺と息を呑む気配とが伝わってくる。 ざわりと闇が沸いた。 ケダモノどもが狂喜の声をあげる。 闇を抜けるその影が、響いた声の主を求めぞろりと移動し始めた。 水面に広がる波紋のように、不安は人々の心に伝播する。 不安に駆られ、どこかの家屋、どこかの暗闇で、誰かがごくりと息を呑んだ。 風が流れた。 静かな風だ。 その風に僅か血の香が入り混じり、男は僅かに顔を顰めた。 どうっと血を噴き倒れ込む。 暗く冷たい大地の上にびしゃりと噴き零れた紅が、淡い月光に照らし出された。 ぬらりとした黒が、滑らかな弧を描きながら次第に大きく広がっていく。 「大丈夫か?」 振り向かずに、男はそう問いかけた。 彼の背後には、何か大きな力によって扉をぶち抜かれた家。その真新しい入口の前で、村の男が棒切れを手にがたがたと手膝を震わせている。 「ひぁっ……は、はい……ッ!」 「今片付けるからちょっと下がっててくれよ」 男は僅かに顎を引き帽子を被り直すと、呻りをあげ突っ込んでくる獣目掛け身を一捻り。勢いよく足を振り抜いた。 轟と風が啼く。 グギャッと拉げた声と共何かが圧し折れる鈍い音が響き、獣が真横へ倒れ伏す。 村の男がひっと息を呑み尻餅をついた。棒を取り落とし、必死に地を掻き後退る。 家の奥から赤子の泣き声が響いてくる。 それを必死に宥めようとする、未だ幼い子供の声も。 男は右手の拳銃をくるりと回して銃口を天へと向ける。テンガロンのつばをくいとあげると、彼を一瞥した。 大きく見開かれたその瞳が、男をじっと見詰めている。 「あ、あんたは……一体?」 「俺? 俺は――っと」 いい掛けた男の頬を薙ぐように獣が爪を振り回す。彼は僅かに身を退いて交わすと、続け様に払われた獣の腕をがきりと白い拳銃で受け止める。コートの裾を翻し、素早い動きでベルトから二挺目のそれを引き抜いた。 殴りつけるように銃口を獣の顎に突き付け、迷いなく引鉄を引く。 ガウンッと一際高い銃声が木霊した。 脳漿を吹き散らし倒れた獣を踏みつけて、次々にモンスター達が牙を剥く。 「おいおい、元気良すぎだろ」 チッと軽く舌を打ち、男はぴゅいと口笛を吹く。 途端、淡く零れる月光と共、一頭の狼が闇の最中へととっと舞い降りた。 滑らかな白銀の毛を靡かせて、狼は軽やかに地を蹴り飛びあがる。 敵の振り上げた腕を蹴りつけて、その対角、男に襲い掛かる獣の首へと喰らいつく。 男の両手に煌く白のコルトパイソンが、立て続けに火を噴き獣を次々なぎ倒した。 口元に異形の血を染ませた狼が、村の男の前に着地した。彼は身体を跳ねさせ、ごくりと咽喉を鳴らしてじりじり後退る。 「ナオトだ。――ナオト・K・エルロット」 「え……?」 その男は軽く帽子を押さえながら身を翻すと――地面へ転がっていた木板を思い切り蹴り上げる。その瞬間狼もまた身を翻し、男の傍らまで素早く飛び退いた。 「ご依頼どうも」 扉が閉ざされる寸前、ちらりと視線を流し口の端を引き上げる。 男ははっと目を見開いた。 「まさか、あんたがあのゴーストバスター……!? 本当に来てくれたのか!!」 がらくたの音を響かせ閉じられた扉の向こう、僅かに歓喜した人々声に、ナオトは緩く瞳を閉じた。 闇に閉ざされた、救いの莫い世界。 彼らは何もかもを奪われ続け、抗う術もなく命を落としてゆく。 ただ、怯えるだけで。 夢も、希望も、光すらも与えられず。 目の前で失われる命に、祈りを捧げることしかできない人々。 彼らの――太陽で、在りたい。 「さてと、今日も仕事の時間だ」 改めて口の端を引き上げ、ナオトは凛と瞳を開いた。 「いくか、アルビ!」 紅に染まったその眼に映り込む月は白銀。 闇の彼方、天へ浮かぶ二対の月へオォと咽喉を震わせ返答を返す。 びりと空を震わす雄叫びに、堰を切ったようにモンスターどもが襲いかかった。 轟音立てて撃ち放たれた弾丸が、敵の脳天目掛け空を斬る。 どっと打ち下ろされた強烈な拳が、ナオトの足下へ穿たれ砂利を撒き上げた。 砕け、跳ね上がる小石が浅く頬を裂く。 続け様、薙ぐように敵の拳が襲い来る。飛び退こうとしたその瞬間、砂煙と共に引き抜かれた腕が、その足先を確と捕えた。 「チッ――!」 横へ払われた腕が脇腹を薙ぐ。その瞬間、ナオトは咄嗟に腕を交差させ、その一撃を受け止める。 肉の下でびきりと何かの引き攣れるような感覚を覚え、彼は僅かに瞳を歪ませた。 猛然と突進したアルビがナオトの足を捕えるその腕に喰らい付き、ぐるぐると低い呻り声を上げて肉を喰い千切る。 僅かに緩んだ手から足を引き抜くと、ナオトは歯を食い縛り敵の膝を蹴りつけ飛び退いた。 ふっと浅く息を吐く。 「サンキュ、助かった」 体勢を整えるように足を滑らせれば、足下でじゃりりと砂が啼く。 狂ったように咆哮をあげモンスターが拳を振り下ろす。アルビが飛び退き宙へ舞う。その足下に待ち構える獣の咽喉に弾丸を撃ち込んで、ナオトは敵の大振りな攻撃をひょいと上体を逸らして回避する。お返しにその顎を蹴り上げて、脇から次々襲い来るモンスターの脳天へ矢継ぎ早に弾をぶち込んだ。 低く、みしりと腕が鳴った。 骨を伝い駆け抜ける痛みは、未だ折れてはいないのだと彼の本能に告げている。 ナオトは微かに顎を引き頷いた。 よし――まだいける。 月の光のようにその背へ滑り込んだアルビの鋭い爪が空を裂き、ナオトへ襲い掛かる敵を屠る。 血肉を撒き散らしどしゃっと倒れ込むモンスターに一瞥呉れて、ナオトはひゅうと口を鳴らした。 「アルビもまだまだイケるだろ?」 当然、とでも答えるように、アルビが低く咽喉を鳴らす。 僅かに息は上がっているが、射撃はまだ精度を保っている。 まだ身体も動く。 何より相棒が傍らにいる。 それが何より心強い。 引鉄を引く度腕に迸る痛みは鮮烈だった。 けれどその痛みは、皮膚の下で波打つ血肉よりも先に、その脳へと熱を走らせる。 譬え血反吐を吐き倒れても――ここには、何を措いても守りたいものがある。 モンスターを威嚇するように低く呻っていたアルビが、何かを知らせるようにひとつ咆えた。 直後、背後に巻き起こった僅かな風に、ナオトは咄嗟に身を翻す。 「死ねェッ!」 ぎらついた深紅の眼が眼前に迫る。 その口の両端に零れる艶めかしい輝きに、ナオトははっと眼を見開いた。 月明かりに光るのは――血に塗れた、鋭く長い牙。 「吸血鬼――ッ!!」 ナオトは一際深く眉を顰めると、牙を剥き出し迫り来るそれへ、力任せに右腕を振り上げた。 ゴッと鈍い音を響かせ、銃で顎を殴り上げる。 ぶつりと血を噴き相手がよろめく。 一歩、二歩、よろよろと後退りして、相手は錆の交じった眼でナオトを見下ろした。 「中々……」 ゆるりと上げた腕の先、紅の滴る指先をぺろりと嘗め上げる。 「不味い」 つっと舌先で湿らせた吸血鬼の唇が、残忍な色を帯びていびつに歪められた。 ハッと息を吐くように笑い、ナオトもまた痛む腕で脇腹を押さえて後退る。 じわりと滲む温かな液体が、指先を伝いぱたりと地面へ零れ落ちた。 「わざわざこんな処でお食事ってか……流石にふざけた趣味してやがるな」 「私は食事は誰にも邪魔されずゆっくりと摂りたい性質でね」 ふっと吸血鬼が笑んだ。 一際露わになった鋭い牙が、月明かりにとけて妄りに輝く。 「あぁ、なるほど――アレだ」 いいながらナオトは引鉄を引く。 弾かれたように飛び退いた吸血鬼の背後で、一体のモンスターが頽れた。僅かに顔を引き攣らせた吸血鬼の眼前へ、地を蹴り肉迫したナオトが静かに笑う。 「最後の晩餐ってやつでしょ?」 ボッと空を裂き放たれた脚撃が、僅かに反応の遅れた吸血鬼の片足を捕えた。 ぐらりと体勢を崩したそれ目掛け、ナオトが躊躇なく引鉄を引く。衝撃に地面へ伏した吸血鬼の肩口からひどく濁った液体が溢れ出した。 ナオトは力任せにそれを蹴り上げると、痛みにのたうち転がりまわるその肩を思い切り蹴りつけ銃口を向けた。 「なぁ、あんま動くなよ。照準がずれるだろ?」 「う、がぁああっ!!」 怒り狂ったように吸血鬼が右腕を振り回す、鋭く伸びた爪が空を裂きナオトの足から血が噴き出した。 「うぁっ……!」 続け様に足を払われ転倒したナオトの視界の端で、跳ね起きた吸血鬼がもう動かぬかに見えた左腕を振り上げ歪んだ笑みをみせる。 「死、ッねぇえ……!!」 咄嗟に背を丸め左腕を蹴り弾く。 吸血鬼は最早痛みすら感じて居らぬかのように、ぎらついた眼で壮絶に嗤ってみせた――フェイクだ。鋭く伸びた右手の爪先が、月明かりに艶めかしく煌めき、勢いよく迫りくる。 間に合わない。それでも反射的に銃を構えようとしたその腕に痛みが走り、ナオトは顔を顰めた。 「チッ――くそッ!」 下卑た笑い声をあげる吸血鬼の背後から、白銀の狼が右腕に喰らいつく。 「くっ……この!」 肩から倒れ込んだ吸血鬼が、土煙をあげながらアルビに掴みかかる。咽喉笛を掻き切らんと振りあげたその右手の先が、激しい衝撃音と共に跡形もなく吹き飛んだ。 「ぎ、ぎぃゃああああああああっ!!」 続く銃撃に右の肩を打ち抜かれ、吸血鬼は無様に地面を転げ回った。 「……だから動くなっていったでしょ」 呟くようにそう零して。 紅い雫が指先を滴る。ゆっくりと、けれど迷いなく。 ナオトはその引鉄を引く。 「――ッ!!」 どうっと血が噴き出した。 頬に血が飛び散り、吸血鬼は身体を跳ねさせ三度びしゃりと地べたに突っ伏す。 「う……ぁ、ぐぁあああっ」 息を切らし、苦しげに土を掻く。その足先がボッと勢いよく吹き飛んだ。 肉を失い代わりにできた黒い穴から、濁々と体液が零れだす。吸血鬼が悲鳴を上げて転げ回る。 「こッ……こ、のバケモノがぁあああ!!」 吸血鬼がそう叫んだ瞬間、闇の世界はしんと静まり返った。 ナオトは僅かに、首を傾げる。 「化け物? 俺が?」 四肢を撃ち抜かれた吸血鬼が、血混じりの息を荒く吐きながら憎々しげにその顔を睨み据える。 その背後、吸血鬼の引き連れた最後のモンスターの首を爪先で掻き切り、息の根を止めるようにアルビががぶりと深く咬みついた。 「……はは、お前らの仲間によく言われるよ」 ナオトは渇いた笑い声を零し、欠片も笑わぬ瞳で吸血鬼の顔を見下ろした。 白い拳銃を、ゆっくりと持ち上げる。 「でも、お前らも化け物だろ? ――俺は化け物みたいな人間だけどさ」 かちりと、硬質な音が二つの月へと響いて渡る。 吸血鬼がごくりと咽喉を鳴らし、微かに唇を震わせた。 ゆっくりと、引き金が引かれる。 闇に銃声が、響いた。
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