寄せては返す波は、岩作りの壁を強く洗う。 古くから時代の要所で権勢を誇った事もある海上の楼閣は、いまやフジツボと海草に侵食されるただボロいだけの石垣と化していた。 硬く冷たい石畳の上に寝転び続けるのに飽き、腹筋を使って起き上がったナオトは暗闇の中に目をこらす。 鉄錆に覆われた牢獄の格子は、まだまだ現役で居続けると主張するかのように強度を保ち、力の限りに引っ張っても崩れ落ちる気配はない。 あと百年は現役でいるつもりだと、今にも朽ち果てそうな城の中で、原型を留めぬ程に錆び付いた鉄格子は沈黙のままにナオトを嘲笑う。 「くっそ、なんでこういうことになるかな!?」 本来なら、茶々をいれてくれるはずの相棒も、今はいない。 「仕方ないよねー。今のうちに状況を整理するしかないかな」 明かりひとつない海辺の地下牢だが、暗闇はナオトの生来の環境に程近く、見渡す事が可能だった。 石を拾い、地面にガリガリと刻み込むように、名前を書いていく。 一人目。 『パピー=フレデリック』――今回、明日らをこのブルーインブルーに招待した当人。元ロストナンバーの老翁。 現在はブルーインブルーに帰属し、この古城の城主として余生を過ごしている。 とはいえ、天寿の近いご老人で一人ではトイレに行く事も侭ならない。 二人目。 『ミメー=フレデリック』――パピーの息子の嫁にあたる。彼女の夫、つまりパピーの息子は遥か昔に海難事故で亡くなっており、パピーとの音信も途絶えていた。 彼の遺産分配を聞きつけ、本日、この城へと参上した。恰幅の良い年配の女性である。 三人目。 『ルーク=フレデリック』――パピーの孫、ミメーの息子にあたる。 二十歳そこらのがっしりした体躯の青年。漁師を生業としており、次代の網本として将来を嘱望されている。 四人目。 『テッド=イート』――執事、五十絡みの男。古城に住むパピーの使用人として、この城に住み着いていた。 元は腕のいい漁師としてこのあたりの海域で名を馳せていたが、息子に船を委託し、こちらで隠居している。 そして五人目と六人目。 彼らの視点からすれば、余命少ない城主が遺産分配にあたり、どこからともなく呼び寄せた胡散臭い二人組。 名前は流鏑馬明日と、ナオト=K=エルロット。 「今回、関係するのはこの六人なんだよね」 世界図書館から預かった指令は、今回、この古城で金貨を回収しろと言う物だった。 何の事はない、死期を悟ったパピーが自分の思い出の品を処分しようとしたが、かつての仲間に形見として思い出の金貨を送りたいと申し出た。 世界図書館については家族にも語っていないため、そのままでは棺桶に入れられず、換金されてしまうであろう金貨を世界図書館に返すのが目的だ。 そういう事なら、と意気揚々と乗り込んでみた明日とナオトだったが、いきなりおばさん――ミメーにとっ捕まった。 どうやら彼女には遺産を狙う不審者に見えたらしい。 仕方ない。全く持って仕方ない。妖しいとか言われたら文句のつけようもない。ナオトにもそのあたりの自覚があった。 だって妖しいし。 呼び止められる前にブツを運び出そうとした所で「遺産分配の話し合いはまだ済んでいない」と言われれば申し開きのしようがない。 何を持ち出そうとしているかの説明すらできないので、二人はパピー翁を含め、全員が揃っている所で行うという遺産分配を待つ他に手はなかった。 ――そして、夕飯の後、ナオトは相棒の明日を置いて、館を散策していた。 ナオトは一旦、意識を現実に戻す。 暗く、冷たい、岩作りの牢獄である。 あの部屋もそうだった。窓には分厚いカーテンがかかっており、ランプの芯は燃え尽きていた。 外は嵐でも着ているのだろうか、ごうごうと風の音が石壁を越えてナオトの耳まで届く。 彼は再び目を閉じた。記憶の続きを思い出す。 夜が更け、灯火も消えた廊下をナオトは歩いて行く。 暗闇は、彼の視界を妨げない。それに、あからさまに妖しい自分が徘徊しているのは、屋敷にいるメンバーにあまり好意的な印象を与えないだろう。 さざ波の音を聞きながら館を散策していたナオトは、パピーの部屋の扉が開いている事に気づいて小声で「こんにちはー」と声をかけた。 今のうちなら、ブルーインブルーの住人には聞かせられない話もできるだろうという思いつきではある。 返事がないので不在なのだろうと思い、通り過ぎようとする。 開いた扉から漂う微かに鼻をくすぐる甘ったるい匂いがナオトの脳裏に警告を発した。 ほとんど反射的に閉じかけたドアを開くと、部屋へと足を踏み入れると、何かが焦げたような匂いが被さった。 念のため、もう一度、挨拶の言葉を口にしてみるが部屋の主人の返事はない。 後ろ手にドアを閉め、部屋の中へと踏み出していく。 数歩、歩いた所で何かに躓いて転び、危うく手をついた床の感触がナオトの手に絡みつくように生暖かく、どろりとぬめった。 己の手を見て、それが血だと悟る。 ナオトが暗闇のヴェールを貫いて真正面に見据えたもの。 それは胸に深くナイフを突き立てられ、仰向けに倒れた老翁、パピー=フレデリックの遺体だった。 「お、おわっ!?」 尻餅をついた姿勢で思わず後ずさりしたナオトが声をあげる。 同時。 「キャァァァァァァァァァァーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!」 いつのまにか扉の傍、ドアにもたれかかった格好で、ミメー=フレデリックが絶叫していた。 まもなく、声を聞きつけた者の足音が近づき、暗闇の廊下を松明の明かりが切り裂く。 それから数秒で、部屋に松明が翳された。 「……ナオト、あなたがやったの?」 「いやいやいやいや、そんなわけないの分かってて言ってるよね!?」 「そうね。第一発見者はあなた? それとも、ミメーさん?」 明日は扉の前で倒れている女性を指す。 こちらは太った腹部を大きく上下させて呼吸しているため、被害を受けた気配はない。 「え、えと、一応、俺、かな?」 「状況を報告して」 「い、いや、パピーさんに話を聞こうかなーって思ってここに来たら、パピーさん、ナイフで刺されて死んでるし、みんなを呼ぼうとしたらミメーさんが入り口で叫んで気絶しちゃうし、わぁわぁ言ってたら、……今、こんな感じかな?」 「……ナオト?」 「は、はい」 小さく、問いかけるような明日の呼びかけに応じ、彼女の視線に従って周りを見渡す。 周囲の視線はどう見てもナオトが犯人だと疑っていた。 ルークがパピーの死体に触れ、まだ暖かい、と証言したのが決定打だったらしい。 明日は小さくため息をつき首を振った。 黙れという意味だろうと悟り、ナオトは一歩引いて口を閉ざす。 主人の今際の際に現れたどこのウマの骨とも知れない輩が第一発見者。 しかも被害者は、明日にも遺産を分配しようとする資産家である。 ――疑うなという方が難しい。 「デッドさん。この屋敷に彼を軟禁する場所はありますか?」 「ちょ、ちょっと明日さん。そりゃなくないかなっ!?」 ナオトの叫びを無視して、デッドは地下牢を提案し、ルークがそれに頷いた。 「たった五人の中に殺人者がいるの。あなたを閉じ込めるのは心許ないけれど、一番いい方法かも知れないわ。それに――」 「それに?」 「――私が犯人なら、第一発見者を殺して自殺したように見せる。シチュエーション的には……、海に身を投げたとかね」 「どこが一番いい方法ー!?」 「ナオト!」 ぴしゃり、と明日は言い放つ。 明日の脳裏に説明が、――例えば、牢獄は最も安全な位置だとか、暗闇に閉じ込めればナオトが一番有利だとか、そういう理屈が色々と浮かび消えていく。 背筋を伸ばしたままの姿勢で、次の言葉を待った。 数秒。 明日の中で言うべき言葉がまとまった。 「ハウス」 「はいー!?」 かくて、ナオトはこの牢屋にいる。 牢屋の鍵をかけた一行は、朝になって自警団が来たらナオトを解放すると言い残していた。 「でも、それって放っておいたら自警団に連行されるって事だよね。うーーん」 腕を組み、牢屋の中を歩き回る。 朝まで待っているわけにはいかない。 かと言って、ここから脱出する手段も思いつかない。 いっそ、壁を壊す方法を考えてみようかと思ったが、仮に壁をぶちぬけた所で海に落ちるルートが確保できるだけだ。 「こーなったら、もう待ってたら明日さんが何とかしてくれないかなー」 「そうしたいところだけど」 「わ。……わわわわ!?」 ナオトは咄嗟に目を覆う。 暗闇に対してはその視界が奪われることがないものの、その分、光には非常に弱い。 特に、こういう暗闇に慣れている状態で、いきなり松明をかざされた日には、両手で目を覆ってごろごろ転がってもおかしくない。 そんなわけで、咄嗟に現れた明日が握る松明の明かりに照らされ、「目がー! 俺の目がー!!!」と転がるナオトを横目に、明日は牢屋の鍵を開く。 「いつまでじっとしてるの?」 「今、思いっきり悶えてるの見えてるよね!? こんだけごろごろ転がってるよ! 砕けた石とか砂とか、マントにびっちりこびりついてお洗濯しても取れないくらいになってるよ!?」 「それはさておき」 「さておかないで!?」 「明日の朝までにあなたの無実を証明しなきゃいけないの。そうしないと自警団につれていかれたりして、色々面倒なことに……なるけど、さておかないで、あなたの目を心配した方がいいの?」 「……すみません。さておいてクダサイ。……って言っても明日さん? さっき思い返したけど、やっぱり犯人って他にいるんじゃないかな? だって、ルークさんとデッドさんは明日さんと一緒に駆けつけてきたし、ミメーさんは俺が部屋に入った後で、部屋の入り口で倒れてたわけだしさ。俺の触った血も暖かかったから、死んですぐっぽいよ」 ナオトは床の上を指差した。 彼が思い返せる限りの状況が床の上に書きつくされている。 明日は床の文字を追い、ぶつぶつと口中で何やら唱え始めた。 やがて。 己の存在が無視されているかもという危機感を募らせ、ナオトは小さく呟いた。 「あのー、明日さん?」 「なに?」 「ちょっとだけ松明消してくれないかなー? いや、蛍光灯とかよりマシだけど、やっぱ夜に明るいのは違和感とゆーか、眩しくて目を開けてられないとゆーか」 「ちょっと待ってね。消したら、文字が読めないし」 ですよねぇ、とナオトがしょんぼり俯く。 目を閉じて俯いていれば多少明るくてもガマンは可能だ。 「でもガマンできるだけで、ホントは消してほしいよー」 「松明をつけていたら私は目が効くしナオトはガマンできるけど、松明を消すとナオトは目が効くけど私は何も見えなくなるの。分かったら、お座り」 「はいっ」 反射的に膝を抱え、ナオトは床に座り込む。 体育座りとも三角座りとも呼ばれる座り方で、明日が文字を読み終えるのを待つ。待つ。待つ。 どのくらいの時間が経ったか。 ふぅ、とため息をついた明日の表情を覗き込むように、ナオトが話しかける。 芳しい結果は得られなかったらしい。 「もういっそ、犯人になる? もともと、この世界にあってはいけないものを回収すればいいだけだし」 「俺が犯人に? ……いいけど、そしたらどうなるの?」 「二十年くらいで出所できるんじゃないか?」 「異議あり!」 「却下」 「……ひ、ひどい! それは酷いよ!? いや、俺だって明日さんが危険だったら身体張るし、仕方ない時なら捕まってもいいけど、なんてゆーかこう、こんな風に「なんかもーよくわかんないから捕まっちゃえ☆」的ニュアンスで逮捕されて、若々しい人生の青春期を獄中で送れとか、それなんて拷問!? 俺の人生、そこまではちゃめちゃだとはたから見てて笑えるかも知れないけど、そーゆー身体の張り方は俺の主義じゃないってゆーか、それ見たって面白くないでしょ!? 「……ちょこっと、面白いかな、って思った」 「明日さん!?」 「冗談。でも松明消すのはもうちょっと後ね。せめて私の部屋まで戻ってから。出ないと廊下歩けないもの。あなたじゃあるまいし」 「人を人外の化け物みたいに言わないでよー!?」 「夜目が効くくらいならともかく、真っ暗闇でも見えるなんて私には信じられない能力だから、大差ない」 ふと。 立ち止まり、ナオトの書いた床の文字に目を落とす。 「そうか、犯人は……」 「え、なに。分かったの!?」 「ナオト、今すぐ全員を大広間に集めて。すぐに」 「……三人だからいいけど、夜中に叩き起こして、大広間に集合ってヒドい指示だと思うなー」 主に集められる住人の冷たい視線を想像し、ナオトは額に冷や汗を浮かべて首を横に振る。 「ナオト、ハリー・アーップ!(急げ!)」 「はいっ!」 かくて、夜中に起こされたメンバーが一同に解する。 ありありと不機嫌を顔に出しているのはミメー女史。 ルークは眠そうな目をこすりながら。デッドはむすっとした表情で。 各自、寝巻きのまま大広間に集まっていた。 「牢屋に入っているはずのオマエが何故、ここにいる」とはデッド。 あれこれ言い訳をするナオトに怪訝な視線を向けるミメー。興味なさそうなルーク。 一人、窓の外を眺めていた明日が室内に振り返った。 窓の外はすでに嵐となっており、唸る波音が激しさを増す。 明日はランプに明かりをともし、カーテンを閉めた。 「犯人がわかりました」 「こいつだろ」 「それでも良いのですが」 「よくないよー!? っていうか、俺でよかったらそもそもみんなを集める必要とかなくない? っつーか、それだったらパシらせなくても良かったよーな!」 「ナオト、待て」 待て、の合図でナオトの口がぴたりと止まる。 期待通りの反応だったようで、明日は小さく頷いた。 「さて、皆さん。最初に死体を見た時の状況を聞かせてください。まずはナオト」 「え。え。ええと、部屋に入って、躓いたらぬるって血に触って……」 「では、ルークさん」 「ミメー母さんの悲鳴を聞いて駆けつけたら、そこに死体がありました」 「デッドさんも?」 「ああ、ルークと同じだよ」 「ミメーさんは?」 「部屋の扉を開けたら、ナオトさんが死体の上に覆いかぶさるようにしてたわ!」 「……覆いかぶさるように?」 「いや、それ! 躓いて転んでただけだから! ね!?」 だから無実だとナオトの弁解を聞いてか聞かずか、明日はつかつかと部屋を回り、各所においてあるランプの灯火を吹き消す。 ついでに窓に分厚いカーテンをかけ、一同を見渡して、最後のランプを消した。 当然、部屋の中は黒一色に染まる。 「これで現場の状況を再現しました」 明日が静かに告げる。 「ミメーさん。あなたがこの状況で死体を見るのは不可能です。……この場に、このレベルの暗闇でも視力が効くのはナオトしかいない」 「言いがかりよ!?」 「あの時、廊下に灯火はなかった。もちろん、死体のあった部屋の中にも、です。ミメーさん、あなたはパピー氏を殺害後、部屋に近づく足音に気付いて部屋の明かりを消した。入り口近くで隠れ、ナオトが部屋の中に入った後、死体を発見した時の声を聞いて悲鳴をあげたのです。今、そこに入ってきたかのように」 「くっ……」 「第一発見者が疑われるのは常套。なら、第一発見者を発見した。という立場にいれば殺人者だとは思われない。……と、いうことですね」 「待ちなさい。いくら私でもそこにいれば真っ暗闇なことは分かるわ! そんな所で死体も見えてないのに悲鳴をあげたりしないわよ!」 「いいえ、直前まで部屋に明かりをつけていたなら話は別です」 暗順応、暗い所に目が慣れるまでに通常の人間であれば数分かかる。 即ち。 人が歩ける程の薄闇なのか、それとも漆黒の闇夜であるか。 直前までランプをつけていたならば、区別がつかない。 他人が入って来て、不自由なく歩き回っているようであれば、今、見えないのは自分だけのはず。 ごくり、とつばを飲み込む音がした。 「あなたは明かりを消した直後で、よく見えないだけで真っ暗闇だとは気付いていなかった。何故ならナオトが普通に……、壁や家具にぶつからずにスムーズに歩いている足音を聞いたからです」 ぴっと指をつきつけた先は、ミメー女史。 思い切り椅子を跳ね上げ、ナオトが立ち上がる。 「明日さん、スゲー」 「ナオト、お座り」 「はい」 反射的に座りなおす。 「事情はさておき、明日の朝になれば自警団と話をしましょうか。……ミメー女史、牢獄は酷でしょう。ルークさん、デッドさんと一緒の部屋にいてください」 有無を言わせぬ圧力で明日は言い放つ。 「じゃあ、俺も見張りを」 「ナオトはこっち。犯行現場に戻るの」 皆まで言わせず、明日はナオトの襟元を引っつかみ歩き出す。 ぽかんとする一同を背に、ずかずかと歩を進めた。 「犯行現場?」 「私達の仕事は探偵役じゃない。目当ての金貨を世界図書館に持ち帰ればそれでいい。でしょ? 犯行現場、もとい、パピーさんの部屋に行かないと」 「でも、この状況でそんなことしたら、泥棒!?」 つかつかつか、と前を歩く明日は急に立ち止まるとナオトの顔を覗き込んだ。 「ナオト」 明日は冷たく言い放った。 「次にこの世界に来る時は自警団にも気をつけなさい」 火のように湧き出るナオトの異議は、当然の如く、却下された。
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