__汝、健やかなる時も病める時も、喜びの時も哀しみの時も、富める時も貧しい時も、これを愛し、敬い、慰め、助け、そしてその命ある限り、真心を尽くすことを誓うか __……はい 「つまりそれがあなたの真心だったと?」 「……」 長い夢の終わりは、早すぎた目覚まし時計のようにピアニストの心を殴る。 だけど心構えだけは、不思議と出来ていた。 そう、本当はもう起きなければいけない時間だと、分かっていたから。 ◆ 「ところで」 「何かな」 青いローズマリーの花束を抱え、葉書に小さく印刷された簡素な地図を頼りにムジカ・アンジェロは壱番世界・日本のとある瀟洒な住宅街を歩いている。手にした葉書は古い友人から届いた結婚報告のそれで、手書きの地図には友人のものと見慣れないものと二つの筆跡で新居への訪問を歓迎するメッセージが添えられていた。しかしどうやら同行者がいるらしいが、それは予め決まっていたことではないようだ。 「何故ついてくるのかと聞かれたいか?」 「祝い事は人数が多いほうがいいに決まってる、じゃ駄目かい」 春先の、やわらかいがすこし冷たい風がムジカの頬を撫でる。同行者……古部利政が見せた控えめな笑顔と言葉は確かにその通りではあった。ムジカは肯定の意味を添えて、止めかけた足を再び進める。 「ローズマリーを花束にするというのも珍しいね」 「ん? ああ。祝い事だ、リクエストには応えないとな。奥方が好きだそうだ」 「なるほど」 本来なら園芸ハーブとして鉢植えにされることの多いローズマリーをわざわざ、花束に。リクエストといえば何ら不思議ではないが、利政の心には引っかかるものがあったのだろう。風に乗ったローズマリーの清冽な香りが、利政の嗅ぎ取った何かを揉み消すように二人の間に広がった。 「ローズマリー。奥方は肉料理がお得意なのかな」 道すがら呟いたのは、どちらだっただろう。 ◆ 「ムジカ、ムジカ! 久しいな、よく来てくれた」 「すまない、時間を作りたかったんだがなかなかね」 玄関のドアを開けた友人は、ムジカの顔を見るなり大げさなアクションで二人を歓迎した。元々こんな風に陽気な男だったが、三十路も終わりの遅い結婚で更に浮かれているかとつけていた多少の予測はどうやら当たっていたらしい。わざとらしくすら見えるその様子にムジカはやれやれと肩を竦め、利政は一歩後ろからただにこにこと見ていた。 「こちらは?」 「ああ、途中で会った知り合いだ」 「古部と申します。この度はおめでとうございます」 「そうか……そうか、いやありがとう。若い人に祝ってもらうと気恥ずかしいが喜びは変わらんよ、さあ上がってくれ」 利政の青い瞳が細められる。友人は嫌な顔ひとつ見せず来客用のスリッパをもう一対出して二人を居間に上げた。 「……」 「……」 居間の扉に続く短い廊下。居間へ一歩、また一歩と近づくたびに、利政がローズマリーに抱いた好奇心と期待は半ば確信に変わり、ムジカの心には何かしらの不審な影が差す。決して、ムジカが抱いた花束のものだけではない、鼻の奥をつんと刺激する目の覚めるような花の香り。この家の隅々を満たすそれは、隠し切れない何かを隠しているサインのように感じられた。 「……アンジェロ」 「ああ」 ほんのわずか、利政はその名を呼ぶことに躊躇いを見せた。そしてそこから後の言葉を紡ぐことはしなかった。ムジカも言外の空気を察したのか、聞き届けたというだけの返事のみをしてそれきり押し黙る。 この家には秘密がある。そしてそれは…… __今すぐに暴かれるべき __暴いてはならない そう、ローズマリーが確かに囁いたから。 ◆ 「今日は奥様は?」 「……残念ながら、しばらく戻らないんだ。用があって実家に帰っている」 友人手ずから淹れた紅茶も、居間のあらゆる場所に飾ってあるローズマリーのおかげでその香りがいまひとつ分からない。そんなことはおくびにも出さない利政の問いかけに、友人は至極残念そうに首をかしげてみせた。 「そうか、久しぶりに会えると思ったんだが仕方ない」 「何のおかまいも出来ずに申し訳ないよ、妻の料理は世界一なんだがね」 「へえ、それは素敵だ。こんなに美味い紅茶を淹れるご主人が言うのなら、"次は"是非ご相伴にあずかりたいな」 勿論紅茶の味など分かるような状態ではないが、台所に置かれた紅茶缶のブランド名をさりげなく確かめて、利政は『次は』の部分を心持ち強調するようにゆっくりと紡ぐ。人に不安を与えない話術と所作が持病のようにしみついてはいたが、今は少しずつ固まりつつある確信をもっと手ごたえあるものにしようと、探偵の本能が牙をちらりと見せていた。 「ところで、随分懐かしいピアノを置いたんだな。スタジオから持って来たのか?」 「ああ、いや、あれは……そう、インテリアさ! 売れない頃に使っていたのを見つけて買ったんだが、もう弾ける代物じゃあない」 「成る程、昔の相棒というわけだな」 利政がじわじわと追い詰めるような物言いを隠さなくなってきた真意を察したのか、ムジカが何か別の話題を探そうと居間に置かれたローズマリー以外のものにきょろ、と目を遣る。一番に目に付いたのはやはり、古いグランドピアノだった。南向きのフルオープンサッシから差し込む日差しを避けるように、居間の中央に置かれたそれは、遠目からでもところどころ小さな傷が目立つのが分かる。売れない頃……修行中に酒場のピアノ弾きでアルバイトをしていたと、そういえば前に話していただろうか。 「調律もしていない、本当に置いているだけだから、あまり触らないでくれよ」 「……人の楽器に黙って手をつけるほど野暮じゃないさ」 もう弾けないというのをやけに念押しするのがどことなく耳に残り、ムジカはそれ以上追及するのをやめる。それはまるで、あのグランドピアノに他の誰かが触れることで嫉妬しているようにも聞こえた。 「失礼ですが、奥様はいつ頃戻られるご予定ですか? 僕も予定を空けておかないと」 「ああ、……ええと、いつだったかな……! すまない、聞いてみないと分からんな。今はきっと出ているだろうから、今度電話をかけておこう」 一瞬のよどみ、その後すぐにすらすらと出てくる言葉たち。利政の不意の問いかけが薄皮を一枚ずつ剥ぐように、何かを暴く。 「(嘘をつくのは下手、か……いい友人なのだろうが)」 褒めた割りに手をつけていない紅茶の湯気を浴びて、利政はすん、と鼻をすする。相変わらず立ち込めるローズマリーの香りに、隠し切れない焦りの香りが混じったような気がした。 ◆ "彼、何を隠していると思う?" "さあな" この家で見聞きしたこと、感じたことを総合して、ここに隠された秘密のあらましをほぼ掴んだ利政が、ムジカにそれと分かるようトラベラーズノートを取り出して見せる。この家の主に隠れて伝えたいこと、空白のページにさらりと書きつけた言葉はそれでも利政の本心を隠している。それがわからないムジカではない、友人が隠しているのならそのままにしておくのが礼儀だとばかりに、曖昧な言葉で会話にならない会話を切り上げた。 それでも、綻びはいつか、無邪気な何かによって糸口を掴まれ、あっけなく裂け目へと変わる。まるでそうされるのを待っていたかのように。 「なあ、さっきから気になっていたんだが」 「どうした、トルバドール?」 友人が、触らぬよう何度も念押しを繰り返す割りに……友人は全くと言っていいほど居間のグランドピアノとは『目を合わせようと』しなかった。それは利政の確信をいっそう強める材料の一つでもあり、ムジカが持つ音楽家の勘が警鐘を鳴らすのに充分な所作でもある。ムジカが鍵盤の蓋に目を遣りながら気遣わしげにかける言葉、友人はおどけてみせたが、すぐにそれを後悔するだろう。 「弾けないのは分かるが……せめて掃除くらいしてやれないか」 革張りのソファから立ち上がり、今にも蓋を開けて鍵盤に触れそうな仕草でムジカが目を眇めた。遠慮がちに、初めて肌を重ねる女に触れるときのようにそっと、その指先が蓋を撫でる。うっすらと積もった埃が繊細な弧を描かせたが、『こんなことを言わせないでくれ』と言葉に出来なかった思いを代弁するようなため息がそれを少しだけ薄れさせた。舞った埃がちりりとムジカの指にまとわりついて、このグランドピアノから離れるように……あるいは留まるように訴えている。 「あ、ああ! やっているつもりなんだが、ムジカも知っているだろ、わたしの掃除が下手なのを! いいから、座りたまえよ。今茶菓子を……」 「ではつまり、ピアニストのあなたにとってこれは最早ピアノではない、と?」 利政がそれまでの善良な仮面を一枚だけ剥ぎ、青い瞳を楽しげに細めて唐突に問いかけた。『ピアノではない』その言葉が意味するのは。 ◆ 「……どういう意味だい、古部君」 「言葉通りですよ。あなたにとってこれは、ピアノではない別の何かだと言いました」 それ以上の言及を避け、にこりと笑ってみせる利政に、この家の主は既に敗北していた。そして利政の言葉に全てを悟ったムジカは敢えて黙っていた。友人が望むのならば踏み込むことは厭わないが、そうでないのなら触れずに立ち去ろうと決めてのことだったのだが。真実はいずれ明らかになるのだから、と。 「ローズマリー」 「!」 すっかり冷めた紅茶を大きく一口飲み下し、利政がわざと目を逸らしながらその花の名を呟く。 「和名は迷迭香(マンネンロウ)、花言葉は『思い出』『記憶』『追憶』。ロマンチックですよね。そしてハーブとしてのローズマリーは腐敗臭を隠し、肉の鮮度を保つ……故に死者の棺を飾ることもある」 ムジカがはっと顔を上げる。紅茶のおかわりを用意しようと準備していた友人の手が止まり、焦りと緊張、そして懼れに震えているのがありありと分かった。利政はそんな様子を理解したうえで滔々と言葉を畳み掛ける。 「この部屋に上がってから……いや、彼が花束をローズマリーにした理由を聞いてから、ずっと疑問に思ってたことを申し上げましょう。ローズマリーを好むのは、果たして奥様の……」 利政の話を無理に遮るように、ムジカがわざと音を立てて立ち上がった。縋るような眼差しを送る友人も目にくれず、グランドピアノの大屋根に手をかける。 「ムジカ!!」 鍵盤蓋をうっすら白く覆っていた埃が、この大屋根にはほとんど見られない。それにもっと早く気づくべきだった。ここだけは毎日開け閉めしていたのだと……。 __がちり…… ムジカの手を止める者はいなかった。 友人は最早項垂れ、利政は先ほどと何も変わらない笑みを崩さないままグランドピアノをただ見つめていた。 ◆ 穏やかな寝顔。 そう評するのがふさわしい、ただ眠っているようにしかみえない女性が、『そこ』に居た。中の弦も見えないほどに敷き詰められたローズマリーの生花と葉の中で、マーメイドラインのウェディングドレスを着ているのは、ムジカの記憶が確かであれば友人の妻に他ならなかった。 部屋で感じたのとは比べようもないほどの、噎せ返るようなローズマリーの香り。彼女がどれだけこの中に安置されていたのかは分からないが、ここにヒトの遺体があるなど黙っていれば分からないだろう。 「……いつ、だ」 「三日前だ……あの時も、眠っているとしか……」 三日前。ムジカがここを訪れると約束した日から、ちょうど一週間後の日付だった。 「何故このような事を?」 ローズマリーのベッドに眠る妻の遺体を眺め、利政が問う。その語調には悼みや死者への尊厳よりも、ただの知的好奇心が見え隠れしていた。 「怖かった……」 「それはあなたの罪が露見することが? それとも、他に何か?」 「違う!!!! 生きていたんだ、確かに! なあムジカ……! 生きていただろう!? ここを開けるまで、ムジカの中で彼女は……!!」 「……ああ」 ムジカはひとつだけ、嘘をついた。 そしてその代わり、哀しみと重圧ではじけ飛んだ友の心を拾い集めるように、次の言葉を選ぶ。 「その心の何処に罪がある? 少なくともおれの目には、あんたたちは今も仲睦まじいただの夫婦だ。今も……いや、これからも」 「……」 青い瞳に映る光景は、古部利政という探偵にとっては茶番でしかなかった。ジャケットの内ポケットにいつも入れている警察手帳__勿論利政の出身世界でのみ効力を発揮するものでしかないが、一般人に見せるだけならそれは壱番世界でも十二分である__を取り出しかけるが。 「余計なものを取り出すつもりか」 「おや、怖い怖い」 決して後ろを振り返らずにムジカが利政に告げる。その冷たくも力のこもった言葉は、今ここで自分たちが暴くべきではなかったかもしれない秘密への、手向けのようでもあった。 「誰もあんた達の在り方を否定はしない、だから」 __せめて安らかに眠れ、小さな死がやがて新しい生を連れてくるように 時は誰にも平等に流れ、止められない。わざと淀ませた水では生きていけないのだからと、ムジカは呟いてグランドピアノに花束を供えた。 ちらりと、利政がいつもの癖で左手首に視線を遣る。内側に文字盤を持って来た腕時計の針は、壱番世界日本のものではないでたらめな時間を指していた。時間は確かに、誰の中でも等しく流れ続けている。 ローズマリーの花言葉は、『思い出』『記憶』『追憶』そして、『私を想って』。
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