油混じりの雨がぬるりと纏わりつく。 古部利政は二つの手を見下ろしていた。切断され、紫に変色し始めた手が地べたに転がっているのだ。三歩先には両手首から先を失った女が死に顔を晒している。 二日前には足を見た。その前は長い髪の毛を。それより前は刳り抜かれた眼球と削ぎ落とされた鼻、抉り出された唇だった。 「どうしてこんなに薄暗いんだか」 無精髭を撫で、腕時計に目を落とす。秒針はミリ単位で時を刻み続けている。 早瀬桂也乃はホワイトボードの前に立っていた。マジックで書きつけられた文字は『バラバラ死体』、『覆面の男』、『落書き』。 「それと、『わたしはだあれ?』」 スーツ姿の古部が資料をめくる。古部の言葉を書き出していた桂也乃の手は動かない。古部は怪訝そうに顔を上げ、得心した。桂也乃は立ったまま眠っていた。 「きみ。起きてくれるかい」 肩を叩くと桂也乃は緩慢に目を開いた。彼にとっての睡眠は呼吸のようなものなのだ。 「ええと……何だっけ?」 「『わたしはだあれ?』だ」 古部は桂也乃の手からマジックを取って書きつけた。 通り魔事件が続いている。薄暗い雨の日に、誰かをばらばらに切り裂いていくのだ。インヤンガイでは珍しくもないし、古部の探偵事務所に依頼が舞い込んだのは初めの現場が事務所の近所だったせいにすぎなかった。 「本当に探偵なんだ。ロストナンバーなのに」 桂也乃は細い目――開いているのか閉じているのか分からない――をこすりながら事務所を見渡した。古部はディアスポラ現象でインヤンガイに落ち、そのまま探偵として暮らしている。 「世界図書館は迎えに来なかったのかい?」 「来てくれたが断った」 古部は穏やかな物腰で応じる。桂也乃は「ふうん」と柔らかに鼻を鳴らした。 「この町から出ないのかい」 「僕はね、結構ここを気に入ってるんだよ」 「なんで?」 「後で答えよう。今は手掛かりを整理させてもらえないかな」 古部は几帳面にネクタイを直しながらマジックを滑らせる。花のような唇、翡翠色の眼球、高い鼻、金髪、ほっそりした足、華奢で滑らかな手……。被害者たちから切り取られたパーツが時系列順に記されていく。切断部位は一つも持ち去られることなく、ただ死体の傍に転がっていた。 桂也乃は呼吸するように欠伸をしながら応接セットに目をやった。ガラステーブルの上に現場の写真が散らばっている。 「これも貼ったら?」 切断された死体のスナップを差し出す。すると古部の眉宇が険に曇った。しかしそれも一瞬で、すぐに礼儀正しい微笑に取って代わる。 「申し訳ないが、死体の写真は少々苦手でね」 (探偵なのに?) 桂也乃は訝ったが、「ふうん」とだけ応じることにした。 通り魔の被害者は六人。若い成人男女ばかりだ。うち一人は発見された時に息があり、「覆面の男」と言い残して事切れている。各々の現場のコンクリートには『わたしはだあれ?』という血文字と、同じく血で書かれた『くちびるは花のつぼみのよう』『宝石みたいなみどりの目がほしい』『たかい鼻がいい』『きんいろの髪がいい』『足はほそくないと』『おにんぎょうみたいな手がいい』という言葉、そして何の絵ともつかぬ血の落書きが残されていた。 「何か、下手くそ」 現場の写真を見ながら桂也乃は目を細めた。文字も落書きも幼子のように拙い。 「子供が犯人……なんてね」 「被害者の一人ははっきり男と証言した。子供の腕力で成人の遺体を切り刻めるとも思えない」 「んー、そうだね」 「眠いのならそこのソファに」 古部はちらと腕時計に目を落とし、言葉を継いだ。 「覆面をしていたのになぜ男と分かったのだろうね」 「んー、うん……声……とか、体格?」 桂也乃は寝癖とも癖毛ともつかぬ髪の毛を掻き回した。古部は形の良い頤に手を当てて思案顔を作る。被害者のうち、最初の一人は女だった。次の二人は男で、残り三人は女だ。 「体格で分かったなら犯人はマッチョかも」 桂也乃は持参の抱き枕を抱いてソファに座り込む。古部は「有り得る」と応じながら再び腕時計を確認した。大丈夫、時間はあの時から続いている。 とたとたと窓が打ち鳴らされた。また雨が降り出したのだ。 古部はテーブル上の写真に必要最低限の一瞥を投げた。現場に残された落書きを強引に読み取るなら、花に家、手を繋いだ人間だろうか。 人間らしきものは三体描かれている。大きな二体の間に小さな一体。 「何度も済まないが、起きてくれないか」 古部は紳士的に桂也乃を揺り起こした。枕を抱いて眠り込んでいた桂也乃はのろのろと顔を上げる。 「うん……何?」 「この絵、分からないかな。僕よりきみのほうが」 子供に近そうだと言いかけて古部は肩をすくめた。大学生といった風体の桂也乃だが、纏う空気は奇妙に老成している。 「うーん」 桂也乃は気を悪くした様子もなく写真を検めた。 「よくあるお絵描きっぽいけど。家と庭と……」 欠伸混じりに指先で写真をなぞる。 「あと、家族かな。大きいのが親で小さいのが子供じゃないか?」 「また子供か」 古部は再び顎に手を当てて唸った。 表が騒がしくなる。と思ったら、玄関ドアが荒々しく叩かれた。 「また通り魔だ。来てくれ」 飛び込んで来た住民の顔は青ざめていた。 七人目は大柄な男で、胸を一突きにされた上で全身の皮を剥がれていた。 手際は大層悪かったようだ。真っ赤な肉のあちこちに縮れた皮膚がこびりついている。剥ぎ取られた皮はがらくたのように打ち捨てられていた。 「色白さんだったんだね」 死体に残された皮に臆するでもなく桂也乃が呟いた。 『雪のようにしろい肌じゃないと駄目』 『わたしはだあれ?』 土の上の文字と落書きは雨でたちまち輪郭を失っていく。死体をどけると乾いた地面が現れた。雨が降る直前に殺されたのだろうか。 野次馬の中で押し殺した悲鳴が上がった。 さっと振り返った古部の目が逃げる人影を捉える。古部は素早く身を翻してその人物を追った。捕まえたのは中年の男だった。 「わ、私は何も。何も知らないし関係ないんです」 勘弁してくれとばかりに男は古部を拝み倒す。古部は爽やかな微笑を作って男の腕を取った。 「関係あるかどうかはこちらが決める。話を聞かせてもらえないかな」 どさりと、何かが崩れ落ちるような音がした。振り返った古部は目をぱちくりさせる。死体を見ても平然としていた桂也乃が倒れ伏しているではないか。 「ふわ……ああ、ごめん」 助け起こすと、桂也乃は物憂い手つきで目をこすった。 「動いたから疲れたみたい。いつもは立ったまま眠れるんだけど」 「寝つきが良くて羨ましいよ」 古部はまんざら皮肉でもなく述べた。 古部が捕まえた男は庭師だった。仕事で富豪の邸宅に出入りすることも多いという。 「大したことじゃないんですけど」 古部の事務所に通された庭師は小心で、しきりにおどおどとしていた。 「通り魔事件で思い出したことがあって……偶然の一致かも知れないんですけど……」 「ゆっくりでいいから聞かせて欲しい。僕は民間の探偵だ、緊張しなくていいんだよ」 古部は微笑を崩さぬまま発言を促した。温和な物腰に警戒を解いたのか、庭師の肩からこわばりが抜けていく。 「数年前、ヤン家というお屋敷に仕事に行きました。仕事の内容は造園とか剪定とかです。そこの家、一人娘を亡くして神経質になってるって聞いたんですけど……子供がいたんです。とても可愛い子が」 子供は少女の恰好をしていたが、どう見ても少年だったのだ。 「何度かお茶を振る舞われて、一人娘の写真も見せてくれました。この辺りじゃ珍しい金髪に緑の目、真っ白な肌の綺麗な女の子。名前はミンファとか言ったかな」 「男の子のほうはどうだったんだい?」 「金髪に緑の目でした。髪はかつらに見えましたけど。肌の色は、まあ、普通って感じで。色白でも色黒でもない」 庭師の仕事は滞りなく済み、数日で屋敷を後にした。屋敷のあるじ夫婦は庭師の腕を気に入り、その後も幾度か呼んでは庭を造らせたそうだ。 「最後にお邪魔したのは去年でしたが……その」 庭師は躊躇いがちに目を伏せた。 「何かおかしかったんです。男の子は発育が良くて、ほとんど大人みたいな体格をしてました。なのにひらひらの女の子の服を着せられて親に連れられて。両親も子供もとても幸せそうで……ぞっとしました。何となく、ですけど」 「結局、その男の子は誰だったんだろ」 桂也乃が欠伸混じりに首を傾げる。庭師はおぞましい物でも見たようにぶるりと震えた。 「噂じゃ、娘の面影のある浮浪児を父親が拾ってきたらしいです。娘の代わりをさせるために」 雨は止まない。 古部はホワイトボードに貼り出した地図に六件目の現場をマークした。そしてはたと手を止めた。 現場は円を描くように位置している。円は徐々に小さくなっているようだ。 円の中心にはヤン家の邸宅が陣取っている。 「ミンファって、壱番世界なら明るい花って書くのかな」 庭師を見送り、桂也乃がゆるゆると欠伸を漏らした。 「花の落書き、さっきの現場に沢山あったよね」 「そうだったかい?」 腕時計に目を落としていた古部はひょいと眉を持ち上げた。 「雨ですぐ消えてしまったようだけど」 「ちらっとだけ見えたんだ。ちゃんと覚えてる。いっぱいの花と……」 桂也乃は記憶を手繰るように人差し指をこめかみに当てる。 「あと、人が一人だけぽつーんって。子供か大人かは分かんないけど」 カラスの濁声が降ってきた。 雨が近い。 ヤン家は薄暗がりの底に聳えている。刺つきの鉄柵で囲われた様はまるで要塞だ。特別に手配された警備の人員が厳重に門を守っている。 湿気に沈む小路に黒い覆面の大男が潜んでた。 ヤン家の豪邸を凝視してどれくらい経っただろう。空はますます重く低く垂れ込めていく。 男はとうとう一歩を踏み出した。 「はい、そこまで」 途端に後ろから腕を掴まれ、息を呑んだ。無精髭の男が上品に微笑んでいる。後ろには眠そうな顔の若者の姿。 「随分立派な邸宅だね」 無精髭の男――古部は人好きのする笑みを浮かべた。 「ヤン家のことを少し調べたよ。先ごろ、狂った妻を当主が閉じ込めたそうだ。時期を同じくして夫妻の子供が行方不明に。きみと関係あるのかな?」 「うるさい!」 男はひび割れた声で吠えた。 大ぶりのナイフが空を切り裂き、古部は素早く後退した。男の着衣から不穏な金属音が聞こえる。遺体切断のための道具でも呑んでいるのか。 「ガタイいいね。お金持ちだから栄養が良かったんだね」 桂也乃が目をこすりながら言う。振り返った男の刃が桂也乃へと向いた。すかさず古部が男の手首に手刀を叩き込む。取り落とされたナイフは狂ったように回転しながら地べたを滑っていく。 「何か知ってるの?」 少女のように男は問うた。老人のように潰れた声で、獣のように息を荒げながら。 「多少はね」 古部は男の懐に飛び込み、一息に投げ飛ばした。がしゃん。金属音と共に男の体が叩きつけられる。しかし男は何事もなかったように立ち上がる。 「よいしょっと」 ぽん。クラッカーが弾け、空気砲が放たれた。桂也乃のトラベルギアだ。カラフルなテープが曇天の下で場違いに舞う。男の動きが刹那鈍り、古部が双手刈りを掛けた。転倒した男は古部を払いのけ、やはり何食わぬ顔で立ち上がった。 「わたしはだあれ?」 そして少女のように問う。擦り切れかけた覆面の下からひゅーひゅーと空気音が漏れている。 「わたしはだれなの?」 いびつな男のいびつな問いかけが続く。古部は答えない。代わりにスーツの内側に手を差し込む。 静寂が張り詰めていく。呼吸すら躊躇われるほどに。 こんな時でも桂也乃は平静であった。つまりとても眠たかったのだ。 「ふあ……分かんないけど」 のろのろと、ひどく億劫そうにクラッカーを構える。 「少なくともヤン・ミンファではないだろ?」 ぽん! 祝福のように撃ち出される紙テープ。空気砲で男がよろめき、古部の銃が咆哮した。 さああああ……。ヴェールのように小雨が降り注ぐ。 覆面の男は脳天を撃ち抜かれて絶命した。黒ずんだ血が雨で薄められながら広がっていく。不意に死体がごとりと跳ねた。古部が馬乗りになったのだ。 「顔を拝ませてもらおうか」 微笑みさえ浮かべながら覆面を剥ぎ取る。 桂也乃は嘆息混じりの欠伸を漏らした。 覆面の下の顔は化け物じみていた。継ぎ接ぎだらけで、あちこち引き攣れながら歪み、口には呼吸用のチューブが差し込まれている。 「ミンファに近付くためにやみくもに整形を繰り返したのかな。体もだいぶいじったようだね」 雨の下、古部は手際良く男を暴いていく。着衣の下の体も顔面と似たようなものだった。あちこちにボルトやプレートが埋め込まれた様は出来損ないのサイボーグのよう。金属で繋がれた関節はところどころ腐蝕して爛れ落ちていた。 庭師の証言から察するに男はまだ少年なのかも知れない。しかしこの有様では年齢すらも判然としない。 「残念ながら女性には見えないな。幼いうちは似ていたのかも知れないが」 「死体切り刻んで、ミンファのパーツが欲しかったのかな……その割にはゴミみたいに捨ててあったけど。別にいいけど」 桂也乃の髪は湿気を吸って重たくなり始めていた。しかし桂也乃は意に介さない。桂也乃は枕のことばかり考えている。 「もはや何も分からないよ」 古部は肩を揺すった。明らかになったのは目の前の男が犯人という事実だけだ。 「だけどもう被害者は出ない。治安を守るってこういうことじゃないのかい?」 桂也乃はふと目を開いた。 霊力灯の光が薄く頬を温めている。欠伸混じりに体を起こすとガラステーブルが目に入った。古部の事務所のソファで眠り込んでしまったらしい。 「枕子さんは俺の最後の恋人だ……」 抱き枕に顔をうずめる。 心地良い眠りに没入しようとした時、慌ただしくネクタイを締めながら古部が入って来た。 「ああ、起きたのかい。お疲れ様」 古部のワイシャツには皺も疲れもない。背広に腕を通し、腕時計を確認しながら身なりを整える。 「また事件かい?」 「今度は強盗だそうだ。きみは休んでいるといい」 「そうするよ」 枕に頬ずりし、桂也乃は何かを思い出したように視線を持ち上げた。 「君はどうしてこの街から出ないんだっけ?」 「気に入っているからさ」 古部はステンカラーコートを颯爽と羽織った。 「どうして気に入っているんだい?」 靴を履く背中を桂也乃の寝ぼけ声が追いかける。 古部が振り返った。誠実な形の唇が微笑みと共に言葉を紡ぐ。しかし桂也乃の耳朶に届くことはなかった。桂也乃は、ひどく急速に眠りの沼に吸い込まれていた。 (了)
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