「インヤンガイで、殺人鬼を保護してもらえませんか」 あまり面白くなさそうな顔と声で、唐突に現われたやる気のなさそうな世界司書が依頼する。その言葉を聞いたほとんどが眉を顰め、は? と険の潜んだ声で聞き返した。「殺人鬼、を? から、じゃなくて?」「を、ですね」 どうでもよさそうに頷いた司書は導きの書を捲り、事情の説明を始める。「ここ最近、ある街区で三名が連続して殺されています。次はその犯人が殺される、と導きの書に出ました。その前に保護し、探偵に引き渡してほしいというのが今回の依頼です」「保護とはいえ、殺されるのを防げってだけね? 引き渡したら裁いてくれるんでしょうね」 一人が表情を曇らせたまま尋ねると、司書は揺れるように頷いた。「探偵が責任を持って、と」「ふぅん。けど殺人鬼が誰か分かってるなら、さっさと捕まえればいいんじゃないの?」 導きの書に出たんでしょうの尋ねに、司書は残念ながらと小さく頭を振った。「犯人が殺されるとは出ましたが、誰かは分かりません」「でも、それだと守りようもなくない?」「探偵に曰く、容疑者は三人。……以前、フーツィーという暴霊について依頼したのをご記憶でしょうか」 唐突な問いかけだったが、その場にいる何人かが覚えてると記憶を辿った。「元ロストナンバーの恋人を殺されて、復讐しに行ったら返り討ちにあったってあれ?」「じゃあ探偵って、貝の鈴を持ってた人か」 あらましを口にして納得したように頷いている周りを他所に、司書は導きの書を捲った。「今回殺された三人は、そのフーツィーの死体と様子がよく似ていたそうです。同一犯、若しくは彼の死体を見た者が犯人と仮定して調べたところ、浮かんだ容疑者が三人」 熱を帯びない声で説明した司書は、三人の情報をと促されて導きの書を何頁か戻した。「一人は飲み屋で働いている二十代男性。一人は売れない舞台役者で、四十代男性。最後の一人は家事手伝いの二十代女性。三人とも五年以内に家族を亡くしていて十日に一度は教会に訪れますが、互いに知り合いというわけではなさそうです」 誰であれ亡くす痛みは知っているんでしょうにねぇ、と独り言めいて呟いた司書は、頁を捲って言い忘れに気づいたのか、片方の眉を上げた。「もう一つ。殺人鬼を狙うのは、前回ヴォロスにて執事を狙った相手のようです」「っ、それって音に拘ってこそこそしてた、あの!?」「今までと狙う相手が随分違うみたいだけど……、殺人鬼を殺してどんな音を望んでるの?」 不審げに顔を見合わせた何人かの疑問に、さぁ、と首を傾げながら司書は導きの書を閉じた。「とりあえず前回でようやく容貌と能力も知れたことですし、そろそろ決着をつけられると有難いところです」 迷惑な能力ですけどねぇ、と眉を顰めて呟いた司書は、誰を見るともなしにようやく視線を上げた。「できれば受けて頂きたいとお願いする身ですが……、後味のいい結末になるとは限りません。下手をすれば、あなた方の身も危うくなるでしょう。受けてくださる場合も、どうかくれぐれもご注意を」 少しだけ真面目に頭を下げてそう告げた司書は、そのまま踵を返した。「お帰り。ものすーっごい久し振りに、お帰り」 棘のある言葉が響き、たった今そこに足を踏み入れた存在は何の感慨もなく視線を上げた。人の気配がしないがらんとした礼拝堂は、寒々とした空気を湛えている。長椅子の一つに誰かが置き忘れていったのか、ぽつんと転がっている人形が何だか物悲しい。「人の留守中に、勝手に入らないでもらえませんかねぇ」「つーか、あたしがいつからここで待ってたと思ってんのよう!」「そんな興味のないことを聞かれましても。……相変わらず無様な猫ですね」「何をう!? ちまっちま手縫いした可愛い猫の人形に、どんな暴言!?」 愛くるしいと言いなさいと文句をつけながら立ち上がったのは、忘れ物かと思われていたその人形。憤然とした様子で短い腕を組んだ猫は、あんたさぁとますます刺々しい声を出した。「あたし相手にも姿見せないってどういう了見よう!」「煩いお子様は苦手なので」「お子様と分かってるなら、尚更大事にしなさい!」 見当違いの方向に腕を振り回して主張する猫を適当にあしらい、それよりと話を変える。「私は忙しいんです、くだらない用件でしたら帰ってください」「あんたねぇ、今こっちがどんな事態になってるか分かってんの!?」 忙しいのはこっちよと金切り声を上げる猫に、興味はありませんと肩を竦める。途端、猫は剣呑な空気を醸し出して声を低めた。「戻ってせめて手伝ってる素振りくらい見せないと、あんた、消されるわよ?」 どこか本気で心配したようにも聞こえるそれに喉の奥で笑い、持っていた分厚い本を猫の側へと投げ置いた。突然現れたように見えたのだろう、一瞬身体を竦めた猫を眺めながら言う。「好きに行動できないで、生きている価値がどこにあるんです? ──まぁ、そろそろ潮時だとは思ってますよ。顔も見られましたしねぇ」「あんたが顔を見られたの!?」 どうやってと驚いたように聞き返してきた猫は、けれど答えを待つ間もなく何かに気づいたように側の黒い本へと顔を向け、何これと足先でつついた。「この前見た時は、ナイフでも刺さったような跡しかなかったのに。ばっさり切られてるじゃない」 ひょっとして怪我でもしたのと語尾を上げられ、溜め息で返す。猫は笑うように息を吐いて、細い尻尾を揺らした。「あんたも焼きが回ったわね、姿を見られた挙句に怪我までしたなんて!」 これを機会に戻ってきたらと懲りずに繰り返される言葉に、やるべきことがありますのでと笑みを浮かべた。「やるべきって? はじまりの音が消えたから、次の音を探しに行ったんじゃないの」「小さくなっただけで、消えたわけではありません。けれどもう私が聞けなくなるのなら、何の意味があるでしょう」 いく前にこの手で確実に消さなくては、とまだ少し痛む右腕を持ち上げて見下ろす。死ぬ気なの? と小さな問いかけに答えるつもりはなく、唇の端を僅かに歪めた。 しばらく黙っていた猫は破損した黒い本の上に腰掛けると、馬鹿馬鹿しそうに首を横に揺らした。「ま、あんたの悪趣味は今に始まったわけじゃないか」 生きるも死ぬも好きにしたらと投げ遣りにした猫は、けどさぁ、と声に喜色を潜ませて探すように顔を巡らせた。「あんたがいない間も、この町、いい音に満ちてると思わなーい?」「──この雑音、君の仕業ですか」 ちらりと視線を落として低く尋ねると、猫はけらけらと笑って否定する。「あんたの機嫌を損ねたら、死ねって命令されて終わりじゃない? しないわよ、そんな無謀。でもそれを知らない子羊が、あんたの仮面に騙されて楽しく迷子になってるみたいよう」 満ちろ、奏でろ、と変な節をつけて歌う猫が無様に踊る姿など見ていられる物ではなく、無造作に捕まえて冷たく見下ろした。「煩い猫ですねぇ。《少し黙っていなさい》」 お人形らしくね、と嫌味に付け加えるとぴたりと動かなくなった人形を椅子の上に放り出す。「はじまりの音の前に、片付けることが増えたみたいですねぇ」 ああ面倒臭いと感情の乗らない声で呟いた時、帰ってるのか、と外から聞こえた声に振り返って礼拝堂を出た。僅かの庭を挟んだ黒い柵の向こうに知った姿を見つけ、目を細める。「おや、探偵さん。お久し振りですねぇ。もうお祈りはやめられたのかと思いましたよ」「何を抜かしてやがる、来てもいなかったのはお前のほうだろう」「おや、それは失礼を」 もういらっしゃらないと思ったものでと笑みを深めて返すと、探偵は小さく鼻で笑った。身体が揺れた拍子に、ちりん、と小さな音が届く。「相変わらず似非神父だな」「それでも神父に変わりはありませんよ。私も戻ったことですし、お祈りしていかれませんか」 いる間はお役に立ちますよと勧めると、遠慮すると苦く笑った探偵はひらと手を揺らした。「珍しく人の気配があったから、声をかけただけだ。今はちょっと忙しいんでな」 じゃあなと言い残してさっさと離れていく探偵を見送ると、ゆっくりと笑みを深めて静かに見下ろしてくる十字架へと振り返った。「さて……、色々忙しくなりそうですね」
事務所で出迎えた探偵はドアをノックした早瀬桂也乃の顔を眺めて後ろの面々を確かめ、入ってくれと促して部屋に戻って行った。適当に座ってくれていいとソファを示されるので、桂也乃は抱き枕を大事に抱えたまま奥の席に向かう。隣に古部利政が座り、向かいに女性陣が並んだところでリーリス・キャロンがタオフーおじちゃんと探偵を呼んだ。 「三人の写真あるかな? 顔が知りたいの」 早速そう切り出されて軽く眉を上げた探偵は、書類を持って戻ると机に並べた。左上に一枚ずつ写真が添付されていて、どれもよく顔が分かった。 「年齢性別職業もバラバラか。三人を選んだ理由を聞いても?」 書類を眺めながらの古部の尋ねに、選んだのは俺じゃないがなと探偵は肩を竦めた。 「この三人、教会で見かける程度の関係らしいが全員ジョカとは知り合いだった」 言いながらまた別の書類が机に置かれ、そこには十字を抱く教会の外観。 「インヤンガイに十字教、ね。こちらでは珍しくないのかい」 「そういうと、他に見ねぇな。けどあの神父が他所から来て始めたもんだからな」 そんなもんじゃないのかと聞き返した探偵に、古部は何度か頷いて人好きのする笑みを浮かべた。 「話を遮って失礼」 続けてくれと先を促され、探偵は教会の写真を顎先で示した。 「ジョカもよく教会に顔を出して、奉仕活動をしてたらしい。家族を失って落ち込んでた、その三人の下にも通ってたそうだ」 「それ、前回の依頼の時には聞かされなかったんじゃない?」 情報を出し惜しみしたのとキャロンが拗ねたように咎めると、探偵は苦く笑って最近知ったんだと答えながら一冊の手帳を出した。 「フーツィは結局、部屋も片付けないまま逝っちまったからな。代わりに片付けて、ジョカが日記代わりに書き留めてたこれを見つけた。多分、あいつも読んだはずだ」 言って机に置かれたそれを桂也乃が開くと、何かがおかしい、と走り書きのような言葉が目についた。 開き癖がついているせいで、真っ先に飛び込んでくる最後のページ。戻していくと殺される二三日前は、教会に通い詰めていたのが分かる。 「フーツィは、きみにこれを話さなかった?」 「ああ。……ジョカが殺された時間、俺はあいつと一緒にいた。だからこそ犯人探しも依頼してきたんだろうが、その手帳を読めば嫌でも教会関係者が怪しいと思う。最後の最後で、俺も信じられなくなったんだろうさ」 そうして一人で殺されに行ったと息を吐くように続けた探偵に、シーアールシー ゼロが質問なのですと手を上げた。 「探偵さんは、教会の人なのです?」 不思議そうに首を傾げられ、探偵は自嘲するように唇を歪めた。 「助けてくれねぇと分かっていても……、縋りたくなるほど血迷った時もあったのさ」 礼拝堂で座ってただけだがなと投げるように答えた探偵は、それはどうでもいいと頭を振った。 「フーツィが俺のところに来たのは、神父に紹介されたからだと言ってた。フーツィには俺も関係者と思えたんだろう」 「ここまで教会が絡んでくると、彼も教会で殺されていたのかと思ってしまう。それともその教会で死者の様子が判るような葬儀でもしたのかい」 僅かに皮肉に古部が語尾を上げると、探偵はそんな葬儀は勘弁だなと顔を顰めて書類を捲った。そこに簡略した地図があって、教会の庭が窺える細い路地に印がついている。 「フーツィが死んでたのはここだ。神父からあいつを見たと連絡を受けて辿り着いた時には、死体の周りにこの三人がいた」 言いながら先に出した書類に視線を戻した探偵は、左から順番に押し出して説明する。 「役者崩れは教会に向かうところ、飲み屋の男は奥の路地にある自分の店に向かうところ、女は教会で祈ってる時に、物音がして覗きに行ったら死体が転がってたらしい」 あくまで本人の主張だがなと続けた探偵に、今まで黙っていた吉備サクラが真ん中の書類を指した。彼女のオウルフォームのセクタンが指を追うように、ちょんと机に乗る。 「嫌なことを思い出させて申し訳ないんですが、ジョカさんって出血多量だったんですよね」 「ああ、一面血の海だった。身体中の急所が裂かれてたらしい」 「この中で、人体の急所なんかに詳しそうなのって京劇役者さんかなって。それにフーツィさんが、協力に来た内の一人を撃ったそうですね。彼の口調、京劇役者さんによく似ていて間違えた、とかありませんか」 あまり自信はなさそうに尋ねた吉備に、教会の外観ばかり眺めていた古部が何度か頷いた。 「成る程、殺人鬼が彼であっても不思議はない。けれどジョカを殺したのは、果たして彼だろうか」 尋ねるというよりはどこか断定的に、古部はにこりと笑った。 抱き枕と一緒に膝に乗っているフォックスフォームのセクタン──漱石の尻尾を撫でていた桂也乃がちらりと隣を窺うと、自分の膝に肘を突くようにして軽く身を乗り出させた古部は真っ直ぐに探偵を見据えた。 「きみは今動いている犯人が模倣犯である可能性も残している。本当はもう一人容疑者が居るんじゃないかい」 どこか面白がっているようにも聞こえる調子で語尾を上げられ、探偵が組んでいる手に少し力を込めたのが分かる。 「もう一人、……教会関係者」 なぞるように繰り返した吉備の言葉を受けて、神父ねとキャロンがさらりと答える。小さく肩を震わせた探偵を他所に、古部は穏やかに笑ったまま。 「その可能性を思いつかなかったなら、僕はきみの能力を疑うね」 その必要はないだろうけれどと穏やかに続ける古部にも沈黙を保っている探偵を見て、シーアールシーは小さなメモを取り出した。探偵に見えるように置かれたそれには幾つかの日付があり、他世界で事件のあった日だろう。 「ゼロたちが追う犯人さんは、他所でも事件を起こしているのです。この期間、神父さんはこの町にいたのです?」 詰め寄るではなく淡々と問われ、探偵はしばらくメモを眺めた後に小さく息を吐いた。 「常に見張ってたわけじゃないが、いなかったはずだ。元より教会が開いてたところで、神父を見る機会は少ないからな」 「奥で寝てたとかじゃなくて?」 何故かちらりとこちらを見ながら首を傾げたキャロンに、探偵は緩く頭を振った。 「礼拝堂以外に、人の気配はなかった」 「教会を開けたまま出かけるなんて、剛毅ですね」 物騒なのにと目を瞬かせた吉備に、探偵は奉仕の精神らしいとどうでもよさそうに答えた。 「特に金目の物もないが、盗られたところで構わないそうだ」 「……探偵さんは、神父さんと親しくしていたんだね」 淀みなく答える様子をじっと見ていた桂也乃が静かに尋ねると、探偵は皮肉げに口の端を持ち上げた。 「客を紹介される程度には、な」 「依頼人があれば、きみも蹲ったままではいられないだろうからね」 今回はそうするかいと目を細めるようにした古部に、探偵はまさかと掠れるような声で呟いた。 「そうできるなら、探偵なんざ因果な商売をやっちゃないさ」 誰であれ捕らえるまでだと微かに震える声でも強く断言した探偵に、桂也乃は知らず詰めていた息をそっと吐いた。 「ところで」 少し眠そうにした早瀬が抱き枕の置き場所に困ったような様子で、ふとゼロに顔を向けてきた。 「君が知る犯人の様子、詳しく聞かせてくれないかな」 会ったのは君だけみたいだからと水を向けた早瀬に、そうでしたと吉備が手を打って胸に下げていたペンダントに軽く触れ、一枚の写真を取り出す。 「司書さんに見せてもらった姿です。探偵さんは、ご存知の方ですか?」 身を乗り出させるようにして写真を見せる吉備も答えに見当をつけていただろうが、ゼロたちが望んだまま首を縦には振られなかった。 「いや、知らない顔だな」 「本当に? いつも会ってるのは変装した姿かもしれないよ、もっとよく見て」 じっくり見てとキャロンに詰め寄られた探偵は、そう言われてもなと眉を上げた。 「これでも職業柄、特徴を捉えるのは得意なんだが。神父とは似ても似つかねぇ」 戸惑ったように答える探偵に嘘をついた様子はなく、ゼロは何度か目を瞬かせて吉備と顔を見合わせた。 「どういうことでしょう、神父さんは関係ないんですか?」 「関係ないなら、いいことなのです」 でも、と一抹の不安を拭いきれずにいると、お願いと早瀬がぽつりと呟いた。 「そうだな、僕たちが追うのが神父かは分からない。けれど殺人鬼を追うきみが狙われないとは限らないから、教えておいたほうがいいだろう」 厄介な相手でねと軽く肩を竦めた古部は、吉備が持つ写真を少し遠く眺める。 「お願いと称した、命令に従わせる絶対的な能力があるらしい。例えば死ねと言われても聞いてしまうほどの」 「自分の顔を錯覚しろって命令を、既に受けているかもしれないね」 「、最初からそうされてたんじゃ、お手上げだな」 不快げに眉根を寄せた探偵は大きく舌打ちし、役に立たなくてすまんと頭を下げた。 「けど、トラジェディアン──悲劇作家がどうして殺人鬼を狙うんでしょう」 今までの事件とは傾向が違いますよねと吉備が誰にともなくぽつりと尋ねたのを受けて、中古楽器だと思うのですとゼロは私見を述べる。 「中古楽器」 「殺人鬼は今回の犯人により楽器として選ばれた。けれどもういらなくなったから処分する、という発想か」 「二回目以降の犯行は不明としても、殺人鬼への第一歩は犯人に唆されてではないかと思うのです」 古部の言葉に頷くと、単に狩場を荒らされたからよと小さな声が聞こえた。声を辿るようにして顔を巡らせると、視線に気づいたらしいキャロンは大仰に目を瞠ってみせた。 「私に聞かないでね? 私は魔術師の卵で探偵じゃないもの、推理は任せるわ。リーリスは怪我人が出た時の治療役よ?」 意味ありげににこりと笑って首を振ったキャロンは、でもまぁ、と軽く天井を仰いだ。 「こんなまどろっこしいことをしてないで、直接会えばすむ話じゃない?」 「けど直接会ってお願いをされたら、」 危険ですと吉備が眉根を寄せ、ちらりと探偵を窺う。察して軽く手を上げた探偵が席を外したのを確かめ、吉備は声を落とす。 「ゼロさん以外は悲劇作家とは初見ですよね。 私達が悲劇作家に見つけられないよう、全員の頭の上にインヤンガイの階層数をつけません?」 そのほうが一目で見分けられることはないと思うんです、と提案される。身を乗り出すのに邪魔だったのだろう、抱き枕を心なし残念そうにソファに置いた早瀬が不思議そうに、どうやって? と尋ねると、吉備は鍵型のペンダントを軽く持ち上げた。 「これ、私のギアで思った通りの幻覚を見せられます」 因みにこの写真も幻覚です、と持っていたそれを揺らしてみせた。 「見える範囲全域にいる全ての人に階層数を被せるのは可能です」 「確かに有効そうだけど、それだと誰の目にも映るようにならないかい?」 犯人以外の一般人にも、と何気ない早瀬の突っ込みに、吉備はぐっと拳を作った。 「そこはそれ、全力で誤魔化してください」 手段を各人に丸投げして清々しく断言した吉備に、ゼロは面白そうなのですと目を輝かせたがすぐに思い出してしゅんとした。 「でも今回は、ゼロがやっては意味がないのです……」 涙を呑んで断念なのですとがっくりしたゼロは、んー、と何か考えたように顎先に指を当てたキャロンに視線を変えた。 「でも、直接見ても会わなければいいのよね?」 なぞなぞのようなことを言って微笑んだキャロンは、偵察は任せてと身体を起こした。 「リーリスが鳩に化けて教会の様子を覗いてくるね? ついでに容疑者も、教会に来るようなら誰が犯人か調べてきてあげる」 「でも、一人では危険なのです!」 「大丈夫、そんなへましないから」 宥めるように頷いたキャロンは、行ってくるねと早速出て行こうとする。待ってと引き止めた早瀬は、セクタンを下ろしてこちらも立ち上がった。 「先に偵察してもらうとしても、俺たちも教会に行くよ。容疑者以外を入れないようにして、そこで決着をつけられるのが一番いいだろうし」 「私もゆりりんのミネルヴァの眼で、教会付近を見張ります」 机に乗っていたセクタンを抱き上げてお願いねと言い聞かせている吉備を見て、キャロンは可愛らしく頬に手を当てて嘆息した。 「分かった、とりあえず先に行くね」 キミは一緒に行く? と吉備のセクタンを指先でつついたキャロンは、また後でねとひらりと手を揺らすと窓辺にいる探偵のほうへと向かった。話はすんだのかと尋ねられ、うんと頷きながら窓を開けるキャロンに探偵は不審な顔をする。けれど止める間もなくキャロンはさっと窓を乗り越え、後を追うように吉備のセクタンが窓から飛び出して行った。 何が起きたのかと戸惑う探偵を他所に鳩が一羽、薄暗い曇天を裂くように白く羽ばたいて行った。 先に向かったキャロンの姿が見えなくなってすぐ、利政たちも探偵事務所を出て教会へと向かっていた。さすがに抱き枕を置いてきた早瀬は代わりのようにセクタンの漱石を抱いていて、少し後ろを歩く探偵に振り返った。 「ところで容疑者の三人は、今どこにいるか分かるのかな」 「どいつも普段通りに暮らしてる、今時分なら、」 言って時計を確認した探偵は、そろそろ祈りの時間だと続けた。 「昨日覗いたら、珍しく神父が戻ってたからな。あの三人なら知ってるだろうし、教会に来るはずだ」 探偵の言葉を合図のように、トラベラーズノートにキャロンから連絡が入る。 <一人目が来たよ。役者のおじちゃんみたい> 「あ、今教会の裏を通っているのがもう一人の男性ですね」 セクタンの目を通して発見したらしい吉備が続いて女性を見つけたのと、神父もいる、とキャロンの報告が入ったのはほぼ同時だった。 <声はしたけど、告解室にいるみたい。……んもう、いいところに窓がない> いっそ中に入って確認したいといった様子が伝わってくるノートを見て、慎重に、と利政もノートに書き込んだ。 <御誂え向きに、容疑者の三人も揃った。できれば他の人が入れないよう画策してほしい。僕らも急いで向かう> 書き込むとノートを閉じて走り、教会が見えた辺りでキャロンが手を振っているのを見つけた。 「今最後の女性が入ったところ。早く入って。そしたら後は誰も入れないでって、お願いしてきたから」 にこりと笑って告げられたそれに早瀬がお願い? と聞き返すと、キャロンは悪戯っぽく笑った。 「お願いは本来、リーリスみたいに可愛い子の特権よ?」 「それはいいが、犯人のお願いとやらに対する対策はどうするんだ」 探偵が不安げに尋ねると、シーアールシーが耳栓を取り出した。 「連絡はトラベラーズノートでできるのです。これでお願いは聞かずにすむのです」 「……普段使いにはほしいかも」 どうにも本気っぽく呟いた早瀬は受け取ったそれを軽く握ったが、一先ず話がしたいかなと漱石を撫でて下ろした。 「いざとなったら頼むよ」 もう一度ふわりと撫でられた漱石はすんと鼻を鳴らし、ひょこひょこと先に教会へと入っていく。吉備も彼女を見つけて戻ってきたセクタンに、行ってと教会を示した。音もなくふわっと飛び上がったセクタンは、礼拝堂に入り込むと高い天井の一角へと身を潜ませたらしい。 「役者さんの姿が見えませんね。女性は一番後ろの座席、左端に座ってお祈りしているみたいです。男性は神像の側、立ったまま見上げています」 「神像の向かって左に告解室だ。中にいないなら、役者はそこだろう」 探偵が言い添えたのを聞き、利政は僅かに眉を寄せた。 「彼が殺人鬼なら、密室で殺されても分からないな」 「大丈夫よ、あのおじちゃんは殺人鬼じゃなかったから」 笑顔で請け負うキャロンに、シーアールシーが何度か目を瞬かせた。 「どうして分かったのです?」 「ふふ。それは秘密」 でも確かよと軽く頷くキャロンに、早瀬は軽く頬をかいた。 「とりあえず、告解室に乗り込むわけにはいかないし。まず二人に確認してみるのはどうかな」 「何か最適な確認方法でも?」 どこか揶揄するように尋ねると、早瀬は相変わらず眠たそうな目を瞬かせて笑った。 「犯人かい? って聞いて、逆上して襲ってきたほうがそうだ」 「わーお」 直接的すぎませんかと思わず確認している吉備の横で笑いを堪えていると、いいのかそんなことでと探偵も複雑そうな顔をする。けれど、手っ取り早いよねと聞き返されては続ける言葉がないらしい。 「まぁ、ここで話していても始まらない。桂也乃の案に乗るかは置いておいて、中に入るか」 まだ少し口許は笑ったまま促して礼拝堂に入ると、胡乱げな視線を向けてくる男性と対照的に祈りをやめない女性の位置を視線だけで確認した。目が合った男性にこんにちはと頭を下げると、目礼だけを返してすぐに神像へと戻された。 「神父様は、いらっしゃいますか」 吉備が小さく尋ねると、男性は軽く肩を竦めて告解室があるほうを視線で示した。反対に女性はようやく顔を上げ、何の御用と尖った声を出した。 「神父様はお忙しいの、冷やかしなら帰って」 「そんなの、おばちゃんに言われることじゃないわ」 忙しいかは神父様が決めることよと返したキャロンに、女性は軽く額を引き攣らせた。苛立ったように爪を噛み、憎々しげに目を据わらせている。 「礼拝堂で争うなよ」 やるなら他所でやれと男性が口を挟むと、女性の視線はそちらへと移る。何かしら呟いている神経質そうな様子に、どちらだと思うと早瀬が聞こえない程度の声で確認してきた。 「この様子を見る限り、女性」 「当たりよ、おじちゃん」 殺人鬼はあっちと迷いなく女性を指すキャロンに、それは失礼ですよと手を下げるよう吉備がこっそり服を引っ張っている。殺人鬼だからいいのにと拗ねているのを聞きながら女性に近寄った利政は、失礼と断りを入れて長椅子に座った。 「神父とは迷える我らの為に滅私の精神で務めるもの。それが当然だと思い込みがちだが、きみはその神父まで気遣う優しい人なんだな」 「っ、当然のことよ。神父様は正に罪深き私の為にいてくださる……、あの方を煩わせる何もかも、私が退けて差し上げないと」 あの方だけが私の救い、とどこかうっとりした様子で遠い神像を見つめて嘆息する女性に、これだと確信を抱いて笑みを深めた。 「咎を背負った肝心なときに、きみを救い給う神父がいなくて心細かったろうね」 心に添うように低めた声と理解に努めた笑みを浮かべて囁くと、女性の肩がぴくりと反応を見せた。 「咎、」 「きみは神父の為に働いたのに、彼は気づいていない。いや、気づいていても知らない顔をしている。彼は、きみに報いるべきなのに」 「ち、がう、わ、神父様は関係ないっ」 「そう、関係ないように頑張っている、きみの努力も知らない顔だ。せっかく帰ってきたのに、別の誰かが占領している。なんてことだろう、きみが一番に報われるべきなのに。きみのおかげで助かりました、と。彼だけが理解して、そう囁いてくれればいい。きみが望むのはそれだけだ、その為だけに進んで咎を負ったのに……」 ひどい男だと、女性の耳にだけ届くような声でそっと続ける。女性の視線は激しく揺れ、違う、と繰り返すが声になっていない。きみにはそれを強請る権利があるとじっと見つめて声にはしないまま囁くと、女性の目に暗い理解が浮かんだのが分かった。 利政は笑顔を崩さないまま、生憎と、と心中に皮肉に呟く。 (何れ、きみは独りで地獄に堕ちる) それを実感して絶望する瞬間までは、神でも神父でも縋っていればいい。 「そっちで決定なら、彼はいらないね」 帰ってもらおうかと言うなり早瀬はさっさと男性を捕まえていて、無理やり礼拝堂から押し出している。 「何なんだ、お前ら!」 「ここにいたら殺されるから出て行ったほうがいいよ、おじちゃん」 親切そうな笑顔で勧めるリーリスの言葉で女性もはっと我に返ったらしく、私も帰るわと腰を浮かせたところを吉備が止めている。 「あなたは一人にならないほうがいいです、守れませんから」 「守ってなんていらないわ!」 「おばちゃんが殺人鬼だから?」 目を細めるようにして語尾を上げると、女性はかっとなったように手元にあった何かを投げつけてきた。吉備が咄嗟に受け止めたそれは幸いにして凶器ではなく、誰かの忘れ物らしい猫の人形。けれど詳しく観察する暇もなく、激昂した女性の金切り声が耳に障る。 「神様の側に送ってあげて何が悪いの! 死んだら神様の側に行けるのよ、誰より近い神父様と同じように!」 私は悪いことなんてしてないとどこか羨ましげに喚く女性を冷めた目で眺めながら、古部は戻ってきた早瀬に声をかけている。 「あれはどうするべきだと思う」 「探偵さんが確保を望むなら、殺されないように気を失わせるのがいいんじゃないかな」 殺人鬼に対する嫌悪を浮かべる様子もなく、住人の意志に従うといった早瀬の言葉にそれよりもと別の声が割り込んできた。 「早く片付けてしまったほうがいいと思いますけどねぇ」 告解室に続くドアを開けて出てきた神父は、写真そのままの姿をしていた。やっぱり神父だったねと早瀬がちらりと探偵を窺ったが、彼にはそう見えていないのだと分かる顰めた顔をしている。 「これはまた、今回は堂々と現れたものだね」 いつものように逃げ隠れしなくていいのかいと古部が問いかけると、神父は柔和な笑みを広げた。 「必要なのは知られないこと、です。知られた以上は見るなと言ったところで意味がないでしょう?」 しかし探偵さんまでご一緒とはと小さく息を吐いた彼は、神父様と震える声で呼んだ女性に視線をやり、あなたでしたかと声に冷たい物を潜ませた。 「こんなひどい雑音を撒き散らして、何がやりたいんでしょう」 私に対する挑戦ですかと笑んだまま尋ねる神父に、女性は激しく髪を揺らす。 「ち、がいます、私はあなたに代わって皆を救おうと! 神父様が仰っていたのではないですか、愛する者を失ってこそ初めてその人の価値が分かると。私はいい音を奏でられると、」 「奏でる、と言ったのですよ。奏でられるのではない、奏でる、と」 大人しくしていれば気にもかけませんでしたのにと酷薄に目を細めた神父が口を開く前に、そっと女性に近寄っていたシーアールシーが持っていた何かで彼女の口を塞いだ。眠ったほうがいいのですと勧めて横たえているところを見れば、睡眠薬でも入っているのだろう。 神父は片方の眉を上げて、おや、と面白くなさそうな声を出した。 「つくづく邪魔な方々ですねぇ。もう少しで彼女もジョカさんのように死ねたでしょうに」 勿体ないとゆっくり頭を振った神父に、探偵が声を荒げた。 「やっぱりお前がジョカを殺したのか!?」 「人聞きの悪い。私はお願いしただけです、私が誰かを知らないでください、と」 それだけですと曇りのない顔でつらりと答えた神父に、早瀬が世界樹旅団と呟いた。 「ジョカさんは元ロストナンバーだった。でもここに帰属した彼女は知らなかったんじゃないかな、旅団の存在を」 「仲間と思って近寄ってみたが知らない存在だった。何かが違うという走り書きは、神父は世界図書館に所属しない、という意味だったのかな」 今となっては確かめる術もないけれどと肩を竦めた古部に、神父は笑みを深めるだけで答えない。ただ怒りを堪えるように拳を作っている探偵を見て、嬉しそうな色を広げている。 「そう、この音です。私の求める、はじまりの音。彼女を亡くしたあなたの放つ音ほど、私を震わせた物は他にはありません。もっと早く知るべきでした……、私ならもっと上手に絶望を与えられたでしょうに」 子供の偶然が巻き起こした程度ではなくと憎々しげに吐き捨てた神父は、けれどすぐに笑顔に切り替えた。 「ですがジョカさんのおかげで、音を紡ぐ術を知りました。退場をお願いしただけでしたのに、フーツィさんもいい音を奏でてくれましたからね。何より二人の死を知り、あなたの音はより深く、艶やかになった。彼女を喪った時ほどではなかったですが、あれもまたいい音色でした……」 うっとりした様子で語る神父に、悪趣味、とリーリスが吐き捨てる。神父は小さく声にして笑い、分からずとも構わないのですよと神の愛でも説くように続ける。 「下手に真似られて、ひどい音を立てられては堪らない。知らず、私の望む音になればいいのです」 愚かに一途にお生きなさいと滔々と語る神父に目を眇めた古部は、彼女はとシーアールシーが寄り添っている女性を指した。 「きみの為に殺人を犯した。きみをこの町に戻す為か、いない間に犯行を重ねてアリバイを作るためかは知らないが。少なくとも、動機のはじまりはきみだ」 愚かに一途に生きたんだろうと吐き捨てるように続けた古部に、神父は興味もなさそうに肩を竦めた。 「あれは私の作り上げてきた音色に雑音を交えた。《死ねばいいのです》、ただ私に許しを請うて」 今すぐにと優しげな声は届いたが、まさかリーリスにそんな命令が効くはずもない。シーアールシー以外は対策をしていなかったのではと振り返ったが、探偵を始めとして吉備や早瀬も戸惑っているだけで動き出す気配はない。しかし古部だけが拳銃を取り出していて、止める間もなく自分の頭を撃ち抜いていた。 「利政!」 悲鳴じみた呼びかけに応えるべくもなく倒れ込むはずだった古部は、予想に反して聞こえていると低く答えた。どころか神父に銃口を向けていて、躊躇せず引き金を引いた。 早瀬はその細い目を何度も瞬かせ、何事もなかったかのように振舞っている古部の頬を引っ張った。 「……死んでないね」 「不服そうだな」 「まさか」 どこか呑気に否定した早瀬を視線だけで確認した古部は、神父が犯人かと確認するようにぽつりと呟いた。撃たれた神父はその場に立ち竦んだまま、指先を動かそうと躍起になっているのが分かる。 「こっちも死んでないみたいですね……、びっくりしました」 先ほど女性に投げつけられた人形を知らず抱き締めていた吉備が神父の様子を見てほっと息を吐くと、お願いはどうなったのです? と聞こえずとも状況は理解していたのだろうシーアールシーが疑問を呈してきた。そうだったとばかりに早瀬の視線を受けた古部は、お願い? と笑うように語尾を上げた。 「さぁ、忘れてしまった」 古部の無事を確認したサクラは、動けない神父は既に相談を始めている探偵たちに任せてシーアールシーへと近寄っていった。気づいて耳栓を外したシーアールシーが終わりなのです? と問いかけてくるのに、多分と頷く。 「神父さんもしばらく動けないみたいですし」 「もって十分だ。手があるなら早い内にな」 「それでは、この睡眠薬を使うといいのです。中身だけ巨大化すればほぼ無限に使えるのです、ターミナルまで眠らせたまま運べばお願いされる心配もないのです」 後はホワイトタワーに収監してもらうといいのですと提案するシーアールシーに、それが確実そうだと頷いた古部や早瀬も、何だかつまらなさそうに天井を仰いでいるキャロンも気づいていない。ふとした違和感を覚えたのは、まだゆりりんと視界を共有していたサクラだけだった。 指一つ動かせず足掻いていたはずの神父の口許が、不意に弧を描いた。離れて! とサクラが警告を放つ前に、《動くな》と神父のお願いが先に届いた。 「前回に引き続き、少し油断が過ぎたようですねぇ。まさか私が動けなくなるとは思ってもみませんでした」 ああ辛かったと棒読み口調で嘆いた神父は、どうして動けるのですと目を瞠ったシーアールシーに笑ってみせた。 「自分にお願いをしてはいけない、なんて規則はないはずです」 負担はかかるので多少不愉快ですけどと目を眇めた神父は動けないサクラたちを見回して、眠る女性へと視線を変えた。まずいと全員がそちらに気を取られたのを見越したように、《見るな》と重ねてお願いが届いて女性の姿が見えなくなった。 「人が死ぬところなんて、ご覧になりたくないでしょう?」 ささやかな慈悲ですよと押しつけがましく笑った神父の姿も見えず、どうしようと恐慌しかけたサクラの耳に、おはよう! と場違いな声が聞こえた。途端、足元からいきなり火が吹き出し、見えない姿が怯んだように後退りしたのが分かる。 咄嗟に視線で探し先には、早瀬のセクタン。どうやら予め火を繰るタイミングを打ち合わせていたのだろう、よくやったよと褒めた早瀬がクラッカーを取り出した。神父の姿は見えないままだが確かにそこにいる、動きに合わせて揺らぐ火を頼りにギアらしいクラッカーが鳴らされる。もう少し左! とキャロンの指示に早瀬と古部のギアが同時に向けられ、今度は確かに捉えたらしい。膝を突いて崩れる姿がぼんやりと現れ、すかさず駆け寄った探偵は脱いだ上着で神父の口を塞いだ。 「塵族如きが精神汚染で冥族に勝とうなんておこがましいわ」 聞こえない程度の声でぽつりと呟いたキャロンの言葉はよく聞き取れなかったが、神父には届いたのだろうか。探偵に押さえつけられたまま、彼の視線はキャロルを捉えている。どこか蠱惑的に微笑んだキャロルはしゃがんで神父と目の高さを近づけ、両手で口許を隠した。 『お前の望み、叶えてあげてもいいのよ? 延々その夢だけを見せ続けてあげる事が私にはできるもの』 声にしないまま何か囁かれたそれに、神父はゆっくりと目を開いて笑うように細めた。 「いいえ、永遠など必要ありません。私が望むのは、刹那の音」 服を噛まされているにも拘らずしっかりとした神父の声が届き、全員が身構えると床に額をつけて肩を震わせた神父の声が最後のお願いを紡ぐ。 「さぁ、聞いているのでしょう? 《殺しなさい》」 私の望みのまま、と続けられた声に嫌な予感だけを募らせ、サクラたちは探偵を神父から引き剥がすべく動いていた。そうして全員が誰を殺そうとも動き出さないことに不審を覚えていると神父が立ち上がり、いつの間にかそこまで歩いてきていた女性を抱き留めていた。 「あんたって、ほんと最低。死にたいなら自分で死ねばいいじゃないのよう」 さっきまでの女性とは、明らかに違う声。ずるりと滑り落ちたのは神父の身体で、真っ赤に染まったナイフを持った女性は人形みたいな無表情で神父を見下ろしている。 「神父さん!?」 何を考えてやがると探偵が即座に神父の身体を起こしたが、確実に急所を貫かれた身体からは血が止まらない。リーリスさん! と縋るように振り返るのに、《動くな》と弱々しい声が再びサクラたちを縛る。じりじりと生命が流れ出ていくのを眺めるしかできないのに、神父は一人だけひどく満足そうに、そうと口の端を緩めた。 「ああ……、──音が満ちる。はじまりの音には……、敵いませんけど……」 これを最後にするのは悪くない選択ですねと、小さすぎる声は唐突にぷつりと途切れた。 お願いの効力が切れたと教えるようにシーアールシーは動かなくなった神父の側に膝を突き、項垂れるように頭を落とした。 「ゼロでよければ貴方の為に、安らぎを祈るのですー。なぜならば安寧は万人の物なのです」 本当はもっと早くと拳を作っているシーアールシーを見下ろし、サクラもぎゅうっと痛む胸を堪えるように目を伏せた。 (分かり合いたい方が居ました。その方が罪を犯さず自身と和解する方法……、貴方の心を知る方法を知りたかった、です) 話し合うことも理解も全て拒絶して、こんな風に死んでしまうなんて卑怯だ。馬鹿な男、と誰かが投げるように評した言葉以外、彼を飾る言葉なんて他にない。 叫び出したいような気持ちをどうにか堪えていると遠慮がちな羽音がして、肩に止まったゆりりんがどこか心配そうに覗き込んでいるのに気づいた。 撫でようとして持ち上げた手に持ったままだった人形を見つけて、サクラはのろのろとその猫の頭を撫でた。 「早く……、ママに会えるといいですね」 言って長椅子の上ではなく少し目立つ場所に置いた人形は、まるで魂でも抜けたようにくたりと半分に折れた。
このライターへメールを送る