クリエイター玉響(weph3172)
管理番号1351-18021 オファー日2012-10-20(土) 11:42

オファーPC 木賊 連治(cfpu6917)ツーリスト 男 32歳 奇術師/探偵/殺人犯
ゲストPC1 ムジカ・アンジェロ(cfbd6806) コンダクター 男 35歳 ミュージシャン
ゲストPC2 古部 利政(cxps1852) ツーリスト 男 28歳 元刑事/元職業探偵
ゲストPC3 由良 久秀(cfvw5302) ツーリスト 男 32歳 写真家/殺人鬼

<ノベル>

 ――その瞬間、世界が裏返った。

 胃の腑から何かがせり上がってくるのにも似た、眩暈と酩酊。
 鼓膜を細やかな羽音が苛む。ドアノブを掴む手が、カーペットを踏み締める靴底が確かな感覚を喪って、眼前の光景から己だけが切り離される疎外感。

 そして、世界は入れ替わった。

一、身業(Kaya)

 襲い来る頭痛を払って、振り返る。
 再びの眩暈が、木賊連治の脳裏を掠めた。
「――ッ!」
 蹈鞴を踏み、背後へと退いた踵がドアにぶつかって大きな音を立てる。そのままずるずると崩れ落ちそうになるのを辛うじて耐え、合わぬ歯の根を無視して強く強く噛み締める。
 狭いホテルの部屋に、一人の女が倒れている。
 腹部に突き立てられた刃物から溢れ出る血が、深紅のカーペットに流れる。最早何処から何処までが血だまりなのか判別も付かないほどに。
「……神田」
 茫然と、その名を呼ぶ。
 つい先程、“殺した”彼女の名を。
 違う衣裳に身を包んでいても、その白い貌は最期に見た彼女のものに似ていた。己はナイフを突き立てただろうか、首を絞めたのではなかったか、そんな冷静な思考は疾うに喪われ、ただ乾いた笑いだけが零れていく。
「逃がして、くれないのか」
 当然だろうと思う。殺人犯を逃す刑事が何処にいる。
 不意に、ドアを強く叩く音が聴こえた。びくりと肩が跳ねる。間髪入れずに掛けられる、切羽詰まった響き。
『姐々!』
 誰かを呼ぶ声だ。中国語に響きとしては似ているが、聞き覚えのない言葉。また、足許が覚束なくなる錯覚。此処は何処なのか、彼の居た部屋――鍵をかけたまま、死体と殺人犯とを閉じ込めていたはずの部屋からどうやってここまで逃げ遂せたのか、数多の疑問と恐怖とが灰色の脳細胞を侵蝕し壊死させる。
(《名探偵》が、聞いて呆れるわね)
 彼女が生きていればそう言って笑った事だろう。(そんな肩書きを名乗った覚えはねえな)(あら、満更でもなさそうだったけど?)そうすれば幾分かは落ち着けたのかもしれない。
 ――だが、その笑顔は既に永遠に喪われた。他ならぬ連治自身の手によって。

「――何が起きている?」

 意味も判らない呼び掛けの中で、その言葉だけが、鮮烈に鼓膜を焼いた。繰り返されるノイズと砂嵐の合間に、たった一瞬だけ、映像が現れたような錯覚。
「開けてくれ」
 ひどく独特で耳に残る、印象的な声。ドアを、ではなく、連治の意識の扉をダイレクトに叩いてくる。操られるように扉へと近付いて――連治は鍵を外し、ドアノブに手をかける。
 開いた扉の先に、鮮やかな珊瑚色が覗いた。
 己よりも僅かに背の高い男の髪だと遅れて察する。開けた視界は茫然と様々な情報を取り込んでいく。男の向こう側に数人、男女が集まっている事も。ほとんどの人間の頭上に何故か見える奇怪な数字が、その珊瑚色の男には無い事も。
「ああ」
 茫洋とした連治の視線を受け、男は色の薄いサングラスの奥からすい、と瞳を滑らせて微笑う。
「やっと、応えてくれた」
 どこか嬉しそうにそう言うから、問いかけるタイミングを逸してしまった。
 確かな日本語を喋っているはずなのに、その出で立ちからは国籍も何も判らない。風のような立ち振る舞いの男はしなやかに連治を押し退け、部屋へと踏み入った。それを引き金に、またあのノイズが鳴り響いて、他の人間も部屋の中へと踏み込んだ。

 静寂。
 そして響く、ノイズの絶叫。

 ――密室は、内側から開かれた。

 ◇

 つくづく、この男には何かが憑いている、と。

 己を棚上げして、由良久秀はそんな感想を抱いた。
 遭遇したのが己一人であればこれは簡単な死体と簡単な殺人事件で済んだはずだ。レンズ越しに深紅の海を覗き込み、軽やかな音と共にシャッターを切る。
 閃光に曝されて尚倒れ伏した身体は動かない。薄紅色の典雅な衣裳は禍々しいまでの赤に染まり、見開かれた瞳は淀みながら虚空を睨み据えている。
「天女の死体とは興味深いな」
 不意に耳元で囁かれる言葉に、最早動じる事もなくなった。レンズから目を外せば、傍らにムジカ・アンジェロが佇んでいるのが見える。
「窓の鍵を調べてきた。密室だったよ」
 面白い、とでも言いたげにサングラスの奥の瞳が細く閃いたのに気付いて、由良は小さく舌打ちで返した。何が面白いのか、この男の趣向は彼には到底理解できない。
 ムジカから目を離し、改めて死体と向き合う。
 京劇の役者、だったという。
 蓮の花咲き乱れる天上で如来のために舞を捧げる天女の役柄なのだと。浮世離れした衣裳はその為かと得心し、またひとつシャッターを切る。光に照らされて、血に染まった纏足の爪先に縫い止められた桃の模様が浮かび上がる。
 巡節祭――一年の巡りを祝うインヤンガイ独自の祭の中で披露されるはずだったらしい。
 別件の依頼で居合わせた二人を除いて、ホテルの同階層に滞在していたのはすべて被害者と同じ劇団の関係者だ。つまり、御約束に則ればそれら全員が容疑者と言えるのだが。
 視線をムジカからずらせば、窓際の椅子に腰かけて、ひとりの男が俯き項垂れていた。癖の強い灰髪と細い眼鏡が目元を覆い隠し、その表情は判然としない。
 事件の関係者は死体と共に密室の中にいた男を犯人だと断定している。状況からしてみれば当然の事だろうが、ムジカと由良、二人だけにはそれを真相と認められない理由があった。
 未だ魂を奪われたように茫としている、男の頭上には真理数がない。
 ロストナンバーだ。
 ディアスポラ現象だ、とムジカが呟いたのに、不本意ながら同意を示す。よりによって、最悪のタイミングを選んだものだ。男とて覚えのない死体と罪を突き付けられて当惑している事だろう。
 騒々しい外野――関係者をムジカが無駄に滑らかな口振りで言い包めて締め出し、今、この部屋には死体とロストナンバーしか居ない。
「名前は?」
「……木賊連治」
 不躾に投げられた問いに、男は答えた。
「率直に問おう。あんたは彼女を殺していない。気が付けば、この部屋に閉じ込められていた」
 直球過ぎる言葉だ。茶色の瞳が弾かれたようにムジカを振り仰ぐ。その表情は狼狽していたが、少なくとも彼の言葉の意味を理解していないようには見えなかった。どうしてそれを、と眼が語っている。
「そうだな?」
 だが、長い沈黙の後、男は小さく首を振った。
「……いや」
 逡巡の末吐き出されたと思しき声は、明瞭な滑舌と深い響きを伴っていた。先程までの狼狽を微塵も感じさせぬ落ち着き。切り替えの早い男だ、と僅か相手への見方を変える。
「俺だ。俺がその女を殺した」
 僅か、ムジカの緑灰色の瞳が見開かれるのが見えた。
 見るからに男とは関連のない死体の筈だが、何か事情があったのだろう。だがどうでもいい事だ、己には関係ない、と憶測を切り捨てる由良のすぐ傍で、ムジカは淡々と相槌を打った。
「そうか」
 そして、次いで小さく息を吸う様を、何ともなしに眺める。歌を紡ぐように滑らかに、その唇から言葉が溢れ出る。――しまった。

「だが、それは真実じゃない。そうだろう?」

 聞かずに帰ればよかった、と後悔してももう遅い。

二、口業(Vaca)

「……は」
 二の句は告げなかった。
 目を瞬かせ、眼鏡のレンズの中に男の長身を捉える。
「真実じゃない……って、どういう」
「そのままの意味だけど。あんたは彼女を殺していない」
 多少語気を強めて問い質しても、心地好い風のように肩を竦めて受け流される。サングラスの奥の薄い色は腹立つほどに冷静で、そして強固だ。
「容疑者の自白を信じないのか?」
「それが犯人の物なら信じるさ。だがあんたは違う」
 何の確信を持ってそう断言できるのか、連治にはとても判らなかった。この男は何者だ、と靄の掛かった脳内で答えを探す。
「……待て」
 男は連れを促し、部屋から立ち去ろうと背を向けた。その後ろ姿を呼び止める。
「どうして、そこまでする」
 混乱の中、吐き出した問いを、男は柔らかな微笑みで受け止めた。
「好奇心、かな」
 ドアの閉じる音が響く。
 ひどく身勝手で理不尽で横暴な応えを残し、二人の男は連治の前から姿を消した。それと入れ違いに、頭上に数字を持った男たちが駆け込んで来て、荒々しく死体を運び出し現場の保存を始める。――もっと気を付けてカーペットを踏まなければ証拠が消えてしまう、などと思ってしまう自分が忌々しい。
 また、あのノイズじみた異国語が部屋に溢れかえる。聴き取れない言葉。聴き取れない声。聴いていても仕方がない、と俯いて視界ごとシャットアウトした。

『ああ、それと、彼の身柄は僕に任せてくれないかな』

 ノイズを都合よく遮断した耳に、ふと、そんな声が飛び込んできた。
 珊瑚色の髪の男――結局名すら聞いていない――とは違う、しかしよく透る声だ。ノイズにしか聴こえない言語の中で僅かにイントネーションが違う。まるで独学で覚えた異国語のように。
 顔を挙げた連治の前に、一人の男が佇む。視界に飛び込んできた靴から頭へと見究めるような視線を受け止めて、男は穏やかに笑った。
 その頭上には、数字がない。
 視線を合わせたその瞬間、鮮やかな青が閃いた。

「はじめまして。大きな迷子君」

 こういう笑みを浮かべる人間を、連治は知っている。

 ◇

 連治にとっては三人目となる、言葉の通じる相手は、古部利政と名乗った。くたびれたコートに無精な薄い髭が顎を覆っているが、笑みそのものは柔らかく隙がない。立ち振る舞いに残る規律正しさから推測した通り、以前は警察官をしていたらしい。今は私立探偵としてこの街区を縄張りにしているという古部は、親切かつ丁寧に、連治の置かれた状況を説明してくれた。
「ロストナンバー?」
「そう。僕らのように自分の《世界》を見失った存在を呼ぶ言葉だ」
 そう言うと古部はおもむろに左手を上げ、親指で己の頭上を指し示す。その拍子に、彼の手首に巻き付く時計の、内側を向いた文字盤が目に入った。
「言葉の通じない彼らと違って、僕らにはないだろう」
 頭上の数字が。
 説明を受けながら、連治の目は吸い寄せられるように文字盤の上を進む秒針を見つめている。ホテル内に常設された時計と全くずれた時間を刻む、その時間の意味を見出そうとする前に、手は降ろされた。
 それよりも、男の説明の方に気を取られる。
「……元の世界へ、還る方法は」
「今の所は見つかっていない、と数年前に説明されたな」
 そして恐らくは今もそうだろう、と。
 そこで言葉を区切り、柔らかな微笑みを湛えたまま古部は足を止め、連治へと向き直った。
「木賊連治、と言ったっけ」
 柔和な出で立ちの中で、鮮やかな青の瞳がひどく浮ついて見える。
 まるで誘蛾燈のようだと脳内で警鐘が鳴り響くが、その理由に辿り着けるほど正常な思考は作動しない。
「もし君が、何か大きな罪を犯して、それを放り出したままここへ来たというのなら」
 ――何故、それを、知っている。
 その言葉すら、形にならなかった。

「もう、償いの道はひとつしか残されていない。違うかな?」

 ◇

 事件遭遇時のムジカ・アンジェロの行動力にはいつも驚かされる。
 普段は穏やかで飄々と、何事をも受け流す鷹揚さを持った男が、この時ばかりは並みならぬ好奇心と探究欲に衝き動かされて気の済むまで歩きまわるのだ。鼻歌でも歌い出しかねない勢いで。
 それに振り回されながら後を追う己はまるで、ミステリ小説における探偵の助手になったようで、あまり気分が良いものではない。とは言え事件解決という厄介事を押し付けられる上、男の際限ない好奇心を定期的に充たしてくれるという意味では好都合なので、由良は今の所このポジションに甘んじていた。隣で写真を撮っていればいいだけなのだから、普段と何ら変わりない。
「それで、次は何をするつもりだ」
「被害者に弟がいただろう。同じ舞台役者の。役者仲間に聞いたらまだ現場に残っているそうだ」
 つまりは事情聴取だ。
 どこから手に入れてきたのかも判らないが、ムジカは次いで、被害者が最後に逢ったのもこの弟であるという情報を由良に告げた。もちろん、密室内に現れたロストナンバーを除いて。
 正直由良としては、自白したなら奴が犯人でいいのではないか、と早く帰りたい一心だ。だが真実を追い求めるこの素人探偵がそれを許してくれない。
「……おい」
 ふと通路の先の異変に気付き、ムジカを呼び止める。ムジカもまた興味深そうに目を細めた。
 現場の部屋から、先程の灰髪のロストナンバーが現れた。その隣にはくたびれたコートを羽織る別の男。自然な流れでその頭上へと視線を巡らせ、僅かに後悔を覚える。
 ――もう一人、ロストナンバーが居たなどと聞いていない。
 厄介事がまた一つ積み上がった音を聴き、由良は反射的に眉をしかめた。探偵然とした外見の男は観察するようにじっと青い瞳を二人に向け、そして興味深そうに片眉を跳ね上げた。
「どこへ行くんだ?」
 探偵らしき男に気を取られている間に、容疑者はムジカの脇を擦り抜けようとして呼び止められていた。振り返った相手から鋭く剣呑な眼差しが注がれて尚、ムジカは涼やかに笑っていた。
「どこへだっていいだろ。犯人じゃねえんだから」
「確かに、そうだな」
 明らかに口実としか思えない答えにも何も言わず、あっさりとムジカは引き下がる。不機嫌な様子で立ち去る男を見送り、次いで青い目の男へ視線を向け、仕種だけでその素性を問うた。
「古部だ。ここで私立探偵をしている」
 連治と同じくインヤンガイに流れ着いて以降、世界図書館へ身を寄せる事を拒みこうして探偵としてこの世界に帰属する道を選んだようだ。その割に未だ頭上に数字は現れず、苦労しているんだ、と男は肩を竦めて笑う。
「聴きたい事もまだあるだろうけど、僕はこれで。彼の監視役を引き受けたんだ」
「ああ。頼んだ」
 胡散臭いとしか思えないやり取りを交わし、二人は別れ逆方向へと歩き出した。擦れ違い様、男の肩が由良にぶつかる。
「失礼」
 人の神経を逆撫でするような笑みを浮かべ、青い目の男はするりと離れていった。

「由良?」

 意識にそのまま沁み込むような、ムジカの声が聴こえる。
 不可思議そうに首を傾げるのを目に留め、気のない返事を返しながらその後を追う。
 否。
 追おうとして、一歩踏み出した所で足を止めた。
 ムジカの踏み締める深紅のカーペットに、視線を奪われる。
 長い脚が、方向を変える。こちらに背を向けて、歩き出そうと足を踏み出すのを、由良の眼はコマ送りのように捉えていた。

「――動くな」

三、意業(Cetana)

 由良久秀、と言っただろうか。

 立ち去り際、背中に突き刺さる陰鬱な黒の眼差しは、相も変わらずおぞましいほどに淀んでいた。あらゆるものへの感情を拒絶と嫌悪で塗り固めたような、コールタールのような粘り気と乾いた感触。
 手懐けるには簡単そうだと思っていたそれが、今はどうしようもなく怖ろしい。
 その隣に居た派手な髪色の男は、ひとごろしの視線にも臆せず飄々と立ち振る舞っていて、こちらも別の意味で扱い辛そうに見えた。糸口が掴めない限り、なるべく関わりたくはない。
 ――やはり、扱うならこの男が一番か。
 古部のそんな思惑にも気付かず、男はただでさえ剣呑な眼差しを一層険しく細めて彼を待ち構えていた。
「何を話していた」
「彼らと?」
「違う。さっきの役者の方だ」
 覚醒したばかりの彼には、現地の言葉で話をされると聴き取れない。それを判っていて、古部は敢えて彼に判らないように言葉を選んだ。
「何も? 事件当時のアリバイを問い質しただけだよ」
 飄々と返しても、木賊は訝しげな表情を和らげなかった。そうか、と憮然とした言葉を返しながら、何事かを考え込んでいる。
 薄々とこの男も感じ取っているらしい。古部に完全に心を許してはならない事を。元々は直感の鋭く、頭の回転も速い男なのだろう。
 だが、こちらが打算により近付いている以上、その距離感は逆にやり易いとも言えた。
 被害者の弟は粗暴に見えて、ひどく感受性の強く繊細な青年だった。少し会話を交わしただけで、思いつめたような顔をしてくれる。――目の前のこの男と同じように。
 木賊の目に入らぬよう、片手で口許を隠しながら古部はほくそ笑む。
 ばら蒔いた種が芽を出すのは、もう少し先になりそうだ。

 ◇

「――動くな」
 "Hold up."

 耳に馴染んだはずの言語が、今だけはふとそう聴こえた。
 踏み出しかけていた足を留め、ムジカは淡い色の瞳をすいと横へ滑らせる。視線の移動に伴って、突如視界に飛び込んでくる二つの銃口。くゆらせた紫煙の奥から覗く、黒く乾いた無情の色。――眼だ。
 由良の鋭い眼光が、彼の足許を射抜いている。
「どうした」
 問いかけてもいらえはない。代わりに彼は目を細め、銃口の瞳を更に引き絞った。或いはそれは、カメラのレンズがピントを合わせる時の動きにも似ている。咥えていた煙草から灰が落ちたのに気付き、億劫そうに携帯灰皿へと押し込む。その間も視線は外さぬまま、ただ何かに狙いを澄ませていた。
 由良は暫しそうやって足許を凝視した後、不意に屈み込んでカメラを構えた。レンズは相変わらずムジカの足先を狙っている。まるで彼の視線の延長のように。ひどく空疎な銃声が轟いて、閃光が焼き付いた。
 彼がするのに倣って、その場に屈みこんでカーペットを検分する。深紅の絨毯は長く立ち上がっていたはずの毛を沢山の人の足で踏み均されていた。
「血痕だ。小さく跳び散っている」
「血痕? おれには何も見えないけれど」
 不思議そうに首を傾げるのへ、聞えよがしに大きな舌打ちをひとつ。
 二つの銃口ともレンズとも付かない瞳が、ぞろりとムジカを睨(ね)め上げた。

「まずはそのサングラスを外せ。話はそれからだ」

 ◇

 現場の部屋に戻ってきた連治が目にしたのは、二人の男が問答を繰り返す姿だった。
 片方はこの一日で随分と見慣れてしまった珊瑚色の髪、そしてもう片方は派手な色の舞台化粧と衣裳を纏っている。京劇の役者――被害者の弟だったろうか。
 二人から少し離れた所では、珊瑚色――ムジカの連れらしい黒髪の男が億劫そうに佇んでいる。陰鬱とした眼は連治を僅かに一瞥し、すぐに視線を外した。いつ見ても陰気な男だ。能動的にムジカに協力するつもりもないらしい。
「被害者はあんたと別れた時、確かに同じ衣裳を着ていたんだな?」
『――』
「ああ、判ってる。確かにその衣裳は着脱が難しそうだ。でも大事なのはそこじゃなくてね」
『……?』
 扱う言語の関係上、ムジカの言葉ばかりが一方的に耳に入る。
 ふと、淡い緑灰の瞳が男の肩越しに連治を捉えた。
「お帰り」
 いつの間にサングラスを外していたのだろう。裸の色彩は驚くほどに澄み渡って見え、内側から全てを暴きだされるようで思わず連治は視線を逸らす。静かすぎるが故に抗う事もできないまま沁み込んでくる。
「ちょうどいい。あんたにも聞いてほしい話なんだ」
 歌うような声音でそう言うと、ムジカは連治と二人を促して部屋の外へと出た。そして、扉のすぐ前で屈みこむ。
「ここ」
 しなやかな指が指し示したのは、深紅に黒が精緻な模様を織りなすカーペットの一部だった。言われるがままに屈み込む。その距離でなら、視力の悪い連治にもそれは見て取れた。
「血痕だ」
 幾何学的な直線を多用した模様の中に、鋭角な曲線の黒が混じっている。垂れ落ちた血痕が何か尖った物を下敷きに落ちて、その部分だけ切り取られたような形状。
「彼女のものだよ」
「……どうしてそう言い切れる」
 確信に満ちた男の言葉に噛み付く。密室内で死んでいた女の血痕が、密室の外に。組み立てられる推理を首を振って打ち消した。別の誰かの血が、過去付けられたという可能性は?
 連治の反論にもムジカは肩を竦めるだけで、血痕の内側を抉るように残された痕を指差す。
「形からするに、相当鋭角な何かがここに置かれていたんだ。それもナイフのような刃物じゃない」
 鋭角を形成する二つの線が、内向きのカーブを描いている。刃物の造る形とは明らかに違う。
 ――先程から、頭の片隅で何かが引っ掛かっている。
「回りくどい言い方は止せ」
 鈍い思考を巡らせ黙り込む連治の代わりに、離れた所で様子を窺っていた由良が声を掛けた。指に挟む煙草が苛々と揺れている。
「じゃ、御覧に入れようか」
 紫煙の行方を目で追ってムジカがいらえ、木製の靴――纏足を取り出した。鋭く尖った爪先に咲く、桃の華の刺繍。
「歩く時には、爪先が地面に当たるだろう。ちょうどこんな風に」
 爪先だけをカーペットに宛がい、踵を浮かせた状態で、架空の脚が血痕を踏む。
「――!」
 その形は、綺麗に血痕の途切れた部分と一致していた。
「被害者は死ぬ直前、全く同じ服装をしていた」
 促されるままに由良が差し出したのは、デジタルカメラに撮りためた遺体の写真。足許を大きく映したその爪先には、血に塗れていても確かに桃の華の刺繍が見て取れる。
「これは衣裳係から借りてきた予備だ。――この血痕を付けられるのは、この靴を履ける女性だけさ」
 つまり、本当に被害者が刺されたのはこの場所だと。
 たった一滴の血痕が、それを証明していた。
「被害者は即死ではなかった。外で刺されたなら、中に入って鍵を閉める時間も確かにあったはずだ」
 そういう緑灰の瞳は、勇壮な衣裳を身に纏った青年だけを映している。被害者が態々密室を創り出す理由。――腹部への刺突なら、自殺を偽装する事もできる。
「彼女はあんたを――弟を、庇ったんだな」
 冷涼な声が、穏やかな温度で突き刺さる。告発を受けた容疑者は言葉を喪い、冤罪を証明された連治はただ、茫とその様を見つめていた。
 真実が、明らかになろうとしている。
 いつもの己の役割を奪われた怒りではない。罪を暴かれようとしている犯人の恐怖でもない。惧れだ。償いの道を断たれる事への。

「なら、君が罪を勝ち取ればいい」

 それはひどく静かで、抗いがたいほど甘美に沁み込んでくる、言葉。は、と瞬きと共に息を吐いた。いつの間にか傍に居た古部が、そう囁いたと気付く。顔を見返そうにも、男は既に蛇のようにするりと離れてしまっている。
 革手袋に覆われた掌を見下ろす。握り締める。疲労続きだが、力は抜けていない。
「ナイフを突き刺したままなら、それが栓になって血痕はほとんど残らない。もう少しちゃんと調べれば、まだ何滴か見つかるかもしれないけれど」
 ムジカの声は、変わらず耳を苛み続けている。穏やかで、謳うような。己の推理の孕む業など知らぬとでも言いたげに。

 噫、止めろ。
 探偵が事件を暴いた所で、誰も救われはしないというのに。

(――誰も?)

 ざぁあ、羽音によく似たノイズが響く。

四、異熟(Vipaka)

 硬直した空気を打ち破ったのは、連なる金属音だった。

 それが、京劇衣裳の腰に下がっていた剣の音であると察するより早く、青年は無様なほど真直ぐに突っ込んでくる。咄嗟の事に、ムジカはただ目を丸くするだけで行動が遅れた。右手に呼び出した拳銃を構える暇もない。
 低く地を割るような咆哮。
「!」
 鈍の剣先が肉薄する。突進を紙一重で避けたが、躱しきれなかった勢いが右肩にぶつかった。拳銃がカーペットの上へと落ちる。
 青年が次の手を打つ前に、逸早く動いた由良がその背に駆け寄る。無造作に京劇衣裳の襟元を掴み、強く背後へと引き寄せた。
 重量のある身体が呆気無いほどの力強さで放り出される。体勢を整える隙も与えず古部が青年をひっくり返し、二の腕を捻り上げると共に剣を蹴って手の届かない場所へと転がす。滑らかで手早い、見惚れるような動きだった。
『――』
 青年はその後も抵抗を繰り返したが、古部が何やらその耳許に囁きかけるだけで呆気無く動きを止めた。
「殺したのか、彼女を」
 ムジカの再度の問い掛けに、青年は素直に頷いた。化粧に隠れたその貌には、後悔の色すら見受けられる。
 古部は青年を捉えたまま身体を起こし、不自然に輝く青い瞳を連治へと向けた。唇が動く。(次は君の番だ)
 いざなわれるように、彼は動いていた。足許に落ちていた拳銃を拾う。流れるような手つきで持ち上げたそれを、珊瑚色の髪に突き付ける。
 罪が成り立たないというのなら、新たに造ればいい。

「動くな」

 緑灰色の視線が滑る。
 突き付けた銃口の先で、ムジカは微笑んだ。二度目だな、と呟いて。その命を握っているのは己の筈が、何故か引き金に掛けた指先から恐怖にも似た冷たい温度が沁み込んでくる。
 拳銃の扱い方なら知っている。
 引き金をひく事にも、抵抗はない。
 ならば――この、指先から伝わる震えはなんだと言うのだろう。
 羽音じみたノイズが脳を侵食する。灰色の細胞がモノトーンに塗り潰されていくような不快感。何か、己は大切な何かを忘れ去っている気がしてならなかった。
 連治の顔に浮かぶ逡巡の色を見抜いたのか否か、男は微笑んで腕を挙げた。眼を見開く彼の前で、受け容れるように広げられた掌が銃口を包む。
「……なん、で」
 茫然と、声が落ちる。
「この拳銃は、あんたには“撃てない”。それに」
 涼やかな笑み。空気が色を変える。男は取り返した拳銃を手の中で弄んだ後自らの顔の前に掲げ、そっと、愛しいものにするように唇を添えた。
「真実事件に幕を引けるのは探偵の役目じゃない。真犯人だけだ」
 部外者たるムジカでも、連治でもない。
 それを知らないあんたとは思えないけど、と彼は微笑み、手の中の拳銃をふ、と消し去った。

 ◇

「じゃあ、後は彼に任せて、行こうか。由良」
 今しがた命の危険に曝されたとは思えない優雅さで、ムジカは身を翻してエレベーターホールへと向かう。
「あいつはいいのか」
「来たければ自分から来るだろう。強制するものでもない」
 連治の方を窺いながら由良が問うても、彼は足を留める事すらしなかった。
「……行ってしまったな」
 慣れた仕種で犯人を拘束し、立ち上がった古部が肩を竦めて言う。それにも応える事は出来ず、連治はただ二人の立ち去った先を睨みつけていた。
「僕は彼らの後を追うよ。次の列車には乗れるだろうから」
 インヤンガイの何処かに在るという<駅>から発つ列車に乗り、ロストナンバーは彼らを束ねる組織の元へと還り着く。その仕組みを理解しながら今まで利用せずに居た男が何故唐突に気を変えたのか、連治には推し量れない。
「木賊。君はどうする?」
 首を傾げて問う古部に、応えを探して戸惑う。
 先程、男から与えられた言葉だけが、鼓膜にこびりつき、空疎な脳内を駆け廻っている。事件に幕を引くのは探偵ではなく犯人の役目、ならば己は――。
 覚醒以来ずっと嵌めていた革手袋を外し、露わになった掌を眺める。それ自体が天からの授かり物、そうとさえ呼ばれた奇跡を起こす指は、普段と変わらぬ様子でそこに在る。ひと一人の命を奪ったとは思えぬほど。
 ぐ、と拳を作る。強く握り締めれば、短い爪が掌に食い込んだ。

 ――もう、取り違えたりはしない。
 証拠も、真実もこの手の中に在るのだから。

 いつか来る因果の帰結を逃さぬように、連治は革手袋を手に駆け出した。

 <了>

クリエイターコメント四名様、オファーありがとうございました!
そしてぎりぎりまでお待たせしてしまい、申し訳ありません。

タイトルは「さんがいるてん、かるまめぐる」と読みます。
インヤンガイで二月と言えば、巡節祭の季節ですね。と言う事で題材をそちらに寄せてみました。
また、オファー文どおりの流れではどうしても古部様の出番が少なくなってしまう、と感じましたので、若干の捏造と改変が加わっております。御了承ください。<s>由良様はどうにもなりませんでした。</s>
足りない頭を捻りながら書かせていただきました。御望みの雰囲気が出せて居れば幸いです。

今回は素敵な物語をお任せいただき、ありがとうございました。
それでは、御縁がありましたらまた違う物語をお聞かせくださいませ。
公開日時2012-12-11(火) 21:50

 

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