痛みのように強烈で、まるで火に肌を焼かれたように、瞼の裏に張りつけて離れない。 大切な友が狂い笑いながら、自分の腕のなかで眠りへとついた瞬間。 心が、引き裂かれて、壊れてしまう。 そう思ったとき、アルティラスカは意識を無くして、落ちた。 誰かの呼ぶ声によって奈落から這い出るように意識を取りし、そっと薄目を開けると、生い茂った豊かな緑と、刺すような光の眩しさ。 嗚呼悪い夢を見ていたのか安堵としたが、自分の顔を覗き込む心配げな青年の顔を見たとき、アルティラスカは夢が現実だったのだと悟った。 はげしい疲れに再び目を閉じると、青年がまた声をかけてきたが、今はただ眠りたかった。深く、深く、 次に目覚めたとき、柔らかな寝台の上だった。 目をぱちぱちと瞬かせて、自分はどこにいるのだろうと見回すと今いるのはなんとも粗末な部屋だった。 がたっと音がしたのに顔を向けると青年が驚いた顔をして立っていた。 青年は嬉しそうに駆け寄ると、知らない言葉で語りかけてきた。 アルティラスカが不思議そうに首を傾げると、青年も言葉が通じないことがわかったらしく、唇を閉ざすとかわりに、口元を綻ばせて笑った。 そのあと三日、アルティラスカは昏々と眠り続けた。目覚めると、いつも傍らには青年がいて、甲斐甲斐しく世話をやいてくれた。 アルティラスカは無気力なまま、その優しさに甘え、傷を癒し続けた。 体に受けた傷は時間が経てば癒えていく、しかし、心の傷はそうもいかない。 喪失が心を暗くさせ、無力感が胸を満たす。 傷が癒えてもぐすぐすと外に出ることを拒むアルティラスカに青年は根気よく付き添い続けた。 彼は薄い紙にへたくそな花の絵を描いてみせた。そのあまりの出来の悪さにはじめはなにかわからなかった。青年は頭をかいて、アルティラスカに夜の闇を集めたような紺碧の花を差し出して絵を示して笑ってみせた。それでようやく彼が何を描いたのかわかってアルティラスカは噴出してしまった。笑いはまるで発作のように止まらず、気が付くと腹を抱えて笑いつづけ、涙がこぼれて、とうとう自分が笑っているのか泣いているのかわからなくなってしまった。そんなアルティラスカの背中を青年は黙って撫でてくれた。 その日を境にアルティラスカは家仕事をぎこちない手つきだが、手伝うようになった。 青年はアルティラスカにあれこれと根気強く教えてくれた。 天気の良い日に青年に連れられて家から出て、村へと――青年が暮らしているのは山の近くで、坂を下りて、田畑をぬけ、村の中心にやってくると、さすがに人が多く、好奇心に満ちた視線がアルティラスカを突き刺した。 と、ふいにアルティラスカの前で小さな子供が転げたのに、反射的にアルティラスカは助け起こし、優しく微笑んでいた。子供は目をぱちぱちと瞬かせたあと、にぃと笑った。その笑みにアルティラスカの笑みはますます深まった。 すると、まるで呪縛が解かれたように人々が青年とアルティラスカを囲み、口ぐちになにか言いだした。それをアルティラスカはまったく理解できなかったが、朗らかな笑みと、青年が真っ赤になって言い返す、それは優しい雰囲気に満ちていた。 不思議そうに見つめていると、青年がアルティラスカにはにかんだ笑みを向けてきた。 ずきりっと胸に不思議な、今まで感じたことのない痛みを覚えた。 ――これはなに? 青年同様に村人たちも優しかった。 青年は村の薬師でしょっちゅう山へのなかに薬草をとりにいったり、怪我した村人の診察やらと忙しそうだった。 アルティラスカは村人たちに仕事をもらい、青年とは朝と夜にしか顔を会わせなくなった。 それでも朝、青年は出かけるときは笑って手をふり、帰るとやはり笑顔を見せて、言葉が通じないのに熱心にあれこれと語ってくれた。それをアルティラスカは歌を聞くように耳を傾け、青年を見つめていた。 青年を瞳に宿し、声を聞くたびに、胸が、ずきん、ずきんっと痛みを発した。喉は潰れたかのように圧迫され、苦しくなる。甘酸っぱくも、頭がくらくらするような――同時に恐怖を覚える。 これはなに? この心をなんと呼ぶのだろう? わからない。 本能が警戒している、この心はとても危うい、と。 それでも手放せないでいる。 青年の傍にいたいと焦がれ、声を聞きたいと想い、もっと彼のことを知りたいと、無意識に目が追いかけて、彼がいるとそれだけで心が切なくて苦しいのに、空を飛ぶように浮かれてしまう。 苦しいのに幸せで涙が出そうにな、この感情は? 唯一わかるのは、この心は自分ではどうやっても止められそうにないということだけだ。 それを人が恋と呼ぶ。 命あるものならば当然のように知る喜びだが、それは慈愛深い女神には赦されない感情であった。 村で過ごすと、定期的に村にやってくる貴族の存在を知った。 村人よりもきらびやかな衣服に身を包ませたこの男が来ると、村人たちは誰もが地面に膝をついて頭をさげる。アルティラスカは貴族がくるときは、いつも村人たちに家のなかにかくまわれていたので、直接顔を見たことはない。ただ傲慢で、村人を物としか思っていないのは、遠目に見た態度でありありと伺えた。 家のなかからこっそりと盗み見たとき、いやな予感に胸がざわめき、貴族の顔をアルティラスカは胸のなかに刻みつけておいた。 そのころにはアルティラスカは言葉がわからないなりにも、絵の多い書物を見せてもらってこの世界が、崇められる神が人の傍らに寄り添い、多大なる影響を与えて成り立っているという、ぐらいには理解していた。 それがただ人を見守るだけの存在でないことを、得るものの代価はあまりにも悲惨であることを数日後にいやでも知ることとなった。 その日、朝に悲鳴のような声が聞こえたのに驚いて目覚めると、青年が家の入口で村人と話しあっていた。 村人が帰ると、彼が振り返るとその顔が哀しげだったのにアルティラスカは顔を曇らせた。 不安なまま朝食が終わると青年はアルティラスカを連れて山へ行った。そして、いきなり力の限り青年に抱きしめられた。 アルティラスカは驚いたが抵抗はしなかった。ずっとこのぬくもりを自分は望んでいたのだと悟ると力の限り抱きしめ返した。 どれくらいそうしていただろうか、青年はアルティラスカを離すと地面に生えている淡い紺碧の花に摘むと、そっとアルティラスカに差し出した。受け取って髪につけると青年は微笑み頷き、籠を渡してきた。 薬草をとってほしいのかと理解して視線を向けると、青年は手振りで夕方までは戻らないようにと伝えたのに頷いた。 青年は去り際に一度だけ足をとめ、振り返り、何か言った。不思議そうにアルティラスカは首を傾げると、青年は泣き出しそうな顔をしたあと首を横に振って行ってしまった。 青年のためにいっぱいの薬草をとり、家に戻ると無人だった。不審に思って村へと足を伸ばし、そこで見つけた。 赤い花弁が散った大地。 むっとする甘い香り。 愛する友が狂い笑い、美しい幸福の笑みを浮かべて永久の眠りに落ちた瞬間が脳裏によみがえる。 朽ち果てた建物と、折り重なった人、人、人! 私は、悪い夢を立ったまま見ているのだろうか? 笑いかけてくれた老人、気さくなおばさん、仲良くなった子供――みんな息絶えている。 あああ ああああああああ! 血を滴らせたような紅色に染まった世界で、アルティラスカは声にならぬ悲鳴をあげた。 心が、今度こそ壊れてしまう―― 一人ぼっちの暗い闇の世界で、地面に両手を置くとがりがりと穴を掘った。手が痛くても、爪が割れるのも構わず。どれだけ時間をかけても、一人一人を自分の手で埋葬した。そうして埋もれていく人の顔を見て、土をかけていくたびにアルティラスカの心は埋もれていく。深い、闇のなかへと そして決定的になったのは、最後に見つけた青年の死体だった。紺碧の花を抱き、遠くを見る青年の死体に、むしゃぶりついた。 はらり、髪につけていた青い花が青年の上へと零れ落ちる。 「私は……また、守れなかった?」 今朝のことを思い出すと、青年はこうなることを知っていた――守ろうとして、守られた。 ずっと、ずっと、守られていた。 ああ あああ ああああ ――ならば ――壊してしまえばいいじゃないか? アルティラスカ 頭に響くやさしい声に、アルティラスカは身を委ねた。 その美しい髪も、目も、翼も、肌以外のすべてを――黒く染めて 破壊を、怒りを、破滅を、憎悪を、 にぃとアルティラスカは残虐な笑みを浮かべた。 そして、空をかける黒き女神は血の濃い屋敷へと降りたつと、血をすする、その醜い神を一瞥し、手をふるった。 たったの一撃で、醜い神は消しとんだ。 屋敷にいた貴族は、その神の死に悲鳴をあげた。村一つを犠牲にするかわりに、一族の繁栄を約束していたのだ。 アルティラスカは笑った。ああなんて心地よい! 再び死の刃を振るおうとしたとき、別の刃がそれを跳ね返した。 それは今回アルティラカスを保護に訪れたロストナンバーたちだった。彼らは村の惨劇を見て、屋敷へとアルティラスカを追ってきたのだ。 アルティラスカは表情のない顔で、再び手をふるう。 ――邪魔は許さない。何者であっても。 死の刃が飛び、獣のような咆哮が怒り狂った女神から放たれる。ロストナンバーたちが声をかけても、それは届かない。女神の心はあまりにも絶望深く沈んでしまっているから。 攻撃を防ぐばかりでは拉致があかないと、ロストナンバーたちが反撃するが、しかし、いくら傷つこうとも女神は怯まない。むしろ、血と痛みが彼女を歓喜させた。 一人のロストナンバーと接近すると、掴みかかり、床に転がった。このまま力によって潰そうというとき、別のロストナンバーの手によって羽交い締めされ、必死に暴れるアルティラスカの前に花が差し出された。 それを見たとき、アルティラスカは息を飲んだ。 紺碧を集めたような青い花は、この世界では悲想花と呼ばれ、死者の心が宿るという。 もう会うことの叶わない死者を生者を一度だけ、強く思いあう心によって再び会わせてくれる。 アルティラスカは、その甘い香りに、青年のぬくもりを、彼が自分を強く抱きしめてくれたあの優しさを思い出した。 貴族には逆らえず、村ひとつが犠牲となる儀式に、青年は逃げるわけにはいかなかった。だがアルティラスカは関係がないと、逃がしてくれた。 ぎりぎりのところで彼は選んだ。 申し訳なさそうに、そして愛しげに彼は微笑む。 透明な手がアルティラスカを抱きしめる。 もう枯れ果てたと思っていた涙が零れ落ち、闇が拭われていく。 アルティラスカは保護され、傷を手当されると列車に乗り込んだ。その手には役目を終えてもう朽ちて消えようとする花が握りしめられ、押し寄せてくる抗いがたい眠りと必死に戦っていた。これがすべてを自分から奪ってしまうと、本能でわかったからだ。 「嫌、眠りたくなの……忘れたくない、忘れたくないの……っ」 優しい忘却に、アルティラスカは必死に懇願しながら目を閉じた。 はらり――花はその姿を消した。はじめからなかったもののように。 そして、 忘却の呪縛が、彼女から恋の記憶をすべて奪い取る。 すべてに平等であれと、たった一人の者だけを愛さないようにと――。 そして、女神は恋を喪い、慈愛を再び手に入れた。 全ての命を愛し、育むための――愛を
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