繰り返せ。 繰り返せ。何度でも。何度でも……「あなたが好きなのよ」 女は男に告白をした。「なにを馬鹿なことを、俺はあの人の道具だ。頭を冷やすんだな、朝のはやくから酔っ払って!」 それだけで男は立ち去った。 だから見えなかった。女の頬に伝う涙を、そして彼女の憎悪に彩られた瞳を。 繰り返せ。繰り返せ。 繰り返せ。何度でも、何度でも……「髪、そして呪いの符をいれて、ここにいれておけば……」 そっと女は隠す。呪い殺すための道具を。誰にもばれない場所へ。「夕方にはあの人が死ぬっ!」 女は笑う。 繰り返せ。繰り返せ。 繰り返せ。何度でも、何度でも…… 夕方の庭に女がやってきた。いつも部屋に引きこもり酔っ払っているばかりなのに。だから彼は嬉しくて笑った。「どうしたんだ。妻殿、珍しい。あなたが出てきてくれるなんて」「あなたは私のことなんて愛してなんていないのでしょう?」「妻殿?」「死んで」 吐き捨てた憎悪に、彼は驚いた。そして、次には女が悲鳴をあげ、倒れた。「妻殿! 呪い? どうして」「う、うああああああ」 女は悲鳴をあげて襲いかかる。彼は逃げない。その腕が伸びて、彼の心ノ臓を握りつぶしても。「フッキ様!」 男の伸ばした手の先で、女と彼は死んだ。そして男は口から血を吐き出し、倒れ込む。震える手を伸ばす。 こんな結末は望まない。――だから、繰り返せ。何度でも、望む結末を迎えるまで。★ ★ ★ 探偵事務所に依頼人として現れたのは、以前、ハオ家の遣いとしてやってきたアサギであった。その横には二人の男の手によって拘束された情報屋がいる。「お待ちなさい。私たちは、あなたがたの敵ではありません。依頼しに来たのです」 と、いきなり情報屋の身体が痙攣し、そのまま床にぱたりと崩れる。 次の瞬間、情報屋は拘束していた二人の男を薙ぎ払い、立っていた。 その顔を見て旅人たちは驚いた。――数回依頼で顔を合わせた情報屋とはまったく別人が立っていたのだ。 男は無言でアサギにナイフを投げたのに、それをひょいとアサギは避ける。「この男はフッキ様にお仕えしていたハオ家の道具です。……いつのまにか入れ替わっていて、なり済ましていたのです。本物のフッキ様がすでに死亡していることをすら隠し、あなたがたを利用して、私たちから逃げ続けていた」 アサギが淡々と説明する。「今回の依頼は、できれば隠密に進めていただきたいのです。そのためにハオ家は貴方がたに協力をおしみません」「そりゃ、フッキが、自分の妻に呪い殺された間抜けだからか? ハオ家の威信にかかわる?」「……無名、口が過ぎるぞ」 無名は笑い飛ばした。「はっ、俺が説明してやるよ? フッキは自分の妻になる女の呪い殺されたのさ。……名は、杏。その女は、ハオ家の今後の安泰のためだけに嫁がされた。だからフッキを毛嫌いして、あてつけのように傍にいた俺を好きだといい、それが否定されれば、なんとフッキを呪い殺そうとした。一流の腕を持つ呪殺師であるフッキは、いともたやすく呪返しをしたさ。それで杏は狂い死に、その挙句に鬼となってフッキの心臓を握り殺しちまった。 誤算だったのは、フッキがあまりにも強い術者だったということさ。あいつは死ぬ寸前にこの悲劇を否定した。無意識に自分の霊力を使い、その日を何度も繰り返すようにしてしまったのさ。 おかげでフッキの憑代の術をかけられた俺は、ずっと毎夜、死んじまう」 忌々しげに無名が吐き捨てる。「……憑代の法とは、術者に使える道具が、その術者の背負うべき傷などを肩代わりする術のことです。無名は、フッキ様の憑代であるため、フッキ様が繰り返す一日の終わり、杏様が鬼となって、フッキ様を殺した瞬間、その死の肩代わりのため、死ぬことになるのです。今は、繰り返す一日のおかげで、仮死状態になります。まぁ、今のところはすぐに生き返りますが」 アサギはそこで眉をひそめた。「もう一度いいましょう。あなたがたに依頼したいのは、フッキ様の死体の回収、および、魂の確保。道具はこちらで用意しています。……フッキ様は死ぬ直前に、時間をとめてしまった空間に結界を張り、自分が許可した者しか、その中にはれないようにしてしまった。ハオ家の者たちではどうすることもできない。そして、唯一、なかにはいることのできるこの男は、あなたがたしか道案内しないという」 ちらりとアサギは無名を睨んだあと、説明を続けた。「先ほどもいったように、結界のなかにはこの男の案内がなくては入れません。そして、そのなかでは一日が繰り返されています。杏様が、フッキ様を呪い殺そうとし、それをフッキ様が呪返ししために、杏様は死亡し挙句に鬼となり、フッキ様を殺してしまうという忌わしい一日にあなたがたが介入し、それを止めてください」★ ★ ★ スーツ姿の無名の案内で、旅人たちはその場所へと足を進める。「今からいくのは、フッキと杏の暮らしていた家さ。それも普通の庭のつき一軒家だ。それが杏の願いでフッキが叶えた。杏は、ただの商人の娘で、内気な女だった。そのせいか思いこみが激しってな、フッキとの結婚後は、酒浸りの酔っ払いで家からは一歩も出ない。フッキにかけた呪いはよくわからないが、大抵は日を毛嫌いして締め切った部屋のなかにいる女だから、そこにあるんだろう。俺はどこにあるかわからないが……フッキは、杏には甘かったから好きにさせていたからな。というよりも純粋な子供のような男なのさ。呪殺師として類いまれなる力を持っていてからハオ家の上位にいる老人どもには溺愛され、育てられた。だからわからないのさ。望めばなんでも手に入る、いやなことはなにもない。嫉妬も、憎悪も持たない……杏の自分を否定するのも、彼にはわからなかった……」 見渡す限り、普通の家が続いているようで、ここで本当に呪いがあるのか――と思ったとき、ぐにゃりと世界が歪んだ。 そして、ゆらりゆらりと一軒の家が見え始める。「フッキの世界にいく前に、お前たちにいいたいことがある。俺はあの結界のなかにはいったら、たいしたことはできないから、あまり協力は期待するなよ。ああ、めんどうなら、フッキも杏もさっさと殺して、その魂を封じてしまえばいい。 望みを叶えたいならば俺を殺せばいい。自分の女房を寝取った挙句に殺されるようなことになったのは誰でもない俺のせいなんだからな。だからあいつは、一日を繰り返して、何度も俺を殺すのさ」 無名はそこで笑った。「あいつの目の前で俺を殺せば、あいつはもしかしたら納得するかもな? 試してみるか? どうせ、俺はハオ家のもの、この呪いわれた一日が終わるとき、いやでもフッキの巻き添えをくらって死ぬんだ。何度でも、な。だったら、本当に死ぬのだって悪くはない……いろいろと都合のいいことを口にしてあんたたちを俺は騙していたんだからな」
白い霧が行く手を遮るように世界を覆う。まるで都合の悪いものすべてを隠そうかとするかのようなそれは、しかし、一瞬のこと。 瞬きとともに霧散し、現れたのは木造の門だ。 「こっちだ」 無名はがらりっと、戸を開けて中にはいっていくと、はっと驚くほど立派な家が建っている。門もそうだが、この家も見る者を威圧するほどに立派な佇まいをしている。 フッキが、妻のために普通の家を用意したと説明されたが、これが普通とは到底思えない。フッキの感性はどこか一般人とズレているようだ。 「ここからはどうする?」 「俺は杏のところにいく」 まっすぐな声で、坂下健は無名の前に進みでる。 「あと、依頼失敗発言で悪いが、俺、杏の魂を回収させる気はないから。せめて普通に転生できるように、説得したい」 無名はハオ家の依頼でここまで自分たちを案内した。もし、依頼を失敗させるなんて口にして、彼がどう出るか。 じっと訴えるように見つめていると、射ぬくように見つめていた無名がふっと笑った。 「……杏の部屋は一番奥だ」 「ああ」 拍子抜けするほどあっさりとした対応に健は警戒したまま無名の横を通って、家のなかへと入っていった。 「で、あとのやつらはどうする?」 「俺はフッキに会いに行こう。健が杏を助けたいというように、俺は彼を助けたい」 よく通る、太い声で百田十三が告げると、無名は家の横にある小道を示した。 「なら、この道を通れば庭にはいける」 ああ、と頷いて十三が庭に向けて歩き出すのを無名は見届けたあと、残りの三人に目を向けた。 「で、あとは?」 「私は……少し様子を見たいと思います」 そう口にしたのは、アルティラスカ。いつもは見る者の心を安心させる優しい微笑を浮かべているのに、今の顔には暗い陰がさし、どこか苦しげであった。 アルティラスカは周囲を見回したあと、眉を寄せて家のなかへと消えた。 「よく耐えられるわ、彼女」 幸せの魔女が忌々しげに無名を睨みつけた。 「なんで私が他人の幸せをどうこうしなくちゃいけないのかしら……なにより、ここ、凄く不愉快だわ。幸せがまったくない、誰ひとりとして幸せじゃない」 幸せの魔女は断言すると吐き捨てた。 「……気持ち悪い」 アルティラスカもそうだが、幸せの魔女もまたこの結界のなかに沈殿している重い後悔という名の黒く濁った淀みを敏感に感じとっていた。 「そうかな。私は嫌いじゃないよ」 リーリス・キャロンは平然と言い返す。むっと幸せの魔女が睨むが、つんとリーリスはそっぽ向く。 「……ね、手、繋ごう」 リーリスは無邪気に笑って、無名に手を差し出す。リーリスの紅い瞳の輝きを放ち、強い誘惑の力を持って、目の前にいる男を己へと誘う。 しかし、伸ばされた無名の手はリーリスの手を掴むことはなく、かわりに額にでこぴんが飛んだ。 「いたぁ!」 「お断りだ」 「……怒ってるの? 前に、助けられなかったこと……私たちが失敗しなかったら、兄さんはハオ家の道具に戻らなくてすんだもんね」 しゅんと俯くリーリスに無名は大きく肩を竦めた。 「違う。お前の目、何かあるだろう」 「……わかるの?」 「長年、ハオ家にいたからな」 「へぇ!」 リーリスは顔をあげるとくすりっと可愛らしく笑った。 「そうなんだ! ふふ……あ、お兄さんにあげた目、餞別にあげる。使いこなせたら、またハオ家から逃げられるでしょ?」 「いらない」 「そんなこといわないでよ」 にべもない否定の言葉にリーリスは拗ねた顔を作って、見上げるのは計算しつくした女のそれ。 誘惑の力がなくても、どうすれば他者に自分の言葉に従うように仕向けることができるのかをリーリスは長年の経験で心得ている。 だが無名はそれを鼻で笑った。 「俺はもともと、視力はいいほうじゃないからな。片方だけ見えすぎるのはバランスが悪い。とってくれ」 「えー、けど」 「早くしろ」 「やー、いたい!」 無名の大きな手にがしっと頭を握られて、きりきりと締め付けられるとさすがのリーリスも悲鳴をあげていやいやと首を横に振って降参した。 「もう、わかったわよ。目は返してもらう。けど……これが終わるまでは、いいでしょ?」 これ以上は譲らないとばかりに涙目で睨みつけると無名も言っても無駄と思ったのか、頭を締め付けていた手をぱっと離した。 「……わかった」 「えへへ、ね、手、繋ごうよ。お兄さん」 「ちょっと、私のこと、無視しないでちょうだい!」 リーリスの前に腰に手をあてた幸せの魔女が出る。それに今度はリーリスが顔をむっとゆがめる番だった。 「あれ、まだいたの」 「いたわよ。ずっと! まったく、失礼ね。……ねぇ無名、あなたは、この世界に結末を与えるためなら手段は選ばないでいいようなことを口にしたわね? いっておくけど、ここに来た以上、私は私なりに出来ることはしてあげるつもりよ。けど……幸せを求めないなら、仕方ないわ……私の手で二人は殺すわ」 猫のような目で幸せの魔女は告げる。 「幸せがないものは許せないの」 「貪欲な魔女め」 「あら、それって褒め言葉!」 幸せの魔女の花弁のような唇が三日月型を描き、無名との距離を縮め、二人は間近で見つめ合う。 「一つ聞くけど、杏は、本当にアテツケであなたに愛を説いたとでも思っているの?」 「それ以外にあるのか?」 幸せの魔女は不味い飲み物を飲んだときのように鼻で笑った。 「女は貪欲なのよ」 「杏が本気だったと? それはない。あの女は俺のことをろくに知らないし、俺だってろくに知らない。告白されたとき、はじめてしゃべったくらいだ……まぁ、女が貪欲なのはあんたと、このちびで知ってる。おい、リーリス、お前、離れろよ」 「いいじゃない~」 リーリスは無名の左手を握りしめて、しかもちゃっかりと無名と幸せの魔女との間に入り込んでいた。 「あとね、私の意見を言わせてもらうと、殺すのはしなくていいと思うの。ヒトはいつか死ぬんだもの。だから私は……幽霊でも、わざわざ殺すのはいやだなぁ」 「あら、とことん私たち合わないみたいね」 「そっかなぁ?」 不敵な笑みを交わす二人に無名が肩を大げさに竦めた。 「お前らな……暇があれば、俺の傍じゃなくて他のところにいけよ」 「あら、私は私のしたいようにするの。見たいように見て、言いたいことを言うわ。指図しないでちょうだい!」 「夕方まで一緒に居ようよ。お兄さん? だって、終わらせるためには、みんな集まらなくちゃって思うけど……それまでは顔を合わせる必要はないと思う。私が救いたいのは、お兄さんだもん」 うんざりとする無名に、高飛車な女王のような幸せの魔女と甘い匂いを漂わせる花のようなリーリスが言い返す。 「それに、きっと、これ、お兄さんのことも必要だと思うもん」 「私もいろいろと知るために、あなたを利用させてもらうわ」 無名は小さなため息をついた。 「お前らいいコンビだよ。……好きにしろ、今日一日が終わるまでは」 ★ ★ ★ 寂しい場所――家のなかにはいって健が感じたのはそれだ。 健は幸いにも金銭面で苦労することはない、ごく一般的な家庭に育った。そのせいか、この家を見たときは内心、少しだけ怯んだ。住む世界がまるで違うと思ったからだ。だが、家のなかにはいって、その感想は違和感に変わった。 音がしない。 人の気配もない。 ここはフッキの結界のなかだから、杏とフッキ、それに無名とそれに導かれた自分たちしかいないのだと思ったが、思い出せば無名は使用人がいるとはいっていなかった。 それに、この家はわざと、暗くしている。 廊下には窓がいくつもあって開放的であるはずなのに、すべてにカーテンがひかれて床に映る白黒のまだらの影はまるで鉄格子のようで、ここはさながら牢獄のようだ。 杏はこの家の奥で一人ぼっちなのか? その考えに至ると、健はたまらない気持ちになった。 無名から話を聞いたときに、健は杏の待遇の不憫さをどうにかしてやりたいと思った。 夫を呪い殺そうとして、逆に死に、その挙句に鬼となった。それを自業自得というには、杏の存在はあまりにも憐れだ。 まるで悪い呪いを封じたようにかたくドアが閉じられていた。 「ポッポ、杏が呪いを使わないように見張り役、頼んだからな」 肩に乗っているポッポの頭を軽く叩いて、ドアをノックしても返事がない。悪いとは思ったが、そっとドアノブを回して中を覗き込む。 「杏、いるのか」 とたんに、きついアルコールの匂いに眩暈がした。 今は朝だというのに、部屋は濃厚な闇に満たされて夜なのかと錯覚した。目を凝らすと、テーブルの上に無数の酒瓶と、その上に突っ伏している女性――杏を見つけた。 「杏、大丈夫か」 あきらかに飲み過ぎている。駆けよって、肩を掴んで揺さぶる。 「……誰」 「はじめまして、杏。俺は、坂上健……探偵見習いの暴霊退治屋、かな。今日、あんたをこの世界から解放しにきたんだ」 「……この、世界?」 杏の目は夢を見るようにとろんと淀んでいた。 「そうだ。……今からいうことをよく聞いてくれ。……あんたは、フッキを呪い殺そうとして失敗して、あんた自身が死んだ。そのあと、鬼なったあんたはフッキを殺し、そのせいで無名も死んだ。けど、フッキがそれを否定して今日をずっと繰り返して……ここは暴霊域みたいになってるんだ」 杏の目はじっと健を見つめていると思うと、ふっと赤すぎる唇が吊りあがって堰き止めるものが崩壊したように、笑いだした。 「あはははは、それは面白いこと。あなたは、あの人がよこしたの? 何なの、今更! 助ける? なら自由にしてちょうだい、私をここから出せる? あなたが、あなたなんかが!」 笑い声は狂気と孤独を孕んで、部屋の中を満たしていく。 健は杏の細すぎる腕を掴むと、顔を覗きこんだ。 「俺を見てくれ、杏。……方向性はいろいろと間違ったけどさ、あんたは一生懸命頑張ったんだって思うんだ。俺はそれを否定したくない。夕方にフッキと戦うことになっても……必ずあんたをここから救い出す」 杏の両手を握りしめて、真顔で健は言い放つ。 杏の境遇に対して悲しいと思ったのは、健には妹がいるせいかもしれない。もし自分の妹がこんなことになったら…… 健は妹がいるせいか周囲に「しっかり者の兄」として認知され、他人に頼られることが当たり前で、健自身が人に頼られたいという気持ちが強い傾向にあった。その性格のせいでおせっかいといわれるし、自分の経験不足や、実力が伴わなくてよく失敗をして落ち込むことはしょっちゅうだが、それでも健は困っていたり、弱い人間がいたら真っ先に駆けつけて、その手を掴もうとしてしまう。 杏は、健よりも年上のはずだが、その全身は痛ましいほどに小さく、推さない。肌は太陽の光を避けすぎて白く、目の下には隈が出来、無気力な目は泣きすぎてもう涙をこぼす方法すら忘れてしまったようだ。 「俺を、信じてくれ」 「……嘘じゃないの?」 「ああ」 真剣に頷く健に、杏の顔がゆるゆる歪み、ふるふると首を左右に激しくふりはじめた。 「嘘よ、嘘よ、そんなの嘘よ」 「杏……おい!」 健が落ち着けようとしたが無駄だった。杏は両手で頭を抑え込み嗚咽を漏らした。 「嘘よ、嘘よ……あの人が死んだなんて……!」 何度も、何度も、杏は繰り返す。否定するために。 ★ ★ ★ 太陽の光が燦々と降り注ぎ、その光によって活発化した緑たちが風に揺れて、さわ、さわわっと音をたてる。 緑の絨毯の上に、ぽつんと立っている人影があった。 十三が近づいていくと、その男はさっと振り返った。 黒で統一した着物は、派手ではないが、それだけに品があった。その男の顔を見ることは黒い薄衣がつけられて叶わない。 「……誰ぞ」 「お初にお目にかかる、ハオ家の寵児。俺は百田十三。流れの符術師だ」 十三が礼を尽くして頭をさげる。 「汝以外にも、人と、そうでないもの……ここになにしにきた?」 「話し合いにきた。その顔隠しは」 「吾が目は力無き者が見ると死ぬという……くくっ、そんな噂を信じて恐れる者がいてな。隠しているだけじゃが、このままを赦せ。それで話とはなんぞ?」 十三はアサギから預かっていたそれをおもむろに取り出した。ここに来る前に印を結び、札を張って封印した――魂を封じる、呪具をフッキの前に出した。 「これを俺の力でどこまで封じたかはわからないが、一時的とはいえ機能はすまい。見たことあるだろう、ハオ家の者ならば」 「……それを作ったのは吾だ。……魂を縛るものだが」 「お前は死んだ。ハオ家はお前の魂の回収を望んでいる」 「その原因は?」 「驚かないのだな」 十三の言葉にフッキは小首を傾げた。 「汝が嘘をついているとは思わぬからだ」 「そうか……お前は御妻女をないがしろにし過ぎたのだ。言も聞かず放置されたことを恨んだ御妻女がお前を呪い、呪い返しにより死して鬼となりお前を殺した。憑代の無名も死んだ。お前はそれを否定しその日を繰り返す暴霊となってしまった。……ハオ家の者は此処に入れずにいるのを俺が依頼を受けてここにきた。この呪具はその証だ」 フッキが笑った気配がした。しかし、その顔ははっきりと見えない。十三は託すように話し続けた。 「お前にまだ理性があると思えばこそ話した。身体はしょうがない、ハオ家の物になるだろう。だが、魂を道具として永遠に縛り殺しの道具に使うことは納得できん。俺はせめて、死者の魂だけは救いたいのだ。……ハオ家と敵対しようとも」 「獣に愛されているな。心優しい者よ。……一ついえば今のハオ家には、あなたに勝てる者はあまりいない。敵対などしたらそれこそハオ家の者たちが無駄死にするだけのこと。誰もそんなことは望まぬ」 フッキの言葉に十三は目を細めた。 「ハオ家は、夕暮れなのだ……すべてに終わりがくる。しかし、欲は尽きず、永久を望む。愚かなものさ。一瞬の花のように咲き散れば実も結ばれただろうに」 「……フッキ」 二人の間に風が吹いき、湿った土の匂い、朝露に濡れた植物の濃厚な香りが鼻孔をくすぐった。 「ハオ家が必死なのは、存続のため。生き残るには非道でなくはならない」 「他人事のようにいうんだな」 「吾はハオ家を誇りに思っている。たとえ、どれだけ欠点はあっても。生まれ、育まれたところだ……多くを与えられてきた。そして、守られてきた」 フッキは淡々と言葉を紡ぎ出す。 「ハオ家を守ること、誇りに思うことを呼吸するようにいつも思っている」 十三は目を細めた。 この男は揺るぎがない。人の上に立つことを教え込まされ、それを知っている。 そして、恵まれているのだ。 努力すれば叶わないことがなかった。それだけの才能と立場に彼は生まれたときからいたのだ。ゆえに無垢であり、無邪気であり、真っ直ぐなのだ。 無名が、フッキを子供のようだと口にしていたのを十三は思い出した。 「知った以上は、選択を俺は迫らなくてはいけない、お前がどうするかを」 「……」 「ただ、それまでには時間がある」 十三はちらりと視線を庭へと向けた。再び風が吹く。それにあわせてざわっと植物たちが歌声をあげる。 それにあわせて赤、青、黄……色鮮やかな花びら宙を舞い踊る。 「美しい、庭だな。……最後の刻まで、せめて酒を酌み交わしつつ話ませんか。御妻女の説得は、他の者がしてくれるだろう」 呪具をしまい、かわりに持参した酒を差し出した。 ★ ★ ★ 無名はリーリスを右に、幸せの魔女を左に挟まれるようにして塀に背中を預けて煙草をふかしていた。 「ねぇお兄さんは、フッキが嫌いなの? それはね、わかるの。だって、憑代で殺されちゃうから……けどね、どうして杏のことが嫌いなの? あの人からはじまるから? でも、たぶん、あの人、お兄さんに助けてほしかったと思うよ。本気で好きだったのかもしれないよ」 「それで、本気で好きだったらなんだっていうんだ?」 無名の声は冷やかだ。 「むぅ」 とりつく暇もない言い返しにリーリスが頬を膨らませる。 「信じてくれないの?」 「どこをどう信じろっていうんだ」 リーリスはしゅんと俯いて、足元にある小石を軽く蹴った。 「信じてもらえないけど、私も、お兄さんのこと好きだったの。だからね、今度こそ助けたい。私は私なりに出来ることをするつもりだよ」 リーリスの赤い瞳が無垢な輝きを宿して無名を見上げた。言葉以上に相手に自分の気持ちを伝える手段として。 無名は逃れるようにリーリスから視線を逸らして、黙って歩き出そうとした。しかし、それは遮られた。 「無名もまんざらじゃないってこと?」 くすくすっと逃げ道をふさいだ幸せの魔女が笑う。 「あなた、私が言ったときも、つっけんどんだったけども、それって本当は……」 「だったら、なんだっていうんだ。俺がもし、杏を好きだったとして……フッキから奪えと? ろくでもないことをいうな。そもそも助けるっていうのは何を示してだ? 俺は、フッキの道具だぞ」 血に飢えた獣の目で睨みつけようとも、魔女は平然と笑い続ける。 「難しく考えてしまうから幸せが逃げてしまうのよ。不幸はひとつづつとりのぞいてしまえば良いの。最後に残るのは幸せよ。呪術も、体面も、隠し事も、すべて捨ててしまえばいいのよ。いまさら、取り繕うものなんてあなたたちにはないでしょう? 幸せを迎えるのに役立たないものなんて不要なのよ」 無名の顔が一瞬、痛いところを突かれたように歪んだ。幸せの魔女はその隙を逃さず、猫が大好きな鼠を弄んで殺すかのような残忍な喜びに満ちた顔で追いこみにかかった。 「幸せを求めないなら、あなただって私の手で殺すわ」 「殺すね。俺を、出来るのか」 「私を誰だと思っているのかしら」 「……幸せの魔女」 無名は降参するように肩を竦めた。 「……俺は杏のことは嫌いじゃない。だが、お前たちのいうような感情はない。……俺が後悔しているのは……フッキを守れなかった。俺がこの世に存在する理由はフッキだけだ。……どうして俺だけが助かったんだ。出来ることならもう一度やり直したい。フッキが死ぬ前に、今度こそあの人を守りたかった」 深すぎる後悔を告白する無名の顔には、ここに来る前のふてぶてしい態度はない。 無名が自分を殺すように囁いたのは、彼自身がフッキを守れなかった自責の念が深く、罰する存在が欲しかったためだ。 「お兄さん、辛かったんだね、本当に」 リーリスが心配げに無名の手をぎゅっと握りしめる。 「ここは本当にいやなものばかり! ……私は幸せの魔女よ! 不幸なんて私が退けてあげる!」 幸せの魔女は挑むように言い放ち、踵返した。 ★ ★ ★ 「しつかりしてくれ、杏」 健は泣き続ける杏を両腕で抱きしめ、その細い肩を撫でて落ち着かせようと試みた。 杏に対しては真実を隠さずに話すべきだと考えていたが、もう少し言葉を選んで説明すればよかったと後悔が胸を過る。 「杏」 だいぶ落ち着いた杏の顔を覗き込み、健は視線をあわせる。どこか遠くを見た杏の瞳はまるで小さな子供が迷子になってしまったような心許無さを感じさせた。 「逃げないでくれ」 杏の小さな身体が震えるのに、健は抱きしめる手に力をこめた 「俺が今日一日、一緒にいる。杏……俺はあんたの名前しか知らないんだ。あんたのこと教えてくれ」 そっと親指の腹で杏の瞳から零れ落ちる涙を拭い去って微笑みかける。すると杏はゆっくりと、唇を開いてくれた。 「私は、ただの商人の娘なんです。……呪術なんて知らないし、そんなものと一切関わりがなかった……けど、あるとき父が事業に失敗して多額の借金をしたのです。それを帳消しにするため、フッキの妻になれと」 おずおずと床に膝を抱えて座り込む杏の横に健も座り込み、震える手に勇気を与えようとぎゅっと握りしめた。 「私も噂くらいは知っていました。……だから目を見ないように顔を逸らして、名だって呼ばないでほしいとお願いしました。だって、名前一つであの人は人を殺すのだと……父の借金したせいで、こんなことになってしまって……」 切実な言葉に健は黙って、杏の握る手に力をこめた。杏から伝わる熱が、この世界が作り出した偽りであるとは到底思えなかった。否、思いたくなかった。 「あの人は私に興味がないんだわ……私がここに居ても、あの人はちっとも……気にしない。寂しい。とても寂しい。あの人が……」 杏が健の手を振りほどくと床をずるずると這うようにテーブルに進み、その上に置いてある酒瓶を無造作にとると、瓶に口をつける。 「だめだ。酒に逃げちゃ」 『逃げていたいのね』 突然の声に杏は驚いて目を丸めた。ちらりと健を見るが彼には聞こえていないのか不思議そうな顔をしている。その健の肩越しに、部屋の端に自分が立っていた。驚きに悲鳴をあげるのも忘れて杏は固まった。 『酒はなにもかも忘れさせてくれる。だから逃げるのね。自分から、現実から、優しくしてくれる者にすがるのね』 杏は小さく首を横に振った。 『私は貴女よ。貴女の心が生んだ者。……酒に溺れることも、逃げることも、現実もいや。けれど、一番いやなのは私自身』 呼吸する方法を忘れてしまったように杏は口をぱくぱくさせて、擦れた声が漏れた。違う、 『ハオ家は恐ろしい。けれど父の借金のため……けれど本当に? それを受け入れたのは私自身。それを今更、本当はいやだったと父や、借金のせいにする』 違う。 『フッキが嫌い? あの人は金や物を与えてくれるけれど、私のことを理解しない。だから理解しない。だって、あの人は私に興味なんてない。なにをしてもほっておかれてしまう』 違う。 『あの人は、私ことを好きではなく、ただの道具と思っているのかもしれない。だから動かない。なにもしないのにはじめから諦めて、憎んで、呪って、妬んでばかり』 違う。 「やめて、やめて、やめて、やめて、お願い、やめて!」 杏は悲鳴をあげる。 「違う、違う、あの人は……あの人は……私は、私を見てほしい。私はここにいる、ここにいる。気が付いて、フッキ! 私は物じゃない! 誰かを愛したい、必要とされたい! 私は私の居場所がほしい!」 杏の叫びに、目の前にいる杏が笑った。一瞬だけ、その口元は慈愛に満ちたが、それはすぐさまに軽薄な仮面を被ってしまったので杏は気が付くことはなかった。 『……なら、貴女の代わりに私がすべて告げてあげる。私はそれで消え去るから後は知らない。まぁ、本当にすっきりしたいなら自分の口でいってみたらいいかもしれないわね』 それだけ言い残して杏の生み出した本心は目の前から消えた。 「おい、杏、大丈夫か? なにかいたのか?」 健が必死に声をかけるのに杏はただ放心したように立ち尽くしていた。 「彼に、すべてを、告げる? ……そんなこと」 「あら、辛気臭い部屋ね!」 ドアが乱暴に開けられて、飛んできたのはたっぷりの毒を塗った棘のある声。 「あ、おまえら」 健が振り返ると幸せの魔女、リーリス、そして無名。 幸せの魔女は目を細めると、つかつかと歩み寄り、杏の腕をとって自分へと向かせた。 「本当に醜い顔ね! 幸せなんてこれっぽっちもない顔! あなたはなにをしたの? なにもしていない、理解もしない、出来ない。それこそがこの不幸の原因! なぜ自分の心をフッキにいわなかったの?」 幸せの魔女の罰する声は鋭く杏の胸へと突き刺さった。 「愛を見失った女には幸せを願う資格はないわ」 「……私は、私は……」 「杏、いいんだ。無理しなくて」 健の気遣いの声に、杏は健の腕にしがみついて、擦れた声で告げた。 「フッキに、会いたい」 ★ ★ ★ 咲き誇る花に満たされていた庭は、気が付けば紅蓮色に染まり、すべての植物はため息を吐く様に散っていく。 その庭で十三とフッキは酒を飲み続けていた。 「もう終わりだ」 「ああ」 十三は手元にある呪具の封印が緩みはじめたことに気が付き、再度封印をかけよとしたとき、フッキがふらりと立ち上がった。 十三もそちらへと視線を向けると、杏が立っていた。しかし、それは茜色に染まり、透けていた。 『私は杏の本心、あなたに伝えられなかった気持ち……いつもお金や物を与えるだけ。私を愛してないのでしょう? 愛しているなら貴方の口から直接、言葉をちょうだい』 切実な、それでいて怒りを孕んだ言葉にフッキは口元に微笑を浮かべた。 「あなたは妻ではない。……纏う霊力が違う」 杏は顔色を変えなかった。じっとフッキを見つめる。 「それに、妻殿は……私を恐れて、そんなにも真っ直ぐに見てはこない。本来の姿になるといい。その姿で詰られるのは辛い。このあと妻殿と向き合うつもりでな。今からいじめないでくれ」 杏は一瞬だけ迷った顔をして、その姿を本当の――アルティラスカの姿に戻った。 「美しい天女。あなたは妻殿のところにいたのか……わからんな。欲しいものを与えれば自然と好いてくれるものだと思っていた」 「物があっても言葉がなくては分かり合えません。彼女はとても孤独でした」 アルティラスカの言葉にフッキは首を傾げた。 これは互いを知らなさすぎて起こった事件。フッキの無邪気さが、杏の恐れが、互いに唇を噤ませ、踏み出す勇気のなさが――二人ともが卑怯なのだ。 「いまさらでも、あなたたち夫婦は互いに言葉を使うべきです」 「天女殿に説教されてしまったな」 フッキの顔が、ふっと真剣になる。 「……妻殿、あなたは吾に何を求めていたのだ?」 フッキの視線は庭の果て――そこには杏と、彼女を背にかばった健、幸せの魔女、リーリス、無名がいた。 杏が自分の意志でフッキに会うことを決意したが、やはり庭まで来ると怯えてしまったのに健が手をとりここまで連れてきたのだ。 「フッキ、あなたがまだ杏のこと愛してるなら、ここから解放してくれ。今日は違う日だったろう!」 と健が叫ぶ。 「若者、吾は妻に聞いている。妻殿……答えてくれ。あなたの言葉を聞きたい」 杏が弾かれたように顔をあげ、おずおずと口を開いた。 「私は……聞きたいんです。あなたは私のことを道具と思っているのか」 「……この婚姻は吾の意志だ。あなたは忘れてしまったのかもしれないが……ある宴の席で吾はあなたの笑顔を見て、見初めたのだ。それを下の者にいった、あなたと妻となりたいと」 「うそ!」 杏は叫んだ。 「私は借金のカタに、あなたの子を産む道具だといわれて……」 「そんなことが? ……吾は、ただあなたを好いた。それを口にしただけ、ハオ家の者はそれを叶えてくれる。どんな願いも、……その方法など知らなかった……本当に吾は世間知らずだったのだな」 フッキは自分の目を隠す布をとった。すると二十歳くらいの穏やかな青年の顔があらわれて微笑みかける。 「あなた、あのときの……あの宴の席の……っ! どこかの実業家だと思っていた……」 杏が驚くのに、フッキは悪戯が成功した子供のように笑った。 「妻殿は恐れて顔一つ見てくれなかったな。まぁあのときのことを言わず、あなたが怯えるので顔を隠したままでいた吾も悪い。あとで驚かせようと思っていたのだ」 「……私、あなたを殺して」 「死んでもいい」 フッキは杏の言葉を遮った。 「あなたが吾の命が欲しいというならばくれてやるくらいには好いていた……それがあなたを追い詰めたなら吾の行動は間違いばかりだったのだな。あなたを自由にしよう。吾からも、ここからも」 杏が泣きながらフッキに駆け寄り、その胸に抱きついた。何度もごめんなさいと繰り返すのにフッキは優しくその頭を撫でた。 「ずんぶんと引き留めてしまった。あなたは先に逝きなさい」 「フッキ……ごめんなさい。ありがとう」 杏はフッキから離れると、自分をここまで連れてきたくれた彼らにおずおずと近づき、感謝の気持ちをこめて頭をさげた。 「ありがとうございます。本当に、お世話をかけました」 「杏、よかったな。本当は生きてるうちに来るべきだったのに、ごめんな。けどちゃんと転生するんだぜ」 健が杏を、そっと抱きしめた。 健にしてみればただ単純な祝福と励ましの行動だった。が、杏を腕から解放した瞬間、横にいた幸せの魔女の肘鉄が横腹に決まり、リーリスに足を踏まれ、無名の右ストレートパンチが頬にヒットして地面に倒れるはめになった。 「な、なんなんだよ、いきなり! お前ら! え、なんかしたか! 俺!」 「空気を読みなさい」 「人妻に手をだしちゃだめだよ」 「お前、ばかだろう」 杏とフッキは夫婦として最後の抱擁を交わし、見つめあい――がっくりと杏の体がフッキの腕のなかに崩れる。 世界が硝子を粉々に割れたかのように、小さな破片が落ち、鮮やかな別の色が現れる。 「ここの結界を解いた。……吾はもうすぐ死ぬ。無名、お前はどうする」 フッキの問いに無名はちらりと自分の傍にいてくれるリーリスに笑いかけると、その手を握りしめた。 「世話をかけたからな」 「お兄さん……」 「目をとってくれ」 「でも……うん。わかった」 リーリスは寂しげに笑うと、無名の片目から自分のあげた赤い瞳をとって、自分の瞳に戻した。 「おい、魔女」 「なによ。私は機嫌があんまりよくないのよ」 無名は不機嫌な顔をする幸せの魔女の髪の毛をひと房とると、にやりと笑い、顔を近づけると一瞬の口づけを交わした。 「怒った顔のほうがあんたは美人だぜ。……二人ともありがとな」 心配してくれた二人に挨拶を終えて、無名はフッキと向き合った。 「……俺は……何もできなかった。……俺が出来たことなんてあなたが死んだことを隠蔽し、ハオ家からここを守るくらいだった。あのときからずっと後悔していた。この日のことを」 「否定したのは吾だけではない……杏の罪を犯したゆえの後悔。無名、お前の無力ゆえの後悔……すまない、無名」 「俺は、あなたの道具であることが誇りだ。俺はあなたと憑代の法で繋がっている。フッキ様、あなたが死ぬとき俺も今度こそ本当に死ぬ」 フッキは困ったように笑って頷くと、その口から血が吐き出される。とたんに無名の体が苦しげに痙攣しはじめた。 結界はなくなり、術も解けて、時間は動き出す。 「っ! ……お前たちには悪かったよ。いろいろと迷惑かて、けど、これで俺もちゃんと死ねる。逝くことができる」 無名が満足げに笑ったとき――その胸を黒い刃が貫いた。 「が、あ……?」 紅蓮の花びらが散り、無名の身体が地面に倒れた。 世界を乱暴に突き破って現れたのは、アサギ。彼は無名の顔を踏みつけ、刃を乱暴に抜くと血を払った。 「回収班、無名の肉体と魂及びフッキ様の魂の確保を」 アサギの背から黒い衣服に身を包ませたハオ家の回収班が庭を踏み荒らしていく。 「なぜだ。ここにはハオ家の者が……」 十三は顔を渋くさせた。 フッキの結界がない以上、ハオ家はここにはいってこれる。 憑代の法――術者の請け負うべき負担の身代わりとなる術によってつながっているフッキと無名。 フッキの結界と術のなかになぜ無名ははいれたのか。それはフッキの最期のとき、無名が共にいたのもあるが、彼ら二人は憑代の術によって繋がっていたからだ。 フッキが死ぬとき、憑代の術によって無名は身代わりとなって死ぬ。僅かとはいえその間はフッキの魂はこの地上に留まってしまう。 「ハオ家……! させない。そんなことさせないんだから! お兄さん、私のなかにきて……っ!」 リーリスが赤い瞳に輝きを放ち、拳を戦慄かせる。魅力の力を今なら存分に発揮して、ハオ家の者たちの足止めを出来る。その間に二人の魂を守れる。 そのリーリスに黒い刃を向けて邪魔をしたのはアサギ。 「邪魔をしないでください。あまり変なことをするとあなたを殺すことになりますよ」 「おい、てめぇ!」 健が怒りに吼える。 アサギは旅人たちの怒りに距離をとると、笑った。 「結果が消え、魂も肉体も回収できました」 アサギは口元に笑みを浮かべる。 「みなさまの働き、私たちハオ家は大変満足しています。また何かあったときは互いに協力しましょうね」 枯れ果てた灰色の庭は紅の血によって穢された。 しかし、それは夜というなにもかも飲み込むように黒色によって覆い隠された。
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