そこは0世界。ターミナルの裏通り。 季節のない穏やかな世界には、様々な世界からやってきた旅人たちが道を行き交っている。ディアスポラ現象に見舞われ、自分の世界に帰れなくなった者たちは一時的にここに居住していることが多い。 彼らは、文字通り“世界が違う”隣人たちと暮らしている。 悪気のない──ちょっとした──トラブルが起きることも日常茶飯事なのだ。「あれ、どこやっちまったかなあ」 発明家にして、希代のエンジン技術者である老人、オータム・バレンフォールはキョロキョロと地面を見回している。 彼も最近、ロストナンバーとなってこの街に住み始めた者の一人だ。どうやら何かを落としてしまったらしい。 落し物ですか? と、通りがかりの猫獣人の婦人に話しかけられると、彼はいや、あの、その、なんでもないとその場を離れてしまった。 困ったように頭を掻き掻き、バレンフォールは独りごちる。「やべえなあ。どうも最近忘れっぽくて、いやになっちまうぜ。おれのマーベラス・ボンドを誰かに使われちまうじゃねえかよお」 困ったように彼は0世界の空を見上げたのだった。 と、そんなわけで。 裏通りの道の真ん中に、不審なオレンジ色のチューブが落ちていたのであった。 中身は歯磨き粉か、絵の具か? ラベルには何も書かれてはいなかったが、大きさは30センチぐらいの、とにかく大きなチューブだった。 しかしその存在に気づいたものは、ほとんどいなかった。 シャーッと車輪の音を響かせて、飛田アリオが自転車で走って来た。カゴには大きなピザが斜めに差し込まれていた。家に帰ってテレビでも見ながらそれを食べるつもりなのだろう。鼻歌まじりに片手運転だ。 彼は、何の警戒心もなくその通りを走り抜けていった。 プギュッ!! と、不審なチューブを思い切り踏んづけて。 どこかで、ギャッという悲鳴が上がった。
0世界の、なんでもない一日だった。 アルティラスカは立ち止まって店頭に並んだレースのカーテンを眺めていた。うちのお店に合うかしら、どうかしら? 彼女は自分が0世界で営んでいる喫茶店の内装を思い出しながら、あれやこれやと商品を見比べた。右手には配達用の長方形のパッケージがあり、取っ手の下には黄色いマリーゴールドの花が添えられている。 「あら、いけない」 しかしすぐに彼女は用事を思い出した。そう、アルティラスカは豊穣の女神である前に、今は喫茶店の店員であり、配達の途中だったのだ。 お客さんが待ってるわ。歩き出そうとして、ぐぐっ。うん? 彼女は左足が妙に重いことに気付いた。 何かしら──? 流鏑馬明日 (ヤブサメ・メイヒ)は、前にいた翠の髪の美女がこちらを振り向くのを見た。同性でも見惚れてしまうほどの美しい女性である。明日は思い出した。一度、インヤンガイでの事件を共にしたアルティラスカだ。 「こんにちわ。お久しぶりです」 「まあ、メイヒさん。こちらこそ」 挨拶をする二人。明日はしかし表情を崩さなかった。彼女も今、手が離せない状態だったからだ。 黒いパンツスーツで身を固め黒髪を一つに束ねた明日は、0世界にいようがどこにいようが刑事だった。 彼女はアルティラスカへの挨拶をそこそこに、立ち去ろうとする。目線は先を行く不審なグレーのコートの男に注がれていた。あの男が、先ほどから幼い猫耳少女を尾行け回しているのだ。女刑事は犯罪の匂いをそこに嗅ぎ取っていた。 「ごめんなさい。今、急いでいるので」 ぐぐっ。うん? 明日は足を踏み出そうとして気付いた。何か右足が動かない。 どういうことかと、彼女が下を向いた時。ドンと誰かが背中にぶつかった。 「あら明日さん。背中に何かついてますよ」 業塵 (ゴウジン) は、ある屋敷を探していた。折烏帽子に直垂姿の彼は陰気そうな目で、街並みを確かめながら歩を進めていた。0世界は無味乾燥な世界で匂いも風もないため、彼はいつも何か探すときに難儀していた。 いっそ身体を無数の虫に分散させて空から探そうか。物の怪である業塵は、人にはできない芸当をこなそうとフッと身体に力を込めた。一歩後退して力を解放し──。 ドン。誰かの背中にぶつかった。 「何かじゃなくて人でした。ごめんなさい」 その声に振り向くと、そこには翠の髪の神々しい女がいた。ぐぐっ。うん? 何か背中が重いような……。 「あの」 背中ごしに振り向けば、何と業塵の背中に黒髪の女がくっついていた。背中合わせの格好である。さすがの業塵も慌てて離れようとするが──ピッタリくっついて、全く離れない。 これはどういうことか。彼は目をくわっと見開いて女二人を見た。アルティラスカは目をパチパチやりながら微笑み、明日は業塵が怒ったのかと思い目を真ん丸くする。 「ちょっと待って」 明日は刑事らしく状況を確認した。要するに状況は、こうだ。 アルティラスカの左ひざ下と、明日の右ひざ下がくっついていた。 明日の背中と業塵の背中もくっついていた。 「何かボンドのようなもので、接着されてしまったようね」 業塵は黙りこくった。接着されたのならそこを切ればいいのに、と思ったが、それを口に出さないだけの分別は持ち合わせていた。彼は身体を無数の虫に分散させることが出来るが、明日の背中に一部分を残してしまうことになりそうで、それはどうにも気分が落ち着かない。 はたと彼は今の状況に思い至った。女性にひっつくのはたぶん、いわゆる失礼に当たるのではないだろうか。 そんなわけで、業塵はそのままの格好で陰気な顔の女に変身した。 「???」 明日は背中の人物が女性に姿を変えたのを見て、眉をひそめる。普通のお侍さんとは違うようだし、何か気を使ってくれたのかしら……? 「困りましたねえ」 アルティラスカが微笑みながら言った。その様子は全く困ったように見えなかった。業塵は、ふむとかああとかそんなような言葉を漏らした。 一番困った様子なのは明日だ。彼女は自分が尾行していた男を見やった。犯罪が起きるかもしれないのに! 仕方ない。二人に同行をお願いして──。 「──あっ!」 その時、珍しくアルティラスカが声を上げた。どうしたの? と反射的に明日。 「紅茶とケーキが」 女神は視線を巡らせ、指を差した。そこには猫耳の少女が角を曲がって逃げ去るところだった。先ほどまでアルティラスカが持っていた配達用のパッケージを手に持って。 「……盗られちゃいました」 「なんてこと!」 それを見て明日は自分の勘が間違っていたことを悟った。犯罪者は少女の方だったのだ。自分が一緒にいながら目の前の犯罪を見過ごしてしまうとは! 「ケーキ」 業塵が唐突に口を開いた。なぜかその目を爛々と輝かせて。「追わなくては」 「足を揃えて……さあ、行きますよ」 アルティラスカが明日に微笑みかける。二人三脚の様相だ。さすがの女神は冷静──というより、この状況を楽しんでいるようにも見える。 「お侍さんが」 明日が声を上げると、背後から業塵だと返事があった。 「心配無用。百足は後退せんというが、あれは俗信だ」 やる気満々のアルティラスカにつられ、明日は背中に業塵を付けたまま一緒に走り出した。百足? ムカデってどういう意味? と、かなり不安になりながら。 * 数分後、三人は薄暗い屋敷の庭にいた。江戸時代の武家屋敷のような純和風の家屋である。 「ここのはずよ」 明日が自分の推理を披露する。 「女の子が走っていった方向で人が住んでいない家はここだけ。あの短い時間で行ける場所も限られている」 「それはいい」 ぽつりと業塵がつぶやいた。「儂の用事も片付こうというもの」 「? ここは業塵さんのお知り合いのお屋敷ですか?」 アルティラスカが首を伸ばして尋ねると、業塵はおごそかにうなづいた。この女神と物の怪は自分の力が相手に悪影響を及ぼさないかとお互いに気にしていたが、今のところ女神が陰気そうな顔になったり、物の怪が女神の光で干乾びたりといったことは起こっていなかった。 「今日でなければならなかったのだ。ご同行願いたい」 「それは構いませんけれど?」 「振り返らない・連れの名を呼ばない・何が聞こえても気にせんこと。守れるか?」 くっついてる女二人は頷いた。はい、と手を挙げる明日。 「私たちが前を行くなら、業塵さんは振り返ってることになるわ」 「儂は目をつぶる。目的の室で猫の女子(おなご)が見つかるであろう」 行くぞ、と言われ女二人は呼吸を合わせて、屋敷に足を踏み入れた。 障子を通して薄明かりが差し込むだけの空間は、とても昼間とは思えない明るさだった。女神と女刑事はそろそろと前へと進んだ。しん、と静まりかえった空間──。 キャあッ! 女の子の悲鳴が聞こえて二人は反応した。思わず足を止めると、ぞわり。何かが足元を通り抜けていった。 まあ、と声を上げるアルティラスカ。それでも彼女は微笑んでいる。 『──ちょいと、姐さん。それを取ッてくんないかね?』 それって? 後ろからあまりに自然に声を掛けられ、明日は足元を見ようとして頭を振った。いけないいけない。何が聞こえても無視と聞いたではないか。 『黒い髪の姐さん、あんたのことだよゥ』 「左の部屋に入るのだ。蝋燭が置いてあるであろう?」 今度は耳元にフーッと生温かい息だ。明日は肩を強張らせながら襖を開けた。 確かに床の間に大きな和蝋燭が置いてある。アルティラスカは蝋燭に手を伸ばしながら、掛け軸を見上げた。腹の出た老人の全身像だ。酔ったおじさんの絵かしら? 彼女は首をかしげながら蝋燭を手にした。 ──ぎゃあああっ! その悲鳴の大きさに思わず蝋燭を落としそうになる女神。すると一転、悲鳴が笑い声に変わった。くすくすくす。やめてやめて、そんなところ触らないで。 「火を点けられるか」 「苦手ですけれど、まあ」 『ひいい燃やすだってェそんなひどい』 アルティラスカが息を吹きかけると、蝋燭にぽっと炎が灯る。 「その布袋の絵を燃やすのだ」 「ほてい?」 「この掛け軸のことよ」 明日に促され、アルティラスカは蝋燭の炎でその“酔ったおじさん”の絵を燃やした。 「次は箱庭だ」 業塵は目を閉じたまま指示する。ちなみに本人が言ったとおり、彼は器用に後ろ歩きをしていた。 しばらく廊下を行く三人。後ろから何かの気配が追ってきて、女二人は後ろ髪をちりちりと引かれたりもしたが、気にしなかった。 「ぐふふ、よさんか。これ」 それよりも、業塵が何かされたらしく笑っているのを聞いて、明日はよっぽど後ろを振り向きたかったが物理的に出来なかった。 と、そうこうしているうちに、壁に囲われた小さな箱庭が姿を現した。 「もう良いぞ、二人とも」 懐から一輪の菊の花を取り出し、業塵。彼は箱庭の花瓶にそれを挿す。 ふわっ。 すると急に屋敷の不気味な雰囲気が消えたのだった。思わず顔を見合わせる明日とアルティラスカ。 「月に一度しか入れぬ屋敷なのだ」 彼に促され、三人は隣りの客間へと歩いていく。襖を開けると、客間の机の上に酒の壜が置いてあった。 「毎月絵が元に戻り、花が無くなる。屋敷には悪戯好きの何者かが住んでおるようで、儂の言ったことを守らぬと……ほれ、このようになる」 さっさとその酒壜をひっ掴み懐の中にしまった業塵。顎をしゃくってみせると、そこには例の猫耳少女が座り込んで、呆けたように何ごとかをブツブツと呟いていたのだった。 「紅茶とケーキ、ありました」 アルティラスカが盗まれた配達物を取り返して、ホッと安心したように微笑む。 それを確認した業塵は、パンッと手を打つ。その音に少女が我を取り戻した。あっ! きゃっ! と状況を理解した少女は一目散に逃げ出そうと走り出した。 「──待ちなさい! ね?」 だが、その襟首をがっと掴んだ者がいた。怖い顔をした女刑事──明日だった。 * 「悪い方じゃないんですよ?」 アルティラスカは明日と並んで歩きながら、配達先のことを話し始めた。猫耳少女を説教し、開放してから数分。三人とも、この不自由な歩き方に慣れてきており、普通の人と同じぐらいの速さで歩けるようにはなっていた。 明日は犯人を捕まえられたことで、気が楽になっていた。あとはアルティラスカの配達を済ませればいいだけで、トラブルなど起こらないだろう。彼女たちは道すがら世間話を楽しんだ。明日にとって残念だったのは、アルティラスカの髪にあるのは羽ではなく花だということだ。それで飛べたりはしないらしい……。 今、彼らが歩いているのは、薔薇の咲き乱れる庭である。遥か向こうに西洋風の小さな城が建っているのが見える。 「こんなところに一人で住んでいるの?」 「ええ。ロストナンバーの方ですから。でも、とても優しい方なんですよ」 後ろ向きに歩いている業塵にも、自分たちが誰かのチェンバーの中に入り込んだことが分かった。段々と薔薇の蔦が高くなってきて、周りが壁のようになってきたからだ。まるで迷路のように。 来た道を覚えられるだろうか……。少し不安になった業塵は、パンくずならぬ自分の欠片──虫をぽとり、ぽとりと落としていった。これで帰り道を忘れずに済むはずだ。 「不思議の国の女王様なんです。お一人で、いつも寂しそうにしていて。この世界には家来も誰もいないでしょう? 虫も殺せないお優しい方なのに。お可哀相で」 「そうなの……」 「たまに、ご病気の発作が起きることもあって」 「それは大変ね」 明日は話を聞きながら相槌を打った。壱番世界出身の自分には、同じ世界の出身者は多くいる。しかし通常はロストナンバーは一人きりで突然別世界に飛ばされてくるものだ。その女王様もきっと、元の世界が恋しくてアルティラスカを話し相手に呼ぶのだろう。 業塵は黙って二人の会話を聞いていた。虫を殺せないと優しい? 一体どういう意味だろう。自分が過去に蹴散らしてきた修験者たちのような輩は、それなりに強かったような気がしたが、大百足であった自分を殺せなかった。それは、優しい、こと、なのか? 「あら、いらしたわ」 アルティラスカが足を止め、明日も必然的に立ち止まった。 薔薇の壁を両脇に、前方に赤と白のドレスをまとった女性が立っていた。慎み深いロングスカートのドレスは伝統的なデザインで、ふんわりと上品に膨らんでいる。 彼女が女王様か? 明日は目を凝らした。彼女は俯いており顔はよく見えなかったが、プラチナブロンドの髪をもった美しい女性であることは容易に想像がついた。 女王様は、パッと顔を上げてこちらを見た。 「──よく来たね、このアバズレども!」 え? 聞き間違いかと、明日は自分の耳を疑った。 「ここから生きて帰れると思うなッ」 ペッと唾を吐いて、女王様。後ろに回した手を元に戻せば、そこには大きなピカピカのデスサイズが握られていた。 「今日は間に合いませんでしたね」 うーん、残念。とばかりにアルティラスカは首をかしげてみせた。ぽかーんと明日が凶器を手にした女を眺めている間に、周りの薔薇がみるみるうちに鋳物へと変わっていった。このチェンバーの主が手にしている武器と同じ色、同じ材質に。 「みーんなみーんな、首を刎ねてやる!」 ──ザンッ! いきなり、半端無いスピードで女王様が間合いを詰めてきた。明日はその刃が自分に向かってきていることに気付いて、咄嗟に飛び退いた。 彼女の鼻先を刃がかすめ前髪を数本飛ばす。思わず身体が反応して、両手に銃器を構える明日。 が、両足が地に着かず、彼女はバランスを崩した。──まさか、飛んでいる? 明日は背中の業塵をまじまじと見やった。まさか、こっちの人が飛んだ!? 女神でなく!? 「あれが、発作とやらか?」 明日が攻撃され、業塵もやられては適わぬと空へ逃れたのだった。 「そうなんです。“首刎ね病”って言いまして。とにかく誰でも彼でも見境なしに首を刎ねたくなるという持病なんです」 答えながらアルティラスカも、短い呪文で空を飛ぶ。どんな持病だよ、とさすがの明日も心の中でツッコんだ。 下で女王様が汚い言葉を撒き散らしている。発作中に薔薇が鋳物に変わるのは、たぶんあの言葉を聞いて薔薇がしおれてしまわないためなのだ。 しかし明日は思った。あの脚力ならここまで届いてもおかしくはない──。 「降りてこい、ブタども!」 助走をつけ、女王様は壁を三角蹴りして大きくジャンプした。ブルン! 振るった大鎌を、三人は何とかよける。 「明日さん、業塵さん。これを」 アルティラスカは冷静に配達用のパッケージを開くと、中にあった細長いものを二人に手渡した。 それはマシンガンのような形をした──水鉄砲だった。 「これは?」 「特製の“紅茶鉄砲”です」 上空を逃げながら、女神は微笑みを浮かべたまま手短に説明をした。 「中に特殊茶葉の紅茶が入っているんです。これを飲ませれば落ち着きますので」 「分かったわ」 明日は自分の銃をホルスターに収め、代わりにその銃を手にした。意外にもその紅茶銃は彼女の手にしっくりなじんだ。 「でも、上から女王様の口を狙うのは難しいわ」 「そうですよね」 女刑事は背中にくっついている今日の相棒を見やった。業塵はしげしげとその紅茶鉄砲を見ていた。 短筒のようなものか。変わったものがあるものだ。強・中・弱とボタンがついている。興味を引かれ、彼はそれをぽちぽちと押してみた。押し心地が良くて、にやと笑う。明日はその様子を見て、つい微笑んでしまった。なんだか……業塵がキモカワイく見えたからだ。彼女はそういうのも嫌いではなかった。 「地に降りるしかあるまい」 やがて業塵が言った。彼は自分でも気付かないうちに、同行者の二人の女を信頼していた。例の屋敷でも動じなかった二人だ。この災難も何とかなるに違いない。 「おまえたちは走って、この短筒を撃ちやすいところを探すがよい。その間、儂があの女子の口を狙おう」 「いいわ」 明日とアルティラスカは目を見合わせて頷いた。 「ちょこまかと逃げても無駄だよ! フフフ、ここはわたしの国なんだからねェェエ!」 女王様が角を曲がって追いかけてきた。高度を下げ、二人三脚で二人はひた走った。それを援護するように、業塵は自身のトラベルギアである扇を取り出した。黒地に火の粉と蛾の翅が蒔絵で施された扇子である。 バサッと開き、そこから飛び出したのは妖蟲と毒の奔流だ。ひとまず業塵の中には“手加減”という概念は少しだけしか存在していなかった。生み出した妖蟲を女王様に浴びせるべく、業塵は優雅に毒を帯びた扇子を操った。 「ウガアアアッ!」 しかし女王様は雄叫びとともに大鎌を一振り、二振りで業塵の毒を消し去った。チェンバー効果か、それとも人の無限の可能性か? 目を見開いたものの、業塵はすかさず紅茶銃で口を狙った。ビシュン! ブシュン! それは鎌の刃を濡らしただけに終わった。 これは工夫がいる。業塵は二人三脚で必死に走る明日の背中にくっついた状態で、思案した。ちなみに飛行はしており、彼女には負担をかけていないつもりだ。 「業塵さん!」 その時、明日が背後から声をかけた。「いい場所が」 いいタイミングだ。業塵は、目を閉じた。 ザザーッ。 角を曲がった途端、女王様に無数の飛蝗(バッタ)が群がった。ええいっ、このッ。彼女は大鎌を振りながら飛蝗の大群を追い払った。 女王様の目の前から虫が消え失せ視界がはっきりすると、そこは行き止まりになっていて噴水があるだけだった。逃げていたはずの三人の姿が──ない。 「おのれッ、どこに隠れた!?」 『──ここよ』 後ろからの声。 ハッと振り向いた女王様。だが時すでに遅し。 そこには二人の女が立っていて、まっすぐに彼女の顔に紅茶銃を向けていたのだ。無数の虫たちが集結して、彼女のたちの背後に影をつくる。 アルティラスカは左手に銃を。 明日は右手に銃を。 あっ、と驚いた女王様の口に、二人は紅茶銃を発射した。 * ごめんなさい、ごめんなさい。 元の薔薇園に戻った庭で、女王様は泣きながら三人に頭を下げた。彼女はもうすっかり元通りだった。大鎌もどこかに消えてしまった。 「いいですよ。怪我もなかったし」 明日が言うと女王様は彼女の手を握り、ありがとう、ありがとうと繰り返した。 「どうかお詫びをさせて下さいな」 「いえ、それには及ばないです」 失礼のない範囲で彼女は固辞した。先ほどの女王様の処遇に懲りたというよりも、それは刑事としての習慣のようなものでもあった。 「病気ですもの、気にしないでくださいね」 悲しそうな顔をしている女王様に、アルティラスカが言った。業塵はその脇で、そうっと配達のパッケージを覗いて、中に何が入っているのかを確かめていた。 美味しそうなレアチーズ・ケーキだった。 彼がそれを見ていると、女王様が彼の期待通りのことを言ったのだった。 「それじゃあ、みなさん。ここでティーパーティーにしませんか? 美味しいチーズケーキもありますし」 * 「──アルティラスカさんは優しいんですね」 チェンバーを出て、街を歩きながら明日はぽつりと言った。首をかしげるアルティラスカ。 「何がです?」 「いいえ。病気が治るといいですね。彼女の」 「そうですね」 微笑みながら女神は女刑事の横顔を見た。彼女にはもう分かっていた。あまり表情の豊かな方ではないが、明日は心優しい女性なのだ。 「美味かったぞ」 明日の後ろで業塵がボソリと漏らした。何が? と問おうとしてアルティラスカは気付いた。 「ケーキのことですね。業塵さんは甘いものがお好きなんですか?」 うむ、と業塵は答えて押し黙った。明日とアルティラスカはその様子を見て、目を合わせ微笑んだ。言葉少ないこの人物が、何を言いたいかよく分かったからだ。 「もし良ければ、私のお店に来ませんか? この状態をどうにかしないといけないですけど、でももう少し甘いものも食べたいですものね」 アルティラスカの提案に、反対するものは誰もいなかった。 ただ、業塵が、はいと手を挙げた。 「何ですか?」 業塵は目線だけで訴えた。女二人が視線の方向を見やれば、そこには一軒の駄菓子屋があって、子供たちがワアワアと群がっていたのであった。 耐え切れず、プッと苦笑する明日。 そんなわけで、三人はくっついたまま。駄菓子屋で甘いものをたっぷり買い込んで、女神の喫茶店に向かったのだった。 発明家たるオータム・バレンフォールが、彼らを見つけて溶剤でボンドを剥がすまで。彼らは喫茶店でゆっくりと甘いものに囲まれて楽しく過ごしたという。 (了)
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