「樹登り、得意?」 聞いて来たのは、犬の特徴持つ獣人。 赤茶の毛を灯りにつやつやと反射させながら、濡れたように光る丸い黒眼をきょとんと瞬かせ、「樹の天辺にある竜刻、回収して来てください」 人間の腰ほどの高さしかない頭をぺこりと下げた。「場所は、ヴォロス。竜刻の大地。人の住まう所からは、ずっとずーっと、遠く」 大事そうに抱えた『導きの書』を開き、確認するようにゆっくりと言葉を紡ぐ。「大きな森。樹海。天にも届く大きな樹がたくさん。霧も出る。迷子にならないように、どうか気をつけて」 目印はあるのか、と旅人のひとりに聞かれ、獣人の世界司書は三角耳を動かした。「ある。唄う」 綿雲のような、手を伸ばせば触れることの出来そうな濃い霧が太陽の光を遮っている。霧の所々、ぬう、と不意に立ち塞がるのは、樹皮を黒々と湿らせた樹。無骨な武人のように、節くれ立った枝を、濃い翠の葉を、霧の向こうの空目掛けて、静かに静かに伸ばしている。 大地に深く浅く張り巡らされた根が養分を奪うのか、高く繁った梢や濃霧に空を覆われ陽の光が届かないのか、下草は然程繁ってはいない。 霧が音を奪うのか、樹海に潜む竜刻が植物以外の生き物を嫌うのか。葉に留まった霧が雫となって大地に落ちる音さえ聞こえるほどに、静寂が広がる。 ふ、と。霧が動いた。 突風に押されるように、霧が動く。雪崩を打って、巨木の間を奔る。奔りながら絡まり、集まり、――白い大蛇の群のように形作った霧が集まるその先。 ぐるりの樹々よりも一際巨大な、古い樹。 竜が立ち上がり、喉を空へ晒して吠えているような形をしたその樹に、けれど瑞々しい葉は一片として無い。黒々とした鱗が重なり合ったような樹皮は、もう遠い昔に枯れ果て、僅かにも命を含んではいない。太古に竜が咆哮の途中で命を閉ざし樹となったのか、そう思わせる程に、樹形は竜に酷似している。 その古樹に白霧の大蛇が集う。 見る間に、煌く白鱗の竜が現れる。そうして、そこだけ霧の晴れた樹海の真ん中、澄み渡った蒼空に向けて、高く低く、笛の音に似た声で歌を唄う。唄う樹の竜の眼に、蒼空を集めたような色の珠。唄っているのは樹か、樹に抱かれた竜刻が作り出した幻の竜か。 霧の露が蒼い竜刻に涙のような雫を作る。 雫が竜刻の丸い表面を滑り、流れ落ちると同時、竜の形を作っていた霧が解け、周囲に白く広がった。 歌が途絶え、樹海に再び霧と静寂が降る。「樹が唄うと、ふるさとを思い出す。いい思い出か、悪い思い出か。どちらかは分からない。わたしはふるさとを思い出せないから」 霧にも樹にも森にも、どこにも危険はないけれど、それだけ、と司書は黒い髭を動かした。「竜刻、樹に埋まってる。取り出すのは簡単。樹に登るのだけが大変」 樹登りするには不向きな、不器用そうな肉球の手を開いたり閉じたりしながら、もう一度、ぺこり。「お願い、できますか」
門番のように立ち塞がる大樹の先が壁のような白い霧に埋め尽くされている。これより先は、竜刻の力及ぶ樹海。 ひんやりとした霧の流れにロップイヤー付き帽子から覗く頬を撫でられ、城月稲穂は楽しそうな笑みを浮かべた。 「目印は『唄う樹』ってことやな。よっしゃ! せっくん」 稲穂の声に応えるように、大樹の傍からドングリフォームのセクタンが現れた。帰り道に迷わないようにと、『緑のしるし』を樹に付けていたようだ。どこか得意げな顔をして傍に戻って来るせっくんに、稲穂は「おおきに」と笑いかけ、 「ほな、がんばろうなっ!」 ロストレイルの車内から行動を共にしている旅の仲間二人を振り返った。耳に付けたドラゴンアイズ・サファイアのイヤリングが小さく揺れる。 「おうっ!」 濃紺の着物の袖を翻し、元気のいい声をあげるのは裕也。銀色毛並みの柔らかそうな丸耳がぴょこんと跳ねる。 「できるだけ皆とはぐれないようにするぜ!」 視界を白く埋める濃い霧を恐れもせずに、軽い足取りで樹海へと入って行く。後に続く仲間二人を振り返り、方向音痴だからな、とあっけらかんと笑う。龍のような尻尾がゆらり揺れた。霧の向こうにあるはずの竜の樹を探すように、紅色の眼を樹海の奥へと向ける。 白霧いっぱいの景色の中、ところどころ黒く滲んで佇んでいるのは、その一本一本がどこまでも巨大な樹だ。深い霧のため、間近に立って初めて霧の露に黒く濡れた樹肌を見ることが出来る。 「大きな樹がいっぱいやなぁー」 裕也につられるように、稲穂は霧に包まれた樹々へと眼を向けかけたが、 「……きゃ?!」 近くで小さく響いた悲鳴と、どさり、と言う音に、慌ててそちらへ向き直った。悲鳴を上げたのは、春秋冬夏。短い草に覆われた地面に這う樹の根にズボンの足を取られたのか、転んだ体勢から手を付いて起き上がろうとしている。その横では冬夏のセクタン、ドングリフォームのルクティがおろおろとしていた。 「ちょ、大丈夫、冬夏ちゃん」 「ごめんなさい、大丈夫です」 駆け寄り、差し伸ばされた稲穂の手に掴まって立ち上がりながら、冬夏は困ったように微笑む。葉っぱついとるで、と長い黒髪に付いた葉を取ってもらい、その笑みを深くする。 「見たことないものばかりでキョロキョロしちゃいますね」 「ほんまやなぁ」 「大木ばかりで圧倒されちゃって」 お互いに顔を見合わせ、くすくすと笑み合った後、二人は気付いた。 はぐれまいとすぐ傍を歩いていたはずの裕也が居ない。 銀色腕輪を通した手が触れたのは、 「霧じゃん」 蝶ちょかと思ったのに、と高く伸ばした手を下ろし、裕也は瞬いた。霧の雫がついた顔を掌で拭い、子犬のように身体を震わせて着物や髪に付いた水気を振り払う。 「なあ、今の」 蝶ちょに見えたよな、と後ろを歩いているはずの稲穂と冬夏を振り返るが、後ろには誰も居ない。しんとした霧が広がるばかりだ。 「あれ?! 皆どこ行った?!」 びっくりして声を上げた途端、驚いた条件反射か、ばしん、と身体から青紫の雷が小さく跳ねる。 それには構わず、裕也は慌てた仕種で辺りを見回す。 霧の中に浮かんだ黒い影にホッとして駆け寄るが、それは霧に隠れていた大樹だった。 「お……おれが迷ったんじゃないぞ!」 冷たい樹肌に手を当てながら、どうしたものかと仲間二人の名を呼ぶ。答える声は無い。 「皆が迷子になったんだろ!」 半ば自分を励ますように喚きながら、裕也は歩き出した。蝶を追っていたのはそんなに長い時間ではなかった。二人を呼びながら歩いていれば、そのうち見つかるだろう。 「まったくもう皆子供だな!」 霧の中に消えてしまったような仲間二人の気配を必死で探りながら、裕也は歩みを進める。まとわりつく霧を振り払う。頬を撫でるように過ぎた霧が誰かの掌のように見えた気がして、金色の睫を瞬かせる。 「皆、どこだー?!」 銀色の柔毛に包まれた、鼠のそれのような耳を動かしながら、繰り返し呼ぶ。霧が声を吸い取っているかのように、木霊すら返って来ない。生き物が自分ひとりであるかのように、聞こえるのは自分の足音と息遣いのみ。 声を上げても誰にも届かないような気がして、言葉を呑み込む。歩いてもどこにも誰にも辿りつけないような気がして、踏み出す足が重くなる。 「……っ、」 (届かないはずないだろ) 不安に占められ、閉ざしたくなる紅い眼を開き、 「見つけてやるから、待ってろ!」 怒鳴る。 まとわりつく霧や不安を振り払うように勢いよく歩き出す。 「しもたなぁ」 夜色の眼を瞬かせて睫についた霧の雫を払い、稲穂は周りを見回す。 「裕也ちゃん、迷子になってもた」 「大丈夫ですよ」 大樹の梢は霧の向こうまで続いているのかな、と樹を見仰ぎながら、冬夏は楽天的に言う。 「きっと『唄う樹』のところで会えます」 振り返って笑いかけられ、稲穂はそうやなぁ、と笑い返した。 「せやな、目印は『唄う樹』や!」 よっしゃ、と気合を入れるようにぱしん、と両手を打ち合わせる。答えるように、せっくんがぴょんと跳ね、それにつられてか、ルクティも同じように跳ねた。 霧の静寂の中、竜の唄が聞こえないか、耳を澄ませながら歩き出す。時折、冬夏が樹の根や下草に足を取られて転んだりはしたものの、歩くのに然程苦労はしない。 どれくらい歩みを進めたか。霧の中では時間も止まってしまったかのような錯覚さえ覚えてしまう。 「しんどいない?」 「歩くのは好きなんです」 運動は苦手だから樹には登れないかもしれないけれど、としょんぼりと呟いて、冬夏は一息吐くように小さく息を吐き出した。 「そうなん? ほな、うちと裕也ちゃんが登っとる間、待っとってなぁ。迷子になったらあかん――」 笑いながら言いかけて、稲穂は口を噤んだ。小さく首を傾げて後、ぐるりを見回す。何か言い掛ける冬夏を手でそっと制し、眼を閉じて耳を一層澄ませる。 霧に包まれた樹海の奥から聞こえる、ほんの微かな、 「……こっちや、冬夏ちゃん!」 ――唄。 高く低く、伸びやかな音が奏でる、どこか懐かしい旋律。柔らかな笛の音にも聞こえる竜の唄。霧を分けるようにして進むにつれ、その音ははっきりと耳に届きだす。 唄を聴きながら歩く稲穂と冬夏の胸に蘇る、懐かしい過去。 (ああ、ほんまや) 稲穂が思い出したのは、壱番世界の故郷。まだ小さかった頃。 学校帰り、畦道を走って、寂れた商店街も走り抜けて、 『こんにちはー! 今日も手伝いに来たよ!』 (せや、標準語喋っとった) からんからん、と鈴の鳴る扉を勢いよく開けて、小さい稲穂が飛び込んだのは、寂れた喫茶店。 『いらっしゃい。稲穂ちゃんはいつも元気やね』 人気の無いカウンターの向こうでにこにこと笑って迎えてくれたのは、今から思えばどこかうさんくさい格好をしたマスター。走りこんできた稲穂を咎めもせず、ケーキでも食べへんか、とどことなくやる気のないような商売っ気のないようなことをよく言っていた。 (とっても素敵で優しいお兄さんやった) 『またそんなこと言って! きちんとしなきゃだめだよ』 鞄を奥の椅子に置き、マスターを手伝ってテーブルを拭いたりグラスを拭いたり。たまに来るお客さんから注文を聞いてコーヒーを運んだり。お節介して色んな手伝いをした。 今でも給仕の仕事が好きなのは、あの頃があるからだろうか。 『偉いね、おおきになぁー』 手伝いをすると撫でてくれた。柔らかな関西弁で褒めてくれた。それがとてもとても嬉しかった。くすぐったいような照れくさいような気持ちになった。 (好き、やった) ふわり、と胸が温かくなる。 (あの頃は毎日が幸せだったなぁ) 冬夏の鼻先をふわり、懐かしい匂いが掠める。 (……畳の匂い) おばあちゃんの家の匂い。 夏は蝉の声が遠く聞こえる、少し薄暗くて風通しのいい涼しい畳の部屋でよく昼寝をした。眠りながら感じていた、懐かしい畳の匂い。太陽に照らされた枯草のような匂い。 『冬夏ちゃん』 真っ赤な西瓜をお盆にたくさん載せて、祖母が昼寝から起こしてくれた。 庭の向日葵を見ながら、おばあちゃんと二人、縁側に並んで西瓜を食べた。朝顔の蔓の巻きついた簾の隙間からジリジリと照らすお陽さまが眩しかった。 (堀ごたつもあったよ) 冬はあったかい掘りごたつに入って丸くなって、蜜柑を食べた。時々おばあちゃんが蜜柑の皮まで剥いて差し出してくれた。 こたつであったかくなった頬に、蜜柑の冷たさが気持ちよかった。 (お腹いっぱい食べたな) おばあちゃんはにこにこ笑って見ていてくれた。 今は壊されてしまった、小さい頃に過ごした家。今は入院中のおばあちゃんの笑顔。懐かしくて幸せな思い出。 胸に溢れ出す大切な思い出を抱き締めるように、冬夏は片手を胸に当てて深呼吸する。 (思い出させてくれて、ありがとうね) 唄に対する優しい言葉を心の中でそっと伝え、冬夏は黒い眼を上げた。 霧の向こうを見据えるような冬夏の眼に写るのは、今までたゆたうようにしか動いていなかった霧が、激しく渦を巻いて動き出す景色。 「『唄う樹』は近いでぇ」 霧を動かす風に茶色の髪を揺らしながら、傍らで稲穂が楽しそうに笑う。 冷たい風に束ねられ大蛇の群のような形を作り、うねりながら樹々の間を駆け抜けて行く霧を追う。唄はもう、耳を澄まさずとも聞こえる。 霧が集まるその先は、梢が無いこともあり、空を覆う霧さえも竜の樹に集められていることもあり、陽の光が地面にまで届いているようだ。何本かの樹々の向こうがひどく明るい。 唄う竜の樹のある広場に近付くにつれ、霧の薄暗さに慣れた眼を明るい陽の光が刺す。眩しさに眼をしかめながら二人は進み、 そこにひとり、空から降る光に包まれぽつりと立ち尽くす裕也を見つけた。 白く輝く霧を纏って唄う竜の樹を、少年は華奢なうなじをもたげて見仰いでいる。少し遅れて広場に雪崩れ込んで来た霧の大蛇が、その金の髪と濃紺の衣装をふわりと乱す。 髪を撫でる霧にも一向に構わず、広場に入ってきた稲穂と冬夏に気付いた様子も見せず、ただ立ち尽くす少年の顔に浮かんでいるのは、故郷を懐かしむような、どこか哀しいような、ひどく複雑な表情。 枯樹を骨とし、霧で形作られた竜の傍に佇む少年は、光の加減か、不思議に気高く見えた。 「裕也ちゃん!」 けれどそう見えたのはほんの僅かの間。 稲穂に声を掛けられ、夢から覚めたようにびくりと身体を震わせ、驚いたついでにぱちんと放電しながら振り返った裕也の顔には、元気いっぱいの子どもっぽい笑顔。 「遅かったな! 俺が一番乗りだぜ!」 「心配したで! 迷子なってからに!」 稲穂に駆け寄られ叱られても、裕也はきょとんとするばかりだ。 「迷子になってたのはそっちじゃん」 まあまあ、と冬夏が間に入る。 「裕也君、会えて良かった。……竜刻を回収する前に、少し休憩しませんか? 温かいお茶とクッキー、持って来たんです」 言いながら、鞄から水筒とクッキーの入った袋を取り出す。いい匂いがするぜ、と裕也の眼が輝いた。 「せやね、唄うとる間は霧が集まってて、登るんに掴まる枝もよう見えへんし」 樹の周りだけは空からの暖かな陽の光が流れ込んで来ている。三人は陽のよく当たる場所に腰を下ろし、霧で冷えた身体を陽光と冬夏の持ってきたお茶で暖めることにした。 「二人ともコンダクターだから壱番世界なんだよな?」 冬夏に早く早くと催促して貰ったクッキーを美味しそうに齧りながら、裕也は好奇心で眼を輝かせる。 「くっきー、ってこれだよな? 知ってるぜ、ビスケットと同じなんだ」 得意げに話す裕也の言葉に、そうなのかな、と稲穂と冬夏は顔を見合わせる。 「壱番世界のどんな所に住んでた? っつか壱番世界ってどんなところ?」 ロストナンバーである裕也にとって、壱番世界は全くの見知らぬ世界だ。稲穂と冬夏が交互に話す壱番世界の話を、裕也は驚いたり笑ったり、くるくると表情を変えながら聞いた。 「裕也ちゃんは?」 「どんな所に住んでたの?」 裕也にとっての壱番世界と同じように、稲穂と冬夏にとって、ツーリストである裕也の世界は異世界だ。二人に問われ、 「あ……あぁ。うん」 裕也は浮かない表情で眼を伏せた。けれどそれはほんの一瞬。 「すげー綺麗な所だったぜ」 パッと上げた顔には満面の笑みが浮かんでいる。 「水とか湧水流れてて超綺麗だった」 深い山でここより樹がたくさんあって、と身振り手振りを交えて楽しげに話し出す。 「俺が、守りたかった場所だからな」 懐かしそうに、紅い眼が空へと向かう。 「自慢の場所だ」 白銀の竜の形を作っていた霧が解けるのと、樹海に響いていた唄が小さくなって消えるのは、ほぼ同時。 固まっていた霧が竜の樹の広場にも白く広がり始めたところで、 「よっしゃ!」 稲穂が立ち上がり、伸びをした。 「木登りは得意だぜ!」 言うなり裕也が獣の型へと姿を変える。人間の腕の長さほどの、小柄な獣だ。 そのまま、黒い樹肌を露にした竜の樹へと駈けようとして、 「あの、裕也君!」 冬夏に呼び止められた。あのね、と遠慮がちに傍に寄って来る冬夏を、姿を変えても変わらない竜尻尾をゆらゆらと揺らしながら、鼬のような鼠のような頭を傾げて見上げる。つぶらな紅い眼を瞬かせる。 「撫でさせてもらっても、いいかな……?」 「あ、ええなぁ、うちも」 「お、……おう、いいぜ」 戸惑ったように頷く裕也のつやつやとした毛を、冬夏と稲穂はきやあきゃあ言いながら撫でた。 「……獣型になるとこうだ……」 頭から尻尾まで撫でられた後、もういいよな、と二人の手を擦り抜けるようにして樹へと向かって素早く駈ける。勢いを殺さず、身軽な獣が樹を駆け登るように、樹肌を走る。 「こういうのは根性や~!」 後に続いた稲穂が元気よく言いながら、ごつごつ節くれ立った樹に手足を掛けた。せっくんがぺたんとその背中にくっつく。登れるところまでは手足を使って登り、掴むところがなくなれば、道具を使って竜刻のある樹の天辺まで登るつもりだ。 「掴むとこはようけありそうやな」 上まで登る樹の道筋の大体の当たりをつけ、道具は要らなさそうだ、と判断する。持ってきた道具入りの鞄を惜しげもなく樹の下へと落とし、身軽になる。ぎゅ、と掴んだのは立ち上がった竜の尻尾の付け根辺りだろうか。 「ほな、冬夏ちゃん、待っててなー」 「はい、どうか気をつけてください」 下で見仰ぐ冬夏に手を振り、稲穂は先を走る裕也を追ってゆっくりと登り出す。霧に湿った樹肌は滑るが、目処をつけた場所をきちんきちんと手で掴んで、爪先でも掴んで、樹に腹をくっつけないように力を籠めて。ゆっくりと、けれど確実に、尻尾から背に、背から肩に。稲穂は登っていく。 「大丈夫か?」 途中、人ほどの大きさに突き出した瘤で休憩していると、先に登り付いたはずの裕也が軽い身のこなしで降りてきた。 「大丈夫やぁ」 案じる裕也に、肩で息をしながら稲穂は笑いかける。 「もう一息だぜ」 「もう一息やな」 栗鼠の動きに似て再度樹を駆け登って行く裕也の、龍のような尻尾を眼で追い、稲穂は樹の天辺を見上げる。今はもう霧に覆われてしまった青空に代わって、蒼い光が柔らかく輝いているのが見えた。あれが竜刻だろうか。 「よっしゃ! 行こか!」 下を見下ろすのが怖いくらいに、高い位置にまで登って来ている。もう一息だ。 眼で追うのも怖いほどの高さに、二人は登って行ってしまっている。見晴らしが良さそうだから、出来るなら登りたかったけど、と冬夏は首を横に振った。 (皆が登って行った此処をルゥに覚えててもらえば迷子にはならないよね) ルクティに『みどりのしるし』を足元の草に付けてもらい、大人が何十人手を繋げば囲めるのかわからないほど太い幹の周りを歩いてみる。 その巨大な身体の半ばを霧に呑まれている竜の樹を見仰ぐ。この鳥さえ居ない静寂の森の中で、 (どれだけの時を過ごして来たのかな) それを思うと胸が熱く切なくなってくる。 高く高く、霧の彼方、蒼く輝く竜刻の光が見えた気がした。 (ねぇ、竜刻) 唄を聞かせ、大切な思い出を思い出させてくれた竜刻に向け、冬夏は話しかける。 ――貴方は何を思ってるの? ――貴方も何処か帰りたい故郷があるのかな。 (感傷すぎかな) そう思い、ふふ、と笑みを漏らして、躓くまいと樹の根が長く伸びる地面へと視線を戻して、気付いた。竜の樹の根元、節くれ立った樹の幹に護られるようにして、凛と背を伸ばして咲く一輪の蒼い花。冬夏の知るどんな花よりも深い蒼持つ花。 (竜刻もこんな色なのかな) 触れようと思わず手を伸ばした、その時。 轟音立てて風が暴れだした。乱された霧が渦を巻いた。 竜刻に呼ばれ、大蛇のような形を取った巨大な霧の塊が唸りを上げて竜の樹に集まる。螺旋を描いて黒い幹に絡まりながら登って行く。幾重にも幾重にも。 「稲穂さん! 裕也君!」 樹から竜刻が離されようとしているのだろうか。重なる霧の大蛇に自らも巻かれ視界を白く奪われながら、暴風に長い黒髪を弄ばれながら、冬夏は樹の天辺で同じ目に遭っているはずの二人を叫ぶ。 蒼い光が噴き出している。 それは樹から解き放たれようとしている歓喜か、離されまいとする抵抗か。 樹をぎしぎしと鳴らす強い風に飛ばされまいと手近の枝に片手と両足を掴まらせながら、稲穂は光が噴き出した瞬間、火に触れたように離してしまった竜刻へともう一度手を伸ばす。 「飛ばされんなや、裕也ちゃん!」 「そっちこそ!」 裕也は稲穂の向かい、尻尾を樹枝に巻きつかせてどうにか飛ばされずに耐えている。 竜刻は竜の眼に似て樹に嵌っているが、力を籠めて引っ張れば上手く外すことが出来そうだ。幸い、焔のように噴き出して揺らめく蒼い光は熱くも何ともない。 「せーので外すぜ!」 「いっせー、のッ!」 裕也が爪で、稲穂が手で。左右から力を合わせて竜刻を持ち上げる。ころん、とあっけなく竜刻は樹から外れた。風に煽られさらわれそうになる蒼い光の珠を、稲穂が必死で胸に抱き締める。 ゴッ、と風の塊が樹の下から噴き上がる。それは大量の霧と竜刻の放つ蒼い光さえ巻き込んで、青空へと舞い上がった。 「竜……」 広がる空を見仰いで呟いたのは裕也か稲穂か。 空高く舞い上がるのは、霧と風で出来た、白銀の竜。きらきらと舞う霧の粒子を陽の光に煌かせながら、空の彼方へ高く高く、昇って行く。 霧の竜は、やがて陽の光に溶けるようにして、消えた。 「行ってもた……」 「周り! 見てみろ!」 「何やもう、せっかちやなあ裕也ちゃ――」 裕也に促され、空へ消えた竜を見つめていた眼を周りへ向け、稲穂は言葉を失った。広がるのは、霧に呑まれて白く埋まっていたはずの樹海。陽に照らされ、明るい翠に輝きながら広がる樹々。 「霧も一緒に連れてったんか」 光に満ちる樹海を見回しながら言う稲穂の手に包まれて、竜刻が穏やかに、まどろむように、蒼い光を揺らめかせている。 <了>
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