ととん、たたんとロストレイルが揺れています。ディラックの空に現れる線路は木や鋼ではないでしょうけれど、車体がレールの継ぎ目を乗り越える時のあの揺れが確かに感じられるのです。旅情を与えるためのエフェクトだとしたら、世界図書館もなかなか粋な計らいをしてくれるものです。 旅と言っても、私は帰途に就いています。往路の、はち切れそうな高揚とは違った、けれどもどこか心地良い疲労を味わえるのが復路です。それは充足や達成感めいたもの――例えばスポーツでさらさらの汗を流した時のような――かも知れません。あるいは、旅という非日常で興奮した心を生活という日常へ揺り戻すために必要なけだるさでもあるでしょう。事実、舟を漕ぐ乗客の多いこと。 けれども私はひどく目が冴えています。異世界での任務を終えて疲れているのに、どうしてもまどろみに身を許す気になれないのです。 「……不思議で、不快で、不安な依頼だったんです」 「それで」 対面に、冷たい顔の男がいつの間にか座っていたのです。 「いえ……失礼しました。初対面の方を愚痴に付き合わせるなんて」 「俺への気遣いはいい。お前のことを語ってくれ」 車内だというのに、男は天鶩絨のシルクハットを脱ごうとしません。同じ天鶩絨で仕立てられた夜会服をかっちりと着込み、白い手袋まで身に着けて、物憂い表情で脚を組みながら肘をついています。まるで安楽椅子にでも腰かけているような風情です。そんなことより、服も帽子も青みがかった黒で、まるで丑三つ時の空の色じゃありませんか。何と陰気で不気味な男でしょう。おまけに、傍らに控えるオウムは下品なほどに派手で、薄汚れているのでした。 往来で見かけようものなら眉を顰めてすれ違う類の相手です。しかし私たちが向き合っているのはボックス席なので逃げ場はありません。いいえ、嫌なら私が席を移れば良いのです。車内は程よく空いているのですから。 それなのに、どうしても動くことができませんでした。この男に胸の内を打ち明けたくて仕方なくなってしまったのです。会話に至ったきっかけすら思い出せないのに、私はどうしてしまったのでしょう。 「アニキ、アニキ!」 私が黙り込んでいると、オウムが羽毛と埃とフケを撒き散らしながら騒ぎ始めました。 「こいつ喋んないッスよ! いらねえ舌なら引っこ抜いてやりましょうぜ、ギャハハ!」 不愉快でかまびすしい鳥です。話し方まで下品です。 ととん、たたんとロストレイルが揺れています。 「私が受けた依頼はロストナンバーの保護でした。数人の同行者と共に異世界へ向かったのです。世界の名前は、ええと、何と言ったでしょうか……」 「無理に思い出さなくとも結構」 男は存外静かな口調で告げました。 「意識に上らないということは重要なファクターではないだろう」 「そう、でしょうか」 「恐らくな」 シルクハットが落とす陰の中から、影よりも昏い碧眼が私を窺っています。私は得体の知れぬ怖気を感じ、膝の上で手を握り締めました。もしかすると、掌にはうっすらと汗が滲んでいたかも知れません。 「じゃあ、思い出せる限りのことを話しますが――」 私たちが向かったのは灰色の世界でした。無機物が命を持つ、無機質な世界です。降り立った時から私は嫌悪を感じていました。不快や不吉と言い換えても良いでしょう。とても厭な気分になりましたが、同行者たちはみな平然としています。私は彼らに促されてしぶしぶ歩を進めました。 現地民たちは遠巻きに、珍獣でも見るようにしてこちらを窺うばかりでした。<旅人の外套>があるのに、どういうことなのでしょう。確かに私は同行者たちとはやや異なった姿をしています。彼らが俗に言う“人型”であるのに対し、私は手足の指が左右六本ずつで、睫毛もありません。しかしこれらは些細な差異で、至近で観察されない限りは分からない筈なのです。 保護対象の居場所は司書が示してくれたので、探索は容易に進むだろうと予想していました。事実、荒事が起きることもなく目的地へ向かうことができたのです。ただし、私はずっと厭な気分でした。電柱、信号機、それから、用途すら想像できぬ奇怪なオブジェじみた現地民らが無言でこちらを監視しているのです。私は幾度となく足を止めて振り返りました。その度に彼らはこそこそと目を逸らし、素知らぬ顔で無機物としての役割を果たし続けようとするのです。 「何か用ですか」 私は勇気を振り絞って現地民に話しかけました。けれども彼らは決して答えてはくれません。<旅人の言語>は彼らには通じないのでしょうか。 私はまた厭な気分になりました。私の心情が伝染したのか、同行者たちの会話もいつしか途絶えてしまいました。静かで不快な行進が続きました。 やがて目的地に到達したのですが、待ち受けていたのは意外な結末でした。保護対象――人型の、男でした――は地面にうつ伏せになり、声をかけても肩を揺すっても決して動こうとしないのです。 「……残念だ。争いに巻き込まれたのか」 「ここまで必死で逃げてきたのね」 同行者たちは沈痛な表情で言葉を交わしています。保護対象が刺殺されたと言っているのです。私にはわけが分かりませんでした。確かに保護対象は目を閉じ、黙り込んで、顔色も良くありません。けれども、それ以外は全く変わったところはないのです。 「………………!」 寒気を感じて振り返ると、錆びたマンホールの蓋がねっとりと私を見上げていました。このマンホールは保護対象の死を把握しているのでしょうか? マンホールに分かることがなぜ私には分からないのでしょうか? そもそも保護対象は誰に殺されたのでしょうか? 現地民? そうであるなら、私たちが殺されないという保証がどこにありましょう? 目の前のマンホールが私に害をなさないとどうして言えましょう? だって、彼らには言葉が通じないじゃありませんか! 「よせ」 唐突に、同行者が私を羽交い絞めにしました。私はようやく我に返りました。私は靴の踵を振り上げ、マンホールの蓋を幾度も蹴りつけていたのです。 「落ち着いて。どうしたんだ」 「あ……いえ……」 「とにかく、長居は無用。埋葬したら引き返そう」 同行者たちは保護対象のための墓を掘り始めました。彼らの背後で、私は呆然と立ち尽くすばかりでした。 私だけが事態を理解できないのです。私だけがこの場から疎外されているのです。 ととん、たたんとロストレイルが揺れています。 「死という概念や事象には馴染みがあります。故郷には葬儀というものもあったくらいですから」 私は膝の上で手を握り締めたままです。十二本の指は白くかちこちに固まってしまい、じわじわと汗が滲み出してくるかのようでした。 「保護対象が死亡していたとしても、分からないことはいくつもあるのです」 「とは?」 夜会服の男は軽く首を傾けました。その拍子に、アンニュイな巻き毛がシルクハットからこぼれ落ちました。 「同行者たちは、彼が争いに巻き込まれて刺殺されたと言いました。あそこまで必死に逃げて来たとも。どうしてそんなことが分かったのでしょうか。なるほど服の下にでも創傷があったのかも知れません、創の形状から刺殺と判断したのかも知れません。けれども争いに巻き込まれたとか、逃げて来たとか、どうして、彼の姿からどうしてそんなことが分かるのでしょうか? いいえ、それよりも――どうして私には何も分からないのでしょうか?」 私は咳込むように、一気にまくし立てました。 ととん、たたんとロストレイルが揺れています。男がゆっくりと口を開きます。 「同行者の中に過去や心を見る能力を持つ者はいなかったのだな」 「はい」 「ならば答えはひとつだ」 男はひどくあっさりと断言しました。緩慢なしぐさで巻き毛を指先に巻き付けながら。暖炉の傍のロッキングチェアでチェス駒でも弄ぶかのように。事実、彼の得体の知れぬ脳裏ではチェスの対局のように複雑な思考が展開されていたのかも知れません。 やがて、手袋に包まれた人差し指がゆっくりと私に向けられました。まるで銃口のようだと私は思いました。 「現場には血と血文字が残されていた。しかしお前には血の色が認識できない」 私は言葉を失いました。 ととん、たたんとロストレイルが揺れています。 「……どうして」 私の口蓋はすっかり渇いていました。対照的に、男は膝の上でゆったりと手を組み直しました。 「簡単なことだ。刺殺には出血を伴う、死体に凶器が残されていないなら尚更な。なのにお前は何も変わった点はないと言った。傷口は血にまみれていたためにお前には見えなかったのだろう」 「血とは何ですか」 「説明しても無駄だな。認識できないのなら存在しないに等しい」 私は再び絶句しました。目に見えないものは無と同じ。しかし他の人にとっては? 血というものは他者の目には見えているではありませんか? ならばそれは紛れもなく有であり、けれども私はそれを認識できない……。 ととん、たたんとロストレイルが揺れています。私はひどく気分が悪くなって俯きました。乗り物酔いなのでしょうか。確かに私の三半規管はめちゃくちゃに揺さぶられていますし、胃の中でどろどろになった昼食――卵とローストチキンの、ボリューミーなクラブサンドでした――と今にも再会してしまいそうです。 「どうした」 男の声は陰気でした。夜会服の前で組まれた指は私と違って左右五本ずつです。シルクハットの陰でよく見えませんが、私にはない睫毛もきちんと生えています。この男は私とは異質です。 いいえ、異質なのは私の方だとしたら。また私だけが疎外されているのだとしたら? 「ところで、一つ訊きたい」 帽子の下から男は囁きました。 「――何故お前は笑っている?」 無表情な声はどんな鈍器よりも手ひどく私の脳天を打ち据えました。 「笑っ……? え? 私が?」 私は思わず立ち上がり、そしてよろめきました。こんなに不安で怖いのに、彼には笑顔に見えたのでしょうか? それとも、私が不安と認識している感情は本来は楽しげなものなのでしょうか? ならば私は今まで他者の感情を正しく読み取れていたのでしょうか? 第一、私が見たり感じたりしているものが他者と同じであると確かめる術はあるのでしょうか? 失礼、取り乱してしまいました。ロストナンバーとはそもそも異質の集まりなのでしたね。そうそう、トラベラーズノートという便利な道具もあるのです。これを使えばきちんと意志疎通が――。 「そんなに楽しいか?」 男が不意にトラベラーズノートを突き出し、私は立ったまま仰け反りました。心理的な境界を無遠慮に踏み越えられた気がしたからです。 次の瞬間、心臓が止まりそうになりました。 『そんなに怖いか?』と書きつけられているじゃありませんか。 「どうした? ノートでも通じないか?」 作り物めいた目が陰鬱に細められています。怖いと書いて楽しいと読むのでしょうか。それとも、彼にとっての楽しさは不安や恐怖を意味するのでしょうか。泣き出したくなって、私は車内を見回しました。様々な姿のロストナンバーがちらちらとこちらを気にしています。彼らの目に今の私はどう映っているのでしょうか? 私は彼らに理解されるのでしょうか? 私は彼らを理解できるのでしょうか? 眩暈と吐き気がします。こんな不快な世界はまっぴらだ! 「どうした」 夜会服の男の手が伸びてくるので、私は逃げ出すしかありませんでした。 他者のいない場所へと、一目散に。 ◇ ◇ ◇ 「ギャハハハハ! 傑作ッス!」 狂ったオウムが目をぐりぐりとさせて笑う。壊れた玩具のようにめちゃくちゃに羽ばたきながら。一方、ジャン=ジャック・ワームウッドはわずかに眉宇を動かしただけだった。 「車掌に知らせておくか」 開け放たれた車窓を閉め、金で飾られた黒の杖を片手に立ち上がる。数秒前まで会話していたツーリストはディラックの空へと身を投げてしまった。 「……ふむ」 虚空へ墜ちるツーリストを一瞥し、ジャンは無表情にシルクハットをかぶり直した。 「やはり“笑っている”な」 ととん、たたんとロストレイルが揺れ続けている。 (了)
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