「なんだ、ありゃ」 新手のどっきりか。それともいやがらせかなんかなのか? 大切な庭園の朝の水やりを終えたあと御菓子を食べようとチェンバーを出たマフは思わず髭を撫で、ぴこんと耳を動かした。 怪訝な顔のマフの視線の先――三メートルほどのところに黒い学生服に身を包めたハーミットが佇んでいた。それも下は男物のスポン。 男装? いや、ハーミットは男なんだからあれが普通の恰好なのか? マフは混乱の渦に突き落とされ、思わず頭を抱えた。 同じ人間のチェンバーにやっかいになり、この壮大なターミナルで多少なりとも縁があって、顔を合わせ、あれこれと言い合う――友人という関係は少し異なるかもしれないが、それでも気が付くと一緒にいて、からかっている少年。 ハーミットは美しい少年だ。 本人に自覚があるのかは不明だが、朝は雌獣が念入りに毛づくろいするように目覚めると念入りに化粧をし、髪の毛も整え、服装も落ち着いた可愛らしい女性の服を――そう、ハーミットは性別は男だが女物の服を着た「女性」なのだ。 マフもはじめて会ったときは見事に騙されて「男かよ」と文句をいったほどだ。 普段からそこらへんの女の子よりも女の子であるハーミットが、わざわざ本来の男の恰好をしている。 そういえば今朝起きて、いつもいる洗面所で姿を見なかった。目を細めて凝視するが化粧もしている気配はない。 あのハーミットが? 何か悪いものを食べたのか――いや、昨日は一緒にメシ食ったし。頭も打ってないはずなんだが……ぶつぶつと考えていると、ハーミットがふらふらと歩いていくのにマフは慌ててあとを追った。 俺、なにしてんだ。 駅のホームまできてマフはため息をついた。 ハーミットに尾行がばれないため、出来るだけ距離をとると、わざとらしくトラベラーズノートを開いて読んでいるふりに徹した。本当は姿を隠す魔法もあるのだが、ハーミットは無駄にカンが鋭く、下手したら見つかってしまう可能性がある。 マフは尻尾を忙しく動かし、横眼ではちらちらとハーミットを観察していた。 どこか憂いを帯びた横顔は化粧や女の子らしい服を着なくても彼の持つ幼さのなかに隠れている儚げな妖艶さが滲み出て妙な色気を醸し出していた。時折思いつめるように瞬き、吐き出す息は鉛のように重たげだ。 まるで幼い子供が安心しきってベッドで寝ていたのに、間違えて深夜に目覚めてしまったために途方にくれているような顔をしている。 サイレンが鳴り、壱番世界行きの列車が発車するとアナウンスがホームに朗々と響く。 ハーミットは俯いていた顔をあげた。まるで憎くて、それでいて逃げたいほどに怖い化け物がいる場所に自ら殺されにいくような悲壮さと決意の目をして、列車に乗り込む。 あのばか。 マフは心の中で苛々と罵る。 なんて顔してるんだよ。 自分のことを棚上げしてマフは読むふりをしていたノートを閉じるとハーミットにばれないように、隣の列車に乗り込んだ。 ほっとけねぇだろう。 余計な御世話だということは重々承知しているが、あんな顔をして、どこに向かおうとしているのか。見なかったことになんて出来そうにない。 走り出した列車の窓から外の景色を見つめ 「俺も大概だな」 マフは思わず苦笑いとともにため息を吐き捨てた。 ★ ★ ★ 憎んでも、憎んでも、憎み足りないものがある。それを思えば心は張り裂け、血の涙を流し、暴れまわる。どれだけ時間を費やして、傷が塞がってかさぶたになっても、気まぐれな風が過ぎるように自らの爪をたてて抉り、再び血を流す。自分自身すら疲れ果ててしまうような黒く塗りつぶす憎悪。 ハーミット――識臣章人にとって壱番世界は、そんなところだ。 ここにはハーミットではなく、章人としてやってきた。そうしようと決めた。 今朝、逃げ出したい気持ちをねじ伏せて学服を、戦慄く手を叱咤して袖を通した。捨てようとして捨てられなかった章人であるという証明の唯一のもの この服を着て、ロストレイルに乗り込んだとき、目的の一つは成し遂げたような気になっていた。まだなにもはじまっていないのに。 なんの未練も懐かしさもない街中を見る章人の顔は能面のように表情がなかった。 汚さを何一つと許さないと地団駄を踏みしめて叫ぶようにビルに設置された大型テレビからアナウンスが朗々と抑揚のない声でニュースを語り、その眼下には疲れ切った人々は誰の顔も見ずに先へ先へと急かされて目的地へと急ぎ足。車から吐き出される灰色の有毒なガスがアスファルトに沈殿し、世界を濁していく。 なにもかもがちぐはぐで、散漫、怠惰と怒り、諦めと喜び。すべてがキライ。章人は声もなく呟く。 ふと、背中や顔に突き刺す視線を感じた。 何かを探し求めるような憂いの美少年に好奇心を疼かせた者たちの視線。章人はそれを疎ましげに振り払い、歩き出す。 なにもかも色を失ったようにモノクロの世界を。 けど、ここで章人はハーミットという星を見つけた。 ――姉さん…… 焦がれるように無意識に呟く。 なりたくて、なれなくて、手を伸ばして、届かなくて。それでも欲しいと泣きながら訴えた星。 ★ ★ ★ 数メートル離れた場所、それも上空でハーミットを見ていたマフは気が付いた。 「……晴香」 向かおうとしているのは、あそこだ。 ★ ★ ★ 永遠に失われた星。 才能も、美貌も、なにもかも勝てるところはなかった。そもそも自分とその星を比べるということこそがおこがましく、愚かな考えだった。 時間が進めば進むだけ素晴らしい輝きを放っていた大きな星。 その輝く途中で粉々に砕かれた場所にしては、そこは、あまりにも普通だった。 「寂しい、ところ……」 自然と言葉が漏れた。目を細めて、まじまじと黒いアスファルトを睨みつける。もしかしたらまだ事故の跡が残っているかもしれないと淡く期待したが、黒色のアスファルトからは何も見つからなかった。 ここで姉は死んだ。 まるで蛇が身をくねったような大きな右カーブ、そのあとすぐに急な左カーブが続き、車が一台通ればいい程度の広さしかない道。 周囲にあるものといえば民家、少しいったところには煙草屋に潰れたガソリンスタンド……悲しいほどに人の姿はない。夜ともなればなおのこと。 「夜だったら見えないな」 たとえライトをつけていても。 姉はバンドの練習帰りを急いでいた。 門限を破ったら、もうバンド活動ができなくなるから――気の強い姉は両親と何度も衝突して勝ちとった自分が自分らしくいれる場所。 子供のころから大好きだったピアノで、ライブハウスで唄うようになった。そのときほど彼女が輝いていたときはない。 十一月。乾いた空気に、寒々とした風が吹く。秋は太陽が暮れるのがはやく、すぐに夜に変わってしまう。 そこにスピードをあげた車がつっこんで跳ねられた。 二メートルも空を飛び、自転車は大破、後頭部を強打しての即死だった。 「一年で」 その生きていた証はことごとく消された。アスファルトには血が多く流れたはずなのに。雨風にさらされ続けて、あってはいけないもののように掻き消えた。 無意識に拳を握りしめた。 胸に湧くのは怒りだった、それもどす黒い色をした。それは章人がずっと抱き続けていた怒りとは異なる悔しさだった。 こんな風に、消えていく…… 叫びが心のなかに渦き、慟哭のように黒い嵐になる。しかし、声にならない呪詛は結局、形にならずに消えていく。 「あ」 章人が見つけたのは道の隅に、まるで隠れるようにしてある真新しい、けれど少しばかりくたびれた地蔵。 一年前、事故の直後にはこんなものはなかったはずだ。 「あの人たちが、おいたのかしら」 呟いたあと、白々しい気持ちとともにまた別の気持ちがこみ上げて、形にならずに心の奥へと沈殿していった。 ここにあるものにも罪はない。あるとすればそれは己の心だ。 ここにきた目的を章人は思いだし、深く息を吐いた。 ――姉さん 言葉にならずに零れ落ちる囁き。 章人は地蔵に近づくとその前に屈みこみ、そっと両手をあわせ、目を伏せた。 ★ ★ ★ マフにとって晴香がどんな相手だったかといえば、それは一方的な慕想だ。 きっと彼女はマフのことを知らない。そして、この気持ちを片恋と思うには、多少、いや、かなり複雑なものがあった。 声が似ていたのだ。 マフが自分の世界にいたとき、好きだと恋い焦がれていた相手の声に。ただ、それだけ。懐かしいとか愛しいと思うだけ。晴香そのものに惹かれたわけではない。 否 「晴香の唄はきれいだった」 ピアノを自在に操り、流れる水のように、どこまでもどこまでも心に染み込んで、切なくさせる歌声。 確かに彼女には才能があった。いずれは世界に向けてその翼を羽ばたかせるほどに。 「ったく、ハーミットとのやつときたら同じ声をしてやがしよ」 歌詞も晴香に似ているが、ときどき意味不明な言葉に首を捻らせるし、つんっとして愛想はないし。 だが、マフはハーミットの歌声がやはり嫌いではなかった。切実な思いを唄っているのは聞いていてわかった。 「晴香」 まるでそれはがんじがらめに己を縛る、祝福された呪いの名。 ★ ★ ★ 胃酸とまき散らかされたゴミに道は汚され、その店をいっそう惨めにさせていた。 夜はうんざりするほどの人間が光に集まる蛾のように寄ってくるというのに、昼間になると魔法が解けてしまったように寂れてしまう。 入り口から階段を降りたら、そこは魔法の世界。光と歌と若さが漲った――ライブハウス。 ここら一帯のハコのなかでは中々の大手だったと記憶していたが、こうしてみるといかにも小さい。 章人は道を大きく隔てたところから、店の入り口を眺めていた。 この店で、ハーミットはファイナルライブを行った。未来を信じるいくつものバンドのラストを飾らさせてもらったことがひどく遠い、過去のように思える。 いいや、実際、もう戻ることの出来ない過去だ。 唇を開き、何か言葉を紡ごうとして失敗し、また沈黙する。 瞬くことを忘れた瞳はしばし建物を眺め、すべてをあきらめたように逸らした。 からっぽのライブハウス。 いくら眺めても過去は戻らない。泣いても、叫んでも、手を、のばしても。 章人は己のなかにある感傷を蹴って歩き出す。 都会の喧噪から逃げるようにひたすら歩いて向かったのは、閑静な住宅街。 変わらない。 たった一年なら変わるはずもないか。 けれど自分はこの一年で変わった――変わったはずだ。 見覚えのある、一年前は毎日通り過ぎていた風景に懐かしさも、愛しさも感じられず、黒々と染まった瞳で前だけを見つめて章人はそこへと向かった。 いくつも並ぶ家から遠慮深く距離をとってぽつんと存在する寺とその横にある墓地。 誰にも見つからないようにこっそりと墓地の敷地に足を踏み入れ、一ミリの間違いもないように正しく並べられた墓石に体をぶつけないように慎重に進む。一年の間、一度もきていないのに、自分でも驚くくらいにそこの場所を覚えていた。 墓石を二つ通り過ぎたあと、右手の小道にはいって、そこの真ん中。 金をそこまでかけているわけではないが、太陽の光を反射する立派な灰色の墓石に「識臣家」と刻まれ、猫の額ほどの敷地には砂利石が敷き詰めて雑草一つ生えていない。 死した魂の安らぎを守るため、決して忘れられないための場所。 章人はしばしば墓石を眺めた。 音という音がすべて遠くに置かれ、なににも侵されることのない静寂をはらんだ世界。 ここにくるまで多くを見たためごちゃごちゃしていた感情は灰色の石となって心の奥にある湖に落ちていく。 ――姉さん 呟き、章人は屈みこむ。 「姉さん」 墓の前にちょこんと置かれたエノコロ草。 それは無造作に置かれて、子供のいたずらのようにも見えた。あまりにもささやかで、小さくて、章人は気にも留めなかった。それだけの精神的な余裕が彼にはなかった。 「お墓の前だと、もっと動揺するかと思ってた」 心は凪いだ海のように、静かに、波風たてることもなく、ただ在るだけ。 墓はただの墓。 そこに眠るのは最愛にして、きっと――憎んでいた。 「罰だと」 祈るように、罪を思う。 ★ ★ ★ 「ったく、あいつは」 墓地の奥にある木の上で、マフは悪態をついた。 墓参りだったら、そういえばいいのによ。余計な心配しちまったぜ。 ハーミットの行動が純粋な墓参りだと判断したマフは、晴香がいる墓をハーミットの向かう道筋から考え、先回りすると、自分の大好きなエノコロ草を晴香に供えた。 ここに晴香はいるという実感はなかった。ただ生きている者を慰めるために、これはあるのだということだけはわかった。 晴香を偲んだあと、隠れたのはハーミットにどういう顔をして会えばいいのかわからなかったのだ。 「あいつ、なにしてんだよ」 頼りないその姿を見ていると無性に苛々して、マフは口を開けようとして、声をなくした。 ――ハーミット では、ないあの少年をなんと呼べばいいだろう? ――ハーミット マフはそれしか知らなくて。それでしか少年のことを呼べなくて。だから、ここでは呼べなくて。ただただ立ちつくした。 ★ ★ ★ あなたが死んだとき、世界の天地がひっくりかえるような衝撃が味わった。ひどい眩暈に襲われて、立っていることが不思議なくらいだった。それでも無意識に手足は動いて病院へと向かった。 それを見た。 真っ白なベッドに寝かされた――もう笑うことも、歌うことも、なにもすることのできない姉を。 姉のことを憎んでいた、わけではない。ただ羨んでいた。だから ――ようやく 一瞬だけ、仄暗い歓喜が笑った。 自分の妬みが、彼女が消え去ることを望んでいたのだと知った瞬間。 だから、あれは罰だ。一瞬でも、安堵のような幸福を味わってしまった。己のなかにそんな醜いものがいるから ――よかった晴香、あなたは生きているのね ――ああ、よかった。よかった。お前が死ななくて お父さん、お母さん? ――死んだのが章人でよかった 両親は晴香の姿をしていた章人を愛しげに抱きしめて泣いた。最愛の娘が亡くなった絶望から、今度は娘が生きているという希望から。 どうして、ここで自分は章人なんて言えただろう。 そう一緒になって ――そうね、章人はいらない子だから。死んでよかったわ 自分で自分の心にナイフを突き立てたのは、姉の死を本当の意味で悼めなかった罰だった。 そして理解した。 両親はなにがあっても自分を愛さない、必要としないことを。だったら、この世界で「章人」を欲してくれる人なんていないじゃないか。 長男なのにぐずでのろまで、両親の期待にちっとも答えられない、だめな子。 気がつくと両親は章人を叱ることをしなくなった。なにか失敗しても落胆もしない。ただ冷やかに見つめるだけ。学校でも知り合いは皆無。毎日、学校と家の往復ばかりのつまらない人生。 唯一、姉だけが優しくしてくれた。友達もいっぱいで、なんでもそつなくこなして、両親に笑顔を向けられ、ときには叱られ――姉さんになりたい。ああなりたい。懇願して伸ばした手は声を、見た目を、服装を奪い取った。だから今度は命を。 それは晴香の死で成就して、章人の存在を消すことで生まれる、愚かな望みだと知ったときにはなにもかも手おくれだった。 だから今も、章人はいない。自分は晴香でもない。ただの影。なりそこないの出来そこない。 章人は黙祷を捧げ、素早くその場を立ち去ろうとした。姉になんといえばいいのかまだわからない。謝りたいわけでも、呪いたいわけでもない。ただ好きだった。とても、とても。 ――大好きだった。あなたが ――あなたみたいになりたかった ――本当に 「あ」 仲睦まじい夫婦が、互いに互いのことをいたわりながら前から歩いてくる。 二人とも白髪が増え、皺も増え、疲れ切っていた。一回り小さくなったようにも思える。 ――お父さん、お母さん 二人の手にある色鮮やかな花は、墓参りのためだと察することができた。決して若くない二人は、これからの人生をなくしてしまったものの数をかぞえて、愛しみ後悔して生きていくのだ。 章人は目を伏せ、前を歩く。 胸が、少しだけ高鳴り、痛み、暴れた。 だが、何も起きなかった。 あっけなく二人は通り過ぎた。章人に気がつくこともなく。 「……」 章人は一瞬足を止めて、叫びたかった。それをハーミットが許さなかった。――歩いて! 歩くのよ、章人! あなたはいない。もういないのよ! 悲しいわけではない、苦しいわけでもない、傷になるはずだってない。もうずっと昔にわかっていたこと。けれど、 「さようなら」 再び告げた別れの言葉。それは姉へ、両親へ、そして、大切で愛しい、けれど失われた章人へ――。 さようなら。姉さん。そしてさようなら、いらない子、章人。
このライターへメールを送る