正月を迎え、ひと月と少し。 まだまだ冷え込む冬の京都に、三人は降り立っていた。 「なーんだ、京都といっても意外とフツウなのね。もっと京都って感じなのかと思ったわ」 「でも、これでも十分私には新鮮だわ」 大きな駅ビルに、コンクリートの上を行き交う自動車と沢山のバス。普通の壱番世界の都市らしい光景に、少しがっかりした様子なのは、アメリカ育ちで京都には初めて訪れたヘルウェンディ・ブルックリン。反対に沢山の自動車が行き交う光景も新鮮に感じてしまうのは、中世ヨーロッパ風の世界から来たティリクティアだ。 そして二人の対照的な反応を見て苦笑を浮かべているのは、壱番世界の日本出身のハーミット。 「ここは玄関口とも言える駅前だからしかたがないわ。でも少し奥に行けば、ヘルの求めているような昔の日本風の風景も見れると思うの」 彼女は壱番世界に苦手意識があるものの、壱番世界の日本出身者としての責任感のようなものがあるのか、旅行パンフレットを片手に友人達に希望を尋ねる。 「さて、何からしたいの? 夜のライブまではまだたくさん時間があるわ」 「美味しい物を食べたいわ! あ、でも、さっき『駅弁』っていうのを食べたばかりなのよね」 「ティアのライブ用の服を買うのは、夕方でもいいわよね。だったら私、着物を着てみたいわ!」 「着物、素敵ね!」 食巡りはもう少し腹ごなしをしてからにするとして。洋服を選ぶのはライブの前でも大丈夫。ハーミットは二人の希望を叶えるべく、頭の中でタイムスケジュールを練っていく。 「着物、ね……確か貸衣装屋があったような……ああ、ここからだとタクシーかバスだけど、折角だからバスにしましょうか?」 「賛成!」 「全然大丈夫よ」 旅に出ればその土地の移動手段を利用するのも醍醐味である。たくさんあるバス停の中から、番号と行き先を頼りにハーミットが先導するのに二人はついていく形になる。 「ねえ、なんだか制服を来た人達が多いわね」 「ええ。それにこっちを見ているのよ。なにか言いたいことがあるならはっきり言いにくればいいのに」 美少女三人が連れ立って歩いているとなれば、人目を引くのは当然だろう。折しも修学旅行の生徒たちが沢山いたが、彼らに外国人風の女の子に声をかける勇気などあるわけがなく。 「京都は修学旅行のメッカだから。最上級生になると受験やなんだで忙しくなるから、その前のこの時期に修学旅行をしてしまう学校もあるのよ。勿論、春過ぎの暖かい季節を選ぶ学校もあるけれど」 それだと、クラス替えをしたばかりでまだクラスに馴染めていないという場合もあるしね、とハーミットが教えてくれた。秋も、同じように修学旅行シーズンだという。 「なによ、一年中修学旅行生がいっぱいってこと?」 「そういうことね」 バスに乗り込み、つり革や手すりにつかまる。まだ午前中の早いうちだからそれほどではないが、確かにバスにも数人の学生グループが乗っている。 「でも、学校って楽しそうよね」 「……」 「いいことばかりじゃないけれどね」 ティアの言葉は自身の境遇から来る単純な憧れだ。だがハーミットはそれに頷くことが出来ない。ヘルが上手く引き取ってくれて、若干ほっとした。学校に縁のなかったティアが憧れるのもわかるからこそ、何も言えなかったのだ。 「……ット、ハーミット!」 「え、あ……」 少しぼうっとしてしまったようだ。ティアの鈴のような声で現実に引き戻される。 「何処で降りるの?」 「ええと……後3つ先の停留所よ」 車内の壁に貼られた路線図を確認して、ハーミットは笑顔を作ってみせた。 *-*-* 「はぁ~……やっぱり外はいいわ」 バスのステップを降りて外へ出て、ヘルは大きく息を吸い込んだ。あの後修学旅行生が沢山乗り込んできて、車内の人口密度は最大になってしまったのだ。 「ティア、大丈夫?」 「だ……大丈夫、よ……」 ふと振り返ってみれば、慣れぬ満員バスで潰されぬように必死だったティアがハーミットに促されて、ふらふらとステップを降りてきたところだった。綺麗な白金の髪が少し乱れてしまっている。 「髪が乱れているわ」 歩み寄ったヘルは細くしなやかな指でティアの髪を梳くようにして直してやる。ハーミットはポケットから何かを取り出し、そしてその包み紙を破ると。 「これで少し、エネルギー補給してね」 口を開けてと言われるがままに小さく口を開けたティアの桜色の唇の間を通り抜けたのは、小さな球体。舌の上に落ちれば、いちごみるくの甘酸っぱい風味が広がった。 「ありがとう、ハーミット」 一気に疲労が吹き飛んだように感じられて、ティアはその素敵な宝石を口の中で転がすのだった。 ガイドブックを見ながらのハーミットの案内で、一行はバス通りの裏手の路へと入った。すると目に映る風景が今までのものとガラリと変わったのである。 「うわぁ……」 「これよ、これ!」 石畳の道に沿って立てられている木造の建物や木の塀は時代を背負っており、その証拠に赤黒いような独特の色を放っている。しかし昔の雰囲気を壊さないようにしっかりと手が入れられているのだろう、古ぼけていると言うよりも伝統的という言葉がふさわしいその佇まいは古都独特のものだ。 感嘆の声を上げるティアの横で、ヘルが拳を握りしめて声を漏らしている。数ある貸振袖屋のうちハーミットが選んだのは、昔ながらの風景を残した界隈にある店だった。彼女達が期待している風景を見せたかったからというのもある。 「あ、あそこを歩いているのは舞妓? 芸妓? ううん、どっちでもいいわっ!」 区別なんてつかないもの、とヘルが視線の先へと走る。そこには二人連れの少女が歩いていた。独特な重い衣装を纏い、顔を白く塗る不思議な化粧。確か紅の付け方で重ねてきた年輪が分かるはずだったがそこまで詳しくはハーミットも知らない。 「ティアも来て! ハーミット、カメラお願い!」 振り返って手招きをするヘルにティアも駆け寄って。ハーミットは小さく微笑を浮かべながらゆっくり歩いて行く。 「あの、サインお願いっ! あと、写真もお願いできる?」 「かまいまへんよ」 はんなりとした笑顔で快諾してくれた舞妓達にサインを貰い、ヘルは上機嫌。ティアと共に舞妓達を挟み、記念にパチリ。勿論シャッターを切ったのはハーミットだ。 (そういえば、舞妓や芸妓は夜遅くまで仕事をして、昼間はあまりフルメイクでは外出しないって聞いたけれど……) 湯屋へ行ったりお稽古に行ったりするのにフルメイクの必要はない。だから昼間出歩いているのは観光客相手のなんちゃって舞妓さんや舞妓体験のお客さんが多いという。 (まあ……深く関わるわけではないし、ね) すれ違いざまに少し足を止める程度の縁ならばそこまで来にする必要はないだろう、ハーミットは情報を心の中で留めて。 「綺麗にとれたわ。ありがとうございます」 舞妓さん達にお礼を言う彼女に倣って、ヘルとティアも礼儀正しく礼を述べたのだった。 着付けをいたしましょうか――店員にそう聞かれたが、出来ますので、とやんわりと断って着替え用の和室を一室借りる。ハーミットが着付けができるというのもあるが、三人でわいわいと着付けから楽しみたかったからというのもある。あとは、まあ……ハーミットの個人的な問題で他の人に着付けされたくないだけ。 成人式も終わり、卒業式にはまだ日にちがあるからだろうか、予約なしでもゆっくりと着物を選ぶことができた。 ヘルとティアが長襦袢に着替えている間、さり気なくハーミットは後ろを向く、そして二人の意識が逸れている間にさっと自分も長襦袢を纏った。着付けの方法は教えるし、手伝うつもりではいるが、一応男なので女性の身体にみだりに触れるのは……躊躇われる。自分が着ながら教えるのが早い場合もあるしあとで着替えるつもりだったので、長襦袢さえクリアしてしまえば後はなんとでもなるだろう。 本来は襦袢は着物を着るときの下着だからして、その姿を見るのもハーミットとしてはどうかとも思うのだが、気軽な振袖体験だからして下着を外してしまうわけではなく。 「こんな感じかしら」 「ヘル、曲がっているわ」 ティアがヘルの結び目が曲がっているのを直してやっている。何とか二人とも、長襦袢は着れたようだ。事前にきちんと合わせについて教えておくことも、ハーミットは忘れなかった。 「まずはヘルの着付けから始めましょう。ティア、手伝ってくれる?」 「わかったわ! なにをすればいいの?」 ハーミットがヘルの肌に直接触れなくても良いように、ティアは指示通りに道具を拾ったり、手を回して腰ひもを結んだり。着物をちゃんと着るのには細かい道具が多く、見慣れないものが多くて大変だが、これも楽しい体験だと感じる。 ヘルもハーミットの指示に従いながら、袖を通したり、押さえたり。 (な、なんだか……) だんだんと着付けが進んでいくごとに感じるのは、動きが制限されていく独特の感覚。そのうち身体を曲げることさえままならなくなるのではないか。 そんなヘルの予感は的中する。帯にぎゅぅぅぅっと締められ、蝶文庫と呼ばれる女の子らしいリボン型に結ばれると、自然と背筋がシャンと伸びる。元々姿勢の良いヘルだから、美しさが際立つ。 だが、身体を半分に折ることは出そうになかった。 (これは……思った以上に苦しいわね。落し物をしたらどうやって拾えばいいのよ!) なんて的はずれなことを思ったりもして。ちなみに拾いたい物の横に立ち、そのまま膝を曲げて腰を落とし、横に下ろしたままの手で拾うのが作法だ。 「ヘル、素敵!」 手を合わせるようにしてティアがきらきらの瞳を向ける。ハーミットが姿見を持ってきてくれた。そこに映った自分の姿に、思わずため息が出る。 「うわ……」 スレンダーなヘルの身体に着物はよく似合っていて。ヘアメイクをすれば更に美しさが増すに違いない。 ヘルが選んだのは優しい白地の着物。襟には薄紫が差し色として入っていて、薄紫や薄ピンクの牡丹に似た花が腰の辺りから裾へ向かって、肩から袖の先へ向かって咲き誇っている。白だった地は不思議なグラデーションで、だんだんと濃紺へと向かっていく。裾や袖の下部は完全に濃紺だ。 帯も着物に咲いているのと同じようなベビーピンクに紫の柄。着物の白がヘルの黒髪に映える。 「私じゃないみたいね……」 普段は黒っぽい服で身を固めていることの多いヘル。店員に勧められて、たまにはと思ってこの着物を選んだが、思った以上に自分に似合っていた。 (パパとママに見せてあげたい) 後で撮る予定の写真を送ってあげよう。両親が目を丸くして『似合うわよ』と言ってくれるのが目に浮かんだ。 「着物を着た後だからちょっと動きにくいかもしれないけれど、お願いね」 ハーミットに言われ、今度はヘルがティアの着付けを手伝う番だ。どうやらヘルの着付けを先に済ませたのは、ちいさなティアの着付けを先にしてしまうと、動きづらくてヘルの着替えを手伝うのが難しくなるのではないかというハーミットの配慮があったようだ。 「わかったわ。ティア、両腕を持ち上げて。そうそう」 言われるがままに両腕を持ち上げたティアの腰に紐を結ぶヘル。一度自分が着たから、少しはわかっているつもりだ。ハーミットの指示は的確で、迷うことなく二人は着付けを進めていく。迷うことはないのだが、結構な力作業というのか、着つける方も着付けられる方も体力を使う。 しかし程なくして訪れるのは達成感と喜び。 濃い目のピンク色に白や薄桃色、藤色で描かれた花と模様。赤色をアクセントにしてティアの愛らしい顔立ちと豪奢な金髪を引き立てる。 帯はツヤのない黒に明るい色で花模様が入れられており、パステルグリーンの帯留めが明るさを増している。それを蝶々みたいな翅が特徴の可憐な花結びにしているから、後ろ姿もたいそう愛らしい。 「これが噂の着物なのね! とっても素敵!」 不思議な形の衣装に身を包んだ自分が珍しいのか、ティアは鏡の前でくるくると回ってみせる。袖の柄を眺めたり、帯を鏡に移して満足気に頷いたりごきげんだ。ただ、ひとしきりはしゃいだ後は――。 「素敵なのたけど……少し動きづらくて苦しいわね。コルセットとどっちが苦しいかしら」 「昔の日本人女性は着物を着ていたから、今より足腰が丈夫だったという説もあるのよ」 さらり、衣擦れの音をさせて二人の前に現れたハーミットは、いつの間にか振袖に着替えていた。ヘルとティアが互いの着物姿に歓喜している間に着替えたのだろう。 ハーミットが選んだのは、黒地の振袖。まるで喪服のようにも見えるその色だが、白や銀で描かれた牡丹と薔薇が清潔感を伴い、まるで花嫁衣裳のような雰囲気も醸し出している。 帯も灰色地に銀糸を入れた控えめの色だったが、華やかさを持った立て矢結びにすることで、存在感を出している。この結び方は背の高い人によく似合うのだという。 「ハーミット……ステキだわ」 「落ち着いた雰囲気で、綺麗よ」 ヘルとティアは見とれたように呟いたが、ハーミットの顔に浮かぶのは苦笑。それは複雑な気分だからというのもあるのだが。 「二人共、お行儀が悪いわよ」 そう、足を投げ出すようにした二人の座り方が気になったのである。畳敷きの部屋だが椅子を用意してもらったほうが良かっただろうか。この二人に正座の習慣があるはずもなく、着物姿でうまく座れない二人は足を投げ出すように座るしかなかったのだ。 「だって、上手く座れないのだもの」 「もうハーミットも支度できたから、写真撮影にいけるわよね?」 パッとティアが立ち上がる。この貸衣装屋には写真スタジオも併設されていて、着物1枚レンタルにつき写真撮影1枚がついていた。勿論オプションで焼き増しも可能。 「まぁ、皆さん似あってはりますわ」 スレンダーでいらはれますからね、と店員に案内され、スタジオへと赴く。 迷った挙句、やはり振袖は袖が見えるように撮ってなんぼですから、ということでハーミットとヘルが並び、その前にティアが立つ。後ろから二人がティアの肩に手を置くポーズに決まった。驚くことに、袖の模様を綺麗に見せるためにと袖の下部分に厚紙を入れて曲がらないようにしたりするのだ。 「あの、私のカメラでも撮ってもらえる?」 写真スタジオだから拒否されるかと思ったのだが、存外店員はおおらかな人だったらしく、店の外の古都らしい風景をバックにヘルのカメラに写真が追加されていく。 今度はかしこまらずに、自然体で。 急ぎでプリントしてもらった『かしこまった写真』とヘルのカメラの中にある『自然体の写真』。どっちもが、今日の大切な思い出。 *-*-* 着物は一日レンタルもできたのだが、さすがに慣れぬ着物で買い物に出るのは辛そうで。第一、服を買うとしたら試着が出来ない。なので写真を撮った後は元の服に着替え、三人は買い物に出ることにした。 「そういえば、忍者やくの一はいなかったわ、残念」 辿りついたゴシックパンクのセレクトショップでヘルがふう、とため息をついて呟いた。古都の風景に舞妓さん達はいたが、忍者やくの一は見かけなかった。 「ふふ……映画村とかのテーマパークに行けば、それに扮した人達がいるけれどね。さすがに日常には」 くす、とハーミットが笑った。 「ねえ、どうかしら!」 シャーッと試着室のカーテンが開かれ、顔を出したティアの声は嬉しそうだ。二人は試着室を振り向いて、目を細める。 「似合ってるじゃない!」 「うん、いいと思うわ」 ティアが着ているのはヘルが着用としてるようなゴシックパンク調の服だ。子供服の店に行くべきか悩んだのだが、幸いこのセレクトショップには子供サイズも置かれていた。親子でお揃いで買う人もいるのだろうか。 「それに決めちゃう?」 「さっき着たのと迷うんだけど……ヘルはどっちがいいと思う?」 「私は断然こっちね。さっきのも可愛いんだけど、ティアにはこっちのほうが似合うと思うわ」 「ハーミットは?」 「そうね、私もそっちの方が好きよ」 二人の後押しを得られて、ティアの瞳が輝く。迷ってはいたが自分の中でこっちと思っていた方を推してもらえて嬉しいようだ。 「うん、そうよね。じゃあこっちにするわ! 着て帰ることってできるのかしら?」 「できるはずよ。あ、店員さん! この服着ていくわ!」 ヘルが素早く手を上げ、店員を呼ぶ。さすがにショッピングは慣れているのだろう。店員がティアが着てきた服を紙袋に入れてくれた。 「目的の物も買えたようだし、そろそろ一休みしましょうか?」 ハーミットの提案に、賛成! と元気な声が上がった。 女の子達が一休みするといえばやっぱりスイーツが必須。 ハーミットのガイドブックを頼りに訪れたのは、おしゃれな洋菓子店に併設された喫茶コーナー――と思ったら、隣に立っている和菓子屋と中で繋がっている。兄弟が経営しているお店だそうで、喫茶コーナーでは両方のお店のスイーツが味わえるのだとか。 ハーミットおすすめの八つ橋は乾燥させたものと生とあり、生は中に色々なものが入っていて飽きない。宇治抹茶のレアチーズケーキにフルーツやパウンドケーキをつけて食べる宇治抹茶フォンデュ。口の中でほろほろ蕩けるわらび餅に昔ながらのみたらし団子。他にも目移りしそうな程のスイーツがメニューに並んでおり、ティアなど『ここからここまで全部持ってきて頂戴』と言いかけた。 「ねえ、二人の好きな異性のタイプって?」 砂糖を二杯入れたコーヒーカップを手にしながら、ヘルが徐に口を開いた。一瞬、二人の動きが止まる。 女の子が集まったらやっぱりコイバナ。今回も例外ではないようで。 「「考えたことがなかったわ」」 ティアとハーミットの声がハモる。 ティアは出身世界で自分の置かれていた環境が大きいのだろう。自分の好み云々以前に結婚相手が決められてしまっていたのだから。 ハーミットは、そんなことを考える余裕もつもりもなかったのかもしれない。この話題は聞き手に回ることにする。 「しっかりした自分の考えを持っている人が好き、かしら」 カップ内の赤褐色の液体に映る自分の姿を見て、ティアが口を開いた。その時思い浮かべたのは誰のことか。 「私の好みは……とりあえず俺様はパス!」 吐き捨てるように言ったヘルの頭に浮かんでいたのは、実父であるに違いない。 「ハートが温かい人がいいわ」 「そうよね、優しいに越したことはないわ」 盛り上がっていくヘルとティアの会話をハーミットは穏やかな顔で見つめていた。数分後に、無理矢理好みを考えさせられる事になることは、まだ知らない。 *-*-* 音と光が洪水のように駆け巡る。 広いとは言いがたいライブハウスの一角で、三人はステージを見ていた。 ティアは他の客と一緒に手を上げたりしながら時折ジャンプをしてはしゃぎ、ヘルも身体を揺らしてリズムをとる。二人共大興奮だ。 「今のキアーロディルーナっていうバンド、好みだったわ」 「アップテンポの曲で、盛り上がりやすかったわね!」 バンドの交代の合間、興奮冷めやらぬ様子でヘルとティアは手を打ち合わせている。 思う所が色いろあるのだろう、流れる曲を口ずさんでいたハーミットは入り口でもらったチラシを眺めて。 「次のバンド、面白い名前ね」 「え?」 その呟きを拾ったティアとヘルがチラシを覗きこんだ。 スネト・ビブリオテカ そこに書かれていたバンド名に覚えはない。だが小さく書かれているバンド紹介に、そのバンド名はルーマニア語の『音』と『図書館』をくっつけた物だと書かれていた。 「音の図書館、ね……」 「図書館だなんて、なんだか縁を感じるわ」 「あ、始まるわよ」 なんとなく、それまでのバンドとは違った目で見てしまう。ボーカルの女性が挨拶をし、まずはアップテンポの曲から。 ヘルとティアはそれまでと同じようにノって。ハーミットはじっとボーカルの女性を見つめながら、曲を口ずさむ。今日出演のバンド唯一の女性ボーカルの声は伸びやかで、かつ迫力があって。アップテンポの曲も迫力負けしていない。 だが、彼女の声が真価を放つのはバラードだった。抑えめのギターとキーボードの音で歌われるその歌は、郷愁を誘う歌声で琴線に触れる。切なさと懐かしさと僅かの葛藤と、そして希望。 「綺麗……」 誰からともなく声が漏れた。 スポットライトがまるで彼女を祝福する神の光のように見えて。 明日も私はここにいるの? 明日もあなたはここにいるの? 時の波に乗って 逢瀬を願えば誰でも 逢いたい時に逢えるだなんて 絶対じゃないから 今 あなたとここに居れるのは奇跡 その奇跡 忘れないで 明日へ続く道のりは 奇跡でできている しん……と静まり返った会場に、ぱらぱらと拍手が起こる。気がつけば三人とも夢中になって、手を叩いていた。 *-*-* 「はぁ、楽しかったわ!」 「結構ハードな一日だったわよね」 冬の澄んだ空気に欠けた月が瞬いている。冷たい空気は肺の中を綺麗にしてくれるようで、思い切り息を吸い込むティアとヘル。 「明日へ続く道のりは~、奇跡でできている~」 彼女達を先導するように歩くハーミットは、先ほどの女性ボーカルのバラードを口ずさんでいた。 壱番世界に苦手意識があるものの、なんだかんだ言いつつ一番世界の歌が好きなのだ。 「ハーミット、あのバンドの曲、気に入ったのね?」 ひょこ、とハーミットの前に顔を出すヘル。ティアも同じように反対側から顔を出した。 「あの人の声もステキだったけど、ハーミットの歌声も素敵。もっと歌って頂戴」 「……少しだけよ」 そう言いつつもハーミットは曲の初めから口ずさみ始めた。一度聞いただけで覚えてしまったなんて凄い、と二人は思ったが、今は彼女の歌声に耳を傾けることにする。 楽しかった一日が終わっていく。 束の間の休日。けれどもその密度は濃くて。 三人で来れて良かった――夜空に流れる歌声を耳にしながら、三人はわざとゆっくりと足を進めるのだった。 【了】
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