ドアノブを引いたとたん、すがすがしい緑の匂いと、花の香が漂ってきた。 見上げるほどに高い吹き抜けを持つ店内に、観葉植物の林が連なる。ヤシ、オリーブ、ブーゲンビリア、イングリッシュアイビー、ベンジャミン、アローカリア。広大な植物園にでも迷い込んだようだ。 緑の中を飛び交う色とりどりの鳥は、来客を歓迎し、口々にさえずった。 バードカフェ『クリスタル・パレス』は、鉄骨とガラス、そして豊かな緑で構成されている。かつて壱番世界のロンドンに存在した、同じ名前の建物がそうであったように。 ストレリチアオーガスタ——別名トラベラーズパームの葉に止まっていたシラサギが、ドアの開く音に、飾り羽を揺らして舞い上がる。朝霧のように、白い鳥のすがたはかき消えた。 靴音が——かつん、と、石張りの床を打つ。 そこに立っているのは、純白の翼を持つギャルソンだ。「久しぶりだなぁ、おい。何でもっとしょっちゅう、おれに逢いにこねぇんだよ。……怒るぞ?」 ギャルソンは、親しげに片手を差し伸べる。言葉づかいは乱暴だが、語調は陽気で、口元は笑っている。「あぁ? 別におれ目当てじゃないって? ……それは失礼しました。では、お席にご案内いたしましょう」 軽口を叩いていたかと思うと、うって変わって丁重になる。いささか芝居がかった仕草は、どうやら彼特有の接客姿勢であるらしい。 うやうやしく案内されたのは、明るく差し込む外光を緑の日傘がやわらかくさえぎる、居心地のよい席だ。 椅子を引き、ギャルソンは一礼する。「さて。本日のオーダーは、いかがなさいますか?」
無地のバックパーカーに、カーゴパンツ。少年らしいいでたちで、佐上宗次郎は現れた。 まだあどけなさの残る横顔は14歳ならではだ。すっきりした短髪だが、はねた毛先は寝ぐせなのかおしゃれなのか判然とせず、それがまたほほえましい。右肩の上に、水色のセクタンが乗っている。 「ま……! 男子中学生がこの店に……! あの子はたしか」 すみっこの席に隔離されていた無名の司書は、すごい食いつきを見せた。独自調査したマル秘メモをぱらぱらめくる。 (コンダクター、佐上宗次郎くん14歳。セクタンの名前は『山田くん』。趣味はストリートボードと携帯ゲーム。辛い食べ物が好き。8歳上のお兄さんの名は慶一郎さん。お父さんよりもお母さんよりも、お兄さんが大好き。だけど慶一郎さんは今――) メモを閉じ、司書は少し考えた。 が、すぐに勢いよく立ち上がり、宗次郎が案内された席へ突進する。 「背、高くてカッコいい……!」 「お? その賛辞はおれにか! おれを褒めているのか!」 「うん」 シオンからメニューを渡された宗次郎は、ストレートな憧憬のまなざしを向ける。 「そうかそうかそうか。見どころがあるぞ、少年」 このところ、オラオラ営業の度が過ぎたせいか、シオンはめっきりご指名が少なくなった。 珍しくもお褒めの言葉にあずかったものだから、すっかり調子に乗りまくっている。 「俺も大人になったら、あんたみたいになれるかな?」 「あたりまえだ。おれを褒める少年がいい男に成長しないはずがない。でもなぁ、いい男はそれはそれで大変なんだぞぉー」 シオンは宗次郎の左肩をぽんぽん叩く。はずみで、反対側の肩の山田くんがふるふると揺れた。 「そうなのか?」 「ああ。何せ美女や美少女がひっきりなしに『恋人になってくれないと泣いちゃう』とかいって、熱心に交際を申し込んでくるんだ。みんなきれいで可愛くて、いっそ全員と付き合いたいくらいだけど、そういうわけにもいかないだろ?」 すごいなぁ、と、目を丸くする宗次郎に、 「だから、傷つけないように断るスキルを今から磨いておかないとな」 そうシオンは畳みかけ、その暴走ぶりを懸念したラファエル店長が、青少年に悪影響を与えてはならじと釘を刺した。 「宗次郎さま。これはいわゆる妄想絡みの誇大広告ですので、あまり本気になさらぬよう。シオンの言動は反面教師とご理解ください」 宗次郎は素直にうなづき、視線をシオンの両翼に移す。 「その翼、綺麗だよね。触ってみていい?」 「おう、好きなだけ触れ!」 「ていうかシオンくんなんてまだガキじゃん! 宗次郎く~ん、目標にするなら、もっと素敵な殿方がターミナルにはたくさんいるわよー」 駆け寄ってきた無名の司書は、シオンの風切羽を一枚、ぶちっと引っこ抜く。 「いてッ」 「この羽根もねぇ、見かけの美しさのわりには実用的じゃないのよね。羽根ペンとしてはいまいち」 「おれの羽根は無名の姉さんのペン先用に生やしてるワケじゃねえぇー!」 「でもまあ、本のしおりくらいにはなるかな。はい、クリスタル・パレスご来店記念にどうぞ」 抜いた風切羽を、司書は宗次郎に渡す。 「ありがとう。あれ? お姉さんて世界司書だっけ?」 宗次郎はあらためて、黒いコートにサングラスの怪しい女を見やる。 名前もわからぬ司書だが、世界図書館を訪ねたさい、たいてい何かドジをしてリベルに怒られている光景が見受けられるので、覚えているのだ。 「んま。あたしのこと知ってるの? かんげきー!」 「いつもその羽根ペン、持ってるし」 「ああ、これ? 七面鳥のジークフリートくんから引っこ抜い……もらったの。やっぱり羽根ペンは、雁かガチョウか七面鳥のが書きやすいかな。細字用なら、カラスもいいわね。そうそう、ジークフリートくん、七面鳥なのに無駄に美形で笑えるわよ。呼ぶ?」 「ぷ……、あはははは!」 宗次郎は、思わず吹き出した。 「七面鳥さんは、また今度でいいよ。面白い人だなぁ」 「まぁぁ。その賛辞はあたしに? あたしを褒めているのね?」 「……いや、褒めてないない」 シオンのツッコミも何のその。司書はひたすら舞い上がる。 「14歳の少年の心を惑わすなんて、あたしって罪な女」 「うん! 俺、司書さんのこと好きだよ」 「んまぁぁぁぁーーー!!! 聞いたぁシオンくん。あたし、男子中学生から愛の告白をされてしまったわぁぁぁーー! どどどどうしましょう」 「……な? 宗次郎。いい男はこんなふうに、想定外のお姉さんからいらん誤解をされる危険もある。うまいことスルーするには、話題を変えることだな。……で、オーダーがまだなわけだが、何にする?」 くすくす笑い続けていた宗次郎は、ようやくメニューを広げる。 「スイーツ系じゃないほうがいいな。果物とかならいいんだけど、甘いの苦手で」 「辛いもののほうが、いいのよね? じゃあ、ラファエル店長特製のオリジナルミートパイはどう? ハーブと黒胡椒がばっちり効いてて、スパイシーで美味しいわよー」 司書はめげずに、横合いから指を伸ばし、注文の口出しをした。 「じゃあ、それにしようかな」 「ありがとうございます。宗次郎さま、お飲み物は如何いたしますか?」 「……ミルクで」 「かしこまりました」 シオンにまかせておけじと、ラファエルはずっと後ろに控えていた。 オーダーを聞くなり一礼し、厨房に戻る。 「ミートパイ、注文を受けてから作るから、焼きあがりまでに時間かかっちゃうのよね。宗次郎くん、今日これから予定ある? 冒険旅行の出発時間が迫ってるとか」 「いや、今日は別に」 「じゃあ大丈夫ね。お姉さんと楽しくお話して過ごしましょうね~」 「当然のようにそこに居座るなぁ! 誰が宗次郎と同席していいって言ったぁ!」 シオンがまたもツッコみ、宗次郎はひとしきり、笑い転げた。 笑って、笑って。 そしてふと、押し黙る。 ――そう、ここは、0世界。 プラス階層とマイナス階層の、狭間。 時の停滞したこの世界のカフェにいてさえ、俺は、笑うことができる。 ゆるりと過ぎていく、日常と非日常。 そこここに幸福は散りばめられていて、俺はとても恵まれているけれど。 ――兄は。 行方不明の兄は、今頃、どうしているだろう。 つらい想いをしていないだろうか。不幸ではないだろうか。 自分ばかりが安穏と楽しいひとときを過ごして、許されるのだろうか。 「ごめん。何か――うまく笑えない」 司書とシオンから、宗次郎は顔をそむける。 兄と会えるまでは、絶対に泣かないと決めていたけれど。 決心が、鈍ってしまいそうになったので。 「あたしね。ロストナンバーのみんなって『迷子の子ども』に似てるって思うことがあるの」 どうしたの、とは聞かずに、司書は話を続ける。 「『家族』と離れて泣いている子、『家』に帰り着くための冒険をしてる子、迷子の状態を楽しんでいる子、新しい『家族』を見つける子――ロストメモリーは、家に帰ることを断念した子どもたちってことになるかな」 会えるよ、と、宗次郎の背に、司書は声を掛ける。 「冒険を断念さえしなければ、いつか必ず会えるから」 宗次郎は、答えない。 しかし、そのあどけない横顔には、新たな決心の色が見える。 (待っていてくれよな。俺が必ず見つけるから) 少年はほどなく、とびきりの笑顔を見せるだろう。 そう、ミートパイが焼き上がる頃には。 ――Fin.
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