開店前のクリスタル・パレスに、いくつかの人影が動く。 温かな木漏れ日が差し込む窓辺では大きな赤い猫、灯緒が適度な力加減のブラッシングにごろごろと喉を鳴らし体を伸ばしている。サッサッと手際よくブラシを扱う無名の司書も鼻歌交じりでにっこにこの笑顔だ。彼女の膝の上では赤い熊の縫いぐるみと白いフェレット、アドが並んで置かれ、ぷすーという寝息が聞こえる。 ふわりと食欲をそそる香りが鼻をくすぐり、無名の司書が視線をそちらに向けると、四人の美男子が談笑しながら朝食の準備をしていた。背中に羽をもつ青髪のイケメンと武人の様な凛とした佇まいのイケメンが新年に相応しい朝食を、儚げな雰囲気を纏う銀髪のイケメンとがっしりとした体躯に褐色の肌が健康的な男らしさを思わせるイケメンが朝食に相応しいお茶の葉を選び、淹れる。 見目麗しい、揃いもそろって180越えの美男子~美壮年に給仕され、ふわもこ司書を存分にもふる無名の司書の顔は幸せいっぱいだ。「あ~~。新年から良いことばっかりだわ~」「さぁ、朝食にしますよ。アドも起きてください」 無名の司書の膝の上から声が聞こえ、ヴァン・A・ルルーがもふもふの手でアドを揺さぶり起こしていた。 運動会からクリスマス、そして年越し特別便2012というベントが続きこれから怒涛の書類整理もある。お疲れ様と今後も頑張ろうという労いも込めて、営業終了後のクリスタル・パレスを借りて司書の新年会を昨夜、行った。集まれる司書だけとはいえこうやって集まる事があまり無かったせいか大いに盛り上がり、今日の仕事が特にない司書は夜遅くまで話に花が咲き、気がつけば泊り込んでしまったのが、今ここに残っている司書達だ。 家主であるラファエルに無名の司書を始めとする世界司書達、贖ノ森 火城、モリーオ・ノルド、灯緒、ヴァン・A・ルルー、アドがそれぞれテーブルに着席すると楽しい朝食パーティが始まるが、少しして無名の司書は腕を組み考え込んでしまう。「どうかしたのかい? 難しい顔をして」 穏やかな声色でモリーオが囁きかけると、皆の視線が無名の司書へと向けられた。「いえね、こんな幸せ、お裾分けしないとバチがあたるわよね。うんうんって思いまして、ねぇてんちょー、今日って通常営業?」「そうですよ、いつもどおりシオン達が来たら店を元通りに……あぁ、まだ時間はありますから、朝食はゆっくりで結構ですよ」 ラファエルがそういうと、無名の司書はまたうーん、と考えながら店内を見渡す。昨夜の新年会でテーブルや椅子が何箇所かにまとめられ、広いスペースができている。「新年会の続きでもしたいのですか?」「もっと人を呼んで大人数でか? 食材足りるだろうか」「壱番世界にサトガエリをしてるんじゃないのか? ハツモウデをするんだろ?」 ルルーの言葉に火城と灯緒が続けて言うと、無名の司書がぱん、と手を叩く。「それそれ! 初詣! 里帰り! 新年会はもうやったから、そういったのしましょうよー! ほら、なんか歌にもいろいろあるじゃないですか、凧揚げとかこま回しとか」『あー、羽つき、双六、福笑い、書き初め、ひ……』 すぱーんとルルーが看板を叩くと、アドの看板はくるくると回転した。「そうそうそんなの! ねーねー店長! どうせならテーブル戻す前にイベントやろうよー」「今から準備して、ですか?」「いいんじゃないかな。楽しそうだよ」「流石に羽つきや凧揚げなら外でやることになるな」「副笑いならつくれそうだ」「世界図書館にも何かあるでしょうし、なんとかなるんじゃないですか?」『なんだったら持ち寄りでもいいんじゃねぇの』 気がつけば、司書達も巻き込んだクリスタル・パレス新年初イベントとなっていた。 ◇「で、だ」 クリスタル・パレスの一角、テーブルを取り払って開けた床に何処から持ち込んだのか畳を敷き、そしてその上に何やら札を広げ、朱金の虎猫はおもむろに口を開いた。背後で五mはあろうかと言う謎の白い物体が客に牙を剥いているのも意に介さず、眠たげに眼を細める。「何をすべきか槐(えんじゅ)に相談したところ、こんなものを貰ってしまった」 散らばる幾つもの札の上に描かれているのは、様々な花と鳥、月と雪の絵。四季折々の美しい風景を切り取ったようなその札は、壱番世界で楽しまれている遊戯の一つに似ていた。 数は四八枚。四枚で一括り、十二の風景が切り取られ。「……花札?」「だろうね」 曖昧にそう応える灯緒自身も、ソレが何であるのか正しくは知らないらしい。溜め息をついて、猫の身で器用に肩を竦めた。「朱昏で蒐集した、と言っていたが……あの胡散臭い骨董屋のことだ、どうせ曰くつきの物なんだろう」「それで、遊べと?」「せっかくだ、楽しもうじゃないか」 飄々とそう言ってのける。実際に遊ぶのは自分じゃないから、とでも言いたげな、投げやりとすら思える態度だった。「そうだな……花合わせ、と言ったか、あれをやろう。裏返した札を散らせ、二枚捲って同じ月を合わせたら得点にするんだ」 それは間違いなく花合わせじゃなくて神経衰弱だ、と思いはするものの、この適当な猫に正しい説明をして納得させるのも厄介で、結局誰も口には出さなかった。 猫の手が器用に、表を向いていた札を次々とひっくり返していく。淡々と片脚を動かしていく様は、猫じゃらしと戯れる仕種によく似ていたが、それをしているのが虎めいた巨躯の獣ではあまり可愛げはない。 そして、幾枚目かの札を返そうと手を乗せた、その時だった。 緑の葉に赤い実が散り、勇壮な獣がその合間から顔を出しているその絵――『萩に猪』の札が、唐突に光を放った。 次いで、柔らかな芳香が彼らを包み、小さな紫の花弁が、在る筈のない風に吹き散らされて舞い踊り始める。それが萩に咲く花だと、旅人たちは誰に言われるでもなく理解していた。 噴き上がる風と花弁は札と虎猫とを包んで舞う。花の香と色によってつくられた柔らかな壁はひととき彼らを遮って、その隙間から、猫の傍に何かが現れるのが見えた。 巨大な影だった。大きく、長い――明白に人とは違うとわかる、獣のシルエットだった。絶えず吹き荒れる花の嵐に遮られて、その詳しい姿を視る事は叶わない。ただ、それを見上げる虎猫が、微かに驚愕に眼を瞠ったのだけが判る。「……おや」 人間じみた仕種で、虎猫は目を細めて笑った。懐かしい、とでも言うかのように。 そして、何かを言おうと口を開いた途端、無情にも風が止んだ。 花弁が収まるのと共に、幻影もまた風に散り、消える。 光を喪い、何も語らぬ札を裏返して、猫は穏やかに笑う。「どうやらこの札、触れた人間が『逢いたいと願う誰か』の幻を見せてくれるようだ。他の参加者には……花弁が壁になって見えないようだね」 独り言めかせて呟き、全て裏返した札を無作為に混ぜ始めた。無数の朱色の札が、畳の上をスムーズに滑る。「さて、始めよう――……ん、どうかした?」 四人の視線が虎猫へと集中する。ややあってその意味を理解した猫はゆらりと眼を細め、「おれが見たもの? ……さあ、何だろうね」 首を傾げ、そうそらとぼけるのだった。!注意!【新春遊戯会】は、同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる【新春遊戯会】シナリオへの複数参加はご遠慮下さい。
「……記憶を封印された司書の身でそう懐かしい、と思うことは」 「ん?」 アコル・エツケート・サルマの飄々とした金眼が、とぼけた虎猫を捉える。 「0世界に住んでいる者か、住んで『いた』モノなのか」 ロストメモリーはかつての記憶を喪っている、と聞く。そして永遠に0世界から出る事も叶わない、と。ならば彼が視た者はかつてのロストナンバーなのか、それとも――とぐろを巻いた己が身の上で首だけを擡げ、アコルは黙考した。首の周りで廻る白珠の一つが傍らに置かれた猪口を拾い上げ、酒をちびりと含む。 「んー……しかし、お主にもそう逢いたいと思う者がいるとは意外じゃなぁ」 「そうだろうか」 対する虎猫は、首を傾げて笑うように目を細めるだけだった。 「ロストメモリー……いや『世界司書』だからこそ、出逢いたい、けれど決して出逢えない相手と言うのも居るものだよ」 どこか寂寞を滲ませたその言葉の、真意はわからない。しかし、詳しく訊き出すものでもないだろうと、アコルはそう感じた。 「ああ、まぁ誰なのか話したくなければ別にいいんじゃよ。ワシもそう深く聞かんで。……それはそうと酒の御代わり貰えるかね?」 空になった酒瓶を差し出して、呵々と笑う。そのペースの速さに呆れる虎猫の傍らから、ひょいと酒瓶をアコルに渡す手が伸びた。 紅の着物の袖が、色鮮やかに翻る。 「どーぞ、じいちゃん」 「おお、すまんの」 華城 水炎は片目を眇めた独特な笑みで、礼もそこそこに早速酒を呷るアコルの満ち足りた表情を見上げる。 「あたしも、ほんとは酒飲める年齢なんだけどなー」 新春だから、と言う事で華やかな袴姿に身を包んだ彼女は、外見は十六歳の育ち盛りの少女だが、その実ロストナンバーとなって十七年が経過している。 「おお、それじゃったらどんどん飲むがええ。おなごの酔うた姿は好いでのう」 舌舐めずりせんばかりに盃を差し出し、アコルがそう促すが、水炎が受け取る前にそれは朱色の尻尾によって制止された。 「流石にこの場はおれの顔を立ててはくれないか?」 「えー」 「えー」 二人の声が見事な調和を見せるのに苦笑を零し、虎猫はこれで勘弁してくれ、と己が飲もうと確保していた甘酒を差し出す。渋々それ受け取った水炎は、再び笑みを浮かべてひとつ提案をした。 「じゃあさ、灯緒。後でもふもふさせてくれる? 空牙も!」 「おれは別にいいけど」 「む? 何故拙者まで?」 唐突に話題に出され、忍び装束に身を包んだしなやかな豹、豹藤 空牙が目を白黒させる。古風で真面目な――要するに堅苦しい所のあるこの忍豹は、水炎の言うもふもふの意味を上手く理解しきれずにいる。 「何故って、大きな猫見たらもふもふするのが普通じゃん!」 「そういうものでござるか……?」 「そういうものでござる。まあこの勝負であたしが勝ったらって事でいいからさ!」 「そうとなれば、受けて立たざるを得んでござるな」 「……どうでもいいが、そろそろ始めねえのか」 わいわいと騒ぐ四人を尻目に、冷水のような醒めきった声が掛かる。一人離れたところで成り行きを眺めていた、グレイズ・トッドの冷えた金眼が彼らを捉えていた。 「誰もやらねえんなら、俺から始めるぜ」 そう言うと、返事も待たずにさっさと二枚の札をめくる。菊に盃と、芒の屑札。確認するまでもなく外れである事を悟って、無意識に舌を打った。勝負に拘っているわけではなく、最早癖のようなものだ。 大輪の白菊の花と、綿のような芒の穂が揺れる。花弁が小さく宙を舞って、二つの札はグレイズが触れるまでもなく裏返った。 「次。誰だ?」 「む、ならば拙者が」 グレイズの左側に坐していた空牙が、時計回りの順番に合わせて身を擡げる。 一、蛇神の孤独 未だ開かれていない札の多い初めの内は、やはり中々手札が増えないものだ。空牙、水炎と手番が回り、しかしどちらも絵札を揃えられないまま、出番は悠々と酒を呷っていたアコルへ引き継がれる。 「……うむ? もうわしの番か」 飄々と笑い、空になった盃を傍らに置く。そして、しげしげと畳の上を眺めた。 「ふーむ……花札とはワシはしたことがないんじゃが、神経衰弱みたいで分かりやすくてええのぉ」 「みたい、っつかそのものだろ」 グレイズの剣呑ないらえにもからからと笑って返し、判り易いのはええものじゃ、と再び上機嫌に舌を出し入れする。 「初め、花合わせと聞いた時は女子同士が」 「アコルさん、とっととめくってくれ」 饒舌な老蛇の話が妖しい方向へ向かい始めたのを、即座に虎猫が切り捨てる。怠惰ながら律儀な獣のその様子に、かつての知り合いの姿を重ね、アコルは眩しいものでも見るかのように目を細めた。 気を取り直して、何気なく新しい札を一枚めくれば、大輪の菊の花が咲く絵が顕れた。菊に青短。 「んー……確かさっき、坊主が菊の札をめくっておったな」 ゆるりと記憶を巡らせて、白珠を飛ばす。勢いよく叩かれた朱の札が軽く跳ね、表を向いた。 菊に盃。 「お、当たりー」 「先を越されたでござるな」 番を待つ競技相手からの野次が飛ぶ。 にやりと笑みだけでそれに応え、早速札を取ろうと白珠を向かわせる――その視界を、強い光が覆った。 「ふむ?」 表を向く二枚の札が、強く、目を焼くほどに鮮やかな白い光を放っている。この反応は先程、灯緒の捲った萩の札が見せたものと同じ、と冷静に判断して、悟った。始まる、と。 何処からともなく、花が散る。雪のように白い、菊の花弁が。 「なるほど」 黄金の瞳を閃かせて、灯緒が呟いた。 「どうやら、光札か種札を開いた時に一度だけ、その人の望む幻影を見せてくれるようだ――」 どこか得心の言った様子で説明を加える、呑気な声が花弁の擦れ合う音に掻き消される。畳の上に散らされた朱の札も、共に興じていた三人も、舞う花の影となって隠れてゆく。 何かが訪れる、確かな予兆だけが在る。 白菊の花が散る。 天から、地から、重厚な壁を創り上げるように、たくさんの花弁が舞う。 ともすれば吹雪のようにも見えるその白の向こう側に、ふとアコルは何者かの影を見た。背の高い、とても人のものとは思えない影。――白い。 「おや……」 五メートルほどの、巨大な体躯を持った白い狼。白菊の花を雪のように纏わせ、神としての冷厳さを伴いながらアコルの眼前に佇んでいる。 「お主が出てくるか。ベヌロス」 どこか残念そうに瞳を細めて、アコルは舌を出し入れした。威嚇のようなその仕種に、相手が眉間に皺を寄せるのが判る。そんな些細な所まで昔と変わらなくて、思わず笑ってしまった。 「そう厳しい顔をするな。どうせなら優しい女子がよかっただけの話じゃ。……まあ、お主特にわしに厳しかったし、あまり嬉しくはないがのう」 冗談交じりにそう呟いて、しゅるしゅると舌を出す。それは本心ではあったが、全てではなかった。 ベヌロス・エツケート・ケルビアス。 魂の園の門番として、集う魂の浄化か転生かの判断を担っていた、魂を司る神“エツケート”の一柱。 己の司る領域によく顕れては仕事をさぼって魂たちと戯れる、不真面目な同僚を快く思わない神だった。彼の姿を見つけては持ち場に戻れと説教を喰らわせ、それ以外の場でもアコルの挙動一つ一つにケチをつけるような、生真面目な性格の持ち主で、正直面倒な奴とは感じていた。 だが、神として召し上げられた時期が近く、何だかんだでよく共に行動していたような気がする。口煩いが決定的に仲を違えているわけでもなく、友人として程よい付き合いをしていたようにも思う。 ――何にせよ、全ては過去の話だ。 「のう。……お主は今、何処に居るんじゃろうなあ」 問いかけたところで、幻影の狼からは答えは返らない。ただ生真面目な双眸がアコルを睨めつけるだけで、それさえも今の彼には懐かしくてたまらないのだ。 「お主だけではないよ。他の“エツケート”も、大神様も。結局ここに辿り着けたのはわし一人じゃった」 崩壊を迎える世界。 このまま消え去るくらいならば、と、小神を統べる大神は、禁じられていた術を使った。様々な神が様々な世界へと放逐され――しかし、世界図書館に辿り着いたのは、アコルただ一人だった。 世界樹旅団に拾われたのか、それとも何処とも知れぬ異世界で消滅を迎えたのか、彼らの行く末はわからない。 白菊の散る向こうに佇む彼もまた、その行方は知れない。 『いつか、必ず。再び逢おう』 花の散る音に紛れて、微かな声が鼓膜を揺らした。 出しかけた舌の動きが止まる。はた、と視線を留めて、花影に消えた同胞の姿を追う。――しかし、そこには最早、何もない。 「出来もせん約束をするもんじゃないわ、たわけめ」 罵る言葉に親愛を滲ませて、孤独な蛇神は笑った。 二、求める刃 「では、次は拙者の出番でござるな」 何巡目かの番手がやってきた。 空牙は伏せの姿勢を取っていた身を起こし、そろりそろりと裏返しの札に近付く。今まで開かれた札の位置はほとんど把握している。そうでなくても十二分の一の確率で当てる事が出来るのだから、この遊戯は比較的難しいものではない。僅かの時の運と、記憶力の勝負だ。 居るのは五人。その内世界司書は審判に徹している――つまり、面倒なのだろう。遊戯に参加しているのは空牙を含めて四人だ。ならば、なんとかなる。 気合いを貯めるように一度瞑目し、脳裏で記憶の中の札を見極める。 「……む。それと、これでござる!」 桐の屑札が二つ。見事に当たりだ。 「やるのう」 「それほどでもござらん」 瞳を細めてひとつ賛辞を贈るアコルに、まんざらでもなさそうに応える。当たりを引いたと言う事は、続けてもう一手打つ事が出来ると言う事でもあった。記憶を頼りに、次の二枚を選ぶ。 菖蒲に短冊と、――梅に鶯。 「む」 思わぬ出札に、眉間に皺を寄せる。どこかで記憶の入れ違いが生じていたようだ。彼の記憶が正しければ、それは菖蒲に八橋であったはずなのだが。ひらり、と紫と紅の花が散って、札は空牙の手を借りる事無く裏へ返る。 「……まあ、よかろう」 番手は終わってしまったが、絵札は覚えた。次に備えるのみ。 「なら、次はあたしー」 勝気な少年のように目許を眇めて、水炎が身を乗り出した。差し出された和菓子をつまんで、少女らしく頬を緩める。 「グレイズは食べないの?」 「いらねぇよ、俺は甘い物は嫌いだ」 ふと、茶にも菓子にも手を出そうとしない少年に気が付いてそう促すも、素気無く断られた。見栄を張っているわけでもなく、どうやら本当に興味が無いらしい。悟って、それ以上は世話を焼かずに札の方へ意識を向けた。狙いを定めていた札を、二枚続けざまにひっくり返す。 桜の屑札と、桜に幕。 「……光札!」 息を呑んだ。 クリスタル・パレスの天井が、鮮やかな青に染まる。ふと振り仰いだ水炎の、漆黒の髪に薄紅色の花弁が柔らかく降り懸かった。桜の花。甘い香を伴って、青の天蓋から次々と落ちてくる。 気が付けば、舞い狂う薄紅色の花弁が、水炎と外界とを切り離していた。燃え上がるように躍る桜吹雪に目を眇め、幻影の訪れを待ち侘びる。 一つに束ねた、長い黒髪が揺れる。 後姿だけでも、それが誰かなどすぐに判った。逢いたい人なんて決まっている。初めから、そう願い続けていたのだから。 あんなにも、探し求めた姿。こんなにも、待ち焦がれた姿。 「……求真(グシン)」 呟いたその名は、吹き荒れる桜吹雪に紛れて溶けた。 それでも、彼には届いたのだろうか。和装の裾を翻して、振り返る。鋭利で、どこか穏やかなその貌が、水炎の眼に映る。――最後に目にしたあの日から、何一つ変わっていない。抜き身の刃を、彼の本性を想わせる凛とした佇まいは、今も尚水炎の心を捉えて離さない。 ひとときの夢と知っていても、ただ一目だけでも、逢いたかったひと。 「……あたしの想いを、あんたは気付いてたよね」 彼の心が本当の主の元にしかないと知っていても、透いた気持ちは抑えきれないものだ。決して愚鈍な質ではない冴えた刃の彼も、すぐに彼女の想いに気が付いた。 気が付いて、それに応えるべきか否か躊躇っていた事も、全て彼女は知っていた。 「それでもただパートナーとして傍に置いてくれた」 だから、水炎も何も言わなかった。不器用で実直な刃のくれた、やさしくて残酷な立場に甘んじ続けた。 ――七年前、異世界の何処かで、求真の消息が途絶えた。 彼の消えたその日から、水炎は刀を手にすることをやめた。 代わりに、チェンバーの管理人でもある老爺――じじさまに頭を下げ、頼みこんで、功夫の鍛錬を始めた。じじさまは全てわかっているような目で、けれど何も訊かないでいてくれた。素質がある、と求真にさえ認められた剣術を捨て、いちから力を求めた理由を。 この手が触れる刃も、求める鋼も、全ては彼一人と定めた。 彼と同じ、鋼の心を以って己にそう律した。 深い茶の瞳を、じっと彼の幻影へと据える。その唇が、言葉を紡ぐのを期待して。彼の言葉一つで、水炎はこの停滞から解放される。 待っていてくれ、と言うのなら、いつまでも。 ――今だって、ずっと待ち続けている。彼の帰りを。 お前は行け、と言うのなら、もう振り返らない。 涙は疾うに流し尽くした。彼との日々を思い出に昇華して、その先に進む覚悟だってできている。 本当は、彼女の本当の心は、ひたすらに彼の元へ行きたいと悲鳴を上げている。何処とも知れぬ異世界に消えた、彼の刃の輝きを求めて。――しかし、そうできるほど水炎は強くも、無謀でもなかった。 唇を気丈に曲げる。彼の眼に映る己は、確かに笑みの形をとれているだろうか。それさえも自信はないが、しかしこうして表情を繕わなければ、脆い己を曝け出してしまう気がした。 「大丈夫、もう守られるだけのあたしじゃないよ」 その性質まで、刃によく似た男だった。 妹のように水炎の面倒を見、共に旅をした時など彼女を護るために身体を張る、どうしようもなく真っ直ぐな気性の男。 「強くなったの、知らないだろ?」 彼が消えてから、七年が経過した。それが長いのか、短いのか、水炎にはもう判らない。ちょうど、覚醒して彼と出逢ってから、同じくらいの時間が流れた。それだけだ。 息を吐く。 「色々あったよ。色々経験して、独りでも立てるようになった。もうあんたに傷つけられてもへいちゃらさ」 だから、言葉をくれないかと。 祈るように、縋るようにその瞳を見上げたところで、それは幻影に過ぎないのだ。 「自分だけで進むこともできる」 鋭い灰鋼の瞳は揺らがない。 「あんたを……ずっと、待っていてもいいけどね?」 そう付け足して、笑って見せても。彼はただ水炎を見下ろすだけだった。 水炎のその言葉が、本心と虚栄心を綯い交ぜにした、複雑に揺れる炎のようなものだと知ってはいても、幻影の彼から返る言葉はない。ただ、昔と同じように静かに笑う。 ふと、その唇が開かれる。 何か、言葉を紡ぐように。 ――しかし、それが声になることはなかった。 勢いを増した桜の幕の向こう側に、彼が消えていく。困ったように笑う、求真の貌だけが残されて、しかしそれもすぐに花影に隠れる。 一言も聞き漏らすまいと研ぎ澄ませていた聴覚を、花弁の吹き荒れる音だけが叩く。 降り止んだ桜吹雪を求めて、水炎は貌を上げた。残酷だね、と笑う。求真、とその名を呼んでも、最早いらえる者はいない。 涙など、疾うに流し尽くしたと思っていた。けれど眦から溢れそうになる雫を自覚して、それを止める術が見つからないままに瞳を閉じる。足元の盃を手に取り、衝動と共に呑み込んだ。 ――愛してる。彼も自分も知っていた、けれど告げられなかった想いを、胸の内に流し込んだ。 「水炎さん、大丈夫か」 「大丈夫大丈夫。……旧友と、乾杯しただけさ」 余韻を振り払うように、にこりと笑う。 たとえ幻影だとしても、もう一度逢う事が出来た。 願ってもいなかった奇跡に、感謝だけを残して。 三、仇為す天王星 「そういえば、先程水炎殿はあえて今まで出なかった札を選ばれたな。何故でござるか?」 ふと、空牙に話題を振られ、感傷に浸っていた水炎がはたと我に返る。その手には最早幻影を出す事のない桜の札が握られていて、非情なまでの沈黙を見せていた。 「ああ、それね。だって今まで出てるのってほとんど屑札か種札だろ? それじゃ枚数稼ぎにはなってもボーナス点が狙えないじゃんか」 そう言う彼女の手札には既に、松に鶴と芒に月が控えている。この番の桜に幕で、『三光』が完成した算段だ。アコルの菊に盃があれば『花見酒』『月見酒』も作れたのだが、先を越されてしまった為にそれは敵わなかった。 「ぬ……! そういうものでござるか!」 「そういうものでござる。少しは頭を使わないとね」 初めて気が付いた、とでも言いたげな驚きを見せる空牙に、先程と同じ答えを返しながら水炎は不敵に笑う。 それに対して、空牙は悩んでいた。 配役によるボーナス点が入るとなれば、単純に札の枚数だけで勝負を見極めるのは難しい。 だが、彼は忍者だ。勝負である以上、如何なる方法を用いても勝たねばならない。水炎から持ちかけられた賭けの件もある。多少は卑劣な手を使っても――。 (幻惑を上に被せる、という手もあるが) 絵札の上に別の絵札の幻惑を重ねて、誰が何の札をめくったのか判らなくさせる方法だ。だが、これでは空牙自身も判らなくなる恐れがある。己の記憶力を頼りにしている以上、必勝の方法とまではいかなかった。 (ならば、人に判らない匂いを乗せるか) ちらり、と場に居る五人を見遣る。野良犬のように鋭い目をした少年も、悪戯な猫のように奔放な少女も、突き詰めればただの人間だ。気付かれる可能性は低い。――だが、残りの二人はどうだ? 同じ猫科である司書の嗅覚は空牙と同等か、僅かに劣る程度だろう。札に近付く心配はないが、気付かれる恐れはある。そして何よりも、老練な蛇。終始出し入れしている舌から匂いの粒子を採取し、それを咥内で分析しているらしく、その嗅覚は侮り難い。 ここは正々堂々と戦うべきだろう。 誇り高き忍豹は、すっと背筋を伸ばして、二枚の札に狙いを定めた。叩くように、弾く。 開かれた札は、紅葉の屑札と、紅葉に鹿。 唐突に散り始めた紅葉の奥に遊戯会の景色が融け、空牙を包み、異空間へと切り離すような錯覚を与える。 外側から見ていた現象が己の身に降りかかる。奇妙な感慨を覚えながら、紅に染まる視界の中で、空牙は彼を待つ幻影の姿を捜した。 初めに目に付いたのは、山羊の角。 「ほう……」 すう、と黄金の瞳を細める。 荒れ狂う紅葉の嵐が収まり、空牙の視界を遮っていた紅が幾分か少なくなる。その先に待っているのは、やはり彼の想像した通りの紫。 紫の肌と、尖った耳を持つ、ひとりの男。空牙と浅からぬ因縁を持った魔族だ。 “天王星のオーステュメントス”。 誰の耳にも聴こえぬよう、その名を口中だけで紡ぐ。 「なんじゃ、嬉しそうではないのう?」 紅葉の嵐の向こう側から、からかうような声が掛かる。どうやら幻影の姿は見えずとも、それと対峙している空牙の姿は幾らか視認できるようだ。 ふ、と唇を不敵に歪める。 「こいつには……一杯喰わされているのでな」 嬉しいか、と言われれば、嬉しい、と答えられる。 目の前に現れたのが、実体を得た本物のオーステュメントスならば。 「――逢ったら、首を刎ね飛ばしたいくらいなのである」 己は嬉々として、その首に飛びかかるだろう。野生の獣の如くに堂々と、しなやかに、ただ男の息の根を止めるためだけに。鋭い爪を伸ばし、獰猛な牙を立てて、その紫の肌を突き破るだろう。 焔の如くに燃え滾る憎悪と殺意が、空牙の中で渦巻いている。 ――だが、彼は黒豹だ。 その黒い毛皮の奥に隠された表情を、人間には読み取れるだろうか? 黒豹でなくとも、彼は忍者だ。己の感情を表に出すべきではないと知っている。 ふとした拍子に怒りを滲ませそうになる黄金の瞳を細め、行き場のない激情が過ぎ去るのをただ待ち侘びた。 山羊の角を持つ男の幻影に、屈強な鹿の影が瞬間重なる。 ふわり、と風を喪った紅の葉が宙に留まり、幻影を掻き消すようにして落ちて行く。 書き初めに向かった彼の仲間は、あれを見たら何と思うだろうか。 すこしだけ物想いに耽った後、空牙は表を向く二枚の札を手に取った。 四、氷雨の向こう側 燃え上がるように紅く、大振りの牡丹の花弁が空を舞う。何処からともなく現れ、ひらりと散った青い短冊が札へと吸い込まれるようにして消えて、後には表を向いた二枚の札が残される。それらを白珠で回収しつつ、アコルは己の手札に加えた。 果敢に次の札を狙うが、期待に反して現れたのは萩と藤。外れをからかうように花弁が散って、札はひとりでに裏返った。 「さて、次は坊主の番じゃの」 しゅるる、と舌を出し入れした大蛇がけしかける。ぼんやりと、或いは面倒そうに遊戯の展開を眺めていたグレイズは、呼ばれた事に気付いて眼を瞬かせた。ああ、とどうでも良さそうな声が零れる。 目の前に置かれている、二枚の札に手を伸ばす。 他の参加者が開いた札は、見ていないようで一応見ていた。覚えるつもりはあまりなかったが、こうも札が減ってしまっては忘れる方が難しいものだ。だから誰も開いていない二枚を選んだだけのことだったが――、意に反して、捲った二枚が共鳴を始める。 柳に雨と、柳に燕。 思わぬ収穫に小さく目を瞠る。遺された最後の光札だ。 青々と萌える柳の葉が、何処からともなく降り始める。一羽の燕が札から飛び出して、グレイズの眼前を低く滑った。 緑の幕の向こうに、幾つかの影が映る。 「――あいつらは……」 思わず、声を上げる。金の瞳を驚きに瞠らせ、しかしすぐに苛立たしげに眇めた。判っている、本物ではないと。それは花札が見せた一瞬の幻影で、信じるに値するものではないと。 しかし、募る懐かしさだけは殺す事が出来なかった。 三人の野良犬(グレイズ・トッド)たち。 かつて、青のグレイズと共に暮らしていた仲間たちが、生前そのままの姿で其処に居る。 黄色の髪の子供が、ピンク色の髪の少女に懐いて構われている姿が見える。 その傍らでは、金色の髪の少年が楽しそうに、愛しいものを見るような目で二人を見ていた。――否、二人だけではない。金色のグレイズ・トッドは、それらを遠くから見つめるグレイズ――青の彼をもまた、見遣っている。 彼らの目の前には、たった一切れだけのケーキが置かれている。 青のグレイズを含めた四人が、共に暮らし始めて一年を迎えた記念に、とお人好しの金色が買ってきたものだった。真白なクリームは冬に降る雪のようで、しかしいつまで眺めていても決して溶ける事はない。その上に鎮座する苺は赤々と、まるで蝋燭の火の如くに輝いていた。――この頃はまだ、炎を畏れる心など無かったことを、ふと思い出す。 ピンク色と、黄色、ひとしきりじゃれ合っていた二人の目が、青のグレイズへと向けられた。金色は相変わらずにやにやと彼を見ている。 食べないのか、と唇だけで金色が問うた。ピンク色がにやりと、可愛げのない笑みでこちらを窺っている。その背に懐いた黄色もまた、青色の応えを待つように見上げてくる。 そんな彼らの視線が、ひどく懐かしく、むず痒い。 それらは過去に捨ててきたものだ。優しいと呼ばれた青色のグレイズごと、あの日の炎で燃やし尽くしたもの。 「……俺は甘い物は嫌いだ、って言ったろうが」 暫しの時間をおいて、結局はあの日と同じ言葉を口にする。 ほんとうは、初めて口にした味だった。初めて味わった柔らかな、幸福をも想起させる甘さだった。それを素直に指摘されるのが嫌で、照れ臭くて、甘いものなど苦手だと嘘を吐いた。黄色は素直に受け止めたが、金色もピンク色も、それが見栄であることを見抜いていた。からかうように笑われ、更に唇を曲げる。 青い焔が立つように、柳の葉が風に舞う。瑞々しい青がグレイズの凍てついた眼を焼くように萌えて、仲間たちの姿を覆い隠していく。 彼らの元へ、駆けて行く青い髪の少年が見える。 今の自分よりもずっと幼い、青のグレイズ・トッドが。 雨が降る。 やさしかった想い出と、グレイズとを引き裂くように、冷たい雫が降り注ぐ。舞う柳の葉を叩き落とし、笑い合いじゃれあう四人の野良犬たちを掻き消して、氷雨が激しい音を立てて彼を打ち付ける。まるで、弾劾の声のように。 雨に濡れるまま、天を仰ぐ。 「……馬鹿野郎どもが。揃いも揃って、とっとと死にやがって」 そう吐き棄てた少年の横顔は、怒りに打ち震えているようにも、弔いの涙を流しているようにも見えた。 雨に濡れ、畳の上に貼り付いていた柳の葉が、白い光となって爆ぜる。何処からともなく降り注いでいた雨も上がり、花札の纏っていた光も、穏やかに収束した。 後に残されたのは、ずぶ濡れの青い野良犬と、散らばる朱の札ばかり。 「おかえり、グレイズ」 正面に座る水炎が名を呼ぶ。緩慢に視線を巡らせれば、どこか人を食ったような、しかし気遣わしげな笑みが目に入る。それが煩わしくて――照れ臭い、など以ての外だ――、逃れるように首を振る。まるで野良犬そのもののような仕種に、濡れた髪から雫が散った。 「……?」 幻の雨が止んで、グレイズや畳を濡らしていた雫も干上がっていく。何事もなかったかのように、初めから何も存在しなかったかのように、いっそ無情なまでの潔さで、髪も服も瞬時に乾いてしまった。 ――あの日も、こんな雨だったなら。 彼は、燃えずにいてくれただろうか。 終、花影、潰えて 結局、勝負は『四光』を獲得した水炎の一人勝ちとなった。 枚数だけならば空牙が最も多かったが、その実彼よりも配役に気を遣って札を吟味していた彼女や、さり気なく青短を揃えていたアコルの方がトータルで高い点数を得る事が出来たのだ。 「無念……! 死して屍拾う者なし、でござる」 がっくりと項垂れる空牙に、水炎がにやつきを抑えきれない様子で近寄る。 「勝負は決したんだ、約束通りもふらせてくれるよな?」 悪戯な子供のような笑みを一度悔しげに睨めつけ、しかし由緒正しき忍びは約束を違える事などできなかった。 「……男に二言はないでござる」 空牙の毛並みに埋もれて、幸せそうに吐息を吐く水炎の姿が見える。お気楽な事だ、とひとつ冷笑を零し、その場から辞そうと立ち上がったグレイズへ、ふと声が掛かった。 「なんじゃ、もう帰ってしまうのか」 そう言って顔を上げるアコルは、たった一人で酒瓶を幾本も空にした挙句、飲み足りないと若干拗ねてすらいた。酔いが回ったのか胡乱な目付きで、グレイズを見上げる。 「勝負は終わったんだろ。もうここにいる意味もないじゃねえか」 不機嫌な答えが返っても、くつくつと人間じみた仕種で笑うばかり。とぐろの先から覗く尻尾が上機嫌に揺れて、己の背後を指し示した。 「見よ。じきに餅料理が出来上る頃じゃろうて。それを待ってからでも遅くはあるまい?」 促されて視線を向ければ、明らかに室内とは思えぬ荒れ具合の一角――所により血飛沫すら飛んでいる。彼らは一体何と戦っていたのか――で、アコルの言葉通り餅の焼ける芳しい匂いが漂い始めていた。 「別に俺は餅を食べに来たわけじゃ……」 「ただで食わせてもらえるんじゃ。悪い話ではなかろう?」 にやりと、人の悪い笑みを浮かべる。それにどう返すべきか考えあぐねていた所へ、まさに彼の指し示した方角から追い打ちが掛けられた。 「おーい、みんなー! 料理出来たから食べにきてくれー」 「食べるー!」 朗らかな呼び掛けに、朗らかな声が返る。真っ先に立ちあがり、駆け出そうとした 水炎とアコルの背が、ふと止まる。 二人、よく似た笑みでグレイズを振り返った。逃れるように一歩退けば、生真面目な黒豹と怠惰な虎猫が待ち構えるようにして坐している。のっぴきならぬ立場に立たされている事に、今更気付く。 「グレイズも、行こうよ?」 ――逃れ切れぬと判断して、舌打ちをひとつ、落とした。
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