白いタイルの敷き詰められた部屋は、さながら研究室のようだった。 ３０畳程はあろうか、壁も白で統一された窓のないその部屋は、無機質だと感じられる。 真ん中にポツリと置かれているのは三人がけソファとローテーブルのセット。ワインレッドのソファと黒のローテーブルは酷く目立つ。 異様さで目を引くのはソファとローテーブルに向かい合うように置かれたロッキングチェアだ。それだけ見れば磨き込まれた焦げ茶色の、時代を感じさせる椅子だが、その上に座らされているのは白い人形なのだ。 木綿の布でできた袋に何か入れているのだろうか、それぞれ頭、胴体、手足に見立ててた部位が銀色の紐で括られている。椅子に寄りかかるようにして座らされているが、顔の部分は真っさらなのでなんだか少し、不気味だ。「あなたには、もう一度会いたい人はいますか。もう一度話をしたい人はいますか」 コツコツと靴音を響かせて近寄ってきたのは、このラボの責任者だという男。青い髪をした長身の、イケメンと思しき男だが、惜しむらくはその顔の半分が見えぬこと。彼の顔の左半分は仮面で覆われている。「いるならば、私が会わせて差し上げましょう。この部屋の中でならば、話をするのも肩を寄せ合うのも自由です」 男はウルリヒと名乗り、自分は研究者だと告げる。「この『ヒトガタ』の手を握り、会いたい人を思い浮かべながら、心の中で強くその人の名を呼んでください。そうすれば、『ヒトガタ』はあなたの会いたい人へと姿を変えます」 原理？ それは私のいた世界の魔法の一種ですよ、とウルリヒは言い放つ。「我々は『ヒトガタ遣い』と呼ばれ、祖国では戦場へ赴くことが多かったのです――戦の多い時代に生まれましたもので」 戦場で愛しい家族や恋人に会い、士気を高める兵士もいたことだろう。反対に、ホームシックが酷くなる者もいたかもしれぬが。 死の影からどうにも逃げられそうにない者に、最後の夢を見せることもあったかもしれない。「『ヒトガタ』が変化したその人は、あなたの記憶にあるままのその人でしょう。顔も、声も、温もりさえも。勿論、会話も成り立ちます」 ただしそれはつかの間の夢。真実、その人に会えるわけではない。 けれどもそれでもいいから会いたい、話をしたいと願う者が、このラボを訪れるのだという。「あなたも試してみますか？ ちなみに現実に会っていない人物でも可能ですよ。例えば想像上の人物や、理想の人物など。ただし、よりはっきりとしたイメージが必要になりますが」 例えば理想の母親、例えば理想の恋人。イメージさえしっかりしていれば、実在の人物でなくても共に過ごせるという。 ただし、イメージが曖昧だと、望んだものには変化しないというから注意が必要だ。 一．その人と会えるのはこの部屋の中だけです。 特別必要なものがあれば、ある程度は持ち込みを許可しますし、ある程度なら私が用意しましょう。 二．『ヒトガタ』がその人の姿をとるのは、基本的には３０分だけです。 延長も短縮もできないことはないんですが、一応時間を決めておきませんとね。 三．その人と会っている間の出来事は、『ヒトガタ』に記憶されます。 勿論、守秘義務は守りますのでご安心を。 四．『ヒトガタ』がその人に姿を変えるには、あなたの記憶が必要です。 あなたの記憶の中にあるその人のイメージや過去の出来事を読み取り、『ヒトガタ』はその人の形を取ります。 五．その人は、本物のその人ではありません。 あなたの記憶やイメージから再構成された、ダミーであることをお忘れなく。「たとえ本物でないとしても、会うことで、話すことで何かが成し遂げられる、何かが軽くなる、何かが満たされることもあるでしょう」 自己満足だと言われればそれまでですが、それが必要な時もあるのです、とウルリヒ。「自らのせいで死んでしまった部下に赦しを請うて、赦されて、笑顔で亡くなった人もいますよ」 ロストナンバー達には、会いたくても会えぬ相手がたくさんいるだろう。そんな彼らにひと時でも『特別な時間』をあげられれば――ウルリヒはそう語ったが、目は笑っていなかった。 それでもいい。 説明されたことを納得した上で、あなたは『ヒトガタ』の手へと手を伸ばす――。
通された部屋は本当に真っ白で、不安をかきたてるような、はたまた安堵を導くような白い色をしていた。 華城 水炎はそっとロッキングチェアに近づき、膝をついた。教えられた通りにその布と詰め物で出来た手を握り締める。こうして相手の名を心の中で強く思うのだったか。何となく気恥ずかしさが残らないといえば嘘になる。けれどもそれよりも逢いたいという思いが勝った。 （求真、求真、求真……求真――！） 強く、切なく、思いの丈を込めて甘く――水炎は思わず目を閉じた。あんなに逢いたいと思っていた人の姿をこの目に出来るというのに、いや、この目に出来るからこそ目を閉じたのだ。 掌で包み込んだ綿入りのヒトガタの手が形を変えていくのがわかる。大きな、骨ばったゴツゴツとした感触が水炎の掌全体に伝わる。低い体温が指先から伝わってきて、ヒトガタが姿を変えた事を知る。早くその姿を目にしたいと思う気持ちと若干の緊張が水炎の中でせめぎ合う。 そうっ……。 ゆっくりと瞼を開く。最初に視界に入ったのは、見覚えのある着物の色柄。握っていた手をどけて、床に膝をついたまま見上げると、そこに座っているのは恋しい恋しい彼の姿。和服のよく似合う長身は束ねた黒髪で彩られており、じっと、射抜くような瞳で水炎を見つめている。 「何度も呼び出す気は無いよ。これで最後だ……最後にするよ」 それは彼に向けた言葉と言うよりも、己に向けた言葉。こうして呼び出すのはこれが最初で最後。だから。 久しい旧友に会えたような顔をして見せようと思った。けれども、できない。水炎の裡にずっとくすぶり続けている想いが、どうやっても顔に出てしまう。それを誤魔化すように、水炎はぽつりぽつりと語りはじめた。 求真の忠告を聞かずに先走った水炎を、さり気なくフォローし、言葉少なに戒めてくれたこと。 親鳥を慕うように側についてまわる水炎を、一度も邪険には扱わなかったこと。 共に出かけた依頼先で、背中合わせに夜空を眺めながら一晩過ごしたこと。 紡ぐ言葉は少ないけれど、その中に込められた、水炎を庇護する強い想いは伝わっていたこと。 「世界もだいぶ変わったよ。仲間も増えた」 樹海となった今の０世界を見たら、彼は何と言うだろうか。水炎の説明に『そうか』と小さく返事を返しただけの求真。それがあまりにも彼らしかったから、水炎は言葉の続きを紡ぎ出すことができなくなってしまった。 ああ、こうして彼と過ごす時間はやはり、愛おしい。 溢れ出そうになる気持ちを抑えてひとつ深呼吸し、水炎は立ち上がった。 「今の私なら、お願い聞いてくれるだろ？ 剣術サボってるけど、底力は随分上がったよ？」 求真が行方不明になったその時から、水炎は刀を持つのをやめた。その代わり功夫として鍛錬を積み始めたのだ。 彼だけを、待ち続けるとの決意表明のように。 鋼の心で己を律し、鍛錬を積み続けた。だから。 「前は危ないからって絶対に触らせてくれなかったけど、今なら」 どうしても、どうしても。叶えたかったことは全てやっておきたい。これで最後だと決めているから。自分の中で区切りを、けじめを付けるためにも。 『――特別だぞ？』 「！？」 その返答に驚いている間に、求真は本来の姿――抜き身片刃の刀身へと姿を変える。水炎はロッキングチェアの上のその刃に、手を伸ばしかけて一瞬躊躇って。 水炎は知らない。求真が決して水炎に本性である刃を触れさせなかったのは、主以外に触れさせないという意味だったのを。 何となく一瞬躊躇ってしまったのは、彼の本意がぼんやりと伝わったからかもしれない。けれどもそれは意思というより予感に近い伝わり方をして。だから大切な物に触れさせてもらうという重大さに気後れしたのだと、水炎は解釈した。 そっと、彼の本性に触れる。指の先まで緊張が支配し、震えそうになる手を気力で抑え、そして。 「こうやって戦いたかったよ、いつか、二人で」 刀身を室内の光にかざして、求真に語りかける。そのまま、構えて、振り下ろして斬り上げるようにして。 暫くの間水炎と求真は、室内で舞っているようだった――二人で一心同体のように。 ＊-＊-＊ ひとときの夢、叶えたその時間。水炎は大きく息をついて、人間の姿に戻った求真を見つめた。 ここでの逢瀬に時間の限りがあることは重々承知しているから。ちらり、置かれた砂時計を見て。無情にも落ちゆく砂は、いくら水炎が願っても止まってはくれない。 『どうした？』 無言を纏った水炎の様子がおかしいと悟ったのか、求真から口を開いてくれた。だから、水炎はできるだけ自然を心がけて、喉に張り付いた言葉を引き剥がす。 「もう、帰らないんだろ？」 ズキンッ……自分で発した言葉なのに、自分の心に深く深く突き刺さって。苦しくなる。けれども、ここで止まってしまっては『彼』に会いに来た意味がなくなる。水炎は気力を振り絞って、喉に詰まった言葉の続きを押し出した。 「寮のあんたの部屋、かたづけることにする。いいだろ？」 『……ああ』 求真の答えはわかっていた。しかし、実際に云われてみるとそれは鋭い刃となって水炎の心を斬りつける。けれども、けれども――これは『彼』の刃だからしっかりと受け止めよう、そう決めていた。受け止めねば、ここに来た意味がなくなる。 「あとあんたの下緒、形見に……あ、いや、もらってもいい？ いちおう本人の許可を取らないとさ」 『……ああ。無くすなよ？』 「無くしやしないよ」 小さく笑った求真に合わせて笑おうとするも、なかなかうまく表情を作ることができない。それでもいびつに笑ってみせると、求真は少しばかり眉尻を下げたように見えた。 「最後の最後に……ひとつだけ」 抱きしめて欲しい――消えそうなくらい小さな声で。しかし二人しかいない空間ではしっかりとその想いは届いて。 ふわり、躊躇いなく水炎を包んだその腕は、その胸は大きくて。水炎はすっぽりと収まってしまう。 ああ、その温もりとともに彼の匂いに包まれる――なんて幸せなのだろう。水炎は目を細め、そのぬくもりに己のすべてを預けた。 ずっとずっと、こうしたかったんだ――。 ＊-＊-＊ 器用に髪を纏める。高い位置で纏められたそれを貰った下緒でくくって。 「似合うかい？」 『……ああ、とて……』 求真の言葉が切れた。その姿がおぼろげになり、歪んでいく。 砂時計の砂が落ちきった。もう、時間なのだ。 水炎はきりっと吹っ切れたような表情を作ろうとしている。その表情で『彼』を見送りたかった。 けれども。 彼の最後の一片がヒトガタに戻る瞬間、その表情は崩れた。 長い間持ち続けた気持ちを、たった30分で精算なんてできない。だから。 （思い出にしよう、なんて思うのはやめた。 忘れられないなら、最後まで覚えておくよ。 愛してた。愛してたよ――） ぽたり、白い床に水晶のような煌めきを持った水滴が落ちる。 暫くの間、水炎はその部屋で、彼との最後の時間を纏ったまま、立ち尽くしていた――。 【了】
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