ぐぐーんと首をもたげ、小竹は遥か上空を仰ぎ見る。 彼の眼前にある階段は異様な程長く、段数は目視ですら数えられない。 小高い丘というには高すぎる程の崖に、思い切り刻み込むような階段が続いていた。 木枠、鉄枠、雑多な材質で適当に補強されており、劣化したのか元々そうなのか端が剥げてささくれだっている。 ほへー、と気の抜けた声をあげると、小竹は振り返り、同じく横にいたベルゼに「これ、なに?」と呟いた。 「階段を見たことねェのか?」 「いや、階段なのは分かるんだけど」 「じゃあ、階段だ」 「そういう問題でもないような」 もう一度、改めて見上げる。 小竹の記憶の限り、例えば山の上にある観光地や寺院に向かうために山頂へ向かって延々と続く階段に似ている気がした。 先端は雲にかかり、頂上は霞んでよく見えない。 もっとも、0世界では特殊な時を除いて雨は降らず、従って雲などの天候操作も意図的にしか行われない。 ならばこの雲がかかって頂上が見えない階段、という景色はこのチェンバーの誰かが望んだ演出だろう。 それはともかく、と小竹は己の訪問の理由を思い出す。 両手一杯に紙袋を抱え、彼はここのチェンバーの主を訪ねてきたのだ。 紙袋の中身はリンゴ。クアールによると現在、話し相手になっているベルゼへの進呈物らしい。 ただし、途中で見られると全部取られかねないから、紙袋のままクアールまで届けてくれと頼まれている。 そのため、指定通り大きな紙袋に包み、発注者を尋ねて届け先へと持ってきたものの、その依頼者の姿はチェンバーを見渡した限り、ない。 もし本当にこのチェンバーにいるのならば、探していない場所はこの階段の上ということになるのだが。 予想が外れてしまった場合のくたびれ損の損失も、骨折りの儲け方も尋常ではなくなる。 手っ取り早い方法として、とりあえずここの住民に聞いてみることとする。 「もしかして、クアールさんの部屋ってここ登るの?」 「登ってもいいけど、アイツが帰ってきたら降りて来いって言うんじゃねェ?」 「……うん、じゃあ登らない。クアールさんはお出かけ中?」 「ああ。さっきオルグと一緒に医務室に運んでった。ちょうどお前の立ってるトコで見つけたんだ」 そう言われて足元を見てみれば。 なんとなく階段の隅っこがうっすらと赤くなっているような気がして、いやいやそんなコトあるわけないと首を振る。 「今回は血ィ吐いてたからなァ。あ、その赤いの。掃除しても取れねェんだってさ」 残念ながら、そんなコトがあったらしい。 そういうコトの痕跡について、いつまでも踏みつけているのも、なんかこう悪い気がして小竹は一歩足をどけた。 「ええと、クアールさん。無事?」 「その傷が元で今は医務室に缶詰。ところがさっき容態が悪化して、な。ついにお亡くなり遊ばされ、荼毘にされたんだがよっぽど無念なコトがあったんだろうなァ、……それ以来、今日みてぇな生ぬる~い風の吹く日なんやにャァ、夜な夜な現場に現れて「僕のカボチャはどこですかー!!」と」 「わぁぁぁぁぁ!? 脅かしっこなし! なし! なんでさっき運ばれてったのに夜な夜な出てくるのー!」 「出てくる予定なんだ」 「どこから予定!?」 「容態が悪化したあたり。キシシシッ」 「そんなの予定しちゃらめぇぇぇぇ!?」 口元に手をあて独特の笑い声をあげる蝙蝠を、小竹はぺしぺし叩く。 叩いたところで感触が、ぺしぺしではなく、もふもふ、っという柔らかなものであると気付いた。 蝙蝠の獣人であるベルゼは、体毛についても蝙蝠と同じ特性を持つ。 つまり、ぱっと見た目にはあまり気付かないが、触ってみると短毛種の猫や兎に触れているようなもふもふ感がある。 ふさりと手の甲をなでた感触に、小竹の目の色が変わる。 はじめは軽くぺしぺしと。 その動きはすぐに終わるどころか少しずつ強くなる。 軽くはたくような動きはやがて、ふかふかと揉むような手つきになり、ベルゼの首筋あたりを撫で回す。 もちろんこのあたりになると、ベルゼの方でも自分が撫で回されていると理解し振り返った。 「だァァァ、気持ち悪りィ!」 咄嗟に跳ね除けようとした手は、もふもふとした感触を捕まえて話さない小竹の手に阻まれる。 きりっと音が聞こえそうな程、表情をキメた小竹はその真面目な顔できっぱりと口にした。 「気にするな、大丈夫だ。僕はキモチイイ」 「言動も気持ち悪りィ!?」 「いいか、もふもふは正義だ」 「オ、オメェ、口調変わってんぜェ!?」 「うるさい、だまれ、モフらせろ」 「気持ち悪りィつってんだろがァ!?」 「りんごあげますから」 「許す」 クアールに届けるよう約束したりんごをいともあっさりと差し出し、小竹はベルゼに飛びかかった。 しゃくしゃくとリンゴを齧り続ける音がする。 蝙蝠の獣人、ベルゼがひたすらにリンゴを頬張って咀嚼する。 その背後に抱きつくように、体毛に顔を埋めて「あああああああああああああああああああああああああああ……」と、必要以上に幸福そうなうめき声が聞こえる。 コレがメイドさんな姉ちゃんだったらなぁ、というベルゼの呟きを一切合財無視して、まだ幼さの残る顔立ちの二十男は蝙蝠の羽毛に全身全霊をかけて抱きついていた。 モフり、モフる、モフるとき、モフれば、モフろう。 力の限りわふわふと、手に頬に首筋にベルゼの体毛の柔らかさをまとわりつかせ、小竹は虚ろな瞳とだらしなく緩んだ唇で溢れんばかりの幸福感をこれでもかと享受する。 柔らかな毛が小竹の手や頬を霞め、僅かなくすぐり感と共にふわりと優しくなでまわし、その下にある肉の部分は力をいれていない限り、ふにふにと柔らかく、毛皮に覆われている分、その身の体温にあたためられてほっこりと暖かい。 りんごを芯まで綺麗に食べたベルゼが激しいジト目でまとわりつく男を睨みつける。 「おい……、いい加減にしとけよォ」 「りんご、もうひとついかがですか」 「おう」 再びしゃくしゃくとりんごにかじりつきはじめた蝙蝠の首筋に顔を埋め、小竹はその表情一杯、多幸感を享受する作業を再開した。 目の前で何が起こっているのか、理解ができず、鴉刃は目を見開いた。 やがて状況を把握し、幸せいっぱいのもふもふを指差して隣に並ぶ猫に顔を向ける。 「……あれはお前の仲間か?」 「ううん、違うよー」 一言の元にベルゼと小竹を見捨てたアルドは、とりあえず彼らを無視して鴉刃を部屋へと案内する。 なるべく刺激しないようにね、と、そーっと足音を忍ばせて小竹とベルゼの隣を通り過ぎようとして、当然、見つかる。 「あ、おい」 最初に声をかけたのは小竹だった。 なんとなく、鴉刃の姿に見覚えがあった気がした。 どことなく中華風の物腰、龍の頭部に人型の身体。 鼻先からたなびくように髭。眼差しは常軌を逸して鋭く、しかし物腰は優雅。 常日頃から思い描き、己の空想の世界で何度も見つめ続けた姿。 はっきりとした確信がないものの、左手を伸ばし鴉刃の姿に手招きする。右手はもちろんベルゼをモフっている。 手招きにどう応えるべきか、戸惑う鴉刃の手をアルドが引いた。 「あ、見つかったね。いいかい、反応しないで、目を合わせないようにね。食べ物は隠して、エサあげちゃダメだよ。走って逃げると追いかけてくるから……」 「野生の猿扱い!? 酷くない!? いや、それよりそこの、……龍人!?」 「私か?」 「そう! ……いやえっと、その、あの、龍人ですよね! ドラゴン!! ウロコとかどーなってんの、質感とか最高で、あの、それはともかくいいからちょっと撫でさせてください、なんならこうぎゅぅぅぅっと抱きしめさせてくださハァハァハァハァハァハァハァ!!!!!!!!」 ベルゼから離れ、弾かれるほどの勢いで思い切り飛び掛った小竹の頭上に鴉刃は軽くこぶしを振り下ろす。 あまりに直線的な動きに、予測も駆け引きも無用のまま、その鉄拳は小竹の姿を地面に叩き付けた。 「……すまない。トラベルギアを外し損ねた。大丈夫か? コンダクターには強烈だったな。アルド、この拠点に手当てをする道具はあるだろうか」 「ええと、オルグがいるかもー? 危ないの?」 「治癒者がいるなら呼んでほしい。手当ての準備をはじめてくれ。私のトラベルギア『闇霧』は拳を刃物に変える。仲間に使うものではない。相手がコンダクターでは命に関わるかも知れぬ。早く……」 「えーへへー、ドーラーゴーンーーーー!! りゅーーーーーーーーうーーーーーーーーーーーーー!!」 がばっと跳ね起きた小竹に驚き、反射的に鴉刃は飛び掛ってきた小竹を蹴り飛ばす。 ゴムボールのように蹴り飛ばされ、地面に顔身体を打ちつけると、小竹はそのまま地面に倒れこんだ。 が、次の瞬間、再び起き上がると「龍だー! 龍人だー!」と叫び始める。 「……命に、なんだって?」 アルドが半目で鴉刃を見る。 見られた方も信じられないものを見る目つきで、額からどくどくと血を流してなお満面の笑みを浮かべ、鴉刃の足元目指してずりずりと這いずってくる小竹を眺める。 やがて、鴉刃の足元に到達した小竹はにこにこと鴉刃の顔を見上げ、しばらく静止して、驚いたような表情を浮かべた。 時が止まる。 どくん、と心臓の鼓動が跳ねた。 さすがに一瞬で表情が「きょとん」としたものに変わった相手を踏みつけるのは躊躇われたようで、鴉刃は足を引っ込める。 どうなるのか、と様子を見ているわりに緊張感のないアルドとベルゼは二人そろってふわぁと欠伸をした。 「……もしかして、名前は……」 「鴉刃だ。飛天鴉刃」 「鴉刃……。え……えば……?」 それは、小竹が何度も想像で、そして彼の執筆する小説で活躍をさせたキャラクターの名前だった。 龍人で、古風な喋り方をする、漆黒の女性。 冷徹で高飛車。だが、どこか女性の感覚を忘れない、小竹にとっての極上のヒロインで暗殺者。 しかし、彼女がいるのは小竹の執筆する小説の世界のはずである。 でも小竹の目の前にいる彼女は、何度も何度も繰り返した想像と寸分違わぬ容姿と性格を持ちつつ、現実に存在している。 手を伸ばせば触れられる距離にある。 彼女は執拗に小竹に声をかけようとしていた、あまりの驚きに言葉が耳を流れて零れていき、意識に残らない。 「おい。聞いているか?」 何度目かの問いかけに、小竹は必死に意識をかき集める。 聞き逃すまいと集中する。 だが、口から搾り出されたのは通りいっぺんのよくある受け答えだった。 「……え、あ、ああ。なに?」 「頭が割れて血が出ているが平気なのか?」 「舐めときゃなおります」 「そういう問題で済む傷には見えないが」 「それはもうそれとして、触っていいですか」 ごいん。と生々しい音がして、小竹は再び地面に沈む。 今度は鴉刃もトラベルギアを外したようで、頭が十字にぱっくりという悲劇はないようだ。 つっこみ、というわりには強め。 できれば気絶させるつもりで殴打した鴉刃の心算を思い切り無視して、小竹は再び立ち上がった。 飛び掛ってくるその体の前に、鴉刃は隣にあった「盾」の影に隠れる。 小竹は「盾」の存在を認識し、だがあえてその盾へとつっこんだ。 もふっと柔らかで暖かい感触が小竹の顔面を覆いこみ、次に抗議の声が聞こえる。 「僕を盾にしないでよー!?」 小竹に顔面を腹につっこまれ、そのまま頬摺りされて「盾」ことアルドは情けなさそうにうめいた。 振りほどこうと手のひらを押し付けるが、ちょうど肉球の位置にあったらしくて、逆効果的に喜ばれてしまう。 「わー、もふー、もふもふー。むにむにもにもにーーー」 「うわ、血! 僕の毛皮に血つけないでよ!?」 くらくらと頭を過ぎる濃密な血の香りに、アルドは思わず鼻を押さえる。 はねのけようとして、思わずアルドの顎を涎が伝ってしまう。 「アルド、血は苦手であったか?」 「ううん、大好物過ぎてガマンできなくなっちゃうから」 「好物?」 「……もうダメ、がまんできなーい! いただきまー……」 小竹の首筋に歯をつきたてようとした時、ベルゼの拳が口の中につっこまれた。 がきっと硬いものを噛まされたまま、アルドがうめく。 「ひゃはひはひへほー!」 抗議の声をあげるアルドに「よォ、てめェも叱られてェのか?」とベルゼが制する。 がばっと起き上がった小竹がアルドへと指を突きつけた。 「じゃあ、血をあげますからモフらせて!」 「だァァァ!? 小竹ェ、正気かァ!? またラリってんじゃねェぞ!?」 「ALL OK!」 「アルドも! ダメだっつってんだろがァ!?」 小竹の首筋目掛けて、かぱぁと大きく口をあけたアルドが迫る。 いつのまにか後ろに立っていた鴉刃にその後頭部をぺしっとはたかれて、アルドは目をぱちくりさせた。 危ない危ない、と首を振ってみせる。 そんなアルドにさらに抱きつこうとする小竹の襟首をベルゼが引っ張り食い止めた。 「てめェ、コラ、小竹ぇ! バカネコにエサやんじゃねェ!」 「りんごあげますから見逃してください」 「もう、全部食っちまった。クアールにはナイショだぜェ。キシシッ」 最後のりんごの芯をしゃくしゃくっと齧りつくすと、ベルゼは笑って見せた。 こんなことだと思ったよ、とアルドは大きくため息をつく。 自分の毛皮でもふもふしてる小竹は、――まぁ、鼻息が荒いのと魅惑的な血の匂いをさせていることを除けば――、別に害はないと判断し、鴉刃に向き直る。 「とりあえず、この人をどうにかして、ここから離れない? せっかく遊びに着てくれたんだしさ、庭で紅茶でも飲もうよ」 「そうだな」 鴉刃がアルドにしがみついていた小竹をあっさりと引っぺがし、ぺいっと捨てる。 目にハートマークを浮かべたまま、恍惚の表情を浮かべたまま、小竹の体はベルゼへと投げられ、あたったベルゼの羽毛を認識するとこれまでと同じようにもふもふを開始した。 「ちょーっと待ったァ!」 びしっと指を突きつけ、ベルゼが叫ぶ。 「この拠点には掟があるんだぜェ。そこの女! ここに来たからには」 「あ、そこ、段差あるから気をつけてね」 「問題ない」 「無視すんじゃねェェェェェー!!!!!」 「えへへー、もふー」 「おまえも離れろ、しつこい!」 脇に小竹を抱え、つっこむすら無視してぱたりと閉まった扉に駆け寄ると、ベルゼは扉を思い切りあけてさらに叫ぶ。 「なんだよー、もー」 「アルドにゃ用は無ェ! おい、そこの女ァ! ここに来たが100年目ェ! 女性はここではメイド服着るしきたりなんだぜェ?」 「ベルゼ、その服、今、どこから取り出したのさ?」 「細けェ事はどーでもいい! さぁ、着てもらおうかァ?」 ずいっ、ずいっ、と一歩ずつ鴉刃に歩み寄り、ベルゼは手にしたメイド服をつきつける。 「お前の仲間は変態ばかりか?」 「あんな変態蝙蝠は、仲間じゃないでーす」 半眼で見下ろす鴉刃に、アルドは笑顔とともに嘘をついた。 やりとりを尻目に、ベルゼは部屋をぐるりと大回りして次の扉への出入り口を塞ぐ。 「さァ、これで先にゃ進めねェぜ? どうする、おとなしくメイドさんになるか、引き返して、その変態にもふもふされるか!?」 変態扱いされた小竹は怒るかと思いきや、それはそれで目を爛々と光らせてアルドと鴉刃に愛溢れる視線を投げつける。 こっちへこい、こい、こいと手招きまでされているようだ。 「でも、そもそもメイド服着なきゃいけないルールなんてないよね?」 「ええい、余計なつっこみいれんじゃねェ! このルールは今、俺様が作ったんだぜェ!」 「……メイド服まで用意したの?」 「ハーミットの部屋から黙って借りてきた」 つまり、仲間の部屋のタンスをあさったか洗濯物を奪ったか、そういう衣服をちょろまかしてきたことを堂々と宣言し、ベルゼはさらに胸を張った。 その無意味に硬直した空気の中、最初に音も無く動いたのは鴉刃。 いつのまにかトラベルギアをはめ、彼の胸元へ飛び込むと真下という死角から腕を振り上げた。 「おわ!?」 すんでのところで身体を引き、鴉刃の拳を避けたものの、床に数本の毛が舞い落ちる。 己の毛が散らされたことを悟り、一瞬の恐怖の後、ベルゼはにやりと微笑んだ。 「危ねェ、危ねェ。いいぜェ? 戦闘で決着ってのも面白ェ。こうなりゃ実力行使だ」 あまりの展開にアルドと鴉刃が言葉を失い黙り込む。 やがて、沈黙を破る声があがった。 「いいだろう」という声は二人の遥か後ろ、先ほどまでヘブン状態にピンク色のオーラを撒き散らしていた小竹から発された。 「ならば、戦闘だ。こっちが勝ったらゆーことをきーてもらうからなー!」 ゆーこと、とやらの未来を妄想し、小竹の顔は台詞の終盤に崩壊する。 アルドの「えー、めんどくさいよー」を無視して、ベルゼがキシシシッと笑った。 「ようし、2対2だ。はじめるぜェ!?」 合図、とばかりにベルゼが叫んだ。 鴉刃とアルドが仕方ないなぁ、と言わんばかりに構える。 一歩進み出たのは小竹だった。 「鴉刃が、もし鴉刃が本当にあの小説の登場人物だというなら、その行動は読める」 半眼で鴉刃を見つめ、薄く微笑んだ。 「何しろ何日も何ヶ月も考え続けた戦乱獣郷・ヴィルズウォーズの世界。あの龍人がその主人公の飛天鴉刃だとすれば。その行動パターンは……」 床に落ちていたりんごの芯を拾い、軽く投げつける。 空中に放り投げた途端、小竹は宣言した。 「鴉刃ならこのリンゴの芯を避けない。そのトラベルギアでリンゴを切断する」 コンマ二秒後、その言葉は現実となる。 逆袈裟懸けに振り上げられた鴉刃の腕はトラベルギアの効力で刃物と化し、空間を薙いでその途中に位置した対象を切断する。 僅かの後、真っ二つに切り裂かれたりんごの芯は鴉刃とアルドを避け、壁にあたると重力に任せて落下し、床に転がった。 「おお、すげェじゃねェか。この変態!」 「そこでだ」 小竹の足が一歩前に出る。 「鴉刃の行動パターンからして、コンダクター相手に最初から殺しにはかからない。一連の俺のパターンもあるから殺すべき敵だとは認識していないだろう。それにここは友人のチェンバーだから、殺人はおろか流血も避けようとするはずだ。だからまず、俺は命の心配をする必要はない。次に――」 すっと目を細めた。 同時に腰を落とす。 体重を移動させ、いつでも動ける体勢を作る。 「彼女にとって今は相手の出方を伺う場面じゃない。そこで実力の探査を兼ね、彼女はスピードを活かして、相手、つまり僕の視界から消えて潜伏を図る。……その行動パターンは次の通り、まずテーブルのコップを手にし、天井へと跳んでいる」 小竹の言葉が終わるより先に、床を蹴った鴉刃の姿がそこから消えた。 だが、消えたように見せただけで実は天井にぶらさがっている。 小竹の視線は動きの一部始終を追いきれることはないが、その言葉通り、鴉刃が次に到達するであろう到着点を理解しているため、追いかける必要はない。 「次にコップの中の水がふってくる、だがそれは囮で一歩下がったところでコップが飛んでくる。……というのもフェイクだ。その二つに気をそらせておいて、鴉刃本人は天井から僕の後ろへと着地する。わざと物音を立て、僕が振り向いたところで拳が飛んでくる」 振り向かず、すっと腰を屈めた小竹の頭上を鴉刃の拳が通過した。 次にばしゃっと小竹が水を浴びる。 避けさせるつもりで放った水がまともにかかったのは予想外だったはずだ。 さらにコップまでこんっ☆ と軽い音をして小竹の頭部に落下する。 だが、本命の拳を避けられることは想像外だったのだろう。 コップの水を避けもせず、頭から濡れた小竹がしゃがみこんだまま浮かべた「にへらっ」とした笑顔が、彼女の背筋に悪寒を走らせた。 「さらに」 立ち上がり、小竹は鴉刃へと向き直る。 「一コンダクターにここまで行動を見透かされても様子見を続ける程、危機感がない鴉刃じゃない。かと言って、パニックや逆上するほど冷徹さに欠けもしない。どうするか? 鴉刃なら簡単な話だ。――「そろそろ本気を出す」それだけでいい」 きっと睨みつけ、すぅっと息を吸い込むと彼は、わっ! と大声をあげた。 小竹の威嚇を切欠に、鴉刃は後ろへと跳ぶ。 「大声の威嚇にビビったりはしないだろう。後ろに飛んだと見せて、壁まで移動し、今度は「思い切り」壁を蹴る。真正面から殴ると見せかけ、僕の脇を通り過ぎ後ろへと回る。ついでに腕を取って関節を逆に決め、反発する力を受け流すんだ。動きは止めず流れるように床に組み伏せて、僕の首筋にトラベルギアをはめた腕を突き立ててみせる。そしてこう言うんだ」 ――『動くと首が切れるぞ』 小竹の言葉と鴉刃の言葉が同時にあがった。 鴉刃の瞳が大きく見開かれる。 ここまで自分の動きを読み、しかも解説までされた事はない。 小竹の言葉通りに動き、――で、まぁ、小竹の言った通りに、当の小竹を床に組み伏せたままの体勢で、鴉刃の額に冷や汗が流れた。 さすがに龍人、鴉刃も言葉を失う。 凍った時間の中、ベルゼが叫んだ。 「そこまで分かっててなんで組み伏せられてんだァ?」 「……いやだって、僕なんとかできる程に強くないもの。スンマセン、痛イデス。離シテクダサイ」 ついぎりぎりと力を入れすぎていたのだろう、呻きだした小竹の腕を放し、鴉刃は立ち上がった。 小竹のうめき声で我に返り、ギャラリーと化していたアルドにも時間が戻る。 「あの変態、鴉刃の動きを全部当てちゃった」 すごいすごい、と無邪気にはしゃぐアルドを尻目に、介抱した小竹が再び動き出さないコトを悟ると鴉刃は蝙蝠へと向き直った。 冷たい瞳で「お前は、どうする?」とベルゼを見つめる。 「へへっ、俺様はそんなヤワじゃねェぜェ……。覚悟しやがれ!」 ばさりと翼が開く。 口の端から呪文が漏れる。 とんっ、と床を蹴った途端、重力から介抱され、彼は空間へと制止した。 ――が次の瞬間、ばたりと拠点の扉がひらいた。ただいまー! と元気な声もする。 思わず振り返ったところで視線があったのは二人。拠点の主と、メイド服の持ち主。 「あ、いや、この、それは……」 あたふたと言い訳するベルゼの後ろでアルドが手をあげた。 右手には空っぽになった紙袋を抱え、左手は床に落ちたリンゴの芯を示す。 「ベルゼがりんご、全部食べちゃったよー」 「うわっ、バカ、余計な事を喋るんじゃねェ!?」 「その水溜りも、割れたコップも、なんか床にだらだら流れている血もベルゼのせいでーっす!」 「ちょっ、それは俺様の仕業じゃねェぞ、このバカネコ!?」 まもなく、どかん! と雷が落ちたとされるディクローズの庭で。 吹き抜ける爽やかな風にひげをそよがせて、鴉刃とアルドが紅茶をすすっていた。 「あ、気になる?」 「さすがに全ての行動を当てられては……な」 ふぅ、とため息をついてみせた。 「後で医務室に顔を出してやれば? 喜ぶんじゃないかな?」 「……考えておくとしよう」 そう言って、鴉刃は立ち上がった。 紅茶のカップをティーソーサーへと戻す。 「良いアップルティーだな」 「今、拠点中を掃除してる蝙蝠がいるから、その蝙蝠に言ってあげると喜ぶよー。メイド服を着ていってあげたらもっと喜ぶかもー?」 アルドはそう言った後、むすっとしはじめた鴉刃の黒い皮膚が、よーっく見ると少し赤くなっている事に気付き、あはははっ、と無邪気に笑った。
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