ターミナルの奥の奥の奥、隅の隅の隅にそれはある。 傍らに枝垂れ柳のそびえるそこは、見かけで言えば、古い日本家屋を思わせる、簡素ではあるが広く落ち着いた印象の建物だ。外観だけならば。 ――しかし。 『トコヤミ屋』という屋号の掲げられた数奇屋門をくぐると、背筋をざわめかせる奇妙な冷気が足元から這い上がってくる。 いかなる手練れ、いかなる猛者、いかなる超越者であっても、その根源的な寒気を払うことは出来ない。 冷気に眉をひそめると同時に、絹を引き裂くような悲鳴が聞こえてくる。 何故か誰もが、その、ごくごくかすかな、わずかに耳に届く程度の叫びに、絶大な恐怖と絶望が含まれていることに気づき、大抵のロストナンバーたちはそこで何かを感じ取り、すぐさま回れ右をするとともにその場を逃げ出して、二度と近づこうとはしない。「おや……物好きが来たようだね」 だが、意気地の挫けない心強き者が、寒気と悲鳴の理由をただそうと、書院造を髣髴とさせる建物へ向かうと、いつの間にか、家屋の入り口に和装の男が佇んでいるのだ。 年のころははっきりしない。三十代にも四十代にも、もっと年上のようにも思える。煤けたような灰色の髪に、暗闇のような着流しを纏い、銀の煙管を手にした痩身の男だ。 説明を求めるように目で促せば、無月(ムゲツ)と名乗った男は、「ここはトコヤミ屋。客に恐怖を売る店だよ」 そう、爬虫類のような金の眼を細めてみせた。 曰く。 玄関から建物へ入ると、板張りの上がり口に札のようなものが数枚、置いてある。 赤、青、黄、白、黒の五種類あるそこから、札を一枚選ぶ。 すると、札が鳴動し、次の瞬間には、目の前に、自分が恐しいと思う事物や事象が顕れているのだという。 それは恐ろしい怪物であったり、どうしても勝てない敵対者であったりするし、死したはずの誰かが憎しみの目で自分を睨み据えていたり、『あの人』を喪った日の再現であったりすることもあるのだと言う。 札の色は、恐怖の度合いを示していると言い、赤はもっとも緩やかで、ちょっとした肝試し程度、黒はもっとも激しく、前後不覚に陥って茫然自失するほどの恐怖が呼び起こされ、立ち塞がり襲いかかるのだそうだ。 そして、トコヤミ屋の客は、札の効果が切れるまで、この屋敷の中で――異様に広く感じられるそうだ――、彷徨ったり逃げ惑ったりすることになるのだという。「……ああ、失神したり自失したりして脱落した者は、きちんと回収して外に出してあげるから、心配なく」 無月はそう言って、うっそりと笑んだ。「では、『時間切れ』まで、ご自由に」 要するに、ここは、自分が内に秘めた恐怖と向き合うための場所だった。 迫り来る恐怖に逃げ惑うか、怯え震えつつも立ち向かうかは、当人に委ねられるということだろう。「君は……どうする?」 細められた金の眼が、楽しげに見ている。 どうする、と問いつつも、眼は早く行って来いと催促しているようだ。 ――また、どこかで、悲痛なまでの絶叫。 意を決して踏み出せば、まるで手招きでもするように、音もなく、戸がゆっくりと開いた。
上がり口に無造作に置かれた五色の札を、木乃咲 進は無言のまま見つめていた。 「正直、色々ありすぎてどれが来るか判らねえな。今後、もしかしたら精神的な攻撃をしてくる敵に会うかもしれんし、精神修養の意味も兼ねて、一番怖い奴で行ってみるとするか」 進が手にした札は、言葉通り、黒。 「さて、何が出る……?」 呟きつつ、当てもなくぶらぶらと歩いていると、いつの間にか札が消えていた。 「……どっかで落としたかな」 小首を傾げ、振り向こうとした途端、恐ろしい眩暈が襲い掛かり、進はなすすべもなくその場に倒れた。 「な、ん……」 起き上がろうとした時には、誰かが馬乗りになっていた。いつの間に、と驚愕する暇もなく、伸びてきた二本の手に首を絞められる。 「!」 何をする、と怒鳴って振り払おうとしたところで、『誰か』の顔が目に入り、進はそのまま固まった。 「猪、口……!?」 進の視界に映るのは、クラスメイトの少女。 いつも元気で騒がしい、活発すぎるほど活発な少女だったが、進の首を絞めている今は無口だ。少女は、虚ろな目で進を見下ろしながら、両手に力を入れる。 ぎちり、と、少女のものとは思えない力で気道を圧迫され、意識が危うくなる。 「やめ、ろ、猪口、」 呼びかけに答えはない。 手にこもる力は、明らかに少女が本気で進を殺そうとしていることを伝える。 口に出したことはなかったが、進は彼女のことが好きだったし、彼女も恐らく、似たような感情を進に抱いていたはずだ。それなのに、何が、何故、と、必死で見渡した、霞み揺らぐ視界に、見慣れたくもないのに見慣れた顔を見い出して、進は顔を歪める。 「志樺音、てめぇかぁ……ッ!」 一歩退いた場所で下卑た愉悦の表情を浮かべていたのは、進を殺すために『ある組織』から派遣されてきたという洗脳術者だった。 自分の仕事を果たすためならば――自分の愉しみのためならば、ありとあらゆる非人道的行為を喜んで取るという、真性のサディストだ。 少女は、進と親しいところに目をつけられ、利用されたのだ。 「やめろ、こいつを、巻き込むな……!」 進の叫びにも、志樺音はニヤニヤと嗤うばかりで応えない。 少女の手に、更に力がこもり、進の咽喉がグッと鳴った。 「く、そっ、たれ……」 意識が揺らぎ、進が絶望しそうになった時、少女の身体が勢いよく吹っ飛んだ。 「ッ!?」 痺れたように身動きの出来ない身体を無理やり動かして見遣れば、傍らには、進によく似た青年の姿がある。 「……兄貴」 呆然と呟く進に、兄、戻はかすかに笑ってみせた。 これで何とかなる。 進は安堵したのだ、確かに。 しかし。 次の瞬間、兄は、少女の前へ滑るように移動し、 「兄貴、何を、」 ――何かを、耳元へ囁いて、 「! やめろ!」 そして、進の目の前で、彼女の首を、刎ねた、のだ。 「!!」 ぽぉん、と、虚ろな目をした少女の首が、高々と飛び、 「猪、口……!」 激しい血しぶきを上げた身体が、ゆっくりと倒れる。 「あ、あ、あ……」 意味をなさない獣の如き呻き声が漏れ、 「うわああああああああああ!!」 次の瞬間、進は絶叫とともに志樺音へ襲い掛かっていた。 志樺音が防御の体勢を取るより早く、空間を幾重にもループさせ、つなぎ、その歪みの中に肉体ごと巻き込んで、 「黄泉路を渡れ、絶望とともに!」 非道なる術者の全身を引き千切る。 それは、断末魔すら、許しはしなかった。 仇が肉片と血の塊となって地面を散らばることになど頓着せず、進は真っ赤な目で戻を睨み据えた。 「何でだ……何でだよおおおおおおおッ!」 絶叫とともに、兄へも襲い掛かる。 何もかも壊れてしまえばいい、そんな思いで。 だが……進は見たのだ。 進に向かい、戻が微笑んだのを。 甘んじて受けてもいいと、その笑みが物語っているのを。 その微笑は、進を正気に戻すのに充分な力を持っていた。 「あ、ああ……」 今、自分は、何をしようとした? 自身に問うた瞬間、壮絶な吐き気が込み上げ、進は口元を押さえてその場に膝をついた。 その途端、周囲の景色が元に戻り、進の意識も日常へと帰還する。 それで、ようやく思い出した。 あれは、過去の記憶だ。 なすすべもなく喪った、決して遠くない過去の。 「俺は……」 蹲り、進は頭を抱える。 怖かった。 今も、震えと吐き気が止まらない。 「……何が、怖かったんだ?」 彼女を喪ったこと? それもある。だけど、それだけじゃない。 「もしかして……俺が、兄貴を殺しちまいそうになったから、なのか?」 せめて罰は、私が受けましょう。 少女に、兄が囁いた言葉だ。 弟を護るために罪を犯すことすら――進に憎まれることすら厭わなかった兄を、激情に任せて殺そうとした、自分自身が怖かったのか。 「くそ……」 青褪めた顔のまま、進は毒づく。 「んなこた、判ってんだよ」 記憶の中で、誰かが嘲る。 「本当は、散るべきなのは俺なんだよ、クソッタレ」 自嘲と自責、自縄自縛の無限ループに応える声は、そこにはない。
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