庭に面した廊下の中央まで、黒髪の少年は足を止めた。聡明な蒼穹色の眸が優しい日差しに照らされた庭の緑を捕える。 微かに香る甘い香りを何にたとえようか、少年はいつも迷う。白く透き通る百合か、はたまた紅い曼荼羅、ひっそりと咲く撫子か……知る限りの花の名をあげては戸惑う。 ああ、これは、花ではない。 はらり。 少年は目を丸めた。まるで雨のように落ちる花びら。 白、赤、紫……一瞬、自分の考えがそのまま現実のものになってしまったのかと訝しむ。 くす、くすくす。 軽やかな笑い声に少年はすぐにそれが、彼女のいたずらだと確信する。そっと顔をあげるとき、わざと眉根を寄せて腕を組む。 屋根の上、眩しい太陽を背に白い花の蕾が――いいや違う、輝く笑顔を浮かべて立っている少女がいた。その無邪気で無垢な笑みを見たとき、つい口元が綻びそうになるのを我慢するのはなかなかに大変だ。 「煌 白燕さま、あぶのうございます。降りてください」 礼儀を持って膝をその場におり、両手を合わせて頭をさげる。 「いや」 少女は傲慢に切り捨てる。しかし、口調にたいして声は上ずり、どこか寂しげであった。拗ねているのだ。 「忠星がここまで来て私を捕まえろ」 「あなた様は」 忠星は呆れた声を漏らしながら顔をあげた。運動はからっきしであることを知っているのにこうして無茶を言う。 生まれが一年違いの二人は、同じ乳母に育てられた乳兄妹だ。 林忠星の父は王の最も信頼する宰相として多忙な日々を過ごす。母は病弱でほとんど寝たっきりだ。 一人ぼっちは白燕も同じ。 名君である王が家庭に置いても良き父であるとは限らない。民を想うゆえに執務に追われて娘に関わってやる時間はなく、母もまた早くに亡くして孤独な白燕と忠星はなにかと一緒にいた。 そんな二人を見て大人たちを何を思ったのか。つい一か月前に王は直々に忠星を白燕の教育係に任命した。 はじめ、白燕はそれを素直に喜んだ。しかし、忠星が一線を置いて接するようになると態度が豹変した。もともといたずら好きだったが、それが忠星限定でひどくなった。 勉強の時間はいつも逃げ出しては隠れ、見つかれば我がままを口にする。忠星は振りまわされる毎日だ。 まるで猿だ。 なんと白燕は屋根からひょいと飛んで、隣の樹の枝につかまると、するすると昇っていく。 野生の子猿でもこうはいくまい。 自分の仕える主を捕まえて、猿にたとえるのはどうかと思うが、それ以外ないのだから仕方がない。 「白燕さま!」 枝に座った白燕が足をぶらぶらさるのに忠星はどきどきしながら叫んだ。基本、女性が足を出すことは恥ずかしいこととされている。 「はしたないですよ!」 「しらん! ここまで来て私を捕まえないくせに!」 「わかりました。捕まえたら、もう無茶はしませんね」 「出来ないだろう」 意地悪く切り捨てる白燕。 「いいえ。やります」 きっぱりと言い捨てると、忠星は樹の幹に手をついた。ごつごつとした肌触りを確かめ、地面を蹴る。あがったとおもったら、するりっと滑って地面に尻餅をついた。 「ふん、口先ばかりだな!」 忠星は黙って、もう一度樹の幹に手を這わせて昇ろうとする。それに白燕は先ほどまでの意地悪な顔を歪めてその姿を見守る。 今度はなんとか順調に昇ることに成功し、一番低い枝まで到達した。 「必ず捕まえますからね」 「……っ、ここまでこれるの」 「なぁに、あとひと息、あ」 「忠星!」 ぐらりと忠星の身がよろけたのに白燕は慌てて手を伸ばした。あまりにも身を乗りだし過ぎて、白燕自身も落ちた。 「白燕っ!」 白燕に手を伸ばし、忠星はしっかりと守るように胸のなかに抱きしめた。 衝撃は、一瞬だった。 白燕は想像したよりも痛みがないことにきょとんとした。何が起こったのかわからなかった。 あたたかなクッションから顔をあげると、悲鳴を飲みこんだ。 自分の下敷きになっている忠星がいた。気絶しているのか、はたまた当たりどころが悪かったのか目を閉じたままだ。 「おい、忠星! しっかりしろ……っ、ごめん、ごめんなさい! 寂しいからってひどいことを……す、すぐに医者を、呼ぶからな!」 いくら呼びかけても返事が戻ってこないことに白燕は混乱して泣きじゃくりながら慌てて立ちあがろうとしたとき、ぐいっと手が掴まれた。 ――ふわりと体が浮いて、包まれる。 抱きしめられているのだと白燕は理解するのにたっぷり一分は必要だった。 「お捕まえしました」 「え、あ、忠星!」 顔をあげると、土埃のついた忠星の顔があった。 「いつも意地悪されるので私も仕返しをさせていただきました」 「……っ、ひ、ひどいじゃないか! わ、私は、お前が、死んだかもとおもって、だから、怖くて……っ、いつもいつも私にひどいことをする!」 まんまんと騙されたことも、泣いてしまったことも、なにもかも腹立しく、白燕はまたしても泣いた。 名君の父の前では物分かりの良い娘。周りの世話役には前向きで明るい少女。家臣たちの前では女だと侮られぬように豪胆な王の子。 だが本当は歳相応に悪戯が大好きな、ちょっとだけ泣き虫。そんな白燕を晒していいのは乳兄弟である忠星だ。 「ひどいこと……?」 「なんでもない! ……い、今からだってお前のことは父上に解任をお願いするつもりだ!」 「……私では役不足でしょうか」 「教えるのはうまいし、根気よく付き合ってくれる。けど」 「けど」 「寂しいんだ。私が!」 夕暮れの空のような、美しい朱色の瞳に朝露のような透明な雫を溜めて白燕は忠星を睨む。 「いきなり敬語になっただろう! 他の家臣たちみたいに頭をさげたり……父上に教育係に任命されてからだ! こんなのだったら、なってほしくなかった!」 「……寂しい思いをさせてしまいましたな」 「そうだ。寂しい思いをさせたんだぞ!」 喉を鳴らし、しゃくりあげながらも白燕は文句を口にする。頭を撫でる手が優しくて、どんな我がままを口にしてもいいのだと思わせてくれるから。 「私は、あなたに良き王になっていただきたい。……いくら乳兄弟といえ、私はあなたの家臣となる身、忠義を尽くせぞ、友人には」 「ならないのか! そんなのおかしい! 家臣は友人になれないのか」 「白燕さま」 困った顔をする忠星を見て白燕は俯いた。ここ一カ月、自分はいつも彼のこんな顔しか見ていない。 そう思うとまた涙が出てきた。すると、忠星の手が優しく白燕の涙を拭いとった。 「わ、私が証明する」 興奮冷めやらぬまま白燕は宣言する。 「は?」 「部下でも友人になれるってことを!」 「はぁ」 「なんだその返事は!」 忠星はいきなり吹きだした。 「すいません。……白燕さま、頭の上に葉っぱがついておりますよ。まったくあなたはいつも突拍子もないことをして驚かせる」 「お前は顔が土で汚れているぞ! それに、それは褒めているのか?」 「褒めておりますよ。……ぷっ、はははは!」 「お前は! ……ふっ、ふふふ!」 二人は顔を見合わせて笑いあった。 「いったた……」 「だ、大丈夫か?」 「ええ。足をちょっとくじいたくらいで、なんとか立ち上がれ」 「腕を貸す!」 白燕は立ち上がると、手を差し出した。 「なんなら背負うぞ?」 「それは」 「まだ主とかそういうのを気にしているのか? お前は家族であり、大切な親友だ。だから遠慮は」 このままでは、本当におんぶされそうなのに忠星は焦った。 「いえ、白燕さま」 「ん?」 「いっ、いたたたぁ! いたた。く、くるしい。くるしいです。はやく、医者を! お願いします!」 「っ! わかった! すぐに呼ぶ。だから死ぬなよ!」 騙すことになったが、さすがにおんぶは……白燕ならやりかねない。 駆けだす背を見て忠星は口元を綻ばせる。 「家族であり、親友、か」 結局、そのあと父親たちに二人揃ってさんざん叱られた。 この一件以降、忠星は以前のような親しみをこめた態度をとると、白燕が勉強の時間を抜けだすことはなくなった、――ではなく、今度は堂々と誘うようになった。 「いい天気だ。なぁ、忠星」 勉強の時間。三十分ほど問題を解いたあと、ぽつりと白燕は提案する。赤い瞳が空が恋しいとばかりに窓から外ばかり見ている。 「白燕さま……仕方ありませんね。集中力を欠けては意味がありません。今日はこれでお勉強はやめましょう」 「うむ。では、休憩だ。いいところがあるんだ、行こう!」 伸ばされた手を、忠星は見つめて、とる。 この手を、一体いつまで無邪気に伸ばされるのか。 白燕は無邪気で無垢で、けれどその身分を、忠星はやはり意識することが多くなった。 家族、親友……とても親しく、大切な存在だと言われるが、そのたびに忠星はなんともいえぬ気持ちになる。 「どうした?」 「いえ」 「へんなやつだな! ほらっ、こっち」 白燕が案内してくれたのは城の裏手にある庭だ。ほとんど人の手のくわえられぬそこは気まぐれな春風に吹かれてやってきた種が地上を潤し、色鮮やかな花が咲いている。 自然の美しさのなかを白燕は自分のとっておきの秘密を自慢するように駆けまわる。 ――花だ。彼女は。 「野花のようであれば」 自分が口にした言葉に忠星は苦い顔をする。と、いきなり頭の上にふわりと甘い香りが落ちてきた。 また花の雨かと思ったが、それは花冠だった。 「どうした?」 笑いかけてくる太陽を、すべてを抱く蒼穹が捕える。 「……いえ」 「そうか。よし、父にも花冠を作ろう!」 「お手伝いします」 名をつけられぬ淡い感情の種はいつ撒かれたのか、もう葉が出て、確かに蕾をつけているのに、その花の名はどこにもなくて。美しいと思いながら、恐れを覚えてしまう。 悲鳴のような声が轟いた。 「白燕さま、どこですか! 大変です。王が、王が!」 美しい日常は、ひび割れた氷のようにあまりにも脆く。ただ歩いているだけで容易く崩壊してしまう。 元々、白燕の父は体が丈夫ではなかったが、ここ最近は定期的に高熱を出しては寝込むことを繰り返していた。それは先代王が死んだときと良く似ていたことから、家臣たちは不安を覚えていた。 だが、まさか、こんにも突然と何もかもが失われ、世界が崩壊するとは思いもしなかった。 主亡き城はまるで魂という魂が死んだように、色を失った。 誰もが悲しみに沈んだ嘆きに溺れるなか、忠星は一人、いなくなってしまった白燕を探した。 「ここにおりましたか」 秘密の場所に訪れる。 そこで花たちに守られて小さな蕾が震えていた。声をかけても何も言わない。忠星はゆっくりと歩み寄り、横に腰かけた。二人は何も言わず、ただ黙り続けた。世界が優しく、穏やかに進む。 忠星は黙って、白燕を見つめた。一体、いつからここにいたのか。誰もが己の悲しみにいっぱいで、少女のことを忘れている。 それが忠星には許せない。風に攫われる頼りない葉のように無力であるが、――彼女に降りかかる不幸を退けることは出来ない。それでも寄り添うことは出来る。だからここまできた。 「……ずっとお傍におります」 「忠星」
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