「牛が暴れ出したぞ!」 「はやく止めるんだ!」 都に向かう途中の張西嘉は咄嗟に白い唾を飛ばして暴れる牛の前に飛び出し、牛車から白髪の少年が落ちるのを両腕で受け止めた。そのとき微かに花の匂いがしたのに自分が抱いているのが少年ではなく、少女だと気がついた。 牛車に、ぴかぴかの金――王族を表す飾りがついているのも。 しかし、この出来事が己の運命を変えてしまったことにはそのときの西嘉は気がついてはいなかった。 名の古さくらいしか誇るものはないと断言するほど、西嘉は貧乏だ。誇りや見栄で腹は太らんと武人であるが普段は農民のように畑を耕して生活をしていた。 しかし、貴族である以上は年に一度――王宮での「会」出席義務がある。 「会」とは、貴族が王に忠誠を示す儀式で、王宮に集まり、王と謁見する。決まりのような挨拶と祝言を述べるだけだが位がある者は献上品で張り合ったり、ライバル貴族たちの牽制と忙しい。生憎と西嘉には関わることのない争いだ。都には知り合いがいるわけでも、ましてや別荘もないので安い宿に腰を落ちつけるのが都にいるときの常である。王宮に行き、会を済ませたらさっさと帰る腹積もりだったが、夜闇に紛れて忠星が訪ねてきた。 ちょうど、酒を飲んでいた西嘉はこの訪問に驚きながらも歓迎した。一時間ほどの雑談ののち忠星が真剣な顔で告げた申し出には思わず咽ることになった。 「はぁ、俺に王の護衛だと! 忠星よ、貴殿、本気で言っておるのか」 「本気です」 西嘉が五歳年上のせいか、忠星の態度は礼儀正しい。これが「お高くとまったやつ」と言われるのだと思わず背中を叩いてやりたくなる。 忠星は人を身分で差別しない、賄賂を受け取ることもない、立派な官人だがどうも真面目すぎるところがある。 「あなたは、今日、王をお救いくださいました」 「あれは……別に、王が危機だからと動いたわけではないぞ」 頭をかきながら西嘉は言い訳した。 「知っております。ですから、頼むのです。あなたは、欲に目がくらまぬ、率直なお方だ」 「それは褒めているのか、貶しているのか? ……欲で腹は膨れたりはしないだろう。田舎者ゆえに率直に聞くが……あの方の敵は何人いる」 忠星は黙った。 「お前は護衛一人つれていないのはよほどに知られたくないと見える。王宮とは魍魎が住む恐ろしいものだと聞いたが真のようだな」 今の王――煌白燕が即位してようやく半年。 表向きは平和であるが十も少しの白燕は早々に婿をとるべきだとあっちこっちから縁談が舞いこんでいた。どの男にも白燕は首を縦に振る兆しはないのに周りの者がどれほど頭を抱えているのか容易く想像が出来る。それと同じくらい彼女の死を望む者がいることも。 咄嗟に目を逸らしたため顔を見ることは出来なかったが、微かに鼻孔をくすぐった花の香りを思い出すと不意に胸に湧きおこるものがあった。 「よし、その話、乗った」 悪い癖だと、西嘉は思う。大見栄をはったはいいが、王宮はどうも空気が合わず、好きになれない。 忠星との約束ゆえに一番よい服を身につけて朝一で訪れると門番には話を通していたのかあっとりと通された。大股で廊下を歩いていると、甲高い怒声が聞こえてきたのにぎょっとした。目を眇めて見ると、王族にのみ許された白い衣服を身に付けた小柄な――白髪の少女が黒服の官人に噛みついている。その様子はまるで鶏冠を逆立てた闘鶏のようで、周りの官人は手に噛みつかれないようにと距離をとって、頭をさげる。 「白燕さま!」 忠星が諫める声に白燕はまたしても怒鳴った。 「お前は黙っていろ!」 西嘉は呆れた顔をして頭をぼりぼりとかいた。本当は回れ右をしたいところだが、忠星と目があってしまったのでそれも出来まい。 「なんだ、お前は」 「張西嘉ともうします。本日より、白燕さまの御身の護衛としてやってまいりました」 片膝を床に落し、頭をさげ、拳を握って礼義を尽くす西嘉に白燕は鼻白んだ。 「私はそんなことは聞いておらんぞ! 誰だ!」 「私めが頼んだのです。連日のことを考えましたら御身の護りを強めたほうがよいと思いまして」 「忠星、また勝手なことを!」 忠星が何も言い返さないのに白燕も黙る。 西嘉がちらりと盗み見ると、怒り狂っているかと思った白燕の顔は今にも泣きそうになるのを我慢しているように寂しげで、握りしめた拳は震えていた。 「もう、よい!」 白燕が叫んだ。 護衛の仕事は四六時中、その主の傍にいること、らしい。 西嘉は白燕の執務室の前で待機して様子を見ていたが白燕は朝からずっと怒鳴りぱなしだった。 山ほどの巻物の乗った机にかじりつき、大の男と睨みあう。そのやりとりは廊下にいる西嘉にも聞こえるほどで、出てくる官人の顔はどれも殺伐としている。何度か忠星が諫めるが、それもあまり効果がないようだ。それでも忠星の助言のとき、白燕はいつも黙って最後まで話を聞くのは深い信頼があるのだと見ていて察することが出来た。 ようやく昼となって人も途絶えたのに西嘉は執務室を覗いた。 基本朝晩の二食が主で、昼は茶を啜る程度の休憩をとるのだが、白燕は一人で巻物と睨みあっていた。 「休まぬのですか」 無言。 西嘉は大胆にも部屋のなかにはいった。 「一日中怒鳴りぱなしでは声も枯れたでしょうに」 「枯れてはおらぬ」 険のある声で白燕は言い返した。 「お前は護衛であろう、廊下に」 「主の体調を気遣うのも仕事のうち。少し休んだほうがいい」 西嘉は持っていた素焼きの壺を差し出した。 「俺が持参した物で毒なんてはいっちゃいない」 白燕は少しばかり迷った顔をしたが、受け取って飲んだ。さすがに喉が疲れていたのだろう。茶は心も体も癒してくれる。ようやく眉間のしわが緩んだのに西嘉はずばりと切りこんだ。 「遠回しは苦手だから聞くが、どうしていつも怒鳴っているんだ?」 「それは……みな、私が推さないという」 「実際、推さないではないですか」 きっと白燕が睨んできた。 「そう、カリカリするものじゃないでしょう」 「私は王だぞ。そんな私が推さなくては……」 白燕は恥じるように俯いた。 「誓ったのだ。私は……良い王になると」 「うーん、俺は頭を使うことは苦手なんだが。よし! 白燕殿、外はいい天気ですぞ。こんなところに籠っては毒を盛られた病人のようになってしまう!」 「失礼します、白燕さま、お茶を……白燕さま!」 茶を持ってきた女中は執務室が静かなのに怪訝な顔をした。近づくと椅子には白燕の衣服がかけられただけで肝心の本人がいないことに気がつくと顔からさぁと血の気を引かせて蒼白となった。 「西嘉殿、大変です。白燕さまがおられないのです! 出ていかれましたか?」 「いいや、私はここで見張っていたが誰も出てこなかったが……」 「そんな! ああ、どうしましょう!」 「そなたはあちらを、私は向こうを探してみましょう」 ええ、ええと頷いた女中は急いで駆けだしたため、西嘉が意地悪く笑って手をふっていることになどまるで気がつかなかった。 西嘉は手招く。 すると机の下から白燕が出てきた。彼女は部屋から消えたのでも、出ていったのでもない。ずっと隠れていたのだ。 「うまくいきましたな」 「よ、よいのか」 白燕が弱気なことを言う。しかし、その目がいたずらが成功した高揚に輝いているのを西嘉は見逃さなかった。 「では、ここにおりますか」 「……」 黙って首を横にふる白燕に西嘉はにっと笑った。 「では、行きましょう」 王宮のことはよくわからないという西嘉を白燕はあっち、こっちと案内した。裏道や使用人のみが通る道などをすべて把握していた。おかげで二人は誰にも見咎められることなくいろんなところに忍び込むことができた。 「白燕殿も、なかなかに活発なお方だったのですな」 「まぁな!」 二人で厨房にこっそりと忍び込み、出来たての饅頭を失敬した。この頃には長年の付き合いの悪友のように打ちとけていた。 「さて、このままどこにいきますかな? 飯は外で食べたほうがおいしいですが」 「……そうだな。あそこにしよう」 子供のようにきらきらと輝く笑顔からふっと寂しげな眼差しで白燕は呟いた。 迷いのない足取りで連れてこられたのは城の裏手であった。人の手は滅多に入ることはないようだが、風に乗って来た種が実をつけて、自然と出来た花畑は実に見事な美しさがあった。 空は晴れ、遠くでトンビが飛んでいる。そこで饅頭を食べると解放感からか実に美味く感じられた。 「心地よい場所ですな」 「ああ。忠星とよく来ていた」 二人は地面に腰を降ろして空を見た。 「今はもう来てはいない。来たくとも、来れない」 「なぜです」 「わからん」 白燕の声は微かに震えていた。それでも泣かないだけの強さがあった。 「父のあとを継いだのに、ちっともうまくいかない。私はこのときのためにいっぱい学んできたはずなのに……したいことと、するべきことがどうしても噛みあわない。そのせいか、よく怒鳴ってしまう、忠星はわかってくれると思うのに、いつも諫められる」 「そりゃあ、忠星殿はそういう立場ですからな」 「わかっている! だが、わからない言葉があって、それを必死に学ぶが追いつかない。そんなことを繰り返して……気がついたら周りから嫌われてしまった」 「そんなことはないと思いますぞ」 「なぜだ」 「嫌いなら、言いあいなどしません。意見を言うのは信じてほしい、間違ってほしくないというのがあるのですよ。それに嫌いな相手がいなくなったといって、わざわざ探すようなことはしませんぞ? 今、城はあなたを探しててんてこ舞いだ」 それに、と西嘉は付け足した。 「ほら、絶対に嫌わない者が一人はいます。それもあなたの場所を必ず見つける者がね」 西嘉の声に白燕が顔をあげる。 「白燕さま! 西嘉殿!」 駆けてくるのは忠星だった。 彼は二人の前で腰に手をあてた。 「お二人とも! みなが心配しておりましたよ! 御身を狙う者がいるかもしれぬというのに!」 がみがみと怒る忠星に西嘉はにっと笑った。 「このように怒るのは、みな期待しているのです。あなた一人がすべてをする必要はない。臣を信じ、任せてくださればよいのです。みな、あなたに信用され、役立ちたいと思うほど、あなたを慕っているのは付き合いの浅い俺でもわかります」 星忠は眉根を寄せた。 「なんの話をしているのですか? お二人とも」 「俺との内緒話だ」 「西嘉殿、あなたは!」 「忠星!」 白燕が声をかけると忠星は黙って言葉を待った。 「すまない」 「……白燕さま?」 「私は、少し、間違っていたのだと思う。お前にひどくあたってしまった」 白燕が真っ直ぐに見つめると、忠星は微笑んだ。その微笑みに白燕も笑い返した。 「さーて、よっこいしょっと! おお、見てください。空がきれいだ!」 「真か? よし。……本当にきれいだな!」 西嘉が寝っ転がるのに白燕も無邪気に笑って横になった。 「西嘉殿、それに白燕さままで! 服が汚れてしまいますよ!」 「忠星、お前もだ!」 しばらく黙って抵抗していた忠星だが、二人の誘いの視線に負けて横になった。 「きれいだなぁ」 「ああ、本当に、あの雲、とてもきれいだ」 「……そうですね。とてもきれいです。心がなごみます」 ため息のでるような青い空を見上げると、強い風が吹いて白い花びらが舞った。 しばらくして騒がしい声が聞こえてきた。 「いかん。そろそろ、戻らねば! せっかくの良い場所がみなに知られてしまいますぞ!」 「そうですね」 忠星が身を起こすのに、白燕も起き上がろうとして横にいた西嘉が飛び起きた。 「実を言えば、自分は貧乏ゆえ一生ないと思って諦めておりましたが……腐っても武人、生まれたときから、命を捧げられる主君を探し、密かに剣の腕も磨いていました。こうして出会えたのは運命でしょう……この空と花に誓いをたてましょう。あなたが変わらず、よい王であれば、私はずっと御身を御守りします。あなたが作る国が見てみたい。この張西嘉の忠誠、受けていただけるか? 」 伸ばされた西嘉の手を白燕は微笑んで、握りしめた。 「私も、まだ捨てたものではないな。味方が二人になったぞ!」 土と葉っぱまみれの三人が戻ると心配した女中やら官人たちに囲まれてこっぴどく怒られたのは言うまでもない。
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