ヴォロスの広大な大地の一郭、青々と広がる悠大な森の入り口に大きな木が悠然と伸びているのを見つけて、キリルはその木の下で腰をおろし休んでいた。樹齢の長さを思わせるのに充分すぎるほどの太さをもった幹、枝葉は縦横に広く伸び、じりじりと暑い陽射しを遮り、心地良い木陰を落としている。 ヴォロスでの依頼を請け、無事に終わらせてきたばかりだ。ターミナルに戻るための列車を待つまでの間、キリルはヴォロスの平原の中を目的もなく散策してきたのだった。もう幾度も訪れたことのある地ではあるけど、幾度訪れても新しい発見や出会いが彼を迎えてくれる。そういった出来事はキリルの心を弾ませてくれるのだ。もちろん、悲しい依頼のときもあるし、大切な人たちが多く傷ついたりするような出来事にぶつかったりもする。けれど、それでも、世界はやはりとても優しい。優しい風景の中に包まれるのは、やはりとても心地いい。 人間でいえば稚い子どもと変わらない程度の身丈、全身を包む茶色の毛皮は見目にもやわらかく、風をうけてさわさわと静かに揺れている。大きな双眸を思い出したように瞬きさせながら、キリルは手に持った根付けを顔の前に持ち上げてしげしげと見つめていた。 雪の結晶を模して作られている根付けは、昨年のクリスマスに行われたプレゼント交換のときに、ターミナルに店をかまえている御面屋からもらったものだ。陽に透かして見ていると、そのうちうっかり融けてなくなってしまうんじゃないかと思ってしまうほどの精巧なデザインを施されている。 キリルは両耳をぴくぴくと動かしながら首をちょこんとかしげ、掲げ持っていたそれを両手の中におさめてそっと膝の上に置いた。 メッセージカードによれば、この根付けは『願をかけると「一番会いたい人」に会わせてくれる』ものであるらしい。その願は一度かぎり。叶えた後は文字通り消えてしまうようだ。 視線を落とし、しげしげと見つめる。 キリルが今一番会いたいと思う相手は大好きな「じいじ」だ。灰色の毛皮、そしてキリルと同じ茶色の双眸を持つ大獣人。かつては賞金稼ぎとしても名を馳せ、扱っていた武器の特長もあり「穿尾」の異名を冠していたほどの腕を誇っていた。気難しく、口数も少ない老獣だったが、たびたび幼いキリルを連れて仕事に出かけたりもしてくれ、キリルにだけはとても優しくしてくれた。今はそれも引退し、狼族の集落でのんびりと過ごしている。じいじとは、もうどのぐらい会えていないだろう。いつかまた会えるときが来るのだろうか。またいつか会えるなら、話したいことは山ほどある。きっとまとまりなく思いついたことから溢れるように話すキリルの言葉を、じいじはいつものように穏やかに微笑み、何度も何度もうなずきながら聞いてくれるだろう。 じいじの笑顔を思い浮かべながら、キリルは小さく息を吐いた。風が指先を梳くように吹き流れていく。 「なにしてるノ?」 ふと耳についたのは聞き馴染んだ声で、キリルはふにゃりとした笑みを浮かべて振り向いた。 そこに立っていたのは純白のコウモリを人型にしたような姿態をもつワード・フェアグリッドで、ひどく穏やかな目でキリルの顔を見据え、そしてゆっくりと笑みを浮かべた。 「これ、これを見ていたの」 言いながら両手で大事に包み持っていた根付けを持ち上げる。雪の結晶が陽射しをうけてひらひらと揺れている。 ワードは「ふぅン」とうなずき、興味深げな目でしげしげと根付けを見つめた。 「それ、どうしたノ?」 「クリスマスのプレゼント、プレゼント交換でもらったの」 「クリスマス?」 目を瞬かせ、ワードは視線を持ち上げてキリルを見る。 クリスマスにはワードも参加した。なるほど、確かにプレゼント交換もあったなと思い出しうなずく。 「それデ? それハどういうものなノ?」 数歩進み出てキリルのすぐ傍に座り、ワードはキリルの手の中の根付けを覗き込んだ。 「会いたい人、会いたい人に会わせてくれるんだって」 返して、キリルはワードの顔を見つめる。 「ワード、じいじ、じいじに会ってみたい?」 「じいじ?」 ワードはキリルの言葉に顔をあげて首をかしげた。 キリルの“じいじ”のことは、何度か聞かせてもらったことがある。キリルを慈しみ育てた存在であるならば、ワードにとっても当然に敬愛するべき対象となり得るであろう存在だ。 当然だとうなずこうとしたワードの応えに、しかし、キリルは「でも」と小さくつぶやき、不意に目をそらして再び根付けに視線を落とす。 「会えるっていうのは、どういう、どういうふうに“会える”っていう意味、意味なんだろう」 例えば。 夢の中で会えるという意味なのかもしれない。それならば願をかけるまでもなく、キリルはたびたび夢の中でじいじの笑顔に触れている。 会えたとして、触れることは出来るのか。言葉を交わすことは可能なのか。いつも頑張っているねと、あの大きな手で頭を撫でてもらえるのだろうか。微笑んでもらえるのだろうか。 例えば姿を見ることが出来るだけのものであるなら、やはり願をかけるまでもないことだ。じいじの姿なら片時も忘れたことはない。いつでも頭の中で思い起こすことも出来る。 キリルの言葉に耳を傾けていたワードは「なるほど」と目を瞬いて、雪など降りそうにない碧空を仰ぎ見た。ゆったりと流れていく雲は、まるで水面にたつさざ波のようだ。心地良い風が枝葉を揺らす。森がさわさわとうたい、ワードの主であるキリルはくすぐったそうに目を細めている。そのキリルの表情が、次の瞬間にはぱっと変化を見せて、くるりと振り向きワードの顔を見つめた。 「ぼく、じいじ、じいじに、ワードを会わせたい。ぼく、ぼく、ワードのこと大事。だから会わせたい」 そう言って少し恥ずかしそうに笑ったキリルに、ワードもふわりと頬をゆるめる。 「そうだネ。僕もキリルのじいじに会ってみたいヨ」 ワードが応えるとキリルは表情を輝かせ、大きくうなずいた。 「わかった! ぼく、ぼくやってみる!」 ワードはキリルの言葉に首を大きく二度、縦に動かした。 願をかけて出会えるじいじは、きっと本物のじいじではないかもしれない。しかし、キリルにとってじいじは何者にも代え難い大切な存在だ。同様に、今こうして隣にいて微笑んでくれている白の従者もまた、何者にも代え難い大切な存在なのだ。もしもいつか元の世界に戻れたなら、そうしてじいじに再会することが出来るのなら、その時には真っ先にワードの事を紹介したい。だから、ワードにはまず知っていてほしいのだ。キリルにとって大切なじいじの姿を。 風が吹いている。草の海はうたい、森もまた合わせてうたっている。 空は澄んだ青に染まっている。白い雲がさざ波のようにぽつぽつと流れていく。 キリルはしばしの間ワードの顔を見つめた。ワードは言葉なく小さな笑みを浮かべたまま、もう一度小さく首を縦に振る。それに安心して、背中を押されたような気がして、キリルはそっと目を伏せた。 じいじ、じいじ。 脳裏には鮮やかにその姿が浮かぶ。 大切な呪文を唱えるように、心の中でそっとじいじの名前を呼んだ。 ゼノ・ディクローズ。 大きなてのひら。大きく、たくましい背中。優しいほほえみ。 会えたら、話したいことがたくさんある。旅してきたいろんな世界のこと、見てきた街並のこと、出会ってきたたくさんの人たちのこと。今こうして背中を押してくれる大切な白の従者のこと。 じいじに会いたい。 願い、手のひらを強く握りしめた。手の中で小さな雪の結晶がひらりととけた感覚がする。そして、 懐かしい声がしたような気がして、キリルは静かに目を開けた。
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