イラスト/虎目石(ibpc2223)
柔らかな光がカーテンの隙間からもれ、サシャの顔を照らす。 「ん……」 軽く目をこすり、伸びをするとサシャはベッドから這い出した。 勢いよくカーテンを開け、日の光を全身に浴びる。 「今日もいい天気ね」 0世界には天候の変化というものが、基本、存在しない。ごく稀に訪れる夜や天候の変化というものは、人為的に操作されたものだった。 それでも、明るい空を見上げれば自然にそう口にしてしまうのだ。 簡単な朝食をとると、部屋の掃除と洗濯を手早く済ませる。口をついて出るのは、マザーグースの歌だ。 洗濯と掃除の次は、ベランダを飾る鉢植えの薔薇の世話。それがサシャの日課だった。 ターミナルを散歩していると、はしゃぎながらサシャの脇を駆け抜ける子供達とすれ違った。 在りし日の自分と、子供達の姿が重なった。 見上げると、そこには母の横顔があった。しっかりとサシャの手を握り、貨物船へと乗り込んでいく。 いつもと違う母の様子に、サシャは不安を覚える。 「お母さん、どこへ行くの?」 「イギリスよ」 「イギリス?」 「そう、お父さんの生まれた国よ」 そう言って優しく笑う。 寡婦となった母が夫の生家を頼り、イギリスへと渡る事にしたのか、それともただ、訪れてみたかっただけなのか、当時のサシャには知りようもなかった。――いや、教えてもらったかもしれないが、サシャの記憶には残っていなかった。 気のない返事を返し、サシャは母の体に抱きついた。 母がそんなサシャの頭を撫でたあと抱きしめたので、安堵したのか、いつの間にか眠ってしまっていた。 初めて降り立った異国の地は、なんだか奇妙な感じがした。重苦しい空気を感じるのは気候の違いか、人々の視線の所為か。 「お母さん……」 貨物船に乗った時以上の不安を感じ、母の服を強く握る。 「大丈夫よ」 サシャの不安をよそに、母は笑い、頭を撫でる。 それから数日、母に連れられいくつかの店を回った。 拙い英語を駆使し、雇ってもらえるよう母は頼み込んでいたようだが、いい返事がかえってくる事はなかった。素気無く断られるばかりか、時には乱暴に追い出される事もあった。 手持ちの金も尽き、とうとう物乞いで日々の糧を得るしかなくなった。 母が歌や踊りを披露し、サシャが見物人から金をもらって回る。 最初は物珍しさも手伝って、いくらか稼げたのだが、次第に足を止める人は少なくなっていった。 場所も移動しながら芸を披露してみたのだが、それでも客足は遠のいていくばかりだった。 どんなにひもじくても、母は必ず自分よりもサシャに食料を多く与えるようにしていた。時には水だけで過ごす事もあった。 母は栄養状態の悪化により動けなくなり、サシャを残し、衰弱死してしまった。 それから数日後、母の努力もむなしく、サシャの命も尽きようとしていた。 「お母さん……ワタシももうすぐ、そっちにいくね」 朦朧とする意識の中、思い出すのは今際の際の母の姿だ。 力なくサシャの頬を撫で、そして言うのだ。 「サシャ……ごめんね……」 と。 「おい、おい! 大丈夫か?」 ――誰かが何かを言っている気がするけど、どうしたのかな? すごく眠いの。眠らせ、て……。 男がサシャを揺さぶるが、ぐったりとしたまま反応はなかった。 サシャが目を覚ますと見知らぬ場所に寝かされていた。 体を起こそうにも力が入らず、視線だけで部屋の様子を探っていると、部屋に入ってきた女性と目が合った。 サシャが言葉を発するよりも早く、その女性はまたどこかへ消え、男性を伴って戻ってきた。 「気が付いたかね?」 男性の言葉にサシャは頷いた。 サシャの意識を確認すると、男性は目を覗き込み、口の中を調べ始めた。 この人はお医者さんで、ここは病院なのだとサシャは悟った。 暫く病院で過したあと、救貧院と呼ばれる場所に移された。 そこには自分と同じ様な境遇の子供達が集まっていたのだが、サシャにとって、居心地のいい場所とは言えなかった。 「近寄るなよ、臭いだろう! ちゃんと体洗ってんのかよ」 「よそもんは出てけよ!」 肌の色が違うというだけで、汚いだの臭うだのと苛められ、食事も周りの子よりも粗末なものが与えられた。 何度か脱走を試みたが、あえなく失敗し、連れ戻される日々が続いた。 「お母さん、こんな事ならワタシ、死んじゃえばよかった……!」 サシャは物陰に隠れて涙を流した。他の子の前で泣きたくはなかった。 ある日、サシャは名指しで呼ばれ、一人の老紳士と引き合わされた。 老紳士はサシャを見るなり破顔し、サシャは不思議そうな面持ちで彼を見返した。 「よかったねぇ、サシャ。この旦那様がお前を引き取ってくださるそうだよ」 いつもと違う猫なで声にサシャは嫌悪感を覚えたが、務めて平静を装うようにした。 ここから出られるという期待と、また酷い目に遭うかもしれないという不安の中、サシャは少ない荷物をまとめた。 連れてこられた場所を見て、サシャはポカンとしてしまった。 老紳士の身なりの良さから、お金持ちであることはなんとなく感じ取っていたが、実際に目にする建物と、使用人の多さに面食らってしまったのだ。 「帰りなさいませ、旦那様」 出迎えた使用人に帽子と上着を渡し、老紳士はサシャを自分の横に立たせた。 「今日から、この子もこの屋敷の一員になる。皆、よろしく頼むよ」 老紳士が肩に手を置いたので、サシャは慌てて挨拶をした。 「サシャ、サシャ・エルガシャと言います。よろしくお願いします」 サシャは使用人にしては広い一室を与えられ、困惑していたが、もしかしたらこの屋敷では珍しい事ではないのかも、と思い直していた。 それくらい広く、立派なお屋敷だったのだ。 ベッドに腰掛け一息吐くと、ほどなくドアがノックされた。 サシャが返事をすると、年長のメイドが部屋に入ってきた。 「今日からメイド長の私があなたの教育係です。厳しく指導するつもりなので、気を引き締めてかかる事。いいですね?」 「はい」 「まずは身なりを整えてもらいます。着替えの前に体を洗った方がいいようね」 肌の色でそう言われたのかとサシャは体を固くしたが、違った。 「こんなに汚れて、一体どういう生活を送らされてきたのやら」 メイド長がサシャの服をはたくと、埃が舞った。 「どうだね、あの子は」 老紳士――この館の主人が尋ねると、メイド長は口を開く。 「言いつけはきちんと守るし、飲み込みも悪くありませんが、皆となかなか打ち解けられないようで、少しやりにくいですわ」 メイド長は一つ息を吐いた。 「そう、か……」 主人は時計に目をやり、少し思案すると、アフタヌーンティーの時間にサシャとこの部屋に来るよう指示を出した。 メイド長と共に、ワゴンを引いてサシャが書斎を訪れると、椅子に座るよう促された。 サシャが戸惑っていると、メイド長が椅子を引き、有無を言わさず座らされる。 「あ、あの……」 「いいから座っていなさい」 腰を浮かせるサシャを主人は制した。 メイド長がワゴンからテーブルにティータイムのお菓子を移していく。 「それは私がやるから、君は下がりなさい」 「かしこまりました」 紅茶を淹れようとしたメイド長を止め、彼女を下がらせる。 「サシャ、紅茶を飲んだことはあるかね?」 上流階級の嗜好品である紅茶を飲んだ事などあるはずもないサシャが首を振ると、主人は入れ方の説明をしながら紅茶の準備を始めた。まじまじと紅茶の準備を見るのはこれが初めてだった。 こういう事は使用人に全てさせていると思ったサシャは、主人の手際のよさに驚いていた。 「さあ、飲んでみなさい」 自分の前に置かれたカップを両手で包み、サシャは紅茶を一口含んだ。 「美味しい!」 「それはよかった。さあ、もっと飲みなさい。スコーンもどうかね?」 勧められるまま、見よう見まねでスコーンを割り、添えられたクロテッドクリームをたっぷり塗って口に入れる。 「!」 サシャが驚いた顔で主人の顔を見る。 「気に入ったかね?」 「はい、とっても美味しいです! こんなに美味しいもの、初めて食べました」 思わず口に含んだまま喋ってしまったが、主人は何も言わなかった。 作法も何もないサシャの姿を見たら、メイド長が卒倒しそうだ、と主人は思い、笑いを噛み殺した。 「そんなに気に入ったのなら、時々私とティータイムを楽しんでくれないかな?」 「いいんですか?」 「もちろんだよ、一人でティータイムを過すよりずっといい」 「ありがとうございます」 明るくなったサシャの表情を見て、主人もまた微笑んだ。 それからというもの、サシャは積極的に他の使用人や料理人に声を掛け始めた。 サシャの心に旦那様に自分の淹れた紅茶を、自分の作ったお菓子を食べていただきたいとの思いが湧き上がったからだ。 日に日に母を失った悲しみよりも、旦那様に尽くしたいという思いが強くなっていった。 自分は恵まれていた。 メイドの仕事もあったが、きちんとした教育も旦那様は受けさせてくれた。 仕事と勉強のスケジュールが無理のないように組まれ、一月に何度かゆっくり休息の取れる日もいただけた。 仲良くなったメイド仲間に聞くと、ここの待遇は格段に良いらしい。 それでも、サシャに対する待遇は抜きん出ているように思えた。 「アンタ、そのうち旦那様の養子になったりして」 そう、冗談めいて言われた事もあった。その時は、まさかそれが現実に起こるとは思わなかったけど。 だから、養子縁組の話が出てきた時は驚いた。嬉しい気持ちともったいない気持ちで返事を返せない日々が続いた。 皆、祝ってくれた。不思議な事に妬まれる事もなかった。 幸せに包まれるなか、ある日なんの前触れもなくワタシは覚醒してロストナンバーになった。 世界司書からの依頼をこなすのは仕事が休みの時だけ、と決めていたので誰にも訝しがられなかった。 だけど…… 「ねえ、あの子、なんかおかしくない?」 ロストナンバーとなって数年が経った頃、ヒソヒソとメイド達がサシャの噂話を始めたのだ。 「なにが?」 「あの子、全然変わらないわよね?」 「なあに、嫉妬?」 「違うわよ。……ねえ、これ見て」 メイドが取り出した二枚の写真。数年前の写真と今の写真。 「やだ、本当。全然変わらないわね」 「でしょ。私、最近気味が悪くて……」 ロストナンバーになってから、楽しかった日々が少しずつ壊れていっているみたいだった。 だけど、そんな噂が流れても、旦那様だけはなにも変わらなかった。変わらず私を養子にと望んでくれている。 何度か、旦那様だけには本当の事を言おうと思ったけど、できなかった。 本当の事を打ち明けても、旦那様はきっと受け入れてくださるだろう。そう思いながらも万が一、旦那様のお心さえも失ってしまったら、と思うと恐ろしくて勇気を出せなかった。 秘密を抱え、耐え切れなくなったワタシは、とうとう屋敷を出て行く事にした。誰にも何も告げず、書置きだけを残して。 ターミナルで暮らすようになってからも、お屋敷や旦那様の事が頭から離れなかった。忘れようと思っても無理だった。 ある時、そっとお屋敷を覗きに行くと、様子がおかしい。 何がおかしいのかわからないまま、じっとお屋敷の様子を窺っていると、メイド長が駆け寄ってきて、ワタシの腕を掴んだ。 「あなた、一体今までどこに行っていたの?」 凄い剣幕で言われ、屋敷の中へと引っ張って行った。 広間に棺が置かれ、喪服を着た人々が啜り泣いていた。 嫌な予感がした。心臓が激しく鳴っている。 一歩踏み出すごとに響く、自分の靴音が耳にうるさい。 棺の前で止まり、ゆっくりと視線を顔へと向けた。どうか違っていて欲しいと願いながら。 だけど、ワタシを待ち構えていたのは最悪の結果。 嘘よ、嘘よ、こんなのは夢。そうに決まっている! いいえ、嘘じゃない、現実よ。どうして屋敷を離れたの? 旦那様の傍を離れたの? ――旦那様! 激しい後悔が胸に渦巻いた。 サシャにぶつかった女性が、謝りながら脇を通り抜けて行った。 はた、とサシャは自分の頬が濡れている事に気付いた。 「やだ、ワタシったら……」 流れた涙を袖で拭い、空を見上げる。あの時の旦那様の言葉で、もう、うじうじしないって決めたのだ。 だから、涙はもうおしまい。
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