ゼロは聞いたことがあったのです。 ターミナルの『ジ・グローブ』というお店には、とても素晴らしい腕をした仕立て屋さんがいて、どんな人にも希望通りの服を仕立てることが出来ると。 シーアールシー ゼロは世界図書館へ来ていたが、それは依頼の為ではなかった。司書と思しき人物を捕まえて、目的の場所までの交通手段などを尋ねる為だった。 「ゼロは『ジ・グローブ』というお店に行きたいのです」 袖口を掴まれた司書は、自分よりもはるかに低い位置にある顔を見詰め返す。 「リリイ・ハムレットの店か……」 司書の呟きともとれる言葉にゼロが頷いて見せると、司書はメモ用紙を取り出しペンを走らせた。 「ほら」 司書が無表情にメモ用紙を渡すと、ゼロはメモに目を落とした。そこには簡単な地図とトラムの停留場が書かれてあった。無愛想ながらも案外親切な人物のようだとゼロは思う。 「あ、ありがとうございます」 司書にゼロが礼を述べると、彼は頷き、その場を離れる。 司書さんは忙しいのですね。 そんな感想を抱きながら、ゼロはメモ用紙を握り締め、さっそく最寄の停留所へと向かった。 メモに書かれてあった停留所へ着くと、ゼロはベンチへ腰を下ろし、トラムの到着を待った。 「あとはトラムが来るのを待つだけなのです。……あっ!」 ゼロがベンチに腰を下ろして、ものの一分もしないうちにトラムが滑り込んできた。 「ラッキーなのです」 ゼロが足取りも軽く車内に乗り込み、座席に座ると、トラムは静かに発進する。 カタン、コトン…… 一定のリズムを刻みながらトラムは進む。 「ふぁ……」 ゼロは心地よい揺れに眠りを誘われ、瞳を閉じる。 アナウンスが流れればきっと目が覚める、そう信じて疑わずに。 けれども、このトラムは目的地には到着しない。 ゼロは乗るべきトラムを間違えていた。ゼロが乗ってしまったのは目的地と逆方向へ向かうトラムだったのだ。 ――ガタン 大きな振動に体を揺さぶられ、ゼロは目を覚ます。 「着いたのでしょうか?」 ゼロがきょろきょろと辺りを見渡すと、トラム内の乗客がぞろぞろと降りていくのが見えた。ゼロ以外の全員がここで下車する様子を見て、ゼロも慌てて席を立つ。 「待ってください、ゼロも降りるのです」 ゼロの声が聞こえたのか、発車しかけたトラムが再び停車する。 ゼロがトラムを降りると、先ほどまでいた乗客達の姿がまったく見えなくなっていた。 「不思議なのです。皆さんお急ぎだったのでしょうか?」 ゼロは首を傾げる。 だが、よく見たらここに存在しているのは無機質なビル群だけで、人の姿はどこにも見当たりはしない。 「どうやら降りる場所を間違ったようなのです。……でも、ここはターミナルのどの辺りなのでしょうか?」 ゼロは確かに停留所で降りたはずなのに、ここにはガイドとなるものが何もなかった。 「これでは、ここがどこだかわかりません。どこかにこの辺りの地図はないのでしょうか?」 ゼロは溜息を一つ吐いたあと、線路伝いに歩き始める。 歩けど歩けどゼロの目に映るのは、ビルと街路樹と道路にのびる線路のみ。 朽ちてはいないが、ここはまるでゴーストタウンのように見える。 いったいどのくらい歩いただろうか。時計を持っていないゼロに知るよしはない。 「少し疲れました」 疲労を感じたゼロが、休めるところはないかと視線を巡らせたその時、丸っこいものがころん、と路地から転がり出てきた。 「セクタン?」 転がり出たそれは、タタタッと慌てて路地へと戻っていった。 「ああっ、待ってください!」 セクタンがいるということは、コンダクターもここにいるということでは? そう思ったゼロはセクタンを追って駆け出した。 「!」 ゼロが路地を覗き込むと、そこにはたくさんのセクタンがぎゅうぎゅうに詰まっていた。 「こんなにたくさんのセクタン、いったいなにが……?」 どこから溢れ出ているのかわからないが、セクタンの数は見る間にどんどん増えていく。 ゼロが呆然としていると、セクタンはあっという間に路地から溢れんばかりに増殖していた。 「ひゃあ!」 それは表面張力よろしく限界まで張り詰めると、ゼロを巻き込んでとうとう路地から溢れ出てしまった。 「目がまわります~」 ゼロは色とりどりのセクタンに押し流され、もみくちゃにされながらもなんとか脱出を試みる。 しかし、もがけどもがけどセクタンの群れからの脱出は叶わず、何処とも知れない場所まで流されてしまった。 「う、うん……」 ザザン、ザン…… 疲れ果てたゼロの耳に潮騒の音が響く。 身を起こして見れば、雑草の生い茂った断崖にゼロはひとり、取り残されていた。 あれだけいたセクタンの姿が見あたらない。そして、人の姿も相変わらず見つけることはできなかった。 「ターミナルに海なんてあったでしょうか?」 疑問が口からついて出た。 そろりと崖から下を覗いて見ると、結構な高さがあった。瞬間、ゼロの目が眩む。 「ここにいては危ないのです」 這いずるようにして崖から後退った。落っこちては大変だ。 一息吐いたあと、ある可能性にゼロは思い至った。 「もしかしてここは、誰かのチェンバー? でも……」 人の姿はない。 「まったく訳がわからないのです」 しかし、このまま立ち尽くしても事態は進展しそうにない。 「とにかく、人がいそうなところに行ってみるのです」 ゼロが一歩足を踏み出したとたん、足元の地面が崩れ、ポッカリと開いた闇の口に悲鳴と共に飲み込まれてしまった。 ビクン! ゼロは自分の体の反応で目を覚ます。 ぼんやりとした頭でキョロキョロと辺りを見渡すと、いつもと同じターミナルの風景が目に飛び込んできた。 ガタンゴトンと揺れるトラムの車中で、ゼロは眠っていたようだった。 「今までのは……夢?」 でも、ゼロの胸中に微かな不安が芽生える。 夢はゼロの学習の場でもあった。だとしたら、何かを暗示しているのではないだろうか。 「あの、このトラムは『ジ・グローブ』まで行きますか?」 不安になったゼロは乗客の一人を捕まえて尋ねてみた。杞憂であればよいのにと思いながら。 「『ジ・グローブ』? ああ、あの別嬪さんの店か。行かないよ。あっちのトラムに乗らないとダメだね」 「そんなぁ……」 ゼロはショックを受けながらも納得する。 ――あの夢はこの事を暗示していたのですね。 慌ててトラムを降りるゼロに向かって、先ほどの乗客が叫ぶ。 「ちゃんと行き先を確認してから乗るんだよ」 「はあい」 親切な乗客にゼロは手を大きく振って応えた。 「大丈夫かねぇ」 動き出したトラムの車中で、乗客は心配げに彼女の後姿を見送った。 「今度は大丈夫なのです」 ゼロは自信たっぷりにトラムに乗り込んだ。 最初はトラムの行き先をきちんと確認していなかったから間違えたのだ。今度はちゃんと確認した。あとは降りる場所を間違えなかったら問題ないのだ。 カタン、コトン…… トラムの規則正しい揺れに身を委ねていると、またもや瞼が重くなってきた。 「いけないのです。今度はまどろんではダメなのです……」 ふるふると首を振り、そう口に出しては見るものの、睡魔の誘いには到底逆らえそうになかった。 抵抗空しく、ゼロの瞼は閉じられていった。 車内アナウンスの声に、ゼロはハッとする。 窓の外を見ると、目的地がどんどん遠ざかっていくではないか。 「大変です! 乗り過ごしてしまいました」 成り行き上、仕方なくゼロは目的の場所より一つ先の停留所で降りる破目になった。 「線路をたどれば着くはずなのです。大丈夫です」 気を取り直し歩き出したゼロだったが、その歩がほどなくしてぴたりと止まった。 「困りました。これではどっちに行ったらいいのかわかりません」 複雑に交差した線路を前にゼロは呆然とする。 ニャアーン その時、どこからともなくゼロの耳に猫の鳴声が飛び込んできた。 「ネコさん?」 声のした方へ、顔を向けると猫の尻尾が建物の間で揺れていた。 ゼロは線路猫の尻尾を交互に見詰め、猫について行くことに決めた。 「なんだかついて来いと言っているように思うのです。ネコさんに賭けてみるのです」 ただの思い込みかもしれないが、ゼロにはそうすることが最善の策に思えたのだ。 ゼロは猫を見失わないように、必死についていく。 猫の姿を見失うと必ず猫の声が聞こえて、猫の尻尾を発見する。その繰り返し。 道順なんて関係ないと言わんばかりに猫は気ままに建物の間をすり抜けていく。路地裏と街中を気紛れに折れ曲がっていった。 「ネコさんのお散歩コースなのでしょうか?」 喫茶店、本屋、待ち合わせに使われている像、公園、雑貨屋。色々なお店や場所、そして人々を縫って歩く。 ゼロは猫を追いながら、人々の様子を眺めていた。 そうこうしているうちに、猫はあるお店の中にするりと入って行った。 少しだけ開いていた扉が、猫を招き入れたとたん、ぱたんと閉じた。 猫が入った店の看板は『ジ・グローブ』。 「着きました! ゼロはついにたどり着いたのです!」 思わずガッツポーズをつくる。 「はっ、まだ目的が達成されたわけではありません。ゼロは服を作ってもらいにきたのです」 我に返ったゼロはそろりと扉を開け、店の中に足を踏み入れた。 店内に人の姿はなく、机の上に白黒のまだらの猫が寝そべっているのみだ。 「あなたがここに連れてきてくれたネコさんですか?」 小さな手でそっと撫でると、猫は顔を隠すような仕草をして寝返りをうった。 さて、店主を呼ぶにはどうしたものか。 声を張り上げて猫の安眠を妨げるのはしのびない。 よくよく見れば、机の上に呼び鈴が置いてあった。これを使えば店主が出てきてくれるのだろうか。 しかし、鳴らせば猫が起きてしまうのではないだろうかと、ゼロはしばらく迷った。 だが、迷っているだけでは埒が明かない。ゼロは意を決して呼び鈴に手を伸ばす。 その時だ、 「あら、いらっしゃい。小さなレディ」 呼び鈴を押す前に店主であるリリイ・ハムレットが姿を現した。 「ちょうどよかったわ。一緒に紅茶でもいかが?」 「いえ、ゼロは飲食を必要としないのです。けっこうです」 「そう? 残念だわ」 ターミナルには色んな人種がいる。リリイはそれを承知しているので、さして気にしないといった態で返した。 それでも少し申し訳なさそうにしているゼロに話題を切り出した。 「ふふ、ここにいらしたという事は服をご要望なのでしょう?」 「そうなのです。ゼロは服を作ってもらいに来たのです」 リリイが声をかけると、ゼロはぱっと顔を上げ、答えた。 目の前にはリリイの笑顔。 微笑むリリイを見て、ゼロはほっと息をつく。 「ゼロは何も必要としません。そんなゼロと似た特性の服を作ってもらいたいのです」 「何も?」 リリイが僅かに眉をひそめ、首を傾げる。 「はい。まったく汚れることが無く、洗濯も手入れも修繕も永久に不要。ずっと着たままで問題ない、そんな服をお願いしたいのです」 ゼロの注文を聞いたリリイは軽く溜息を吐いた。 「申し訳ないのだけれども、貴女の望むような服は当店ではお引き受けできませんわ」 「何故なのですか? ここはどんな人にも希望通りの服を仕立て上げるとゼロは聞いたのですが」 「ええ、もちろん。どのような服でも、ご注文があればお仕立て致しますわ」 「では……」 食い下がるゼロにリリイは首を振った。 「私の言う“望み”と貴女の“望み”が根本的なところで違っているのよ」 「?」 ゼロはわからないといった感じで首を傾げた。 机の上で寝そべっていた猫――オセロは、呆れたような視線をゼロに投げかけている。 どうしてネコさんまでそんな目で見つめるですか? 何故にー? 自分とオセロを交互に見ながらおろおろとしているゼロに、リリイは言った。 「そうね、貴女がここに来るまでにいくつかお店の前を通ったと思うのだけど、そこにいる人達はどんな様子だったかしら?」 リリイに言われてゼロは思い返してみる。 色んなお店に色んな人達がいたけれど、それぞれが自分に合った服を着ていた。 恋人同士と思われる二人組みは二人が並んでも違和感の無い格好を。しかしながら、普段よりもお洒落な服装に身を包んでいた。 ブティックで買い物していた女性は様々な服を手に取り、試着をしては一喜一憂していた。 また、カフェや本屋の店員はその店に合った合理的な服装で働いていたのを覚えている。 ハッとしたゼロにリリイは頷く。 「私がお仕立てしたいのは、その人にとって特別な日に着たいような服であったり、普段着でも、好んで身につけたいと思えるような服なのよ」 ゼロは知っています。時と場所、場合によって物事を変化させること。それをTPOと言うのです。 「貴女の言っている服は面倒を省く為のものであって、喜びをもたらすものではないわ」 真剣な顔で話に耳を傾けているゼロにリリイは続けた。 「それに、残念ながら洗濯も修繕も必要としない魔法の布地はここにはないのよ。ごめんなさいね」 「はう」 そうなのです。希望通りの服を仕立てるということは、どんな物でも作り上げることができるという意味ではなかったのです。 ゼロは学びました。 多くの人が状況に合わせて衣装を変えることで、物事へのモチベーションを高めたり喜びを引き出していることを。 ゼロは大きな間違いを犯していました。 そして、リリイさんの楽しみをも奪ってしまっていたことに、あとで気が付いたのです。 今回は注文しないで帰りました。 もっとよくTPOに合わせて衣服を変えるということへの理解を深めたいと思ったのです。 それからでも遅くないのです。 そして―― 「今度こそきちんと仕立てをお願いするのです」 また、このお店を訪れた時にはリリイはきっと快く迎えてくれるはずだ。 「ようこそ『ジ・グローブ』へ、小さなレディ。お待ちしておりましたわ」 と、微笑みを浮かべて。
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