「なんなのよ、もう!」 これで何度目になるだろうか。 ヘルウェンディ・ブルックリンは怒りにまかせて部屋を飛び出した。 大きな音を立てて閉まったドアの向こうからは罵声が飛んでいるが知るものか。 「せっかく、上手くやっていけるかと思ったのに……」 あの日、実父である彼に同居を許されて浮かれていた自分が馬鹿だった。 彼の態度は自分が無理やり転がり込んだ時から変わっていない。口を開けば喧嘩口調、憎まれ口ばかり。 今日はとうとう堪忍袋の緒が切れて、ミルクに浸したシリアルを頭からぶっかけてしまった。 「朝から気分が悪いたらありゃしない!」 ヘルは同居させてもらう以上、家事くらいはやろうと思い、あまり得意ではない料理も頑張っていた。 それなのに「お前の料理はクソだ、豚の餌にもなりゃしねぇ」と扱き下ろされ、反省していたところに、朝になってまた穿り返されたのだ。 「見てなさいよ、そのうち私の料理じゃなきゃ食えないって言わせてやるんだから!」 ヘルが肩を怒らせて向かった先は無論本屋だ。さて、どんな料理本がいいだろうか? 相沢 優はクリスマス特集のディスプレイに惹かれて本屋に足を踏み入れた。 クリスマスを彩るケーキや料理、プレゼントの本などが所狭しと置いてあり、電飾を施された小さなツリーがディスプレイの存在を一層アピールしている。 「クリスマスと言えばケーキ。ブッシュ・ド・ノエルかスタンダードなものか迷うな」 パラパラとページを捲りながら今年のクリスマスはどうしようかと悩む。 自作のケーキや料理を友人達に振舞うか、行きつけのチェンバーで皆で賑やかに過ごすか。 「これは俺の一存では決められないか」 ――それとも、特定の誰かと過ごすか。脳裏にパッと一人の少女の姿が浮かんだ。 「いやいやいやいや」 妄想を振り払うようにパタパタと手を振る。やばい、顔が熱くなった。 「あれ? あそこにいるのは……」 ヘルは手を振っている男性に見覚えがあった。 「ねえ、もしかしてあんた『ミッドナイト・カーニバル』で会った人じゃない?」 優が顔を声がした方へ向けると、赤い瞳と黒髪の少女が目の前に立っていた。 「ああ、君は……!」 優の反応で間違っていない事がわかって、ヘルはよかったとひっそり息を吐く。 「ねえ、何の本を見ているの?」 「クリスマスケーキの本さ」 「へぇ、もしかして自分で作るとか?」 「うーん、それを今悩んでるとこなんだよな」 もしかして、渡りに船というやつかしら? 「あんたさ、もしかして料理とか得意な人?」 『ミッドナイト・カーニバル』の時も優が料理の本を漁っていたのを思い出し、もしかしたら指南を受けられるかも、と一縷の望みを賭けて聞いてみた。 「うん、まあ、得意な方だと思うけど?」 「本当!? ねえ、頼みがあるんだけどいいかな?」 「俺にできることだったらいいけど、なに?」 「その、料理をね、教えて欲しいんだけど……」 ヘルは視線を逸らしてもじもじしながら小声で告げる。 「ああ、そんな事? いいよ」 優の快活な返事を受けてヘルの顔が明るくなった。 「やった! 今からでも大丈夫?」 「はは、大丈夫だよ。料理の本はある? 無いなら適当な本を選ばないとね」 ヘルの笑顔につられて優も笑みをこぼす。 「実は無いの。一緒に選んでくれる?」 「もちろん。……ちなみに、君の料理の腕前は?」 「うっ、そっ、それは……」 痛いところを突かれてヘルは視線を彷徨わせた。 「わかった、初心者用のを見繕うよ」 「……オネガイシマス」 ビシッと手を突き出した優にヘルは頭を下げる。 指南役をゲットしたヘルは「見てらっしゃい」とふつふつと闘志を燃やした。 「え!? ナレッジキューブを揚げたぁ?」 「ちょっと、そんなに驚かなくてもいいじゃない」 あっけに取られる優にヘルはちょっと落ち込んだ。 「だって、ゼリーみたいな見た目だし、揚げれば食べられるかな? って思ったんだもん」 「いや、確かにそうだけど……」 ナレッジキューブは人の強い意志に反応して、その望みを反映してあらゆる物質・エネルギーに変成する物質であると世界司書から説明を受けた覚えはあるが、まさかそのまま揚げて食べようとする人間がいるなんて……。 「ちょっと、いつまでポカンとしてるのよ! 失礼ね」 「ごめん、ごめん。でも、大事なのは誰かの喜ぶ顔が見たいって気持ちだからいいんじゃない? いや、ナレッジキューブ揚げはよくないけど。ぐはっ!」 一言多いとばかりにヘルの肘鉄が優の脇腹にヒットする。 「さあ、そろそろ料理の指導をお願いできるかしら?」 ヘルがじろりと睨む。 「わかったよ。ちょっと参考までに聞くけど、今まで作った料理、失敗した料理はなんだい?」 「ジャパニーズリゾットよ。味噌が体に良いって聞いたから入れたのに、塩辛くなっちゃって……。あれは失敗だったわね」 「ジャパニーズリゾット? ああ、おかゆ? まあ、普通はおかゆに味噌は入れないしな」 ヘルは返す言葉もなく俯いた。 「ま、失敗は成功の母と言うし……ん? 父だったかな? 次から気を付ければ問題ないさ」 ヘルは今まで基本もわからず料理していたのかと優は心の中で苦笑した。 「まず、料理初心者にとって大切な事は、必ず本の通りの分量・順番で料理すること。余計な事は一切しない、いいね」 「うん」 ヘルは真剣な表情で優の言葉に耳を傾けている。 「それから、材料は作る前に必ず準備しておくこと。そうしておけば、材料が足らなくて慌てなくてすむし、心に余裕を持ってできるから失敗する事はないはずだ」 ふんふんとメモ用紙を片手にヘルは頷いている。 「料理の上手い下手にかかわらず言える事なんだけど、料理を振舞う相手の苦手な物はなるべく避けること。栄養が偏りそうな場合はみじん切りにしたり、すりおろしたりして分からないように混ぜるといいよ。とは言っても、どうしても食べられない物やアレルギーがある場合は気を付けないといけないけどね」 「アレルギーはなかったと思うわ」 そんなタマじゃないし、とヘルはぼそっと呟く。 「あとは、料理用語を正しく理解すること。この本の後ろに全部書かれてるから分からなければちゃんと本で調べること。わかった?」 「OKよ」 「じゃあ、実践といこうか」 手元のおぼつかないヘルの包丁さばきに優は気が気ではない。 その為、人参やじゃがいも、キュウリなどの皮むきはスライサーを使わせた。それでも気を付けなければ怪我をするが、包丁でザックリといくよりはいくらかマシだろう。 「サラダにタマネギを使う場合は必ず水にさらして」 「さらす? さらすって何よ?」 「水に浸けておくことだよ……って、そっちじゃなくてボウルに水を張ってその中に入れておくんだって!」 ヘルが流しに水を溜めてその中に切ったタマネギを投入しようとしていたので、優は慌てて止める。 「ちょっと、分量以上の水を入れたら駄目だって」 「え? でもこれじゃあ少なくない?」 「野菜から水分が出るからいいんだよ!」 万事が万事こんな調子なもんだから優はものの十数分でくたくたになった。 「ちょっと、これからどうすんの?」 椅子にへたり込んだ優にヘルが若干怒鳴るような勢いで聞いてきた。 「あー、あとは火を弱めて暫く煮込むだけだから、ちょっと休憩しようぜ」 優はヘルを椅子に座らせて自分はコーヒーを入れ始めた。 「ほら、砂糖とミルクは自分で入れろよ」 コーヒーカップとシュガーポット、ミルクポーションをヘルの前に置いて勧める。 自分好みのコーヒーに仕上げたあと、ヘルはコーヒーを喉に流し込む。 程よく喉が湿ったところでヘルが口を開いた。 「ねえ、私の話、聞いてくれる?」 「ん? いいよ」 優の了解を得て、ヘルはぽつりぽつりと話し出す。 「私の家ね、ちょっと複雑な家庭でさ、実は今、半家出状態なんだ」 「半家出?」 「うん、毎日家には連絡入れてるから半家出。でも、もう壱番世界の家には帰らないつもり」 「え?」 「こっちで“お父さん”と暮らそうと思って」 「どういうこと?」 優は訳が分からないといった感じで首を傾げた。 「私ね、お父さんが二人いるの。実父と養父ね。こっちにいるロクデナシが実父で壱番世界にいるのが養父。言っておくけど、お母さんが重婚したわけじゃないのよ。壱番世界じゃ実父が死んだことになってるの」 「もしかして死に瀕して覚醒ってパターン?」 「そうみたい。笑っちゃうわよね、死んだと思っていた男がロストナンバーになってここにいるなんてさ」 「……」 優はどうヘルに声を掛けたらいいのかわからなくて沈黙してしまう。 「ゴメン、同情とかしてもらいたくてこんな話をしたわけじゃないのよ。ただちょっと誰かに聞いて欲しくて話しただけだから、気にしないで」 だからといって家出する理由が優にはわからなかった。 「ええと、それで何故家出を?」 「実父がマフィアなのよ。……で、あっちでは死んだ事になってるじゃない。それで跡目争いがあって、あそこに私がいると家族にも被害が及ぶんじゃないかと思って家出したの」 「君がいなくなったからって、そう簡単にマフィアが諦めるものなのか?」 「諦めるはずだわ。あの人の実子は私しかいないもの。母には何の力もないし、大丈夫なはずよ」 「だからって……!」 優は納得いかなかった。養父の方は守ってくれないのか、家族を守るのが父親の務めだろう? 「それだけじゃないのよ。お母さんに赤ちゃんができたの。養父との子供よ。それで余計に居辛くなっちゃって。……私が居たら幸せな家庭がきっとメチャクチャになっちゃうわ」 「……そうか。なんか、ゴメンな」 「いいって! あんなロクデナシでも一緒に暮らせる人がいるんだもん。平気よ」 これはヘルの本心だった。ひとりっきりなら辛かったかもしれないけど、今はそうじゃない。 なにしろ一緒に居るのはあの男なのだ。寂しいなんて言っていられないほど騒がしい毎日を送る事になるはずだ。この先もずっと。 鍋の蓋がガタガタと音を立て、自らの存在をアピールする。 「うわ、完全に忘れてた」 優が慌てて火を止め、ヘルが鍋の中を覗きこんだ。 「水分はだいぶん飛んじゃったみたいだけど、焦げ付いてはいないみたいね」 「じゃあ、セーフかな?」 優が味見にと箸で具材を取り出し、口に入れる。 「どう?」 ヘルは緊張の面持ちで見守った。 「うん、合格。かな? もうちょっと早く火を止めてたら完璧だったと思うよ」 「よかった!」 太鼓判を押されたヘルは笑顔を見せた。 「ちょうどいい時間だし、君の作った料理で昼食にするかな。あ、それとも持って帰って食べる?」 「ここで食べるわ。晩に腕をふるってあの男を唸らせてやるんだから」 「それじゃ、サラダの仕上げとポトフの盛り付けを頼めるかな? 俺はサンドイッチを作るから」 「私も手伝うよ?」 「すぐできるから大丈夫。ちゃんと後でサンドイッチの作り方も教えるから」 ヘルはサラダ用の野菜を千切りながら、ちらちらと優の作業を窺った。 パンにマーガリンを塗ってレタスを乗せ、その上に細口で搾り出したマヨネーズをかけ、ハム、スライスして種を除いたトマトとチーズを更に乗せて、最後にマヨネーズを塗ったパンで挟む。 それから四方のパンの耳を切り落とし、斜め十字に切って終り。 同じ様な要領で具材を変えたものをもう一つ優は作っている。 テキパキとサンドイッチを作る優を見て、ヘルはなるほど手際が良いと感心した。 「あっと、見とれてる場合じゃないわね」 ヘルはレタスを器に敷き詰め、その上に千切りキャベツを乗せ、斜めに切ったキュウリを見目良いように置く。その上に水気を切ったスライスオニオンを乗せ、コーンを散らし、六つ切りにしたトマトを三つずつ乗せて完成。 ドレッシングは各自の好みでかけるからこれで完成なのだ。 「これでよし、と」 出来上がった昼食はなんだか野菜分が多い気がするけど、ヘルシーだから良しとしようと優と二人で笑った。 サンドイッチを一口齧ってからヘルは口を開く。 「そういえば、あんたはクリスマスどうすんの? プレセントを渡したい人とか一緒に過ごしたい人とかいるの?」 「いることはいるけど……」 「なによ、ハッキリしないわね」 弱々しく笑う優にヘルは焦れる。 「その、気になっている子はいるんだけど、それが好きという感情なのか自信がなくて……」 「自分の気持ちなのに自信がないって、なにそれ」 優の言葉にヘルは呆れた。 「以前付き合ってた彼女がいてね、その人に言われたんだ。本当は私の事好きじゃないよねって。俺は確かにその時は彼女の事が好きだって思っていたのに、でもその一言で揺らいでしまった自分もいて……それ以来、自分の気持ちに自信が持てなくなったんだ」 「ハッ、馬っ鹿じゃない? 自分の気持ちに自信が持てないとか。じゃあ聞くけど、今、気になっている子のこと、どんな風に思っているの? その子のこと、どうしたいと思っているのよ」 ヘルのもの凄い剣幕に押されて、優は改めて自分の気持ちを見詰め直してみた。 「守りたいって思っているよ。彼女が辛い思いをしていたら傍にいて支えてあげられればって思うし」 「それで? もし、その彼女に危険が迫っていたらどうするの? 放っておいたら死んでしまうような状況よ。彼女を置いて逃げるの? 守るの? どっち?」 「守るさ、彼女を決して死なせたりするもんか!」 即答する優を見てヘルは息を吐いた。 「……で、そこまでの覚悟があるのにまだわからないってあんたは言うの? いい、中途半端な気持ちしか持っていない相手に、普通自分の命を懸けると思う? 懸けないでしょ!」 「……うん、そうだね」 俺は馬鹿だ。過去の呪縛にずっと囚われて動けなくなっていたなんて……。人にこうやって気付かせてもらわないとわからないなんて、情けない。 「じゃあ、これからあんたがやる事はわかるわよね」 「えっ?!」 ズビシと指でさされて優はたじろぐ。 「え?! じゃないわよ。告白よ、こ・く・は・く! 男ならバーン! とぶつかりなさいよ!」 「いや、それは……」 「なによ、文句あるの? 私は料理であの男をぎゃふんと言わせるのよ。その為にはどんな努力だってしてみせるつもりよ」 そうよ、どんな罵声にだって挫けるものか。 「だからあんたは、あんたの男気を見せてみなさい! いいわね」 「わ、わかった」 半ば強引に約束させられてしまったが、優は腹を括った。 彼女に想いを伝えてみよう。砕け散るかもしれないけど、それはそれでかまわない。 優は一歩前に出ることを決意した。 「あーあ、いいなぁ。私にもいい人現れないかな?」 そうしたら私のこと、ヘルじゃなくて――って呼んでもらうのになぁ。 小さな願いを胸にヘルは帰る。あの、ロクデナシ男のもとへ。
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