暗闇の彼方で、夜より黒い森が鳴っている気がする。 (……またか) コップの水を飲み干し、老人の腕がだらりと下がった。森の音は止まない。耳鳴りだと言い聞かせ続けて何年になるだろう。 ひたり。蛇口に残った水が静寂を打つ。何かの足音のようにすら聞こえ、筋張った手からコップが落ちた。 耳の奥で、森の唸りが規則的なエンジン音へと変じていく。 ◇ ◇ ◇ 一九四五年、春。 「またか」 レーダーを睨みつけ、男はいつものように呟いた。まっすぐ飛んでいる筈なのに、示される航跡は不可解に歪んでいる。何かを迂回しているようにすら見えて、風防越しに視線を落とした。いつもの、黒々とした森が広がっているだけだ。 計器の故障だろうと初めは思った。しかし同じ現象が同じ空域で続き、パイロットたちは首を傾げた。地磁気ではないかと言う者もいたが、男は釈然としなかった。哨戒飛行のコースであるこの一帯は、激化する戦局が嘘のように――あたかも異世界に迷い込んだかのように――静かなのだ。 「報告だけはしておくか」 自分に言い聞かせるように呟いた時だった。レーダーに機影が映り込んだのは。 油断したと舌打ちするより早く操縦桿を引いていた。乱暴なGが胴体を押し潰し、不格好な複葉機が風防を掠めていく。雷鳴のような銃声。くぐもった衝撃が腹を揺する。敵機の数は一、二、三。こちらを嘲笑うようにくるくると飛び回っている。まるで羽虫だ。死体にたかる羽虫の群れだ。 「クソが!」 金属の溶ける臭いが鼻をつく。視界の端で黒煙が上がる。とうとう機体が錐揉みを始めた。逆Gで胃の腑が浮き上がり、吐き気がせり上がる。炎の舌が黒煙を舐めていく。それすら呑み込むように真っ黒な森が迫る。 どれくらい経っただろう。 ひたり、ひたり。森の底に放り出された男の元に足音のようなものが近付いてくる。 (だ、れ……だ) 体が熱い。霞む視界の中、黒煙よりなお黒い外套が陽炎のように揺れている。 「……やはり機械は誤魔化せんか」 厳かな声と共に首筋に熱が突き刺さる。同時に、雨が降り注いだ気がして―― 男ははっと目を見開いた。 古く、重厚な木の梁が視界に飛び込んでくる。見覚えのない天井だ。寝台に横たわっているのだとようやく気付いた。 「な――」 跳ね起きようとした途端、焼けるような激痛に貫かれた。頭だけを辛うじて動かす。古めかしい木枠の窓に、サイドボード。 (何だ。狂ったのか?) 異世界に迷い込んだのではないかとすら訝った。寝かされていたのは、素朴な、中世そのものといった小部屋だったのだから。 体には包帯が巻かれている。どうやらあの世ではないようだが、捕虜にしては扱いが丁重すぎる。慎重に記憶を辿った。撃墜され、半ば意識を失いながら何を見たのだったか。いや、それよりも、喉に焼けつくこの渇きは何なのだろう。 不意にがちゃりとドアが開いた。入ってきたのは骨董品じみた水差しを手にした中年の女だった。 「目が覚めたんだね。分かる? あんた、何日か眠ってたんだよ」 「……ここは。あなたは」 「旅籠さ。あたしはここの主人」 「はた……ご」 時代がかった単語を茫然と復唱するしかなかった。女は「そう」と肯きながら木製のコップに水を注いだ。 「さ、飲める?」 コップが口にあてがわれ、男は喉を鳴らして飲み干した。足りぬと体が叫んでいる。必死に目で訴えると、女主人は二杯目を注いでくれた。こぼれた水が、血の筋のように顎と首を濡らした。 「運が良かったねえ。墜落して死にかけていたところを領主様に癒していただいたんだよ」 女主人はゆっくりと事情を話してくれた。 「あたしたちの家は代々ここで旅籠をね。今度ばかりはどうなるかと思ったけど――」 静かな風がカーテンをくすぐっている。のどかな陽光と一緒に、子供たちの笑い声までもが差し込んでくる。 「だって、外は戦争なんでしょ? だけどここは大丈夫」 これも「領主様」のお力なのだと女主人は目を細めた。 聞けば聞くほど不可解な話だった。 マッピングレーダーによればこの一帯は森である筈だし、コックピットから見えたのも黒々とした木々だけだ。しかし女主人の弁によればここには千年以上も前から街があったことになる。 「領主様はこうやってずうっと街を守ってきたんだ。どれくらいかなんて誰も知らない。分かってるのは、ものすごく長い間だってことだけ」 女主人の言葉はやはり理解不能で、男は曖昧に相槌を打つだけだった。 燃え盛る機体と共に墜落したというのに、半月もする頃には出歩けるまでに回復した。旅籠の周囲を散歩しながら、ますます奇妙な心持ちに陥った。街は至って平穏で、シェルターか何かで隔離されているようですらあったのだ。おまけに農地では人々が汗を流し、往来では馬車が行き交っている。まるで歴史の教科書の挿絵だ。そもそも領主という語からして非現実的すぎるではないか。 (この街だけ時間が停まっているとでもいうのか) しかし男はこの地に立っている。五感の全てが、これが夢などではないことを声高に伝える。 ならばあの時見た黒いコートは――。 「……う」 記憶を手繰り寄せようとした途端、首筋が疼いた。鈍い楔を打ち込まれたかのように。高熱に似た浮遊感と口渇に襲われ、甕に顔を突っ込んで水を貪った。 『領主様に癒していただいたんだよ』 女主人の言葉が脳裏にこだまする。この旅籠に限らずあちこちで領主の話を耳にするが、男は領主の姿を見たことがない。しかし聞こえてくる風説は現実的で、領主はこの街に息づいているのだとすぐに確信した。街そのものが、何かとても巨大な、マントに似た物でくるまれているようにすら思えた。 (傷を治癒したり、戦争から街を守ったり……何者なんだ?) そぞろ歩きに街道を辿った。ざあざあと、ノイズに似た音が鼓膜に纏わりついている。耳鳴りにも、森の唸りにも思えた。建物の遠景の向こうに黒々とした針葉樹林が霞んでいる。 「ねえ」 と、唐突に声をかけられた。視線を落とすと、街の子供たちがこちらを見上げていた。 「兵士さん?」 一人の子供が男を指し、たどたどしく尋ねた。 「森に落ちたでっかい化け物みたいの、兵士さんの?」 「そうだよ」 「あのでっかいので空をとぶの?」 「ああ」 「雨は兵士さんがきたから?」 「ん?」 意味を図りかね、首を傾げる。子供は小さな腕をぱたぱたとさせながら興奮気味に言葉を継いだ。 「兵士さんが落ちてきた時に雨降ったでしょ」 「領主さまがお出ましになったんだ」 「兵士さんは領主さまと会ったの?」 「……どういう意味だい?」 鳥肌に似た雨の感触が皮膚の上に甦る。 「領主さまはね――」 「およし!」 女の金切り声が響き渡る。男が激しく目を瞬かせていると、街道の脇からまろび出た女が子供たちを抱き取ってしまった。 「……すみません。取り乱してしまって」 母親だろうか、女は子らを守るようにしながら頭を下げた。 「この街の言い伝えなのです。雨はおそれなければならない、と」 伏せがちの目の中で畏敬とも畏怖ともつかぬ色が揺れていた。 ざわざわと森が鳴っている。 男は圧迫感めいた息苦しさを覚えながら頭上を仰いだ。黒く尖った木々の向こう、太陽が真っ赤に焼けながら没しつつある。じきに、森と同じ色の闇が来る。 『領主さまのお力だよ』 『雨はおそれなければならない、と』 相反する表情が交互に脳裏で瞬き、男は眉間を強く揉みしだいた。考え過ぎだ。疲れているのだ。 しかし男は自らの意志でこの森に踏み入った。領主の影を求めるようにして。 「……機体が気になるだけだ」 自らに言い聞かせるように呟く姿を黒衣の針葉樹たちが見下ろしている。 墜落地点はほどなくして見つかった。金属と樹脂の焼ける臭いが鼻腔の奥に甦る。機体の残骸は見当たらず、影のように黒々としたケロイドが地面にこびりついていた。 ざわざわと木々が鳴っている。 ふと、湿った土のにおいが陽炎のように立ち上った。実際、目の前の空気がゆらゆらと揺れた気がした。 「――――――!」 ざわり、と男は総毛立った。 昼と夜の狭間の薄闇、物が一番見えにくくなる刻限で、地面に焦げ付いた影の中から『彼』が現れたのだ。 「だ、れ……だ」 梢から差し込む斜陽の下で黒い外套が揺れている。死人のように蒼白な肌、銀に近い金色の髪、凍った湖のような青の瞳――。 (領主か) 訳もなくそう確信した。そうさせるだけの圧倒的な――恐らくは、生まれ持った絶対的な――空気が『彼』にはあった。 「歩けるようになったのか」 堂々たる、しかし底の見えぬ双眸で領主は言った。男はごくりと喉を鳴らしながら肯いた。舌が、乾いた口蓋に貼り付いていた。 「また『外』が騒がしくなる」 領主はちらと頭上を仰いだ。男もつられるようにして倣うが、槍のような木々が夕焼けの空を突いているばかりだ。しかし領主は騒音に顔をしかめるようにわずかに眉根を寄せていた。 「そ……そうだ。この街はなぜ……俺に何を――」 男は喉に言葉を詰まらせた。領主の姿が消えたのだ。 「つぶさに知る必要はない」 次の瞬間、抑揚のない声が背中を打った。 「所領は結界で隔離している。傷には私の力を与えた。それだけだ」 何かを確かめるように、冷たい指先が首筋をなぞる。小雨のような鳥肌が全身を渡り―― 男ははっと目を見開いた。 「おや。起きた?」 視界に、旅籠の女主人が顔を出す。ベッド。木枠の窓。サイドボード。慌てて体を起こそうとすると、女主人の手で寝かしつけられた。 「森で倒れてたんだよ。あんな所で何やってたの? 病み上がりなんだからおとなしくしてなきゃ」 「森で……」 慎重に記憶を手繰る。脳裏に甦る光景はあまりに朧で、夢でも見たのかと思うほどに判然としない。あるいは本当に夢なのだろうか。全身をじっとりと濡らす汗は悪夢の名残に似ていた。 「蒸すねえ」 女主人は古めかしいハンカチで首筋を拭った。 「済まないね。雨だから、窓を開けられなくて」 「……雨?」 男は血相を変えて屋外へと飛び出した。そして茫然とした。 寝汗のように纏わりつく雨。水底に没したように暗い街の彼方に、深く黒い森が聳えている。 ◇ ◇ ◇ 取り落としたコップを拾い、老人は再び蛇口をひねった。憑かれたように水を貪る。手が震えている。こぼれた水が血の筋のように顎から首へと伝い落ちていく。 結局、あの街にはふた月ほど滞在した。帰郷した頃には国は降伏し、大戦は終結への道を歩み始めていた。街の外では――当たり前のことだが――相変わらず時間が流れていたのだ。男は混乱した。しかし領主の言葉が耳にこびりつき、すぐに思考を放棄した。 終戦から四十年。あの街での出来事が何だったのか、未だに分からない。楔を打ち込まれたような首筋の痛みはじきに消えた。だが、無意識に首筋に手をやる度、無機質に冷たいあの指の感触が甦るのだ。 それに、夜中にひどく喉が渇いて水を飲みに起きることが増えた気がする。いくら飲んでも足りぬ、飢えに似た渇き。 (……考えすぎだ) いつしか空はうっすらと白み始めていた。眠り直す気にもなれず、老人はラジオのスイッチを入れた。 「それでは今日のお天気です。各地とも雨の一日になるでしょう……」 湿気と土のにおいが漂ってくる。耳鳴りは止まない。森の声、あるいは雨音なのかも知れないが。 (了)
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