カ、カ、カン。カ、カ、カン。女がひとりで踊っている。 翻るドレスは花のよう。尖ったヒールに尖った爪。夜を踏みつけ、高く手を鳴らし、女はくるくると舞い続ける。 本当に踊っているのだろうか。ただ酔っているように見えなくもない。 カ、カ、カン。カ、カ、カン。ヒールに踏まれ、また一人。手を鳴らす度、もう一人。女の足元では男たちが芋虫のように蠢いている。 女は踊りに夢中だったから、頭上の蝙蝠に気付かなかった。 蝙蝠は旋回を繰り返し、夜の果てへと飛び去っていく。 女は四十で死に、蘇った。直後は混乱し、とにかく自分を確認しようとした。しかし邸内のどの鏡にも姿は映らない。やがて下男に目撃され、彼の悲鳴に追い立てられるように邸を飛び出した。 人目を避けるように森へ逃げ込み、震えながら数日を過ごした。自身の力に気付いたのはその間のことだ。女は高らかに笑い、堂々と邸へ戻って鏡を粉砕した。寝室のドレッサーを。姿見を。次いで鏡の間を。鏡張りの広間は忌まわしい牢獄だった。ドレスの下の足さばきや手袋を外すしぐさまでもが来賓に晒されるのだ。 ――みっともない。 ――育ちが分かるようじゃないか。 女はいつだって貴人たちの嘲笑の的だった。 ――恥知らずめ。自分の姿をよく見てみるんだな。 馬鹿で粗暴な夫は女を蔑み、折檻を加えた。十三で嫁いだ女は鏡の前で所作を叩き込まれた。娘たちが着飾って笑いさんざめく年代を鏡の間で過ごしたのである。 それが今はどうだ。鏡は自分を映さない。自分は鏡から解放された。女は笑い、幼児のように腕を振り回しながら鏡を壊し続けた。長く伸ばした爪は真紅のマニキュアで彩られている。若い娘でも躊躇うような鮮烈なこの赤に女は迷わず飛び付いた。淑女を演じる間は爪を飾ることすら許されなかったのだから。 駆け付けた衛兵は泡を食ってとんぼ返りし、間もなく夫がやって来る。女はまた笑った。もし彼女に血が通っていたなら、艶のない頬は少女のように上気していただろう。 「ご機嫌麗しゅう」 家人たちの前で滑らかに膝を曲げてみせる。この身に染みついた作法通りに。 「わたしは自由よ」 彼女が膝を曲げたのはこの時が最後だった。 家人たちは支配し、下僕となした。次に女は服を選んだ。若い娘が着るような、ひらひらとした真っ赤なドレス。口紅も真紅だ。髪は結い上げ、引き出しにしまい込んでいた薔薇の香水を振りかけた。歳を考えろだの品がないだのと詰る家人はもういない。 カ、カ、カン。カ、カ、カン。真っ赤なドレスに真っ赤な靴。即興の歌を作り、踊る。韻も律も関係ない。ただただ自由を謳いたいだけ。 やがて自警団がやって来た。剣を振りかざす男どもはひどく愚鈍に見え、女はあっさり背後を取った。後は首筋を一噛み。たったそれだけで相手はしもべと化すのだ。意志を失ってひれ伏す男たちに女はますます高揚した。 「わたしはわたしの人生を生き直すの」 カ、カ、カン。カ、カ、カン。ヒールに踏まれ、また一人。手を鳴らす度、もう一人。下僕の山のてっぺんで、女はひとり舞い続ける。 どこからともなく蝙蝠が舞い込み、真っ赤なドレスに封筒を落とした。 「“注意”……?」 女は不機嫌に眉を吊り上げた。長老会なる組織からの書面だ。現在の振る舞いは秩序に反するので即刻止めるようにとしたためられている。硬質な手蹟がひどく不快で、女は舌打ちしながら書簡を破いた。わたしはわたし、誰かに評価されるのはもううんざり。何ものにも縛られたくない、自分の意志のみに従って生きたい、それだけのことなのだ。 カ、カ、カン。カ、カ、カン。女の独演は今宵も続く。頭上で蝙蝠が飛び交っている。偵察のつもりなのだろうか。女はドレスをさばき、しなびた腿を露わにしながら踊り続けた。下僕の山が増えていく。女はまた香水を浴びた。むせ返るような薔薇の香り。ますます酔い痴れ、陶然とする。 数日後、蝙蝠が再び封筒を持って来た。 『警告』 威圧的な文面。前回と同じ文面の後に、期日までに改善が見られなければ長老が向かうと記されている。 「馬鹿馬鹿しい」 破り捨てようとした時、流麗な追伸が目に入った。 『薔薇の香水は加減が難しい。使い方を指南しても良いのだが』 「追伸を書き足したのは?」 「さあ……少なくとも彼ではないだろうがね」 金眼の長老が隣席に流し目を送る。視線を受け、青い目の長老がゆっくりと立ち上がった。 「これから向かう」 眉ひとつ動かさずに議場を睥睨する。他の長老たちは肩をすくめた。 「やはり初めからこうすべきであったな」 「結果論にすぎん」 黒い外套を翻し、青い目の長老はその場から消える。 湿度がひんやりと煮詰められ、誰かがうっそりと呟いた。 「雨だな」 長老や長老会という存在は耳にしていた。しかし女は深く調べようとしなかった。要はお偉方の組織なのだろう。秩序や常識を振りかざす老人どもに興味はない。 女は首筋に香水を噴きかけた。次いで胸元に。仕上げに手首に。しとりしとりと雨が降り出す。湿気が香水の匂いをくるみ、もったりと増幅させていく。真っ赤なドレスが咲き誇る。裾を裂いてステップを踏む足。雨の中に伸ばされる指先。傀儡と化した男たちが周囲を取り巻いている。観客は彼らだけだ。拍手を贈る者はない。聞き入る者さえ一人もいない。しかし女は満たされていた。酩酊に似た恍惚ばかりが突き上げていた。 雨を裂いて蝙蝠が飛んで来る。蝙蝠は黒衣の男と化して女の前に降り立った。 「なあに?」 女は乱れかけた髪を払いながら微笑みかけた。男は答えない。口許と顎に薄く散らばる髭、凍てつくように青い双眸。銀に近い金髪の先から緩慢に雫が滴っている。 「わたしの討伐に来たの? 何人もいたわ、そんな人」 男は黙っている。鉄のような無表情から心情は窺えない。女は惑い、言葉に窮した。何だろう、この圧迫感は。偉ぶる男なら嫌というほど見てきたというのに、何故息が詰まるのだろう。 「お一人でいいのかしら」 それでも女は虚勢を張ることを選んだ。 「わたし、自警団を丸ごと一つ壊滅させてやったのだけど。八つ裂きにされたい?」 「覚えがある筈だ」 男は二枚の羊皮紙を突きつける。途端に女の眉宇が険しくなった。“注意”と“警告”。先般の書面の写しだ。 「何だ、ジジイじゃないのね。態度がでかいのは想像通りだけど」 雨だけが両者を包んでいる。 「偉そうな男は嫌いなの」 さっと手を振り下ろす。しもべ達が男に襲いかかる。男はわずかに眉を顰めた。 「愚かだ」 厳かで、よく通る声。 男の手がすっと払われる。何が起こったのか女には分からない。男の動きはごくごくわずかで、羽虫でも退けるように見えたからだ。次の瞬間、傀儡たちは棒立ちになって動きを止めていた。一体何の力なのか女にはやはり理解できなかった。 「まだ説明が必要か」 雨が白く勢いを増す。青く不快な双眸が冷徹に女を見据えている。 女は剣呑に睨み返しながら舌打ちした。 「何なの、あんた」 たるんだ頬に張り付く髪を払いのける。 「わたしはずっと忍従を強いられてきたのよ。わたしは娘盛りの時を暗い家の中で過ごしたの、いま好きにして何が悪いの」 弾幕のように喋り続ける。雨で口紅が剥げ、髪がほどけて崩れていく。 「わたしは二十七年も家のために費やしてきたのよ。あんたみたいな偉そうな男に従って。あんたに何が分かるの」 男は答えない。 「他の娘が人生を謳歌してる間にわたしは遊べなかったの。だからわたしは。だってわたしは。わたしは。わたしは。わたしは。わたしは」 「主観を問題にしているのではない」 青く冷えた目が感情の舌鋒を打ち砕いた。 「掟破りは掟破りだ」 「黙れ!」 女は金切り声を上げ、猛然と地を蹴った。真紅の鉤爪が届かんとした時、男の手が振り下ろされる。結審を告げる判事の槌のようで、女は刹那ぽかんとした。気が付いた時には彼女は倒れていた。真っ二つにされて地べたに伏していた。男の手にはいつの間にか巨大な斧が握られている。 「なんで」 女は赤黒い血を吐いた。分かたれた左半身に真っ赤な右腕を伸ばす。朱に染まった爪の先は既に形を失い始めている。 「どうして、わたしは、ただ」 「自由に生きたかった、か」 男は髪一本乱すことなく女を見下ろした。 「ヒトの秩序から解き放たれたことは完全なる自由を意味しない」 華やかなドレスの下で中年の体が崩れていく。灰になって雨に穿たれ、汚泥と化しながら流失する。 「お前は新しい秩序に組み込まれた。だが、周知の機会を与えて尚従おうとしなかった。それだけのことだ」 返事の代わりに悪臭が立ち上る。腐臭と香水が混じり合い、鼻が曲がるような臭気を作り出している。 「だから愚かだと言ったのだ」 男は仕上げのように指を鳴らした。棒きれの下僕たちが塵に返っていく。これでおしまい。これが全てだった。 「ああ、済んだのだね」 いつの間にか金眼の長老が立っている。彼は物憂げに、慈愛すら含んだ目で女の残骸を見下ろした。 「相変わらずなことだ。私に預けてくれれば良かったのだが」 青い目の長老はぴくりと眉を動かす。金の目の長老は「何ね」と肩を揺すった。 「更生を試みたかったのだよ。斟酌すべき事情も多い……いや」 氷の視線を柔和にかわし、惜しむように微苦笑した。 「掟破りは掟破り、か」 雨が地面に突き刺さり続けている。 (了)
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