15年前に神隠しにあった女五の宮様の行方を存じております――。 それは一種の賭けだった。 一人、夢浮橋を訪れた夢幻の宮は、勝手知ったるこの世界で左大臣邸を目指した。 もとより身分の高い彼女は往来を独り歩きすることなど殆ど無く、牛車に揺られて街に出ることすら少なかった。だがこの都で身分の高い者が屋敷を設ける場所は限られているし、左大臣邸といえば一条のお屋敷という別名があるほどだ。姫宮として大切にされるだけではなく香術師として働くことが多かった彼女は、この世界の普通の姫らしからぬ知識と度胸も持ち合わせていた。 彼女は旅装で左大臣邸を訪ね、先ごろ知り合いになった藤原鷹頼(ふじわらのたかより)を頼ったのだ。 そして告げた。「15年前に神隠しにあった女五の宮様の行方を存じております――。帝には、そう申し上げれば分かるはずです。お願い致します」 案の定、鷹頼は不審さを顔に出して隠さなかった。この時点でおかしなことを言う不届き者として夢幻の宮を捕まえることもできた。それでも彼が夢幻の宮を捕縛しなかったのは、うっすらと昔の幼い頃の記憶に『女五の宮』と呼ばれる女性の存在があったからだ。(そういえば、いつ頃からかお会いすることができなくなった気がする) 神隠しにあった姫宮がいたなどという話は聞いていない。いや、そんな話が大人たちの間で流れていたとしても幼い鷹頼には理解できなかっただろう。 何より扇の向こうのこの女性の面影が幼い頃の記憶に残る『女五の宮』に似ていて。だから話に出すくらいならと思ったのだ。 *-*-* そんな彼の判断のお陰で、夢幻の宮はこの『暁王朝』で一番尊ばれるべき人物の前に出ることができたのだった。「まさか本人だとは思わなかったが……久しいな、女五の宮」「……お久しゅうございます」 頭をあげるように言われてその顔を見せた夢幻の宮に、今上帝は驚いたように声を掛けた。「私は老けたが、お前はあの頃と変わらぬな。女人とはそういうものか」「……」 確かに目の前の兄、一の宮――いや、今上帝は重ねた年月相応に顔にも年を刻んでいる。だが夢幻の宮は18のままだ。女性は親兄弟にすらそれほど顔を見せない世界ゆえに『若く見える』と認識されたのだろう。「女五の宮が神隠しにあったなど、知る者はほんの僅かだ。お前の指揮していた研究に携わる者達にも、女五の宮――夢幻の宮は急な事故で身罷ったと伝えてある」「そしてそれが広く伝わらないようになさったのですね。男宮でしたら隠すのに限度があるでしょうけれど、降嫁するくらいしか使い道のない女宮であれば、人々も深く追求しないでしょうから……とくにわたくしは、香術師としての研究の方に時間を割いておりましたゆえ」「その聡明な所、嫌いではないぞ」「……」 くつくつと笑う兄その人の態度には反応を示さず、夢幻の宮は口を閉じていた。「15年間どこにいた……と聞くのは今更野暮か。鷹頼から聞いているが、先日陰陽師を名乗る者達と共にいたらしいな。だが陰陽寮からそのような者達を派遣した事実はない」「……あの方達は、私が神隠しにあった先で出逢った、大切な仲間にございます」「ほう……家臣ではなく仲間、と」「そのとおりでございます」 一段高い所に座す今上帝は、面白そうに夢幻の宮を見ながら口を開く。「神隠しから戻ってきて、私に接触までして何が目的だ? 目的があるのだろう?」「……いまのわたくしはこの世界について15年分の知識がありませぬ。その補完と、わたくしの仲間の当面の間の庇護をお願いしたく……」「ほう……自分の立場の復帰ではなく、か?」「……、……」 立場の復帰。姫宮としての立場と、香術師としての研究者の立場。後者は彼女の覚醒理由にも触れる。そのためか、彼女は歪めるように表情を崩した。「……はい。わたくしたちはこの世界に今までとは違った変化が起きていることを存じております。先の戦の集結からこちら、怨霊や物怪が暴れまわる事件が頻発していると伺いました。このままでは帝としての貴方様の御代に陰りが出るとも限りません」 今上帝の在位になってから不穏な変化が訪れたとなれば、それを理由に廃位を望む声も上がりかねない。それは今上帝自身も危惧していることだった。「陰陽師と香術師達に調査はさせているが……調伏にかかる時間のほうが圧倒的に多い。確かに人員不足でもある」「ならば、お手伝いさせてくださいませ」「……いいだろう、だが条件がある」 条件、と口の中で繰り返した後、夢幻の宮は「なんでございましょう」と兄を見据える。「まず、お前が、その仲間が信頼に足るか調べさせてもらう」「……」 当たり前といえば当たり前だ。15年ぶりに戻ってきた妹、そしてその仲間。いきなり信用しろというのは無理というもの。夢幻の宮は頷き、説明を促す。「裏で私への謀反を企んでいる者がいる。其の者を探しだすのに協力してほしい。なに、そんな難しいことではない。陰陽師が作った特殊な札がある。これをその者の家の中に張ってくるのだ。ついでに家の者と親交を深めて、なにか情報を聞き出すのもいいだろう」「御札でございますか……」「貼れば透明になるという。だが人がよく通ったり集まったりする場所に貼るのが良いという。要するに邪な気配などを感知する札だ」 屋敷に潜入する口実としては、下働きや女房としての推薦状は用意してもらえるという。また、方違えの為に宿を借りたいという場合も、仮の身分の保証はしてもらえるという。他に潜入する口実を思いつくなら、よほどとっぴなものでなければ協力してもらえるだろう。 潜入したら札を貼るとともに、邸内の人達と親睦を深めて情報収集が求められる。(「確かに潜入先の人々と親交を深めておけば、のちのちの拠点となるかも知れませぬ」) そう考えて、夢幻の宮は了承を示した。否、この世界で彼女の持つツテを使えるようにするには、断る事はできなかったのだ。「ところで……その潜入先とはどこでございましょうか?」「今のところは『右大臣邸』『左大臣邸』『中務卿宮邸』だ」「……やはり後宮絡みではないのですか?」 有力貴族はこぞって自分の娘を入内(じゅだい)させて、帝の目にとまるようにと仕向ける。その娘が生んだ子供が男児であるならば、いずれその子供は帝になるかもしれないからだ。だから現時点で後宮争いで優位にある貴族は候補から除けるものと考えた夢幻の宮だったが……。「どうやら、私が冷我国(れいがこく)の姫を娶ったことが皆、気に食わないらしくてな」「……なるほど」 敗戦国である冷我国の姫君を、モノのように扱って自分の後宮に入れたという話は、先日鷹頼がしていた。おおかた帝はその姫にご執心なのだろう。「冷我国の姫だけを優遇しているわけではないぞ。他の姫の元にも通っているがな……」 考えを読まれたのか、兄はそう言うが歯切れが悪い。恐らくその姫のもとに通うのが『いろいろな意味で』愉しいのだろう。「かしこまりました……協力してくださる仲間を募ってみますので、後ほどまたお目通りをお願い致します」 夢幻の宮は礼儀正しく頭を下げて、兄の前を辞した。 *-*-*「というわけなのです。夢浮橋における今後の活動の利便性を上げるためにも、ぜひご協力お願いいたしたく……」 ターミナルに戻った夢幻の宮は、世界司書の紫上緋穂を介してロストナンバーたちを集めていた。 今回の任務は指定の屋敷に潜入し、5枚の札を張ることと、邸内の人と仲良くなり、色々と話を聞き出すこと。「帝からの依頼は、帝に対して敵意を持っている者を確かめる手伝いをすることですが、私からも一つお願いがございます」 夢幻の宮はまっすぐにロストナンバーたちを見つめる。「できるだけ、邸内の人と仲良くなってきてくださいませ。よき縁を築ければ、今後何かと協力していただけることもあるやも知れません」 この先何があるかわからない、頼れる場所が多いのはいいことだ。 少人数での潜入となるが、上手く行けば後々のための効果が期待できるだろう。※注意※「桃花に紛れる」の3本は同一時間に起こった出来事です。同じPCでの同時参加(抽選エントリー含む)はご遠慮ください。
左大臣邸は家柄としての最低限の格式は保っているが、今をときめく左大臣の屋敷と言われれば、質素な方に見えた。おそらく主である左大臣があまり華美な装飾を好まない性質なのだろうと思われる。 かと言って極度の節約好きというわけではなく、見た目の派手さよりも質のいいものを選んでいるようであるからして、そう言った『見る目』 持っているのだろう。 *-*-* 「何でも言いつけてください!」 下働き見習いとして潜入を果たした藤枝 竜は紹介されると大きく告げてがばっと頭を下げた。同邸に潜入するボルツォーニ・アウグストには彼なりの考えがあるようなので、別行動をすることにした。 「それじゃあ、まずは雑巾がけからお願いしようかね」 「はいっ!」 桶と雑巾を渡され、竜はハキッと返事をして。井戸から水を汲んでくると中年の下働きの女性、嘉乃に従って邸内を歩く。寝殿造りの邸宅は同じような風景が広がっていて、彼女とはぐれてしまったら迷ってしまいそうだった。 「まずはこの渡殿をお願いする……」 「はいっ!」 嘉乃の言葉が終わる前に竜は絞った雑巾を板張りの床に広げ、元気にスタートを切った。 ビュッ!! 風を切るようにして、竜は雑巾をかけていく。その軌跡は時速88マイルで通った様な炎の跡が。 「えっ……えっ?」 思わず嘉乃は目をこすったが、そんなことにお構いなしに竜は華麗に渡殿を往復。ピカピカにしていく。 「あんたやるじゃない!」 あっという間に綺麗になった渡殿を見て、嘉乃は感心したように、若いっていいわねぇとつぶやいていた。 竜の本気の雑巾がけを通りがかった女房が見て、こちらもお願いするわ、あらこちらもとあちらこちらから声が掛かる。 「はい、順番に行きますね!」 その度に竜は嫌な顔一つせず元気に返事をして、全力で廊下をツルピカにするものだから、その働きぶりを認めた女房が、懐紙にお菓子を包んでこっそり持たせてくれた。 「え、いいんですか!」 「ええ。よく働いてくたれたから。少しだけど……。こっそり食べなさいね」 「はい!」 懐紙を開いてみると、綺麗な金平糖に桜の形を模した落雁が入っていた。一粒取って口の中に入れる。疲れた身体に甘い味が染み渡っていくようだった。 「よし、もっとがんばります!」 気合を入れるようにひとつ呟いて、ぎゅっと拳を握った。 左大臣家の家人達の食事は、女房たちが炊屋から運んでいく。竜は女房たちの食事の膳を運ぶのを手伝っていた。雑用をする下働きと、貴人のお世話をする女房ではやっぱり格が違う気がして、お膳を運ぶだけでも緊張してぼぼぼっと火が出てしまう。 「きゃっ!?」 「た、体質なんですよ~……あはは」 とっさにごまかしたが、たしかに嘘はついていない。 「変わった体質ねぇ」 「一度、陰陽師に見てもらったほうがいいんじゃないの?」 なんて逆に心配されてしまって、嬉しいやら申し訳ないやら。 (この屋敷の人達優しいっ……) なんて感動しつつ、炊屋に戻ろうとするも……どうやら迷ってしまったらしい。確かに迷いそうな造りはしていて、雑巾がけで色々なところに行ったがその時は雑巾がけに真剣で。どこの対のどこの廊下を雑巾がけしたのかすらわかっていない。どうやって帰り着いたんだったか。 うろうろうろ、うろうろうろ。 迷ったふりをして色々調べるつもりが、本当に迷ってしまっていた。とりあえず預って懐に隠していたいた札二枚を軒の裏などに貼っていく。 「どなた?」 「ひゃっ!?」 御簾越しに話しかけられ、竜は飛び上がるほど驚いた。もしかしたら、ちょっと火が出たかもしれない。そうだった。この世界では御簾の向こうが部屋になっているのだ。 「す、すいませんっ。下働き見習いの者で……迷ってしまって」 「あらまぁ」 するするする……衣擦れの音がする。どうやら近づいてきているらしい。近づいて……。 「え……?」 御簾の向こうにいたのは声からして少女のようだった。端近まで寄ってきて、御簾越しに至近距離で見つめられて、竜は思わず声を上げた。すると少女の腕の中の猫がみゃあ、と声を上げる。 「わたしと年も近そうなのに働き者なのね。こんなこと言ったら怒られるかもしれないけれど、いいなぁ、自由に外に出られて。ねえ、名前はなんというの?」 「え、あ、竜といいます」 「竜、ね。覚えたわ!」 少女の勢いに押されるようにして答えた竜。はて、この少女は一体? 女房にしては自由に外に出られないと嘆く姿に違和感を覚える。 「裳着なんかしなければよかった。そうすれば繰子みたいにまだ外でも遊べたのに」 あれ? ということはこの少女は……。 「姫様! 端近へ出てはなりませぬと口を酸っぱくして申し上げておりますのに!」 「ひ、姫様~!?」 駆けつけた女房の言葉に少女の身分を悟った竜は、慌てて跪いて頭を下げたのだった。 *-*-* 「お仕事のあとの一杯は格別ですね!」 女房に炊屋まで送ってもらった竜は、まかないをもりもりと食べていた。遅くなってしまったので残り物ばかりだよと言われたけれど、本当に残り物なのかと思えるくらい美味しいのは、働いた後だというのもあるだろう。残り物であるからこそ、すべてのおかずを少量ずつではあるが食べられて、これはこれで幸せである。 「ほうひえは……ごくん。そういえば、冷我国のお姫様ってどんな方なんでしょう? あまり良くない噂を聞きますけど……?」 「あんたも噂が好きなのかい?」 「うふふ、噂話が好きなんですよ~」 給仕してくれた下働きの女性を捕まえて尋ねる。女性はうわさ話が好きな人が多いものだ。案の定、この女性もなにか話したいことがあるのか、竜の向かいに座って口を開いた。 「そうだねぇ……まあ、負けた国からの人質も同然だからね、いい噂はあまり聞かないよ。それにさ、うちの大姫様が入内してらっしゃるだろう? つまり、冷我国のお姫様に帝の寵愛が傾くのは、左大臣家としては面白く無いんだよ」 「なーるほど」 確かに一の姫は入内済みだと聞いていた。帝の寵を争うのが後宮であるからして、冷我国の姫君は左大臣家の一の姫にとってライバルでもあるのだ。 「そういえばあんた、澪姫様のお部屋の近くをうろついてたんだって?」 「迷っちゃって……えへへ」 「あのお姫様も変わった方でねぇ。外で遊ばれるのが大好きだったんだよ。裳着前はよく、兄君と遊んでいらした」 裳着とは女子の成人式のようなもので、12~16歳頃に行われる『裳』を付ける儀式だ。 「外で遊べないんですね」 (お姫様って大変なんですねぇ……) 自分だったら耐え切れずに外に出てしまうかも? なんて思う竜であった。 *-*-* 水汲みに掃除に洗濯、雑巾がけ。見習いである竜の手伝うべき仕事はいくらでもあった。早朝から駆り出され、指先が荒れていくのも構わずに竜は働く。 「あっと!」 白い敷布がいたずらな風に乗り、竜を翻弄する。ふわんふわん、敷布は風に乗って飛び、竜はそれを追いかけるのに精一杯となった。 「待って下さーい!」 呼びかけても敷布が止まってくれるはずはなく。はずはない……のだが。何故か急に敷布が進行方向を変えたのだ。それも、竜から逃げていたのに竜へと向かって。 「え、ぁ、わぁっ!?」 突然視界が真っ白になる。敷布はがばあっと竜を包み込んだ。慌てて手足を動かすが、慌てている故に拘束から上手く逃れられない。 「なんぞ。そなたはもにょにょけか?」 「え?」 「姫様っ! お館様っ!」 聞こえてきたのは舌っ足らずな子供の声。追うのは悲鳴のような女房らしき声。 その声で冷静になって、竜は敷布の下で青くなった。敷布を追いかけているうちにいつの間にか、姫君のいる対まで来てしまったのだ。 (しかも、『お館様』って、まさか……!?) 「ととしゃま」 可愛い声がすぐ近くで聞こえる。敷布を挟んだ竜の向かいに人影が差す。するとすっと人影の手が伸び、敷布を優しくめくり上げたのだ。 「お仕事ご苦労」 「……は、はいっ、あ、あのっ……」 混乱で目をぐるぐる回しながらも事態を把握しようと務める竜。 そこは左大臣や北の方、4歳の三の姫が暮らす対の庭であり、丁度左大臣が三の姫の鞠遊びの相手をしていたところだったのだ。 「……っ、ははっ」 左大臣は赤くなったり青くなったりする竜を見て、思わず笑みを零した。無断で侵入したのを咎める様子がないのが幸いだ。おそらく、敷布を追いかけてきている下働きの者がいることに気がついていたのだろう。 「すまない。そなたは先日入った下働き見習いだね? 仕事の熱心さは聞き及んでいるよ。出来ればこのままうちで雇いたいくらいだと、妻とも話していたのだが……」 「こ、光栄ですっ。でも、私はやらなければならないことがあるのでそれは……」 「おや、早々に振られてしまったようだね」 左大臣は就職の誘いを断った竜を不快に思った様子もなく、いたずらっぽく呟いて苦笑を浮かべた。竜はそんな優しい左大臣に潜入しているという後ろめたさを覚えたが……。 「またご縁があればお世話になります!」 「縁があることを楽しみにしているよ」 元気に返事をした竜に笑みを見せた左大臣。竜には左大臣や姫たちが悪い人には思えない。 (そういえばボルツォーニさんはどうしたんでしょう?) 意見を聞きたいと思ったが、この屋敷で彼とは出会えなかった。一体どこに行ってしまったんだろう? 「お館様!」 その時慌てて駆けつけてきたのは左大臣家の私設武士団の一人。彼が耳打ちした内容を聞いて、左大臣は表情を固くした。 「悪いが三の姫の鞠の相手をしてくれるかね? 少し行かねばならぬ」 「は、はい。かしこまりました!」 何かがあったらしい。内容は気になったが、竜は与えられた仕事をしっかりこなすべく、小さな姫へと向き直った。 *-*-* 髪と眉と髯を黒く染め、引立烏帽子に鉢巻を締め、鎧直垂に射篭手をつけた上から黒糸威の胴丸を着けた男が左大臣邸の門前に立っていた。八尺を裕に超える大弓を携えた姿は、背の高さも相俟って魁偉なる様子である。 応対に出た小童は容貌魁偉なその男を一目見るなり腰を抜かしてしまい、近くにいた武士団の男が取次に応じたのだが、その男も大男の存在するだけで放つ迫力と鋭い眼光になかば腰が引けている。 彼こそは、ボルツォーニ・アウグストがこの世界の人物として装いを改めた姿である。 ボルツォーニは暫くそのまま門前で留め置かれたが、左大臣に彼の希望を伝えた男が戻ってくると、中へ入るように促された。そうして連れて行かれたのは左大臣邸の敷地内にある武士団の詰所前。訓練所として使われているのだろう、今まさに鍛錬をしていた者達がその手を止めて何事かと様子をうかがっているのがわかる。 視線はボルツォーニの精悍な肉体とその大弓に向けられていて、「新入りか?」「こりゃまた凄いのが来たな」「紹介状もなしにやってきたらしいぜ」「見掛け倒しじゃなきゃいいが」などと揶揄する言葉も聞こえてきたが、ボルツォーニは揺らがない。彼が見ているのは前――そう、左大臣が姿を現すであろう高欄の辺り。 「お館様だ!」 渡殿を通って左大臣が姿を現すと、にわかに場が騒がしくなった。次々に武士たちが平伏し、礼をとる。ボルツォーニも左大臣の前で平伏し、言葉を待った。 「そなたが我が元に仕えたいと自ら門を叩いた剛気の者か。頭を上げるがよい」 「……」 そういわれてゆっくり頭を上げたボルツォーニと左大臣の視線が絡まる。ほう、と左大臣がなにか感心したように口の中で声を漏らした。 「なにゆえ『今』か? 戦の間の方が立身出世の機会は多数あっただろうに」 「遠国に身を置き髀肉の嘆を託っていたところ、戦の起ったことを聞き、いざ功を挙げ身を立てんと馳せ参じたものの、都に着けば戦は既に終わっていたという有様」 左大臣の問にもすらすらと言葉を紡ぐボルツォーニ。平伏して続きを告げる。 「しかし縁有って今度此処に身を置き随身となり、左府殿の元に是非とも御仕え奉らん」 その口上は実に見事で、素晴らしく説得力があった。面白い、左大臣はふっと笑って平伏したままのボルツォーニを見やる。 「そなたの実力、試させてもらうがよいな?」 「御意に」 「誰か馬をこれに!」 その声に武士団の男何人かが厩舎へと走った。暫くして引き出されてきた馬は見るからに気性が荒く、乗りこなすのが難しそうな馬だった。引き手さえ扱いきれていない馬を引き出したのは、武士団の小さな意地悪か。 「的をもてい!」 (暴れ馬に騎乗させて、騎射させようということか) 武士団の者達はおそらく、ボルツォーニが無様な姿を晒すのを期待しているのだろう。彼らにも矜持がある。だがボルツォーニとて同じだ。 ボルツォーニがぽんぽんと馬の横顔を優しく叩き、鬣を撫でる。それだけであれほどまでに引き出されるのを嫌がっていた馬がおとなしくなった。鐙に足をかけてそのまま一気に馬の背に乗る。この馬はこれまでに何人、背から振り落としてきたのだろう。そもそも背に乗せなかった者が何人いるか。それは背に乗っただけで湧いた歓声から知れる。 手綱を握り、具合を確かめる。並足からは始め、位置についたボルツォーニは無表情だ。端から見ればそれは緊張故に見えたかもしれないが、むしろ逆である。 馬を走らせる。速度が乗った所で弓を構え、矢を番える。 シュッ……トスン、シュッ……トスン。 最初に的を射た時に聞こえていた歓声が、だんだんと静まっていく。与えられた五本の矢を射終える頃には、立ち止まろうとしている馬の足音の身が場に響いていた。 「す、すべて真ん中を射ております!」 武士団の者が信じられぬといったように上ずった声を上げると、わぁぁぁぁ、と歓声が上がった。この騎射でボルツォーニは武士団の大半を魅了したのだ。 だが、自分立つより活躍する者を面白く思わない者もいる。それらを黙らすためか、武士団の長と思しき壮年の男が左大臣に何かを進言しているのが見えた。左大臣が長より受け取ったのは一本の矢。左大臣家の者がだけ使うことを許された矢だろう。 「では、この一矢限りにてあれを射てみよ」 左大臣の声と長の手を追ってみると、その指先は天を指していた。その高みに小さく鳥が舞っているのがかろうじて見える。 ざわざわ、ざわざわ。 さすがにこれは無理難題だと思ったのだろう、場がざわつく。その中で彼の失敗を期待して笑みを浮べている一団があった。ボルツォーニは彼らを一瞥すると視線を左大臣と長に向ける。 「易きこと」 応える間にも矢を番えて弓を引く。軌跡すら残さぬ速さで大空に放たれた矢は、小さな的たる鳥に吸い込まれるようにして。空から落ちゆくそれを認めて長が急ぎ、使いを遣って確認させる。 「まさか……」 ボルツォーニの実力に納得いかなかった武士団の者達も、あまりの事に、もはや小鳥のいない空を眺めていた。 程なくして門の外から戻ってきた使いの手には、間違いなく先ほど左大臣の手から渡された矢が刺さった鳶があったのである。 「見事なり!」 その離れ業に感激したように左大臣が手を叩くと、固まっていた武士団の者達も歓声を上げた。さすがに認めざるをえないとばかりに全員がボルツォーニを褒め称えている。こんな離れ業を見せられては、不満など消え去ってしまうというもの。 「その珍しき碧眼はさだめし鷹の目にや有らん!」 「私の厩舎から、昨日買い求めた黒毛馬を引いてまいれ!」 毛艶の良い、肉付きも良い上等の馬とひと目で分かる黒毛馬が引かれてきた。左大臣は子供のように目を輝かせ、ボルツォーニを見つめていた。 「『鷹黒』という。この馬とともに我に仕えよ。そなたの名は?」 「遠国の呼び名でボルツォーニ、と」 ボルツォーニは、随身としての信用を勝ち得たのである。 *-*-* 一方、この騒ぎの間に邸内を動き回っていたのはボルツォーニ使い魔。影に紛れていれば、札を貼るのは難しいことではない。 竜と分けた分の札を張り終わった使い魔は、ふう、と柱の影で一息中に……。 「まあ、どこから入り込んだのかしら?」 「可愛らしい!」 「!?」 うっかりと、女房たちに捕まって迷い猫と勘違いされた使い魔……あわれ、集まってきた女房たちにさんざんなでくりまわされている。 次から次へと女房がやってくるものだから、なかなか抜け出すことが出来ず。解放される頃にはへろへろぐったりとなっていた。 「戻ってきたか」 しかしボルツォーニとしてはそれは計算のうち。使い魔がなでくりまわされ、あちらこちらの女房に引き渡されている間、使い魔の目を通じて邸宅の内部を把握していたのである。 武士団の詰所もひと通り見てみたが、特に今すぐに謀反を起こす準備というようなものは見受けられなかった。 「こうして信を得ておけば、今すぐに何かあるわけでなくとも今後動きやすくなるだろう」 ボルツォーニのように遠国から来た者がいるとわかれば、ロストナンバー達も今後動きやすくなるに違いない。 【了】
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