太陽にすら愛想をつかされたその世界は、代わりに歓楽街のネオンがギラギラと華やかに、しかし何処か下品に住民達を照らしていていた。 この世界では珍しい上品な雰囲気の紳士が化粧の濃い肉感的な女に強く腕を引かれて安っぽいネオンに纏われたモーテルに連れて行かれる。 裏路地の片隅からそれを目にした幼い少女は、女の肉体が変身能力で変わっている事を知っている。紳士に声をかける少し前はスリーサイズが全て等しいというべき肉体であったのを見ていたから。 別の方向では下品な容姿と服装の卑らしさがあふれ出ているでっぷりとした男が、若く瑞々しい少女の肉体を弄りながら歩いている。少女は嫌々と言った雰囲気ではなく、時折嬌声を上げている。 “そういった行為”の意味を幼すぎた少女は理解する由もなかったが、一人ではないということは知っていた。一時的なものであろうと、一人ぼっちではないのだ。心の中はどうだかはわからないが。 ――いいな、ぎゅってされたいな 灼熱のネオンが輝く街の裏路地で、少女は膝を抱えて蹲っていた。 気がついた頃には既に一人だった。両親はどうしているんだろうか、生きているのだろうか、と何度か考えたことはある。 この世に生まれた以上、父と母が居なければ不可能なことは漠然と判っていた。 手入れのひとつもしていない髪が顔を覆う。幼いが可憐な顔立ちを隠してしまえているのは良かったのかもしれない。幼ければよいという輩も多い上に、その後は使い捨てられる。 寂しい。 この溝は埋まらない。 ―誰か。 すっと目の前が暗くなる。 見たこともないほど美しい白磁器のような手が少女に伸ばされる。 端正な顔立ちをした妙齢の女が、いつか古びた教会で見た女神のような慈愛を含んだ笑みを浮かべていた。 「どうしたの、お嬢ちゃん。もし、行くところがなかったらうちに来ない?」 少女にとってその一言はまるで天上から鳴り響く音楽の様に美しく、愛情に溢れたものだった。 けれどすぐにその手を取ることはできなかった。伸ばそうとした手はあまりにも汚れていて、女性を汚してしまうような気がして。 そんな気持ちを察したのか、女性はふわりと優しく笑って少女を抱き上げた。 「可愛い子、お名前は?」 問われても首を左右に振るしかなかった。名前なんて知らない。 それを察したらしい女性は僅かな沈黙の後、にこりと笑った。 「そうね……スイート、スイート・ピーという名はどうかしら?」 「……すいーと」 久しぶりに声を出したから、少女の幼い声は掠れていた。 「すいーと」 「そうよ、そして私は今日から貴方のママ。母親よ」 ぎこちなくも新しく出来た自分の名前を発する少女――スイート・ピーは、もしかしたら生まれて初めてかもしれない笑顔を見せる。その笑顔で女性はまたスイートを抱きしめる。 だから気付かなかった。 女性の表情に。 *・*・* つれられてきた場所は、家というよりホテルだった。 瀟洒ではないが他の安ホテルとは豪華さが全く違うのはスイートにも判った。 「まずは髪を整えなくちゃね」 女性――ママに手を引かれるままに歩いて行く。ちゃんとスイートの歩幅に合わせてくれている。 途中、幾度も街中でよく見た男女の組み合わせやママに向かって深々と頭を下げる人を何度も見た。すれ違う度に誰もが一瞬スイートを見て目を見張る。子供が珍しいのか、そうではないのか。スイートには全く判らない。 しかし大抵はすぐに笑顔を見せてくれるから、すぐにどうでも良くなった。手をつないでくれるママがいれば、それだけで安心できる。 ママと一緒にお風呂に入る。 温かいお湯と真っ白な泡は未知の体験だった。白い泡で体や頭を洗われるとくすぐったいけれど気持ちが良い。そしてとてもさっぱりした気持ちになる。泡はふわふわとしていて不思議だから、つい口に入れてみた。口の中いっぱいに不愉快極 まる感覚が広がる。 ママは苦笑しながら口をゆすぐ為の水をくれた。 ゆったりとした湯船に浸かりながら、ママが自身の体を洗っているのをじっと見る。女性らしい柔らかく滑らかなラインでかたちどられたその体は幼いスイートから見ても魅惑的だった。 「きれい」 「そお? ふふ、ありがとう、可愛いスイート」 褒められなれているのか、大人の余裕か、照れも狼狽えもせずにママは微笑みかける。少しだけスムースに出るようになった声が嬉しくて、単語ずつでもなるべく口に出してみる。ママも、その方が良いと言ってくれた。 このときまでは、スイートは全ての苦悩も悩みも取り放って、幸福だけで成り立っていた。美しく優しいママ、その人のお陰で。 ちゃぽん、ちゃぽんと水が揺れる音がする。 雨水の音や水道から零れ落ちる水の音とは全く違う。まるで血液が全身を駆け巡り波立っているような、不思議な音だ。 体を洗い終わったママが、最後に全身を洗い流してしなやかな足から湯船に入って行く。 後ろからゆっくりと優しくスイートを抱きしめる。 「ねえ、スイート。お願いがあるの……もし無理なら構わないの、出来るなら、でいいのだけれど」 「……?」 見上げると、少し困ったようなママの顔。柳眉を顰めて悲しそうな顔。 「やる、よ? スイート、ママのおねがい、がんばる」 「ありがとうスイート」 そう言ってママは優しく、そして強くスイートを抱きしめた。 ママのいう‘お願い’はとても厳しいものだった。 家はホテルではなく、娼館であった。最初はなんのことかさっぱり判らなかったのだが、ママに手を引かれて行った部屋で行われていた秘め事を見て・・・見させられて、身じろいだ。 何の予備知識もない子どもだからこそ、嫌悪感をかき立てられる。 更には裏で高額で暗殺を請け負ってもいたのだ。 恐ろしかった。男と女が粘膜で結びつき、人が人の命を簡単に吸っていく。 けれど、ママに「お願い、可愛いスイート」そう言われると、イヤとは言えなかった。 抱きしめてくれたから。 頭を撫でてくれたから。 美味しいご飯をくれたから。 娼婦の仕込みも兼ねた暗殺の訓練。耐えられたのは、一日の終わりに甘いキャンディをくれるから。 「今日もよく頑張ったわね、可愛いスイート。ご褒美よ」 そう言って頭を撫でて貰えたら、心身ともに辛い訓練も乗り越えられる。 抱きしめて貰えたら愛されていると実感出来る。この暖かさを失いたくない。この愛情に報いたい、同じ量だけ・・・ううん、何倍にもして返したい。 けれど知らなかった。 訓練の終わりに貰えるキャンディにドラッグが仕込まれていたことも、そのせいで体の内側から少しずつ蝕まれて改造されていることを。 どれだけ月日が流れたことか。 スイートは愛らしく可憐に成長した。手足はすらりと延びたが、身体全体はまだ丸みがなく、足だって長く形はいいが棒切れみたいに細かった。けれど、そういった“本物の少女”でなければダメだという客はかなり多い。 たちまち売れっ子になり、毎日沢山の仕事をこなしていく。何人もの男、極々稀にいる女の客を相手にするのはこころがどんどん疲弊して行く。表の客だけではない。人殺しを繰り返すことに徐々に罪悪感を芽生えていく。 本当にこんなことをしていてもいいのだろうか? 娼婦の仕事も辛い。だがそちらの仕事は0.03mmの隔たりを経て、相手が悦んでくれる。お礼を言ってくれる。 ママが褒めてくれるからどちらの仕事も頑張れるが、たまに昼間、フラリと娼館の外に出ると母娘が連れ立って歩いているところを出くわすことがある。 スイート、本当にママに愛されているのかな……? 抱きしめてくれる。たまにも買い物ではいつか見た母娘のように手を繋いでもくれる。仕事を終えたらたくさん褒めて、ご褒美もくれる。 なのに、どうしてままのことを思うとこんなに胸の奥が曇るのだろう。 勇気を出して聞いてみよう。 そう決意した。 愛しているわ、と言って欲しかった。不安になるのは血が繋がっていないからだと思いたかった。 この気持ちを伝えたら、ママはきっと「おばかさんね。可愛いスイート」そう言って、抱きしめて頭を撫でてくれる。そうだと信じたい。 暗殺の仕事のことはママもきっと心を痛めている。それでもやらなければいけないことなんだ。 そうに違いない―― 「あの子を拾ったのは正解だったわ」 ママの声。誰に話しかけているのだろう? 「人を疑うことを知らないおバカさん。とっても使いやすい」 そんな風に育てたのはあなたでしょ? 相手の声が聞こえる。聞き馴染んだ声。昔は一流の娼婦だったけど今は引退して新しい娘達の教育係の彼女。 違う。 こんなのは違う。 ママがそんなこと言う訳が無い。 きっとスイートのことを話していたんじゃない。だって名前を言ってないもの。 頭で必死に否定するのに、“あの子”の部分が“スイート”と自動変換されて頭の中を駆け巡る。 それでも暗殺の仕事へと赴いてしまったのは何故だろう。 他に行くべき場所がないからか。 それとも……やはり愛情を真実だと思いたいからか。 許してくれ、見逃してくれ。家族がいるんだ、妻と娘が帰りを待っているんだ。 涙ながらに訴えるその男が、殺されるほどのことをしてきたようには見えない。善良そうな、優しそうな男だ。 爆弾を使って何人もの人間の命を奪ってきた。一度だって見逃したことは無い。命乞いなど聞いたことなかった。その前に確実にしとめていたから。 まっすぐに見てくるその男の目が見られなくて、心の奥底まで見透かされているようで怖くなる。 「……早く、おうちに帰ってあげて」 それしか言えなかった。 男は何度も何度もスイートに感謝の言葉を述べて、去っていった。 その後姿を見つめて思ったことは、どうかあの人が見つかりませんように。ただそれだけだった。 ※ 「何で逃がした! いくら貰ったと思ってるんだ!」 激しい折檻がスイートを襲う。 腹部ばかりで、顔や手足、首回りの部位を全く暴行に加えないのは娼館の主の性だろうか? 無意識のうちに頭を庇いながら、ごめんなさい、ごめんなさい、と泣き叫ぶことしか出来なかった。 見逃した男がどういった立場かとか、そういうものはスイートには判らなかったし、判っていたからといってどうなるものでもない。ただ、ママの怒りは見逃したことよりも、そのことによって引き起こされる“何か”に余程怯えているようにも見える。 それだってスイートには関係ない。 泣き叫んで許しを請うてもママのお仕置きは止まない。 必死で逃げ出しても、誰より美しいママは髪を振り乱して追いかけてくる。 駆け足しても足がもつれて上手く走ることも出来ない。 鮮やかなピンクの長い髪を掴まれて引き寄せられる。また殴られる。蹴られる。怖い。 「何のためにお前を拾ったと思ってるんだ! 何のために今までお前に金をかけたと思っているんだ! こんなことになるなら拾うんじゃなかった! どうしてくれるんだ!」 コンナコトニナルナラヒロウンジャナカッタ 聞きたくなかった。それだけは聞きたくなかった。 ポシェットから小さな小箱を取り出して 箱の蓋を開けて 中のキャンディを 手づかみで取り出して 口の中に放り込んで ママを ご褒美のキャンディをくれたママを ママから教わった爆弾で スイートの可憐な美貌に赤い液体がまとわりつく。手にも、服にも。 「あ、」 回りを見る。 赤い。真っ赤の中に肉片が飛び散り、こびりついている。 「あ、あぁ、」 見慣れた光景。でも初めての光景。 「ああぁあぁぁぁぁぁぁぁ!」 娼館にスイートの絶叫が響き渡り― ※ それからの記憶は途絶えている。 気付いたときには0番世界に覚醒の経緯の記憶を全て失って、一人で立っていた。 ある意味では振り出しに戻ったのだ。 ママは居ない。救いの手はもう来ないかもしれない。 その代わり、誰の命も奪わずに済む。 今のところ、それだけが……スイートの安らぎだったのかもしれない。
このライターへメールを送る