ニコ・ライニオは椅子の背もたれに顎とひじを乗せて、家主の女性――ティナの姿をじっと見つめていた。 この村は街道から少し外れている鄙びた村だ。街道沿いにある大きな宿場街には立ち寄る者は多い。村にも温泉があるのだが、宿は一軒しかないし、華やかさとは無縁なので、訪れる旅人や商人はごく僅かだ。 その割りに異邦人に対する態度はとても柔らかい。長逗留者に対して好奇の目はあるが、問題を起こさなければやがて無くなる。 そんな良くも悪くも危機管理の薄い村でも、“変わり者”だと言われているのが、ティナだ。 ティナは少女の頃、両親に連れられて越してきた。 父親は水質学者、母親は植物学者で、この村の温泉と周囲の植物の研究目的だ。 この家族は初めこそ敬遠されていたが、すぐに馴染んでいった。 母親はハーブを育てて、それをお茶にして良く振舞っていた。成功例と失敗例が半々で、失敗したときの方が笑い声が溢れていた。 だがその幸福も長い間は続かなかった。 都会で開催される学会に出席した父がその土地で流行り病に罹り、看病に向かった母も罹患し、呆気なくこの世を去ってしまった。 頼るべき親類縁者もなかったティナだが、悲愴さは無かった。 村の人が全部面倒を見てくれたから、と。 ティナが小さいときは店の手伝いをしたという名分で食事の面倒を見たり、生活必需損を買うのに必要な金銭を渡していた。生活していくうえで必要なことを少しずつ教えて貰ったの、そうて言う。 今野菜やハーブを育て、商店や村人に卸すことで生計を立てられるようになったのは、あの頃に教えて貰ったと、誇らしげだ。 「ねえ、ニコ」 険しい顔立ちで、目線は全くニコには向けずに土いじりをしている。 「なに?」 僅かに首を傾げて問う。 いくらティナの生業であり趣味であるとはいえ、重たいものを持たせるのはニコの流儀に反する。荷物持ち等の手伝いは進んでしていたが、作業で彼女がニコの意見を聞くことなど無かった。 「トマトとピーマンを掛け合わせたらどうかしら」 「実のぎっしり詰まったピーマン?」 「赤くて食べるとトマト味なの。中身はピーマンとか?」 「……それパプリカでいいんじゃない?」 「ああっ」 ショックを受けるティナをニコは肩を竦めて微笑みながら見ている。 そういえばこの間材木屋の奥さんが着て、子供が食べやすいピーマンはないかしらなんて雑談をしてたっけ。あのおたくの坊ちゃんは元気が有り余っていて、村中を仲間たちと遊びまわっている。ニコも何度か相手をした事があり、一緒くたに怒られたこともある。 その時に教えて貰った。ティナも両親に輪をかけた変わり者だと。 いくらこの辺りが穏便とはいえ、若い女性がたった一人で山の中を何日も歩き回ったり、種をかけあわせて野菜を沢山作り出して途方にくれていたりとしていたらしい。そのときできた野菜の珍妙な味はこれから先村に伝えられるであろうことは間違いない、と奥様が断言していた。 当のティナはそんな評判は一向に気にせず、土いじりに精を出している。 山歩きに付き合ったある日、その時はティナがニコにあわせて一日で済ます予定であり、予定通り夕暮れの頃合に山から下りることが出来た。 「ニコ、こっちこっち。こっちきて?」 「うん?」 導かれて向かった先には、小さな村が一望できる場所であった。 彼方の山に沈みかけるオレンジ色の夕日と、村のあちこちから上がり風にたなびく竈の煙と点々と灯り始める家のともし火。 冷たくなってきた空気が肌を刺激するが、つながれた手と目に映る風景とで、からだの内側がじんわりと温かくなる。 ※ 鄙びた村にたどり着いて暮らし始めて、数年が経過した。 ゆったりとした暮らしにもすっかり溶け込んでいたが、そろそろこの地を去らなければならない。 しかし気になることが一つ。 ティナの庭の一角、ささやかに場所をとる植物。 ニコが初めて訪れたときからずっと蕾のままのそれが気になっていた。 毎日毎日、丁寧な世話をしているが一向に花を咲かせる気配が無い。だが色あせていたり萎びる様子も無い。ニコは植物にあかるくない為、このことが当たり前の品種なのか何がしかの理由があってこの状態なのか判らない。 「ねえ、ティナ。これはいつ花が咲くの?」 「判らないわ」 土に汚れた顔を向けて、ティナは苦笑する。 なんでも、遠い遠い東の国で見つかったという珍しい種で、百年に一度花を咲かせるものだという。真偽の程が定かでないため、価格はかなり安くして貰えたようだ。 いつから数えて百年なのかも判らない。 「でも明日かもしれないでしょう?」 もしかしたら、あと何十年先なのかもしれないのに。 いつもの椅子の背もたれに顎をかけながら、ティナの背中を見つめる。 その背中は小さい。なのに、逞しい。 彼女は何十年先の未来も信じている。諦観の果てにある未来ではない、歩いてきた足取りの先にある“現実”だ。 「僕も見てみたいよ」 君と。 人間の百年は短い。 変わり者だといわれるが毎日誠実に、一生懸命に生きる頑張り屋のティナの隣で見たい。 「じゃあ頑張らなくっちゃね!」 その日から、ほんの少しだけ日常が変わった。 ティナが土いじりの時間よりも調べ物をする時間が増えたのだ。 この花を咲かすにはなにを肥料にすればよいかを、母の遺品である図鑑や村の図書館に蔵書されている辞典などを毎日隅から隅まで調べている。 「おやニコちゃん。今日はアンタかい」 「そうそう、今日は僕で我慢してね。ティア、今ちょっと調べ物してるからさ」 3日に一度野菜を受け取りに来る石屋の奥さんはニコと一緒に箱の中身を確認する。 ティアは奥の部屋にこもっているから奥さんが着たことにはまだ気付いて居ないだろう。いつも見ている仕事であるし、ティアが箱に貼り付けてあるメモ用紙には野菜の種類と数、代金、渡す相手の名前がキチンと書かれている。 「アンタも大変だろ。あの子、変わってるから」 奥さんの言い方には、子供を見守る優しさがつまっている。 「構って貰える時間は減ったけどね、でも、楽しそうだから」 肩を竦めてみせるが、ニコが浮かべる表情も明るい。 明日への活力が湧いてくるとかそんなに若々しいものではないのだが、辞典を相手に百面相をしているところを見ているのは楽しいし、食事を運んでも声をかけるまで気付かない集中力には感心する。 ただ寝るときまでも辞典を持ち込むのは頂けない。辞典を取り上げた時にちょっぴり拗ねる顔がとても可愛いけれど、そこまでは奥さんに話す必要はないのだ。 荷車に乗せるまでの手伝いをして、ブレンドされているハーブティーでも淹れようとリビングに戻り、二人分のお湯を沸かす。 マッチを擦って火を熾すのにもすっかり慣れた。 庭に目をやると鮮やかな色彩が目に映る。 窓枠の陰になってしまって椅子に座った今の状態からは見えないが、まだ蕾のあの花も、静かに花咲くときを待っている。 もしかしたら、ここに留まればニコの加護の力で花の成長が早まり、開花の瞬間に間に合うかもしれない。 そんな期待が確かに胸にある。 「ニコ! 大変!」 そんなに勢いよく扉を開けたら壊れるのではないか、と心配になるほど大きな音を立てて、ティアが部屋から飛び出てくる。 「どうしたの、そんなに慌てて」 「見て、このページ! 大昔の伝承なんだけど、伝説の龍の髭がいい肥料になるみたい!!」 「そんなこと聞いたことないし!」 本性が竜であると教えたら髭を引っこ抜かれそうだ。 「っていうか、その本、おとぎ話じゃない?」 本棚に並べてある順番どおりに読み勧めて、辞典ではない本に目を通していたのにも気付かなかったのだろうか。ティアならありえる、とニコは一人で納得する。 沸かしていた水がくつくつと音を立て始める。 「お湯も沸いてきたことだし、少し一休みしない?」 リーフは既に入れてあるポットにお湯を注ぐと馴染んでいる温かいかおりが部屋に満ちていく。 照れ隠しに笑う彼女の顔が愛おしい。 同時に、長く居すぎたと実感して、胸の奥が痛んだ。 ※ 「ニコ、来て、早く早く!」 寝起きの呆けた頭で何故隣にティアが居ないのかと遠くから声が聞えているのにも拘らず暫く考えた。 スッキリしない頭だが女性に呼ばれているのならば即座に行かねばならない。ひっくり返っている裾だけ直して、声の元に駆けつける。 「どうしたの?」 「見て」 喜びを隠し切れないティアが示したのは、例の蕾。 昨日よりも目に見えて膨らんでいる。 「これ」 「ん、そう。この調子なら、きっと今晩には咲くよ」 ちょいちょいと手招きにしたがって隣に腰掛ける。 「今から待機?」 「普通の植物と同じなら今晩だけど、こんな特殊な花だよ? いきなり咲くかもしれないじゃない」 しかしずっと地べたに座るのは身体も冷えるから、椅子持ってくるよ、とリビングに足を運ぶ。 あの様子だと、椅子は二脚持っていったほうがご機嫌を損ねずに済むだろう。 リビングから見えるティナの後姿は始めて出会った頃から、随分と大人びた。まだ少女の面影が強く、身体も硬さを遺していたのに、今ではすっかり女性らしい丸みを帯び、顔立ちも愛らしさを脱して美しくなった。とても。 それだけの年月が過ぎたのだ。 さらりと草木が風にたなびく。 天は青空で占められ、周りは爽やかな緑と、優しい色とりどりの花で覆われている。 土のにおいが鼻腔をくすぐる。この数年ずっと側にあったかおりだ。 隣に座って指を絡ませる。 毎日の土いじりで年頃の女性のようなしなやかな指ではないし、爪にも土が入り込んでいる。 それでもこの手は美しい。 「ニコ」 「なんだい?」 宵の帳が天を埋め尽くした頃、ティナが蕾から目は離さずに声をかける。 「何色だと思う? 花びら」 「そうだなあ……青とか?」 「どうして?」 「君の目と同じ色だから」 「やだ、もう」 軽く小突かれる。 たわいのない会話。間に挟まれる心地の良い沈黙。 常ならば星を数えるのが二人の習慣であったが、今晩は別だ。 手を繋いで寄り添いあい、少しずつ少しずつ膨らんでいく蕾から目を離さない。 「青じゃ無さそうよ」 「残念、そうみたいだ」 かなり膨らんできた蕾は、花弁はまだ閉じたままだが色は白いのが見て取れる。 やけに月明かりが眩しい夜でランタンを持ってくる手間が省けた。 揃って毛布にくるまって食事はパンだけで済ます。 回り近所の灯りも消えた頃。 ふわり、ふわり、音がする筈は無いのに、聞えた気がした。 息をするのも忘れ、ゆっくりと、だが堂々と純白の花弁がひらいていく。 月明かりに照らされて花開く様は幻想的ですらあった。 「……雪みたい」 感嘆の声はティナ本人が意識せずとも出てきたものだろう。 確かにそれはまるで、真冬の夜更けに見かけるの雪景色の様に、誰にも汚されない真白の世界。 「綺麗」 「ああ、そうだね。巡り合えて良かった」 最後に、とは口に出せなかった。 「……ニコと一緒に見られて、良かった」 やっと花から目を離したティナの目線はまっすぐにニコを射抜く。 「ありがとう」 ――こころが重なった。 ※ 連日の働きづめに加えて一日ほぼ同じ姿勢で居たことが疲労を高めたのだろう。 目的を達成できた安堵感も手伝ったのか、ティナは間も無く寝入ってしまった。 寒くはないとは言え、屋外で寝たままでは流石に風邪を引く。 起こさない様に抱き起こしてベッドまで運ぶ。 伝わるぬくもりと柔らかさがこの鄙びた村で過ごした年月を思い知らせる。 横たえた寝顔は安らかな寝息を立てたままだ。 額にかかった髪をさらりとかき上げると指からこぼれる様に落ちていく。 その場所に顔を近付け――唇で触れるのを止め、頬を撫でた。 持つべく荷物など無い。 足音を立てないよう気を配って寝室を出、リビングの中ほどで、あの花を見つめる。 雪景色の如く光り輝くその花の名を聞かずじまいだったことに気付いたのは、今。 それで構わなかった。 ニコだけの名前は、もうつけたから。 寝室を振り返り、誰にも聞えないほどの小さな声で一言だけ呟く。 そして、遠の闇に月と花の光だけが灯る部屋に別れを告げた。
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