オープニング

▼0世界ターミナル、バトル・アリーナにて
 あなたには今、闘う必要がありました。強さを求める必要がありました。
 理由は、人それぞれでしょう。
 ともあれあなたは自らの意思で闘いを求めて、ここ――『闇黒(あんこく)のバトル・アリーナ』にやってきたのです。

 †

 ターミナルの一角に建造された、とある建物。まるでテーマパークのように広くて大きな建造物で、外観は壱番世界で言う近代西洋風といったところ。大きな劇場のようでもありました。
 そこは人形遣いのメルチェット・ナップルシュガーというツーリストが管理する、戦闘訓練用の複合施設です。中には様々な名を冠した訓練施設がいくつも用意されており、用途に特化した闘いを行うことができます。
 今回、あなたが訪れたのは『闇黒』の名を冠する施設です。係りの者に案内され、広い部屋にたどり着きました。仮想空間を形成する魔法技術によってチェンバーが構成されているのか、そこは建物の中にも関わらず異質な空間が広がっていました。

 部屋の中は、暗がりと影と夜空で構成されています。壱番世界の近代西洋を思わせる街並みのようですが、どの建物にも灯りはありません。街のようでありながら、それらはすべて石のように重い沈黙を放って、そこに在るだけでした。
 ――不気味な暗い街。そんな言葉があなたの頭の中をかすめます。
 そこに佇む、一人の少女がいました。猫耳のあるフードが付いた、不思議なケープを羽織っているその小さな女の子。彼女が当バトル・アリーナを管理する人物、メルチェット・ナップルシュガーです。彼女の隣には、装飾のなされた木製の棺がひとつ横たわっていました。
 あなたが、影と闇で彩られた景色の中を歩み寄っていくと。少女は俯いたまま、ささやくようにそっと言葉をかけてきます。

「ひとの心とは強いように思えて、とても繊細なところがあります。心はいつも、風に揺れる木の葉のように。正と負の位置を、大きく行ったり来たりするの」

 漆黒の空に浮かぶのは、人のように目と鼻と口のある三日月です。爬虫類のようにぎょろりとした艶かしい双眸を、あちらこちらに動かして。綺麗に生え揃った歯をむき出しにして。すべてを天より見下し、すべてを青白く照らし出しながら。道化師のように嘲け笑う月がひとつ、浮かんでいます。

「ふと弱くなってしまったときの心は。とても華奢で、儚くて。すぐに壊れてしまうのですよ」

 少女がゆっくりと顔を上げ、あなたと視線を交わします。真剣で厳しそうで。けれど、どこかに優しさもにじませるような視線を、投げかけてきます。

「今日和、バトル・アリーナへようこそ。あなたが、今回の挑戦者ですね。ここは闇黒のバトル・アリーナ。挑戦者が〝恐怖〟に抗う場所です」

 そう、闇黒を冠するこの部屋で闘うのは、あなた自身の心に潜む弱さそのものなのです。メルチェットがこの闇黒のために製造した戦闘人形〝玉響の戦慄(たまゆらのせんりつ)〟は、どのような人物の心にも戦慄をもたらし、絶対の恐怖で身と心を縛り付けるでしょう。
 あなたが挑戦の意を表明すると、少女はこくりと首を縦に動かします。

「心の奥底に刻まれた記憶を読み取って、この人形は自在に姿形と能力を変えます。どんなに頑なで強い精神の持ち主であっても、身体の底から恐怖し、震え上がってしまうことでしょう。あなたにはそんな人形と対峙して、自らが覚えた恐怖そのものと闘ってもらいます」

 メルチェットは棺へと視線を落とし、愛しげにその蓋へと指を這わせます。

「――さぁ、行きませ。すべてのものを慄かせるきみ。すべてのものを屈服させるきみ。今が這い寄る、その時よ」

 物言わぬ棺を見下ろしながら触れ、ゆっくりとその周囲を歩き。愛らしい声音で、歌うように言葉を紡ぎます。

「主の言葉は空言にあらず。見せ掛けの虚ろうまやかしよ、幽玄なる輝きをもって泡沫の姿をここに現せ。仮初めの力を用いて、虚構なる戯れの糧となれ。今、偽りの命を玉響の真なる命に――」

 棺を、指先で撫でながら歩いていたメルチェットが、そっと足を止めて。棺を封印するかのように巻かれていた太い鎖の鍵が、ひとりでに解除されていきます。

「顕現する命、その名は――〝玉響の戦慄〟」

 解かれた鎖が、重々しい音を立てて落ち。次の瞬間、棺の蓋は無造作に内部から砕かれ、吹き飛ばされて。その中から這い出てくるものがありました。
 黒くて黒くて、巨大で。爛々と赤く目を輝かせて。異質な姿をしたモノが、ぬらりと棺から身体を起こして。慈悲を感じさせない瞳で、あなたを見下ろします。
 あなたは武器を構えます。あるいはトラベルギアを顕現させ、あるいは能力を発動させます。
 ――けれど。
 ――けれど。
 手の中には、何もあらわれません。からだの底からわき上がってくるはずの、力の胎動も。何も、何も感じないのです。

(トラベルギアが取り出せない?)
(力も使えない?)

 その事実に気付いたとき。笑う月の光を遮るように、黒き異形はあなたの前に立ちはだかります。それを思わず見上げたあなたは――。
 呼吸が、苦しくなりました。心のうちから、腹の底から、冷たい冷たい何かがわき上がってきて。それがあなたの呼吸を阻害します。
 満足に息が吸えません、吐き出せもしません。あなたは苦しそうに喘ぐも、他に何もできません。息が詰まるほどの恐慌が全身を支配しています。
 そしてさらには。平衡感覚を失いそうになるくらいの、思わず足元をふらつかせるくらいの、強烈な眩暈に襲われます。恐怖でしびれてしまった手足の感覚も、どこか虚ろで。気が付けば、歯も根が合わないくらいに、おびえて震えていて。からだもこころも、全てが恐怖に絡まり飲まれていて。何もかもが言うことを聞かずに、恐れ慄いているのです。
 そんなあなたの頬を無意識に伝う液体は、冷たい汗でしょうか、あるいは涙でしょうか。分かりません、分かりません。
 ――ああ、それでも。ひとつだけ、分かることがありました。自分を見下ろすこの黒い怪物は、自分の命を奪う危険な存在であるのだと。

(逃げなければ、殺される!)

 本来であれば自由に使えるはずのトラベルギアや、己の特殊能力。そのすべてが使えない今、あなたには逃げることしかできません。反撃の戦略を練ろうにも、とにかく今はこの場を離れなければ。
 あなたは、かろうじて動く足を引きずるように動かして。自分ではひどく緩慢に思える動作で、その場から走り出しました。怪物が悲鳴にも似た奇声をあげるのを、背中越しに感じました。猛烈な勢いで後を追ってくる気配も感じました。

(どうすればいい?)

 見ず知らずの街並みに翻弄されながら、あなたは暗がりの中を疾走します。そうしながら考えます。力のすべてが封じられた今、この状況を打開する術を。追ってくるあの異形への対抗策を。この暗い街から脱出する方法を。
 すると。ふとあなたの脳裏に、少女の幼いささやき声が響きます。

(どこかにある〝希望〟を、集めてください。求めよ、さらば与えられん――)

 聞いたことのあるような声でしたが、その主が誰であるのか、今のあなたには分かりませんでした。
 それどころか、無意識のうちに。ここが訓練のための施設であることですら、なぜか記憶から消えてなくなっているのです。あなたはここにいる理由も追われている理由も分からずに、暗い街をさまよう迷い人となっていました。
 浮かぶ月が、けたたましく笑います。嘲るように、げらげらと。蔑むように、げらげらと。笑い声は暗い街にこだまします。
 そんな耳障りな月が浮かぶ、暗い石の街。気を抜けばすべてが闇に見えそうな、暗い街。そこをあなたは走ります。疾ります。恐怖に侵食されて、今にも身体が動かなくなりそうに、なりながら。
 けれどもあなたは。必死に抗って、全力で前へと――。

 あなたと恐怖との戦いが今、始まります――。

品目長編シナリオ 管理番号1666
クリエイター夢望ここる(wuhs1584)
クリエイターコメント【シナリオ傾向タグ】
ダーク、ホラー、逃亡劇、シリアス、逆境、バトル、アクション、ところによりグロテスクやスプラッタ

【大まかなプレイング方針】
▼あなたにとっての希望や、生きる意味や、心の支えって何ですか?
▼あなたにとっての希望とは? 誰かから与えられたものですか。あるいは自分から見出したものですか。
▼辛いとき、悲しいとき、痛いとき。くじけそうになる状況であなたを支えてくれるモノとは、なんですか? 友人の声ですか。恩師からの言葉ですか。愛しいひとの存在ですか。懐かしい思い出ですか。孤高ゆえの強さですか。心に秘めた誓いや何かの約束ですか。
▼武器も能力も失って、ここにいる理由も分からず追われていて、仲間もおらずに孤独なあなたは、なぜかいつも以上に恐怖を感じてしまっています。あなたの、恐怖に対する反応は? 逃げることに徹しますか。迷路のようなものだと考え、冷静に解決策を推理していきますか。あるいは武器や能力がなくとも、真っ向から戦いを挑みますか。それとも泣きながら、誰かに助けを求めてさまよいますか。
▼何をやってもどうにもならない。そんな絶望を味わったとき、あなたはどうしますか?


【情報その他】
▼舞台となる場所は、笑う月が夜空に浮かぶ暗い街の中です。地形としては、動きやすいけれど敵にも見つかりやすい「大通り」と、隠れる場所は多いけれど狭くて入り組んだ「袋小路」の2つがあります。
▼建物には窓や扉がありますが、中には入れません。
▼武器になるようなものは見当たりません。
▼月はあなたを笑うだけで、何もしませんが助けてもくれません。
▼街のどこかに「希望」があるそうです。具体的に何を指すのは分かりません。それを探し出せればよいそうですが、悠長には探していられないようです。
▼なぜこの街にいて、なぜ追われているのかなど、その理由を思い出すことは基本的にできません。

▼トラベルギアが使用できなくなっています。また、特殊能力が発動できません。これらの制限は、ある条件を満たすと解除されることがあります。
▼セクタンの使用は制限されません。パスホルダーに入れておくもよし、お供にするのもよし。

▼敵について。逃げ隠れるあなたの命を奪おうと、どこまでも追ってくる「黒くて大きな異形」です。対峙するものに対し、絶対的な恐怖心を与えてきます。それはあなたの心をむしばみ、正気を失わせる効果を持ちます。あまり知性的ではないようですが、かなりの戦闘力を誇ります。戦闘方法は相手によって変わるようで、一定ではありません。

▼このシナリオで、本当にキャラクターが死亡しちゃうなどはありません。


【補足】
 ホラー的な逃亡劇をイメージしたシナリオです。
 大まかには「恐怖に飲まれてしまうか、それとも乗り越えられるか」という流れになっていくと思います。シナリオ開始当初はダークでホラーですが、恐怖を乗り越えられたのなら、希望をつかむ熱い展開になっていくでしょう。けれど恐怖に飲まれてしまえば、己の狂気を垣間見るような暗い展開となるかもしれません(もちろん、プレイングによっては全く異なる展開も)。
 どんな流れになるかを提示してくださってもいいですし、私に投げてくださっても構いません。キャラクターの過剰にダークな描写を好まないのであれば、乗り越えENDを希望されたほうが良いかもしれません。たぶん。

 このシナリオでは「恐怖に対してどんな状態になり、どんな気持ちで恐怖に対処し、どうやって恐怖の状況を脱するか」をキーポイントに、恐怖と対峙するキャラクターさんを魅力的に描くような、そんな内容を構築していく想定でおります。
 どちらかと言えば。キャラクターの具体的な行動よりも、行動の土台にある理由や気持ちが大事かもしれません。キャラクターがどういった心理・気持ちで行動するのか、などですね。
 例:「敵に対して○○をし、何とか撃退しようとする」プレイングであれば、大事なのは「○○という撃退の戦略内容」ではなく「どんな気持ちで○○を行うのか」ということになります。

 プレイングに迷う場合は、前述の【大まかなプレイング方針】を参考に、質問への回答形式のような感じでプレイングを埋めてみてください。キャラクターに秘められた〝心や想い〟を伝えてくだされば、取るであろう行動をわたしが想定しやすくなり、よりリプレイへ反映できると思います。

 ともあれ、魅力的に描きたいと思っていますのは「恐怖に対する反応」や「恐怖に抵抗して立ち上がる様子」などです。あなたのキャラクターは、OPのような状況になったとき。勝手にからだと心が恐怖してしまうような状況で、どんな風に行動しますか――?


【挨拶】
 今日和、夢望ここるですっ。ぺこり。
『闇黒のバトル・アリーナ』へようこそ! 当アリーナは、今回が2回目の稼動となります。
 戦闘訓練といえば『無限のコロッセオ』がありますが、こちらは「心の闘い」がメインといったところでしょうか。ややホラーな雰囲気ではありますが、状況によっては失われた力を取り戻し、それで恐怖を打ち破るような熱い展開も。
 濃い心理描写やそれにともなう情景シーンの違いなども描写したくって、思い切って長編シナリオでのリリースをさせていただきました。文章量を比較するのであれば、ソロシナでは3倍以上・通常シナでも2倍と、ボリュームたっぷりにご提供できると思います。
 プレイングにつきましては「キャラクターの気持ち」を重点にした上で、色々と書き記してみてくださいませね。
 さぁ、この『闇黒』で待ち受けるのは、絶望か希望か。皆さまのご参加、お待ちしておりますーっ。

参加者
グレイズ・トッド(ched8919)ツーリスト 男 13歳 ストリートチルドレン

ノベル

▼どこかの暗い街の中(0世界ターミナル、バトル・アリーナにて)
 そこは黒で満たされていた。見上げる空も、路地の石畳も、建物の壁も、すべてが漆黒の陰で覆われていた。
 ただの暗い街。街のように見えながら、そこには誰もいない。――闇色の異形から逃げる、1人の少年を除いては。
 グレイズ・トッドは走っている。振り向く背後に見えるのは、街の暗がりだけ。巨大な墓のように立ちはだかる石の街並みだけ。
 見えない何かに追いたてられて。グレイズは必死に逃げる。何事にも反抗的で、無関心で、行動や言動は粗暴で、不機嫌をいつも顔に貼り付けている仏頂面の、彼の顔が。今は恐怖に染まっている。慄き(※)、引きつっている。
 何滴もの雫が頬を伝うほどに、大量の汗を滴らせて。肩を大きく上下させ。必死に呼吸し、無我夢中で。進む方向などお構いなしに、ただ逃げる。

(俺は、どうしてここにいるんだ)
(なんで逃げてるんだ)
(いつまで逃げればいいんだ)

 硬い石畳を踏みつけているはずなのに。ぐにゃりと足元が沈むような感触を覚えて、彼はよろける。派手に転ぶ。受身も取れずに、正面から。擦るように路地を転がった。

「ははっ……そうだ。いつまでも、逃げれる訳が……ねぇ」

 逃げるなんて、無駄なのだ。
 そう心が呟いた。あるいは耳元で、すり消えそうにか細い声が囁いた(※)のかもしれない。
 今まで体に充ちていた力が、唐突に無くなっていく。立ち上る蒸気のように全身から抜けていく。音も立てずに消失していく。
 億劫(※)げに体を転がし、仰向けになる。暗い空に浮かぶ、嘲笑(※)する三日月でさえも、グレイズの目には映っていない。虚ろな視線は何も映していない。

「あの時も戦わずに逃げ続けて。結局、失くすだけだったじゃねぇか……」

 このままでは危ない。あの異形に追いつかれる。殺されてしまう――それは分かっているのに、グレイズは恐怖を感じない。戦慄しない。
 もはや何もかもが、どうでも良くなって。黒一色に染められた、周囲のつまらない街並みも。自分自身さえも。すべてが色褪せて、現実味を無くしていく。

(希望って何だ?)
(そんなもん、端からある訳ねぇ)
(希望なんて、昔からなかったじゃねぇか)
 ――そうだ 希望など 在りはしない

 何処からか、重くけだるげな声が響いてきた。四方に佇む建物の暗がりから、漆黒の鎖が勢い良く伸びてきた。それは石畳の上に突っ伏していたグレイズの両手両足へ、生き物の舌のように巻きついて。彼の体を無理やりに引きずり起こす。
 そんなグレイズの鼻先と、触れ合うくらいの距離に。いつの間にか黒い異形が立ちはだかって、グレイズを見下ろしていた。人型のシルエットをした巨躯(※)から、黒い炎を音も無く揺らめかせて。ぎらぎらと血走る赤い双眸で、彼の顔を見つめている。

 ――希望など まやかしに 過ぎぬ
(そうさ。大人どもに使われて、殴られて、殺されて、食われて。昔からなかったじゃねぇか。今更探すだけ無駄だ)
(いや、そうじゃねぇ。俺には魔法がある!)

 自分の中に残っていた、荒々しい気持ちの一部が叫びを上げた。あきらめの思考を浮かべるしかできないグレイズの脳裏に、鋭い言葉が響く。
 磔(※)にされる囚人のように、黒の鎖に四肢を拘束されながら。グレイズは手先に魔力を集中させる。白い光の粒子が、やんわりと集束を始める。その掌(※)に、拳大の歪(※)な氷の塊が、乾いた音を立てて生成されていく。
 けれど。
 まるで春先に降った雪のように、腐肉が崩れるように、生み出した氷はどろりと溶けて、水になる。
 歯を食いしばり、もう一度。でも同じだ。氷を作り出しても、すぐに儚く(※)消えてしまう。
 けだるげになって全てを投げ出したくなる思考に抗い(※)ながら、意識を集中させるけれど、魔力をしぼり出していくけれど。せっかく集めたそれは、風に煽られる煙のように掻き消えるのみ。
 こんなことは今まで一度もなかったのに。グレイズは愕然とする。不甲斐ない自分を嘆く前に、意地でも氷を生み出そうと、憎らしげに歯を食いしばる。
 けれどふと気付き。力なく、乾いた哂い(※)を漏らす。

(魔法が使えねぇから、何だって言うんだ。あっても、何の役にも立たなかったじゃねぇか)
(結局それで、何かを奪う事はあれ……守れたことなんて、なかったじゃねぇか。失くすばっかりだったじゃねぇか)

 脳裏に炸裂する記憶。仲間の姿。桃色と黄色と金色の。それと青色の自分。
 笑い声。罵り合いながらも賑やかだった日々。辛い中にもちいさな喜びやくだらない夢があった日々。
 それらが他人事のように遠く感じた。劣化して色褪せた(※)紙片のように、古臭く感じた。そして、大切なものにも感じた。
 そんな、黄色く変色した紙切れのような思い出は。野蛮に放たれた暴力の炎によって、燃やし尽くされてしまったのだ。
 炎に焼かれていく思い出へと、グレイズは手を伸ばす。けれど届かない。伸ばした腕は炎の熱にさらされて、氷のように溶けてしまったから。

(役に立たないなら魔法なんか、使えなくても良い)
(どうせ失うだけなら、どんな宝物もいらねぇ。家族も仲間も、希望も。何もかも、いらねぇ)

 両手両足を広げるように鎖で拘束されているグレイズは、抵抗をやめた。掌の氷も、欠片ほどの魔力も、儚く失せて。

 ――いいえ あきらめてはいけません

 色鮮やかな果物で毒々しく飾られ、眩い(※)くらいの純白をしたショートケーキを思わせる、場違いに明るい声が響いてきた。
 空に立ちこめる暗雲を遮って、光の柱が出現し。薄い衣に身を包む、天使のような少女が降臨する。

 ――ほら 手を伸ばして それは希望 戦うための力
(きぼう……?)

 うなだれていた顔をだるそうに起こすと、目の前にあふれる光の奔流(※)があった。泉のように湧き上がる光の中から、見覚えのある道具が出現する。
 青空のように透き通る綺麗な宝石がはめ込まれた、左右一対のリストバンド。腕に氷を纏わせるそれ。氷の刃を構築するそれ。それはグレイズ・トッドの希望(トラベルギア)!
 でもグレイズは、眩しそうに目を細めて。手を伸ばすことはせず、それをぼうっと見つめるだけだ。
 グレイズの背に寄り添う乙女は、甘くささやく。
 グレイズの前にそびえる異形は、重くつぶやく。

 ――黒く澱んだ(※) 心を 希望という光で 打ち払うのよ
 ――無駄だ 例え希望を 手にしても さらなる絶望が 心を黒く 塗りつぶす

 ――あきらめてはだめ
 ――あきらめる時だ

 ――手を伸ばして 希望をつかむの
 ――手を伸ばさず 絶望に染まれ

 光の乙女と、黒の異形。2人の言葉が、グレイズの脳裏に響く。
 響く。
 響く。
 響く。
 でもそれは。彼を希望で満たさない。彼を絶望で満たさない。
 彼あふれたもの。それは――。

 か は は は は は は は !

 哂い声。腹の底から吐き出したような、侮蔑(※)の哂い。肩を弾ませて、全身を揺らして、大声で。グレイズは哂う。

「……くだらねぇ」

 ひとしきり哂ったあと。嘲笑するように、おかしそうに、グレイズは呟いた。ゆらりと顔を上げる。正面の異形を睨みつけ、続いて背後にいるはずの乙女にも同様の視線を飛ばす。突きつけるナイフのように硬く鋭く、殺意に満ちた眼差しで。ふたつの存在を睨みつける。

「あなたに希望を授けましょう、ってか? ふざけんじゃねぇよ」
 ――あなたは自ら 希望を否定すると いうの

 乙女の声音は震えていた。差し出そうとした希望を拒絶されたことへの驚愕に。悲しみに。そして怒りに。
 そんな乙女に、グレイズははっきりと吐き捨てる。

「希望なんて知らねぇ。見たこともねぇ、聞いたこともねぇ。そんなモン、偽物だ。希望なんてありえねぇ。最初から俺にあるのは、絶望だけだ」

 乙女が声にならない悲鳴を上げたようだった。息を呑んだようだった。言葉を失ったようだった。
 にたり、とグレイズが哂うのを見て。目の前の異形も、戸惑いの言葉を口にする。

 ――何故だ 貴様は希望を拒絶し 絶望しているというのに 何故 あきらめない
「絶望なんて、最初からあるもんだろうがよ。いちいちひとつやふたつの絶望ごときで、おめおめ泣いてられっか。くそが」

 異形に向けて、グレイズは唾を吐き捨てた。
 黒の異形は、恐れているようだった。先ほどまで、自分を追い掛け回していた敵が。闇の中から恐怖と共に迫ってきた敵が。恐れている。絶望に染まらず、与えられた希望さえも否定して尚、狂わずに確固たる己を貫いている、グレイズ・トッドを。敵は恐れている。
 こんな奴らにびびっていたのか――そう思うと腹の底から、溶岩のように煮えたぎる怒りの感情が、あふれ出てきて。

「希望を捜して掴み取れ? 全部あきらめて絶望しろ? ハン――」

 グレイズの口元が不敵に歪む。
 四肢にありったけの力をこめる。乾いた音を立てて、四肢を拘束していた黒い鎖に亀裂が走っていく。

「ふざっ――けんじゃっ――ねぇよ!」

 硝子の破砕音のような音が炸裂し。彼を縛り付けていた鎖は、粉々に砕けて霧散した。解放されたグレイズは石畳の上へ軽やかに降り立つ。
 前方には、巨人のように大きな黒の異形。背後には、華奢な体を薄い衣で包んだ乙女が浮遊している。ふたつの存在へ、牙を剥く野犬を思わせる威嚇の眼差しを向ける。

 ――酷い!

 乙女は金切り声を上げた。色とりどりの甘いお菓子を思わせた可憐な声は、醜くかすれて。行き場のない手をわなわなと震わせながら、早口にまくし立てる。

 ――あなたは否定するのね 拒絶するのね せっかくの希望を せっかくの機会を その手に宿る力を 自ら捨てると言うのね
「ああそうだ。誰の手も借りねぇ。不要な施しは受けねぇ。希望なんざクソ喰らえだ。そんなもん、跳ね除ける!」
 ――なら何故 絶望して すべてを あきらめない 何故 死を選ばない
「てめぇらは頭がよすぎるみてぇだなぁ。生きるために、希望とか絶望とかよ……そんなの考えるのは、頭いいお利巧サンだけなんだ。残念だったな、俺は頭のわりぃ野良犬なんだよ」

 ククク、と嫌味を含めた哂い。グレイズは余裕たっぷりに、ズボンのポケットへと無造作に両手を突っ込む。自分よりも何倍も大きい、そびえる巨木のような異形を前にしていても。グレイズは怯えない。グレイズは戦慄しない。
 もう、恐れない。

「それにな。いま生きてるんだから、生きようとすんのはあたりめぇだろうが」
 ――あなたは 愚か者よ 希望を蔑ろ(※)に するなんて 愚の骨頂だわ
 ――貴様は 愚か者だ 立ちはだかる 絶望の大きさを知らず 暗がりに向かって 吠えるだけの 負け犬め

 グレイズの言葉など耳に入れず。乙女も異形も、彼を見下ろして侮蔑の言葉を向けるのみ。
 異形は全身から黒き炎をたなびかせながら、左右へやんわりと腕を広げた。澄んだ音を立てながら、その掌に氷の塊が生成されていく。
 乙女は両手を突き出した。集束を始めた光の粒子が、手首へとまとわりついていく。そこに何かが具現化される。青空のように透き通る綺麗な宝石がはめ込まれた、左右一対のリストバンド。腕に氷を纏わせるそれ。氷の刃を構築するそれ。
 乙女と異形。ふたつの存在が手にしている力の顕現。それはグレイズの魔法。それはグレイズのトラベルギア。彼に宿っていたはずの力、彼に与えられたはずの力が、所有者を変えて牙を剥こうとしている。
 けれどグレイズは、それを卑怯だと罵ることは無い。力を返せ、トラベルギアを返せとは叫ばない。

「トラベルギアも氷の魔法も、必要ねぇんだよ。そんなもん無くったってな、今まで生きてきたんだよ。戦うのは道具があるからじゃねぇ、俺の意思だ! 体ひとつあればどうにだって戦える」

 これまでもずっと、そうだったのだから。今もそうであるべきだ。これからもそうであるべきだ。グレイズの意思は揺るがない。
 例え魔法もギアも無くたって。彼には体がある。殴れる拳がある。蹴れる足がある。頭や肩をぶつけることだってできる。歯で噛みつくことだってできる。
 そう、彼にとっての武器は、己の意思と。己のからだそのもの。

「それに、ここで死ぬわけにはいかねぇんだよ。元の世界に戻って〝あいつら〟に復讐する前に……こんな所で訳分からねぇ奴に、殺されてたまるか」
 ――あなたが 持つはずだった希望で その身を引き裂き 後悔させてあげる!
 ――すべてを 黒く染めあげる絶望で その心を打ち砕き 失意に染め上げてやろう!

 乙女の双眸が、異形の双眸が、爛々(※)と紅く輝いて。その光の筋を闇色の中に残しながら、襲い掛かる。標的は、希望を拒絶し絶望を自ら肯定した彼、グレイズ・トッド!

「うるせぇ! 帰らなきゃいけねぇんだよ、俺はぁ!」

 音も無く、瞬きをする間に接近してきた乙女に向けて、グレイズは拳を繰り出した。
 けれど乙女の動きは疾い。目では追えない。野性的な感覚だけで突き出した攻撃など、乙女にはかすりもしない。
 瞳の紅が像を残し、乙女が急速に距離を離して後退していく。それをがむしゃらに追おうと、グレイズは足を踏み出した。
 その背中に氷塊がぶち当たる。異形が放ったそれは乙女を追うグレイズを叩き落とした。氷は光の粒となってすぐに霧散する。

「ち、馬鹿だ屑だと勝手に言ってな。どうせその通りなんだ。けどよ――」

 グレイズはすぐさま体を起こす。そこへ、氷柱のような氷が襲い掛かる。横へ転がるようにして避ける。石畳に氷の槍がいくつも突き刺さる。
 続けて背後に殺気を感じた。風が奔った。紅色の光の残像を走らせながら、乙女がグレイズの後ろから横を駆け抜けて。

「おめおめと自分から死ぬなんざ、馬鹿なことすんのだけは。あきらめるってのは。絶対にありえねぇ――ぐぁ!」

 腹部に強烈な痛みが走る。乙女が腕にまとわせた氷が、刃のように彼を切り裂いた。腹から、ぶしゃりと赤黒い体液が飛び散る。けれど、やられたままでは終わらない。
 乙女は鋭く翻り(※)、再び氷の刃を閃かせた。それを避けることなく、グレイズはむしろ自ら攻撃の範囲へ飛び込むようにして。先ほどよりも刃は深く、グレイズの体を切りつける。けれどその痛みを代償に、グレイズは乙女がなびかせる長髪を乱暴につかみ、ぐいと己へ引き寄せて。

「俺は野良犬だ。自分からは死なねぇ。死ぬ時になったら勝手に死ぬ」

 乙女の鼻面へ頭突きをぶちかます。陶器が割れるような音がして、乙女の顔面に歪な亀裂が走った。亀裂の間からは、異形と同じ黒い色をしたものが火の粉のように噴き出して。

「やられたらやり返す。殺されるんなら先に殺す。気にいらねぇ奴はぶっ飛ば――」

 言葉を言い終える前に、グレイズは圧倒的な質量をともなう何かによって、上から押しつぶされた。異形が氷塊を握り締め、それで力の限り打ち付けてきたのだ。
 敷き詰められた石のタイルがめくり上がる。その中へ無理やり押し込まれるようにして、グレイズがめり込んでいく。異形は再び腕を振り上げて、氷を打ち付ける。それを何度も繰り返す。

「いい加減に――しやがれ!」

 顔の前で腕を交差させ、直撃を防ぎながら。打ち付けられる氷塊の真ん中へ、突き出すように蹴りを放つ。
 氷が破砕して勢い良く飛び散った。鋭く尖った破片は、グレイズにも異形にも等しく襲い掛かる。目元を霞め、頬を切り裂き、血の玉を浮き上がらせる。
 そうして相手がひるんでいる隙に。グレイズは体を時折ふらつかせながらも、異形へと駆け寄っていき。弾むように跳躍する、異形の顔面を血まみれの両手でつかむ。そしてその顔へと、思い切り膝蹴りを放った。
 肉を潰すような感触ではなく、やはり陶器を壊すような軽くて儚い手応えを感じて。黒の異形がGRRRと獣のような悲鳴をあげ、手を振り回し、グレイズは叩き落とされた。異形はヒビの入った顔を手でおさえながら、痛みをこらえて暴れ回っている。顔面の亀裂から、血のような色をした光の粒が立ちのぼっている。

「これが俺だ。このやり方が俺だ……誰の指図も受けつけねぇ。誰にも邪魔はさせねぇ。希望も絶望も……関係ねぇ」

 肩膝を付きながらも、グレイズは敵を真っ直ぐに見据えた。
 打撲による内出血で肌が紫に変色している。体のいたる場所に切傷がある。血を滴らせている。ぽたぽたと地面に斑点を作っている。そうして満身創痍になりながらも、瞳には挑戦的な感情が色を宿していて。その心の炎は、未だに揺らめている。

 ――愚かなひと

 地面に両手両膝をついていた乙女が、幽鬼のように力なく立ち上がる。当初の声音にあった明るさなど垣間見えぬほどに、冷たい声で囁いた。

 ――与えられた希望に すがっていれば 良かったのに
「……うぜぇ」

 グレイズは血の混ざった唾と共に、言葉を吐き捨てた。

 ――愚かものめ

 痛みにGRRRと唸り声をあげていた異形が、長い舌のようにだらりと腕を垂らす。爛々と輝く紅い瞳をぎょろりと蠢かせ、重く低い声で囁いた。

 ――絶望を前に あきらめてしまえば 良かったのだ
「……うぜぇ、っつってんだろうが! てめーらの説教は飽き飽きだ」

 グレイズは吠えた。見せ付けるようにして、足元にあった石の欠片を力の限り踏み潰す。煙のように埃が膨らむ。
 その様子を見て、乙女が哂う。異形が哂う。くすくすと、げらげらと。まるで、空からすべてを虫けらのように見下ろしている、あの顔のある三日月のように。醜く口許を歪ませて。

 ――トラベルギアも無しに 馬鹿なひと
 ――己に宿る魔法も無しに 愚かな奴め

 ――無力は 希望を遠ざけ 死を招く
 ――無力は 絶望をまねき 死を招く

 ――自ら 死を選ぶなんて 怖くはないの
 ――引き込もうとする 死に 恐怖は しないのか

「死ぬことにビビってるなんて、半端な覚悟しか持ってねぇ奴にな……復讐ができる訳ねぇだろが」

 グレイズは付いていた肩膝を、億劫そうに持ち上げようとした。けれどうまく力が入らず、前のめりに倒れこんでしまう。けれど這いずり回る野良犬のように、再び立ちあがろうと体を起こす。

「死ぬ事になっても……構いやしねぇ。元の世界に戻って……〝あいつら〟に復讐するためだったら……俺は最後まで、足掻いて足掻いて……足掻き……ぬく! それが俺の誓い。復讐を誓った野良犬の……覚悟なんだよ」

 掠れるような呼吸をしながら。息絶え絶えに、グレイズはそう言い放つ。ふたつの敵に向けて、抗うように言葉を投げつける。

「希望とか絶望とか……そんなのに左右は、されねぇ。邪魔はさせねぇ。ただ……やる! それだけだ。それ以上もそれ以下も、ねぇ……!」
 ――信じられない 与えられる希望を 自ら否定して それでも生きようとするなんて あなたは
 ――考えられぬ 絶望を抱える 自らを肯定して それでも生きようとするなど 貴様は
 ――あなたは 誰?
 ――貴様は 誰だ?

 洞窟の中で響くように、暗い街でふたつの声がこだまする。
 何度も地面に倒れ伏せながらも、あきらめずにようやく立ち上がることのできた、グレイズは。ふたつから投げかけられた問いに、にやりと笑う。それは自嘲(※)を含みながらも、どこか吹っ切れたような清々しい感情の色を持っていて。

「誰でもねぇよ」

 グレイズは、ゆっくりと手を前に伸ばした。痛みと疲労で小刻みに震える手を、しっかりと伸ばした。

「俺はただの犬。名前もねぇ、何もねぇ……薄汚れた一匹の野良犬(グレイズ・トッド)だ。だから――」
 
 数え切れないほど過酷な目に遭って、傷つき、奪われ、そうしたことにも慣れていたはず。けれど異形の放つ戦慄と強さに屈し、あきらめかけていた自分。
 それを支えたひとつの想い。元の世界へ帰るという想い。帰り、友の命を奪った〝あいつら〟を探し出し、この手で殺すという目的。
 そんなことをしても、友は戻らないとグレイズは知っている。けれど、その想いが彼のからだに熱を宿す。

(なら、あなたはどうするの?)

 声が響く。聞き覚えのある幼い少女の声。あるいは無残に殺されたはずの、友の声にも聞こえる。そんな声が問いかけてくる。
 グレイズは答える。自信と確信を持って、想いのひとつを口にする。

「決まってんだろ。目の前の奴らをぶちのめす」
(どうやって? 魔法もトラベルギアも、失っているのに?)
「できるかどうかじゃねぇ、やるんだよ!」

 差し出した手。その掌は氷を生み出せず、トラベルギアも装着されていない。
 けれど。人差し指、中指、薬指、小指、そして親指――ゆっくりと一本ずつ、指を折り曲げて。たっぷりと時間をかけながら、ひとつの拳をつくって。つかむように虚空を握り締める。そこには何もなかった。目に見える何かは無かった。
 けれど、確かにつかんだ! グレイズの中でかたい何かが弾けて目覚める、顕現する、具現化する。
 心に宿るものを感じる。虚空に手を伸ばし、しっかりとつかんだものを感じる。かたち無きもの、けれど確かに在るもの。己に秘められた力の、もうひとつのかたち。
 それは希望? その名は希望? それこそは、希望という名のトラベルギア?
 ――違う!

「これは! こいつは! 俺自身のチカラ、だぁぁぁぁ――ッ!」

 ――冷たく暗い その街に――
 ――熱き風が 吹き抜けた――

 最初からあったものの、失うだけしか味あわせてくれなかった、氷の力ではない。
 かと言って、差し伸べされた偽善のごとく、他者から施しのごとく与えられた、トラベルギアでもない。
 それは炎。友を焼き尽くした炎熱の恐怖。彼にとっての過去。
 彼が伸ばした手から、握った指の間から。激流のように、紅い炎がほとばしる。

「やられた分、やり返してやるぜ」

 たじろぐ乙女と異形を前に、グレイズは。荒れ狂う炎のような激昂を秘める、強い視線を向けて。炎を宿す手を、振りかざす――。

 †

「まったくもう、乱暴なひと。……けれど真っ直ぐなんですね。あなたは激しく、雄々しく、荒々しく……これからもそうやって生きていくのね」

 暗い街の天空に佇む、顔のある三日月の上。そこに腰掛けているメルチェットの姿があった。異形の闇を打ち倒した挑戦者を、上空から見下ろしていた。戦いの余波でほとんどが焼け焦げ、崩れ、瓦礫と化した街。その中で埋もれる彼へ向けて、あきれるように呟いた。けれど温かな眼差しを注いでいて。

「あなたが、あなた自身に願ってることを忘れないで。そうやって、あなたはあなたの思うように、生きたらいいです。何と言われようとも、汗や泥や血にまみれても。あなたは、あなたらしいあなたでいると良いです。きっと〝お友達〟も、そんなあなたをいつものように、笑ってくれるはずだから」

 †

「……あん?」

 月に腰掛けている少女が、そんな言葉を投げかけてきたと感じて。グレイズは覆いかぶさっていた瓦礫を乱暴にどけながら、少女を仰ごうと闇色の空を見上げた。
 そこに少女の姿は無かった。顔のある月の顎先に腰掛けているような気がしたのに。なぜか戦いの最中では思い出すことができなかった、白い衣をまとう金髪のあの少女の姿は、そこには無かった。
 けれど、少女の声は確かに届いた。グレイズの目元が憎らしげに細められる。舌打ちをしながら瓦礫から這い出ると、月から背を向け、歩き出す。暗い街並みを朝焼けのように照らし始めた、強烈な光の方向へと。そこに出口があると、少女の声が教えてくれた。

「――ったく、うぜぇんだよ。何が訓練だ、クソが。人様の心の中にも、入り込んできやがって」

 グレイズは強さを求めてやってきた。元の世界に戻り復讐を果たすまでの、大きな力を得るためにと。
 でもそこに、都合のいい希望など無かった。あるのは自分だけ。自分自身という、抜き身の刃ひとつだけ。それ以上のものもそれ以下のものも、無かった。炎の力も、自分にあったモノがかたちを変えて表れただけ。
 自分に今あるものが全てなのだ。最初から、そうだったのだ。
 くだらない遠回り。そう気付いたグレイズは、くくくと卑屈そうに笑いを漏らし。挑戦的な瞳で、上空に佇む顔のある月を見上げた。誰もいない月。嘲笑するように歪んでいた口元は、やはり同じままでいて。一匹の野良犬に、嘲る(※)ような視線を投げかけるのみだ。
 復讐を果たすことが、おまえにできるかな? ――と。その目は訴えかけているように思えて。

「てめぇに言われる筋合いはねぇ」

 鋭いナイフを思わせる、危うげに尖った敵意を向けた。
 野犬は生き続ける。荒々しく吼え、猛々しく牙を剥く。力尽きるその時まで。復讐を果たすその時まで――。

(グレイズ・トッドの歩みは、続く)

クリエイターコメント【あとがき】
 闇黒のバトル・アリーナ2回めの挑戦者は、その内にたぎるような野性を秘めたナイフのような少年でした。

 プレイングを拝見し、まず思いついたことは「安易に希望(トラベルギア)を与えて、勝利させてはいけないな」ということです。
 苛酷な環境で生まれて育ったに違いない彼が、道を切り開くには。今ある氷の魔法の力でもなく、与えられた武器による力でもなく……それらとは違う、別の新しい力に目覚める流れが必要なのでは? と考えました。

 設定や過去ノベルを拝見した限りでは、その過去の一つに「火」という重要なキーワードがあるように思いました。
 呪縛のような過去ではありますが……希望はなく絶望しかない自分の生き様を、彼が肯定できたのなら。きっとそうした辛い思い出のかけらも、彼にとっては目的を果たすための力として、顕現するのではないかしら? そう思ったことからの「炎を操る能力」でした。右手に氷、左手に炎……相反するものをその手に携える姿も、ときめく構図のように感じていたり。
 もちろん、あくまで私の勝手なイメージによる能力覚醒ですので、今回限りのものとしてしまっても一向に構わないと思います。

 こうしたつくりがリプレイを通し、期待通りのものとして表れていれば、嬉しく思います。
 当アリーナにお越しくださり、本日はまことにありがとうございましたっ。またの挑戦をお待ちしております!
 それでは、夢望ここるでした。ぺこり。


【『教えて、メルチェさん!』のコーナー】
「こほん。
 皆さん今日和。メルチェット・ナップルシュガーです。
 グレイズさん。今回は挑戦、お疲れ様でした。トラベルギアをおざなりにするなんて、本当にあなたは激しいひとなのね。そんな想いが、あなたを形作っているはず。いつまでも強く、想いを持ち続けて欲しいです。
 さ、それじゃあ今回も私と一緒に、漢字の読みかたをお勉強しましょ。抜けがあったらごめんなさい。

▼慄き:おののき
▼囁いた:ささやいた
▼億劫:おっくう
▼嘲笑:ちょうしょう
▼巨躯:きょく
▼磔:はりつけ
▼掌:てのひら
▼歪:いびつ
▼儚く:はかなく
▼抗い:あらがい
▼哂い:わらい
▼色褪せた:いろあせた
▼眩い:まばゆい
▼奔流:ほんりゅう
▼澱んだ:よどんだ
▼侮蔑:ぶべつ
▼蔑ろ:ないがしろ
▼爛々:らんらん
▼翻り:ひるがえり
▼自嘲:じちょう
▼嘲る:あざける

 皆さんはいくつ読めましたか? もちろんメルチェは大人ですから、全部読めるのは当然ですよ(きぱ)」
公開日時2012-03-04(日) 19:20

 

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