▼0世界ターミナル、バトル・アリーナにて あなたには今、闘う必要がありました。強さを求める必要がありました。 理由は、人それぞれでしょう。 ともあれあなたは自らの意思で闘いを求めて、ここ――『闇黒(あんこく)のバトル・アリーナ』にやってきたのです。 † ターミナルの一角に建造された、とある建物。まるでテーマパークのように広くて大きな建造物で、外観は壱番世界で言う近代西洋風といったところ。大きな劇場のようでもありました。 そこは人形遣いのメルチェット・ナップルシュガーというツーリストが管理する、戦闘訓練用の複合施設です。中には様々な名を冠した訓練施設がいくつも用意されており、用途に特化した闘いを行うことができます。 今回、あなたが訪れたのは『闇黒』の名を冠する施設です。係りの者に案内され、広い部屋にたどり着きました。仮想空間を形成する魔法技術によってチェンバーが構成されているのか、そこは建物の中にも関わらず異質な空間が広がっていました。 部屋の中は、暗がりと影と夜空で構成されています。壱番世界の近代西洋を思わせる街並みのようですが、どの建物にも灯りはありません。街のようでありながら、それらはすべて石のように重い沈黙を放って、そこに在るだけでした。 ――不気味な暗い街。そんな言葉があなたの頭の中をかすめます。 そこに佇む、一人の少女がいました。猫耳のあるフードが付いた、不思議なケープを羽織っているその小さな女の子。彼女が当バトル・アリーナを管理する人物、メルチェット・ナップルシュガーです。彼女の隣には、装飾のなされた木製の棺がひとつ横たわっていました。 あなたが、影と闇で彩られた景色の中を歩み寄っていくと。少女は俯いたまま、ささやくようにそっと言葉をかけてきます。「ひとの心とは強いように思えて、とても繊細なところがあります。心はいつも、風に揺れる木の葉のように。正と負の位置を、大きく行ったり来たりするの」 漆黒の空に浮かぶのは、人のように目と鼻と口のある三日月です。爬虫類のようにぎょろりとした艶かしい双眸を、あちらこちらに動かして。綺麗に生え揃った歯をむき出しにして。すべてを天より見下し、すべてを青白く照らし出しながら。道化師のように嘲け笑う月がひとつ、浮かんでいます。「ふと弱くなってしまったときの心は。とても華奢で、儚くて。すぐに壊れてしまうのですよ」 少女がゆっくりと顔を上げ、あなたと視線を交わします。真剣で厳しそうで。けれど、どこかに優しさもにじませるような視線を、投げかけてきます。「今日和、バトル・アリーナへようこそ。あなたが、今回の挑戦者ですね。ここは闇黒のバトル・アリーナ。挑戦者が〝恐怖〟に抗う場所です」 そう、闇黒を冠するこの部屋で闘うのは、あなた自身の心に潜む弱さそのものなのです。メルチェットがこの闇黒のために製造した戦闘人形〝玉響の戦慄(たまゆらのせんりつ)〟は、どのような人物の心にも戦慄をもたらし、絶対の恐怖で身と心を縛り付けるでしょう。 あなたが挑戦の意を表明すると、少女はこくりと首を縦に動かします。「心の奥底に刻まれた記憶を読み取って、この人形は自在に姿形と能力を変えます。どんなに頑なで強い精神の持ち主であっても、身体の底から恐怖し、震え上がってしまうことでしょう。あなたにはそんな人形と対峙して、自らが覚えた恐怖そのものと闘ってもらいます」 メルチェットは棺へと視線を落とし、愛しげにその蓋へと指を這わせます。「――さぁ、行きませ。すべてのものを慄かせるきみ。すべてのものを屈服させるきみ。今が這い寄る、その時よ」 物言わぬ棺を見下ろしながら触れ、ゆっくりとその周囲を歩き。愛らしい声音で、歌うように言葉を紡ぎます。「主の言葉は空言にあらず。見せ掛けの虚ろうまやかしよ、幽玄なる輝きをもって泡沫の姿をここに現せ。仮初めの力を用いて、虚構なる戯れの糧となれ。今、偽りの命を玉響の真なる命に――」 棺を、指先で撫でながら歩いていたメルチェットが、そっと足を止めて。棺を封印するかのように巻かれていた太い鎖の鍵が、ひとりでに解除されていきます。「顕現する命、その名は――〝玉響の戦慄〟」 解かれた鎖が、重々しい音を立てて落ち。次の瞬間、棺の蓋は無造作に内部から砕かれ、吹き飛ばされて。その中から這い出てくるものがありました。 黒くて黒くて、巨大で。爛々と赤く目を輝かせて。異質な姿をしたモノが、ぬらりと棺から身体を起こして。慈悲を感じさせない瞳で、あなたを見下ろします。 あなたは武器を構えます。あるいはトラベルギアを顕現させ、あるいは能力を発動させます。 ――けれど。 ――けれど。 手の中には、何もあらわれません。からだの底からわき上がってくるはずの、力の胎動も。何も、何も感じないのです。(トラベルギアが取り出せない?)(力も使えない?) その事実に気付いたとき。笑う月の光を遮るように、黒き異形はあなたの前に立ちはだかります。それを思わず見上げたあなたは――。 呼吸が、苦しくなりました。心のうちから、腹の底から、冷たい冷たい何かがわき上がってきて。それがあなたの呼吸を阻害します。 満足に息が吸えません、吐き出せもしません。あなたは苦しそうに喘ぐも、他に何もできません。息が詰まるほどの恐慌が全身を支配しています。 そしてさらには。平衡感覚を失いそうになるくらいの、思わず足元をふらつかせるくらいの、強烈な眩暈に襲われます。恐怖でしびれてしまった手足の感覚も、どこか虚ろで。気が付けば、歯も根が合わないくらいに、おびえて震えていて。からだもこころも、全てが恐怖に絡まり飲まれていて。何もかもが言うことを聞かずに、恐れ慄いているのです。 そんなあなたの頬を無意識に伝う液体は、冷たい汗でしょうか、あるいは涙でしょうか。分かりません、分かりません。 ――ああ、それでも。ひとつだけ、分かることがありました。自分を見下ろすこの黒い怪物は、自分の命を奪う危険な存在であるのだと。(逃げなければ、殺される!) 本来であれば自由に使えるはずのトラベルギアや、己の特殊能力。そのすべてが使えない今、あなたには逃げることしかできません。反撃の戦略を練ろうにも、とにかく今はこの場を離れなければ。 あなたは、かろうじて動く足を引きずるように動かして。自分ではひどく緩慢に思える動作で、その場から走り出しました。怪物が悲鳴にも似た奇声をあげるのを、背中越しに感じました。猛烈な勢いで後を追ってくる気配も感じました。(どうすればいい?) 見ず知らずの街並みに翻弄されながら、あなたは暗がりの中を疾走します。そうしながら考えます。力のすべてが封じられた今、この状況を打開する術を。追ってくるあの異形への対抗策を。この暗い街から脱出する方法を。 すると。ふとあなたの脳裏に、少女の幼いささやき声が響きます。(どこかにある〝希望〟を、集めてください。求めよ、さらば与えられん――) 聞いたことのあるような声でしたが、その主が誰であるのか、今のあなたには分かりませんでした。 それどころか、無意識のうちに。ここが訓練のための施設であることですら、なぜか記憶から消えてなくなっているのです。あなたはここにいる理由も追われている理由も分からずに、暗い街をさまよう迷い人となっていました。 浮かぶ月が、けたたましく笑います。嘲るように、げらげらと。蔑むように、げらげらと。笑い声は暗い街にこだまします。 そんな耳障りな月が浮かぶ、暗い石の街。気を抜けばすべてが闇に見えそうな、暗い街。そこをあなたは走ります。疾ります。恐怖に侵食されて、今にも身体が動かなくなりそうに、なりながら。 けれどもあなたは。必死に抗って、全力で前へと――。 あなたと恐怖との戦いが今、始まります――。
▼どこかの暗い街の中(0世界ターミナル、バトル・アリーナにて) そこは黒で満たされていた。見上げる空も、路地の石畳も、建物の壁も、すべてが漆黒の陰で覆われていた。 ただの暗い街。街のように見えながら、そこには誰もいない。――闇色の異形から逃げる、1人の少年を除いては。 グレイズ・トッドは走っている。振り向く背後に見えるのは、街の暗がりだけ。巨大な墓のように立ちはだかる石の街並みだけ。 見えない何かに追いたてられて。グレイズは必死に逃げる。何事にも反抗的で、無関心で、行動や言動は粗暴で、不機嫌をいつも顔に貼り付けている仏頂面の、彼の顔が。今は恐怖に染まっている。慄き(※)、引きつっている。 何滴もの雫が頬を伝うほどに、大量の汗を滴らせて。肩を大きく上下させ。必死に呼吸し、無我夢中で。進む方向などお構いなしに、ただ逃げる。 (俺は、どうしてここにいるんだ) (なんで逃げてるんだ) (いつまで逃げればいいんだ) 硬い石畳を踏みつけているはずなのに。ぐにゃりと足元が沈むような感触を覚えて、彼はよろける。派手に転ぶ。受身も取れずに、正面から。擦るように路地を転がった。 「ははっ……そうだ。いつまでも、逃げれる訳が……ねぇ」 逃げるなんて、無駄なのだ。 そう心が呟いた。あるいは耳元で、すり消えそうにか細い声が囁いた(※)のかもしれない。 今まで体に充ちていた力が、唐突に無くなっていく。立ち上る蒸気のように全身から抜けていく。音も立てずに消失していく。 億劫(※)げに体を転がし、仰向けになる。暗い空に浮かぶ、嘲笑(※)する三日月でさえも、グレイズの目には映っていない。虚ろな視線は何も映していない。 「あの時も戦わずに逃げ続けて。結局、失くすだけだったじゃねぇか……」 このままでは危ない。あの異形に追いつかれる。殺されてしまう――それは分かっているのに、グレイズは恐怖を感じない。戦慄しない。 もはや何もかもが、どうでも良くなって。黒一色に染められた、周囲のつまらない街並みも。自分自身さえも。すべてが色褪せて、現実味を無くしていく。 (希望って何だ?) (そんなもん、端からある訳ねぇ) (希望なんて、昔からなかったじゃねぇか) ――そうだ 希望など 在りはしない 何処からか、重くけだるげな声が響いてきた。四方に佇む建物の暗がりから、漆黒の鎖が勢い良く伸びてきた。それは石畳の上に突っ伏していたグレイズの両手両足へ、生き物の舌のように巻きついて。彼の体を無理やりに引きずり起こす。 そんなグレイズの鼻先と、触れ合うくらいの距離に。いつの間にか黒い異形が立ちはだかって、グレイズを見下ろしていた。人型のシルエットをした巨躯(※)から、黒い炎を音も無く揺らめかせて。ぎらぎらと血走る赤い双眸で、彼の顔を見つめている。 ――希望など まやかしに 過ぎぬ (そうさ。大人どもに使われて、殴られて、殺されて、食われて。昔からなかったじゃねぇか。今更探すだけ無駄だ) (いや、そうじゃねぇ。俺には魔法がある!) 自分の中に残っていた、荒々しい気持ちの一部が叫びを上げた。あきらめの思考を浮かべるしかできないグレイズの脳裏に、鋭い言葉が響く。 磔(※)にされる囚人のように、黒の鎖に四肢を拘束されながら。グレイズは手先に魔力を集中させる。白い光の粒子が、やんわりと集束を始める。その掌(※)に、拳大の歪(※)な氷の塊が、乾いた音を立てて生成されていく。 けれど。 まるで春先に降った雪のように、腐肉が崩れるように、生み出した氷はどろりと溶けて、水になる。 歯を食いしばり、もう一度。でも同じだ。氷を作り出しても、すぐに儚く(※)消えてしまう。 けだるげになって全てを投げ出したくなる思考に抗い(※)ながら、意識を集中させるけれど、魔力をしぼり出していくけれど。せっかく集めたそれは、風に煽られる煙のように掻き消えるのみ。 こんなことは今まで一度もなかったのに。グレイズは愕然とする。不甲斐ない自分を嘆く前に、意地でも氷を生み出そうと、憎らしげに歯を食いしばる。 けれどふと気付き。力なく、乾いた哂い(※)を漏らす。 (魔法が使えねぇから、何だって言うんだ。あっても、何の役にも立たなかったじゃねぇか) (結局それで、何かを奪う事はあれ……守れたことなんて、なかったじゃねぇか。失くすばっかりだったじゃねぇか) 脳裏に炸裂する記憶。仲間の姿。桃色と黄色と金色の。それと青色の自分。 笑い声。罵り合いながらも賑やかだった日々。辛い中にもちいさな喜びやくだらない夢があった日々。 それらが他人事のように遠く感じた。劣化して色褪せた(※)紙片のように、古臭く感じた。そして、大切なものにも感じた。 そんな、黄色く変色した紙切れのような思い出は。野蛮に放たれた暴力の炎によって、燃やし尽くされてしまったのだ。 炎に焼かれていく思い出へと、グレイズは手を伸ばす。けれど届かない。伸ばした腕は炎の熱にさらされて、氷のように溶けてしまったから。 (役に立たないなら魔法なんか、使えなくても良い) (どうせ失うだけなら、どんな宝物もいらねぇ。家族も仲間も、希望も。何もかも、いらねぇ) 両手両足を広げるように鎖で拘束されているグレイズは、抵抗をやめた。掌の氷も、欠片ほどの魔力も、儚く失せて。 ――いいえ あきらめてはいけません 色鮮やかな果物で毒々しく飾られ、眩い(※)くらいの純白をしたショートケーキを思わせる、場違いに明るい声が響いてきた。 空に立ちこめる暗雲を遮って、光の柱が出現し。薄い衣に身を包む、天使のような少女が降臨する。 ――ほら 手を伸ばして それは希望 戦うための力 (きぼう……?) うなだれていた顔をだるそうに起こすと、目の前にあふれる光の奔流(※)があった。泉のように湧き上がる光の中から、見覚えのある道具が出現する。 青空のように透き通る綺麗な宝石がはめ込まれた、左右一対のリストバンド。腕に氷を纏わせるそれ。氷の刃を構築するそれ。それはグレイズ・トッドの希望(トラベルギア)! でもグレイズは、眩しそうに目を細めて。手を伸ばすことはせず、それをぼうっと見つめるだけだ。 グレイズの背に寄り添う乙女は、甘くささやく。 グレイズの前にそびえる異形は、重くつぶやく。 ――黒く澱んだ(※) 心を 希望という光で 打ち払うのよ ――無駄だ 例え希望を 手にしても さらなる絶望が 心を黒く 塗りつぶす ――あきらめてはだめ ――あきらめる時だ ――手を伸ばして 希望をつかむの ――手を伸ばさず 絶望に染まれ 光の乙女と、黒の異形。2人の言葉が、グレイズの脳裏に響く。 響く。 響く。 響く。 でもそれは。彼を希望で満たさない。彼を絶望で満たさない。 彼あふれたもの。それは――。 か は は は は は は は ! 哂い声。腹の底から吐き出したような、侮蔑(※)の哂い。肩を弾ませて、全身を揺らして、大声で。グレイズは哂う。 「……くだらねぇ」 ひとしきり哂ったあと。嘲笑するように、おかしそうに、グレイズは呟いた。ゆらりと顔を上げる。正面の異形を睨みつけ、続いて背後にいるはずの乙女にも同様の視線を飛ばす。突きつけるナイフのように硬く鋭く、殺意に満ちた眼差しで。ふたつの存在を睨みつける。 「あなたに希望を授けましょう、ってか? ふざけんじゃねぇよ」 ――あなたは自ら 希望を否定すると いうの 乙女の声音は震えていた。差し出そうとした希望を拒絶されたことへの驚愕に。悲しみに。そして怒りに。 そんな乙女に、グレイズははっきりと吐き捨てる。 「希望なんて知らねぇ。見たこともねぇ、聞いたこともねぇ。そんなモン、偽物だ。希望なんてありえねぇ。最初から俺にあるのは、絶望だけだ」 乙女が声にならない悲鳴を上げたようだった。息を呑んだようだった。言葉を失ったようだった。 にたり、とグレイズが哂うのを見て。目の前の異形も、戸惑いの言葉を口にする。 ――何故だ 貴様は希望を拒絶し 絶望しているというのに 何故 あきらめない 「絶望なんて、最初からあるもんだろうがよ。いちいちひとつやふたつの絶望ごときで、おめおめ泣いてられっか。くそが」 異形に向けて、グレイズは唾を吐き捨てた。 黒の異形は、恐れているようだった。先ほどまで、自分を追い掛け回していた敵が。闇の中から恐怖と共に迫ってきた敵が。恐れている。絶望に染まらず、与えられた希望さえも否定して尚、狂わずに確固たる己を貫いている、グレイズ・トッドを。敵は恐れている。 こんな奴らにびびっていたのか――そう思うと腹の底から、溶岩のように煮えたぎる怒りの感情が、あふれ出てきて。 「希望を捜して掴み取れ? 全部あきらめて絶望しろ? ハン――」 グレイズの口元が不敵に歪む。 四肢にありったけの力をこめる。乾いた音を立てて、四肢を拘束していた黒い鎖に亀裂が走っていく。 「ふざっ――けんじゃっ――ねぇよ!」 硝子の破砕音のような音が炸裂し。彼を縛り付けていた鎖は、粉々に砕けて霧散した。解放されたグレイズは石畳の上へ軽やかに降り立つ。 前方には、巨人のように大きな黒の異形。背後には、華奢な体を薄い衣で包んだ乙女が浮遊している。ふたつの存在へ、牙を剥く野犬を思わせる威嚇の眼差しを向ける。 ――酷い! 乙女は金切り声を上げた。色とりどりの甘いお菓子を思わせた可憐な声は、醜くかすれて。行き場のない手をわなわなと震わせながら、早口にまくし立てる。 ――あなたは否定するのね 拒絶するのね せっかくの希望を せっかくの機会を その手に宿る力を 自ら捨てると言うのね 「ああそうだ。誰の手も借りねぇ。不要な施しは受けねぇ。希望なんざクソ喰らえだ。そんなもん、跳ね除ける!」 ――なら何故 絶望して すべてを あきらめない 何故 死を選ばない 「てめぇらは頭がよすぎるみてぇだなぁ。生きるために、希望とか絶望とかよ……そんなの考えるのは、頭いいお利巧サンだけなんだ。残念だったな、俺は頭のわりぃ野良犬なんだよ」 ククク、と嫌味を含めた哂い。グレイズは余裕たっぷりに、ズボンのポケットへと無造作に両手を突っ込む。自分よりも何倍も大きい、そびえる巨木のような異形を前にしていても。グレイズは怯えない。グレイズは戦慄しない。 もう、恐れない。 「それにな。いま生きてるんだから、生きようとすんのはあたりめぇだろうが」 ――あなたは 愚か者よ 希望を蔑ろ(※)に するなんて 愚の骨頂だわ ――貴様は 愚か者だ 立ちはだかる 絶望の大きさを知らず 暗がりに向かって 吠えるだけの 負け犬め グレイズの言葉など耳に入れず。乙女も異形も、彼を見下ろして侮蔑の言葉を向けるのみ。 異形は全身から黒き炎をたなびかせながら、左右へやんわりと腕を広げた。澄んだ音を立てながら、その掌に氷の塊が生成されていく。 乙女は両手を突き出した。集束を始めた光の粒子が、手首へとまとわりついていく。そこに何かが具現化される。青空のように透き通る綺麗な宝石がはめ込まれた、左右一対のリストバンド。腕に氷を纏わせるそれ。氷の刃を構築するそれ。 乙女と異形。ふたつの存在が手にしている力の顕現。それはグレイズの魔法。それはグレイズのトラベルギア。彼に宿っていたはずの力、彼に与えられたはずの力が、所有者を変えて牙を剥こうとしている。 けれどグレイズは、それを卑怯だと罵ることは無い。力を返せ、トラベルギアを返せとは叫ばない。 「トラベルギアも氷の魔法も、必要ねぇんだよ。そんなもん無くったってな、今まで生きてきたんだよ。戦うのは道具があるからじゃねぇ、俺の意思だ! 体ひとつあればどうにだって戦える」 これまでもずっと、そうだったのだから。今もそうであるべきだ。これからもそうであるべきだ。グレイズの意思は揺るがない。 例え魔法もギアも無くたって。彼には体がある。殴れる拳がある。蹴れる足がある。頭や肩をぶつけることだってできる。歯で噛みつくことだってできる。 そう、彼にとっての武器は、己の意思と。己のからだそのもの。 「それに、ここで死ぬわけにはいかねぇんだよ。元の世界に戻って〝あいつら〟に復讐する前に……こんな所で訳分からねぇ奴に、殺されてたまるか」 ――あなたが 持つはずだった希望で その身を引き裂き 後悔させてあげる! ――すべてを 黒く染めあげる絶望で その心を打ち砕き 失意に染め上げてやろう! 乙女の双眸が、異形の双眸が、爛々(※)と紅く輝いて。その光の筋を闇色の中に残しながら、襲い掛かる。標的は、希望を拒絶し絶望を自ら肯定した彼、グレイズ・トッド! 「うるせぇ! 帰らなきゃいけねぇんだよ、俺はぁ!」 音も無く、瞬きをする間に接近してきた乙女に向けて、グレイズは拳を繰り出した。 けれど乙女の動きは疾い。目では追えない。野性的な感覚だけで突き出した攻撃など、乙女にはかすりもしない。 瞳の紅が像を残し、乙女が急速に距離を離して後退していく。それをがむしゃらに追おうと、グレイズは足を踏み出した。 その背中に氷塊がぶち当たる。異形が放ったそれは乙女を追うグレイズを叩き落とした。氷は光の粒となってすぐに霧散する。 「ち、馬鹿だ屑だと勝手に言ってな。どうせその通りなんだ。けどよ――」 グレイズはすぐさま体を起こす。そこへ、氷柱のような氷が襲い掛かる。横へ転がるようにして避ける。石畳に氷の槍がいくつも突き刺さる。 続けて背後に殺気を感じた。風が奔った。紅色の光の残像を走らせながら、乙女がグレイズの後ろから横を駆け抜けて。 「おめおめと自分から死ぬなんざ、馬鹿なことすんのだけは。あきらめるってのは。絶対にありえねぇ――ぐぁ!」 腹部に強烈な痛みが走る。乙女が腕にまとわせた氷が、刃のように彼を切り裂いた。腹から、ぶしゃりと赤黒い体液が飛び散る。けれど、やられたままでは終わらない。 乙女は鋭く翻り(※)、再び氷の刃を閃かせた。それを避けることなく、グレイズはむしろ自ら攻撃の範囲へ飛び込むようにして。先ほどよりも刃は深く、グレイズの体を切りつける。けれどその痛みを代償に、グレイズは乙女がなびかせる長髪を乱暴につかみ、ぐいと己へ引き寄せて。 「俺は野良犬だ。自分からは死なねぇ。死ぬ時になったら勝手に死ぬ」 乙女の鼻面へ頭突きをぶちかます。陶器が割れるような音がして、乙女の顔面に歪な亀裂が走った。亀裂の間からは、異形と同じ黒い色をしたものが火の粉のように噴き出して。 「やられたらやり返す。殺されるんなら先に殺す。気にいらねぇ奴はぶっ飛ば――」 言葉を言い終える前に、グレイズは圧倒的な質量をともなう何かによって、上から押しつぶされた。異形が氷塊を握り締め、それで力の限り打ち付けてきたのだ。 敷き詰められた石のタイルがめくり上がる。その中へ無理やり押し込まれるようにして、グレイズがめり込んでいく。異形は再び腕を振り上げて、氷を打ち付ける。それを何度も繰り返す。 「いい加減に――しやがれ!」 顔の前で腕を交差させ、直撃を防ぎながら。打ち付けられる氷塊の真ん中へ、突き出すように蹴りを放つ。 氷が破砕して勢い良く飛び散った。鋭く尖った破片は、グレイズにも異形にも等しく襲い掛かる。目元を霞め、頬を切り裂き、血の玉を浮き上がらせる。 そうして相手がひるんでいる隙に。グレイズは体を時折ふらつかせながらも、異形へと駆け寄っていき。弾むように跳躍する、異形の顔面を血まみれの両手でつかむ。そしてその顔へと、思い切り膝蹴りを放った。 肉を潰すような感触ではなく、やはり陶器を壊すような軽くて儚い手応えを感じて。黒の異形がGRRRと獣のような悲鳴をあげ、手を振り回し、グレイズは叩き落とされた。異形はヒビの入った顔を手でおさえながら、痛みをこらえて暴れ回っている。顔面の亀裂から、血のような色をした光の粒が立ちのぼっている。 「これが俺だ。このやり方が俺だ……誰の指図も受けつけねぇ。誰にも邪魔はさせねぇ。希望も絶望も……関係ねぇ」 肩膝を付きながらも、グレイズは敵を真っ直ぐに見据えた。 打撲による内出血で肌が紫に変色している。体のいたる場所に切傷がある。血を滴らせている。ぽたぽたと地面に斑点を作っている。そうして満身創痍になりながらも、瞳には挑戦的な感情が色を宿していて。その心の炎は、未だに揺らめている。 ――愚かなひと 地面に両手両膝をついていた乙女が、幽鬼のように力なく立ち上がる。当初の声音にあった明るさなど垣間見えぬほどに、冷たい声で囁いた。 ――与えられた希望に すがっていれば 良かったのに 「……うぜぇ」 グレイズは血の混ざった唾と共に、言葉を吐き捨てた。 ――愚かものめ 痛みにGRRRと唸り声をあげていた異形が、長い舌のようにだらりと腕を垂らす。爛々と輝く紅い瞳をぎょろりと蠢かせ、重く低い声で囁いた。 ――絶望を前に あきらめてしまえば 良かったのだ 「……うぜぇ、っつってんだろうが! てめーらの説教は飽き飽きだ」 グレイズは吠えた。見せ付けるようにして、足元にあった石の欠片を力の限り踏み潰す。煙のように埃が膨らむ。 その様子を見て、乙女が哂う。異形が哂う。くすくすと、げらげらと。まるで、空からすべてを虫けらのように見下ろしている、あの顔のある三日月のように。醜く口許を歪ませて。 ――トラベルギアも無しに 馬鹿なひと ――己に宿る魔法も無しに 愚かな奴め ――無力は 希望を遠ざけ 死を招く ――無力は 絶望をまねき 死を招く ――自ら 死を選ぶなんて 怖くはないの ――引き込もうとする 死に 恐怖は しないのか 「死ぬことにビビってるなんて、半端な覚悟しか持ってねぇ奴にな……復讐ができる訳ねぇだろが」 グレイズは付いていた肩膝を、億劫そうに持ち上げようとした。けれどうまく力が入らず、前のめりに倒れこんでしまう。けれど這いずり回る野良犬のように、再び立ちあがろうと体を起こす。 「死ぬ事になっても……構いやしねぇ。元の世界に戻って……〝あいつら〟に復讐するためだったら……俺は最後まで、足掻いて足掻いて……足掻き……ぬく! それが俺の誓い。復讐を誓った野良犬の……覚悟なんだよ」 掠れるような呼吸をしながら。息絶え絶えに、グレイズはそう言い放つ。ふたつの敵に向けて、抗うように言葉を投げつける。 「希望とか絶望とか……そんなのに左右は、されねぇ。邪魔はさせねぇ。ただ……やる! それだけだ。それ以上もそれ以下も、ねぇ……!」 ――信じられない 与えられる希望を 自ら否定して それでも生きようとするなんて あなたは ――考えられぬ 絶望を抱える 自らを肯定して それでも生きようとするなど 貴様は ――あなたは 誰? ――貴様は 誰だ? 洞窟の中で響くように、暗い街でふたつの声がこだまする。 何度も地面に倒れ伏せながらも、あきらめずにようやく立ち上がることのできた、グレイズは。ふたつから投げかけられた問いに、にやりと笑う。それは自嘲(※)を含みながらも、どこか吹っ切れたような清々しい感情の色を持っていて。 「誰でもねぇよ」 グレイズは、ゆっくりと手を前に伸ばした。痛みと疲労で小刻みに震える手を、しっかりと伸ばした。 「俺はただの犬。名前もねぇ、何もねぇ……薄汚れた一匹の野良犬(グレイズ・トッド)だ。だから――」 数え切れないほど過酷な目に遭って、傷つき、奪われ、そうしたことにも慣れていたはず。けれど異形の放つ戦慄と強さに屈し、あきらめかけていた自分。 それを支えたひとつの想い。元の世界へ帰るという想い。帰り、友の命を奪った〝あいつら〟を探し出し、この手で殺すという目的。 そんなことをしても、友は戻らないとグレイズは知っている。けれど、その想いが彼のからだに熱を宿す。 (なら、あなたはどうするの?) 声が響く。聞き覚えのある幼い少女の声。あるいは無残に殺されたはずの、友の声にも聞こえる。そんな声が問いかけてくる。 グレイズは答える。自信と確信を持って、想いのひとつを口にする。 「決まってんだろ。目の前の奴らをぶちのめす」 (どうやって? 魔法もトラベルギアも、失っているのに?) 「できるかどうかじゃねぇ、やるんだよ!」 差し出した手。その掌は氷を生み出せず、トラベルギアも装着されていない。 けれど。人差し指、中指、薬指、小指、そして親指――ゆっくりと一本ずつ、指を折り曲げて。たっぷりと時間をかけながら、ひとつの拳をつくって。つかむように虚空を握り締める。そこには何もなかった。目に見える何かは無かった。 けれど、確かにつかんだ! グレイズの中でかたい何かが弾けて目覚める、顕現する、具現化する。 心に宿るものを感じる。虚空に手を伸ばし、しっかりとつかんだものを感じる。かたち無きもの、けれど確かに在るもの。己に秘められた力の、もうひとつのかたち。 それは希望? その名は希望? それこそは、希望という名のトラベルギア? ――違う! 「これは! こいつは! 俺自身のチカラ、だぁぁぁぁ――ッ!」 ――冷たく暗い その街に―― ――熱き風が 吹き抜けた―― 最初からあったものの、失うだけしか味あわせてくれなかった、氷の力ではない。 かと言って、差し伸べされた偽善のごとく、他者から施しのごとく与えられた、トラベルギアでもない。 それは炎。友を焼き尽くした炎熱の恐怖。彼にとっての過去。 彼が伸ばした手から、握った指の間から。激流のように、紅い炎がほとばしる。 「やられた分、やり返してやるぜ」 たじろぐ乙女と異形を前に、グレイズは。荒れ狂う炎のような激昂を秘める、強い視線を向けて。炎を宿す手を、振りかざす――。 † 「まったくもう、乱暴なひと。……けれど真っ直ぐなんですね。あなたは激しく、雄々しく、荒々しく……これからもそうやって生きていくのね」 暗い街の天空に佇む、顔のある三日月の上。そこに腰掛けているメルチェットの姿があった。異形の闇を打ち倒した挑戦者を、上空から見下ろしていた。戦いの余波でほとんどが焼け焦げ、崩れ、瓦礫と化した街。その中で埋もれる彼へ向けて、あきれるように呟いた。けれど温かな眼差しを注いでいて。 「あなたが、あなた自身に願ってることを忘れないで。そうやって、あなたはあなたの思うように、生きたらいいです。何と言われようとも、汗や泥や血にまみれても。あなたは、あなたらしいあなたでいると良いです。きっと〝お友達〟も、そんなあなたをいつものように、笑ってくれるはずだから」 † 「……あん?」 月に腰掛けている少女が、そんな言葉を投げかけてきたと感じて。グレイズは覆いかぶさっていた瓦礫を乱暴にどけながら、少女を仰ごうと闇色の空を見上げた。 そこに少女の姿は無かった。顔のある月の顎先に腰掛けているような気がしたのに。なぜか戦いの最中では思い出すことができなかった、白い衣をまとう金髪のあの少女の姿は、そこには無かった。 けれど、少女の声は確かに届いた。グレイズの目元が憎らしげに細められる。舌打ちをしながら瓦礫から這い出ると、月から背を向け、歩き出す。暗い街並みを朝焼けのように照らし始めた、強烈な光の方向へと。そこに出口があると、少女の声が教えてくれた。 「――ったく、うぜぇんだよ。何が訓練だ、クソが。人様の心の中にも、入り込んできやがって」 グレイズは強さを求めてやってきた。元の世界に戻り復讐を果たすまでの、大きな力を得るためにと。 でもそこに、都合のいい希望など無かった。あるのは自分だけ。自分自身という、抜き身の刃ひとつだけ。それ以上のものもそれ以下のものも、無かった。炎の力も、自分にあったモノがかたちを変えて表れただけ。 自分に今あるものが全てなのだ。最初から、そうだったのだ。 くだらない遠回り。そう気付いたグレイズは、くくくと卑屈そうに笑いを漏らし。挑戦的な瞳で、上空に佇む顔のある月を見上げた。誰もいない月。嘲笑するように歪んでいた口元は、やはり同じままでいて。一匹の野良犬に、嘲る(※)ような視線を投げかけるのみだ。 復讐を果たすことが、おまえにできるかな? ――と。その目は訴えかけているように思えて。 「てめぇに言われる筋合いはねぇ」 鋭いナイフを思わせる、危うげに尖った敵意を向けた。 野犬は生き続ける。荒々しく吼え、猛々しく牙を剥く。力尽きるその時まで。復讐を果たすその時まで――。 (グレイズ・トッドの歩みは、続く)
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