イラスト/村正宗(ippv3791)
その日もグレイズ・トッドにとってはなんの変哲もない最悪の一日だった。他人を殴って、殺して、脅して、涙と血で拳を汚して僅かな金と食べ物を手に入れて貪った。 死なないためにならなんでもやった。 それが当たり前になっていった。 金のグレイズ・トッドが死んだ、ピンクも、黄もたった一人の野良犬はそれでも大人たちの首輪を外せず、必死にもがいて、ひっかいて、暴れた結果作り上げる傷が大人たちを楽しませていることに気が付くと、己の滑稽さに諦念がくわわった。 生きるためにもなんでもやった。 止めてくれる奴がいなくなったせいで何かが外れ、自分をとことんまで落ちるところまで落としてしまいたかった。考えるのも面倒で、ただ力があればそれを使わない理由がなかった。 グレイズは逃げていた。 悲しみや、孤独や、怒りや、どうにもならない現実から。 空腹が満たされた肉体にたいして心の空腹はいつも吼えるほどだった。もてあました時間をたった一人の家で過ごすと余計に腹が立つ。 グレイズは舌打ちとともに家を出てふらふらと歩いていく。 ――青の、こんなゴミ溜めでも星は見えるんだ 金色の笑顔がある。 ――まったく、あんたってバカね。寒さにうとすぎよ! 風邪ひいたらどうするのよ ピンクが吼える。 ――青、の 黄はおずおずと手を掴んでくる。 そこは金色が探し出した、とっておきの隠れ家。朽ちかけた鉄製の建物は斜めに歪んでいてちょっとでも重さがあれば崩れてしまいそうなほどにあやうく、軽い子供しか入れない。だからここには大人の目が届かない。 青のグレイズはそろりとなかにはいる。ぱらぱらと黴鉄の粉が落ちて、軋んだ悲鳴があがる。 俺も、そのうち入れなくなるのか? 以前四人ではいったときは、建物は静かだったのに。いや、あれは四人で騒いでいたせいでまったくわからなかっただけなのか。それともやはりグレイズが成長して、大人に近づいているせいなのか。 「はっ、ろくなものくってねぇのにな」 ひょろひょろの腕を見ながら吐き捨てて屋上にあがる。折り重なった鉄をひょいと飛んで、大きな穴から飛び出すと紺碧の空と薄闇の地上。 ほのかな明かりは果てのない闇を恐れるように弱弱しい。 埃ぽい風が吹いて髪の毛をもてあそぶ。うっとおしくて手で払い、グレイズはその場に座り込んだ。 「ちっ」 漏れる舌打ちは虚しく消えていく。 俺は、ここになにをしにきたんだ。 「ばかみてぇだな」 自嘲を漏らしてグレイズは一人であることを再度確認すると肩から力を抜いた。 なにもかもちっぽけだと思えて、皮肉な気持ちになれる。俺もこれと同じだ。 けれど空は ――みてみろよ、本当にきれいだ そう口にした無邪気で無垢なやつは誰だったのかもう思い出せない。 笑いながら見上げた地上の弱い光を蹴散らす星の輝きは、何十人の人間が朽ちて骨となり、砂となったものをばらまいたみたいだ。 その光のなかを何かが駆けていくのが見えた。 グレイズは眉根を寄せた。 「なんだ、あれ」 銀の光が一筋、弧を描いて落ちていくのに思わずグレイズは手を伸ばした。もしかしたらその光を掴めるかと咄嗟に思ってしまった。 「!」 ぐらりっと世界が姿を変える。頭のなかを棒でかき混ぜられたようにぐちゃぐちゃになる、不思議と不愉快ではない眩暈が押し寄せる。 「っ」 一瞬目を閉じてよろめいたグレイズはすぐに目を開けた。 「なんだ、いま……!」 グレイズは息を飲む。 目の前に光が溢れていた。 「なんだよ、これ」 恐れおののいた声でグレイズは瞬きも忘れて地上の輝きを見下ろす。 いくつもの光、光、光……今まで自分が見ていたのとまるで異なる風景に背筋に寒気が押し寄せた。 ありえない! 咄嗟に自分はおかしくなったのかと恐怖に震えながら頭を両手で抱えた。 「なんなんだよ、これ……この建物もおかしいだろう」 斜めっていたはずが、しっかりと足場があり、まっすぐに立っている。 本当に自分は狂ったのだと考えながらグレイズは目の前を見つめていた。 次にはどうしてか笑いがこみあげてきた。これが俺の狂った夢にしろ、幻にしろ、彷徨ってみるのもいい。頭のおかしいやつはあそこには大勢いる。そういうやつらがどういう末路を辿るのかだって良く知ってる。 死ぬのだ。 または理性のない獣として生きていく。 どっちでもいいさ。 背中に流れたねっとりとした汗が風によって冷たく冷えると皮肉な思考が頭を埋め尽くし、グレイズは軽やかな足取りで光の世界へと身を投じた。 そこはグレイズが知っている世界ではなかった。 光が溢れて、どこもかしこも昼間より明るい。 建物を一歩出れば大勢の人が行きかっている。彼らの着る服はどれも穴が開いておらず、泥もついていない、ぴかぴかの新品だ。それを無造作に何枚も着ている。 建物の入り口、影になった通路から眺めたグレイズは再び唖然とした。 なんだよ、これ。 自分の頭がおかしくなったとして、よく知らないものまで生み出されるのか? ――グレイズは自分が本当にイカれたのだと思った。 こんな光景ありえない。 誰も彼も無防備だ。グレイズがちょっとその気になれば彼らの荷物は全部掏ることは出来るくらいに警戒心がない。 通りの人々の会話はいくら耳を澄ませても、何をしゃべっているのかまったくわからない。大人たちの機嫌を見て生きてきたので表情には人一倍敏感だった。――笑っているのだ。明るく、生き生きと。誰もが笑っている、というわけではない。なかには怒っていたり、落ち込んでいたり……こんなにも表情が豊かなやつがいること自体がありえないことだ。 グレイズの知る限り、自分の生きる世界ではみんな誰も彼もが凶悪な顔をしていた。そのなかにひそむのは諦念と疲れ、その果てに孕んだ狂気じみた怒り。そうグレイズの知る人々の目は濁り、淀み、何を恨めばいいのか、憎めばいいのかわからない、行き場のない感情を持て余して腐らせていた。 けれど、ここの奴らは無邪気だ。こんなものをグレイズは知らない。 「なんだよ、これ」 思わず声に出して呟いていた。 悪い夢を見ているような気分でふらふらと歩き出した。足の裏が痛くない。ちらりと目を向けると、舗装された道路は石しか落ちていなくて、怪我しそうな硝子の破片も、むき出しの鉄も、人の骨も肉も落ちてはいない。 なにか なにかないのいかよ! 焦りに似たものが胸にこみ上げてきた。なんでもいい、人の死体、血まみれの半死半生の奴でもいい、知っているものが見たかった。 きょろきょろしていると何かにぶつかってグレイズは尻餅をついた。見上げると高級なスーツを着た赤い顔の男が二人いた。 酔っ払いなのは嗅ぎなれた酒の匂いでわかった。こんな偉そうなやつらならグレイズみたいなのとぶつかったら腹を立てて殺そうとするはずだ。 グレイズは息を飲んだ。 目を一瞬閉じた。が、予想した衝撃はこない。目を恐る恐る開けると、男の一人が手を差し伸べていた。もう一人は心配そうに屈みこんでいる。 「!」 殴られる以上の衝撃だった。 「――」 なにを言っているのかわからないが、安否を気遣われていること、グレイズの身なりを気にしていること――表情でわかった。 グレイズはちらりと横を見てぎょっとした。 透明な硝子に映った、汚くて、小さな、とても哀れな野良犬。――グレイズ・トッドの姿 「っ!」 グレイズはたまらずに立ち上がると駆けだした。 頭のなかで無数の罵りの言葉がいくつもいくつも溢れては、虚しく消えていく。 ちくしょう! グレイズは慎重に隠れていた。建物の裏に身を寄せると、少しだけほっとした。 ここは自分の知る香りが少しだけしていたからだ。けれどそんな些細な安堵を覚える自分のちっぽけさにイライラとした。 外にいるのに身震いすることのないあたたかい一晩がすぎると、朝日の下を人々が歩いていた。夜よりもずっと無防備で、いろんな色の服を着て、笑いあっている。 驚いたのは彼らが無造作に食べ物を捨てていくことだ。食べかけや、まったく手をつけていない食べ物をためらいなく捨てていく。グレイズは唖然と、その様子を見ていた。試しに彼らが捨てたものを手にとって匂いを嗅いで一口齧ると、あまりにも濃厚な味に舌が痺れた。 てかてかの茶色のたれのかかった肉をパンとレタスで挟んだそれを口元と手を汚しながら夢中になって食べた。 飲み物は少しばかりこの不可思議な街をさまようと遊具のある公園にぽつんと蛇口があって捻ったらきれいな水が出てきた。トイレもあったのに警戒してみたが死体はなく、使用することが出来た。 昼間は、その公園の木の上にのぼって過ごした。うとうととしていると小汚い姿の男がいた。やっぱりゴミはいるのだと思ったが、彼らは警戒せずにベンチで眠って、ゴミを漁っている。それを襲うやつは誰もいない。 なんなんだよ、ここは。 その日の夕方、グレイズは街をさまよっていた。野良犬がのろまな人間に捕まることなんて決してありはしない。 建物の裏の道を歩いていると、ふいに誰かが出てきた。あわてて身を隠すと、白い衣服の男がなにかを捨てている。食べ物だと判断してグレイズはその男が捨てたゴミをあさり、息を飲んだ。ぐちゃぐちゃの、真っ白いケーキ。いちごがたっぷりと使われていて、きらきらと光っていて、ふわふわしている。それが無造作に崩れて、どろどろに溶けて――指ですくって白いクリームを舐めた。やっぱり、甘い。けれどなぜかしょっぱかった。 「俺は、なにをしてんだよ」 両手で顔を覆った。これが悪い夢ならさっさと覚めてくれ。もうたくさんだ。 「きみ、もしかして、ロストナンバー?」 自分のわかる言葉が投げられてグレイズは瞠目した。公園の木の上に隠れていたグレイズはいぶかしげに下にいる相手を見た。 「あ、怖がらないで。君を保護しにきたんだ」 懇々と丁重に説明されたのは信じられないような、けれどこの現状を説明づける現象だった。 覚醒、ロストナンバー、ロストレイル…… 「つまり、俺の世界も、こういうものの一つだってことなんだな」 「そうだね」 グレイズが理解したのに相手のロストナンバーは笑った。その顔を見ながらグレイズは拳を握りしめた。 じゃあ 俺の世界はああなんだ? なんでこうはなれなかった? どうしてあいつらはここに生まれなかった? 黄、金、ピンク……あいつらがここに生まれてもよかったってことだろう? あんな風に虫けらみたいに死ななくて済んだんじゃないのか? なんでここに生きてるやつらは俺の世界みたいにならなかった? なんで なんでだよ! 昨夜のぐちゃぐちゃの白いクリームが脳裏に蘇る。 甘いケーキを食べて笑いあった思い出。それだけがグレイズにとって大切で、幸せなものだった。けど、この世界ではそれすら容易くぐちゃぐちゃに潰れていた。 不公平だろう? その思いはあまりにも身勝手だった。グレイズは自分にないものを、自分たちにないものが当たり前にある世界を知ったからこそ嫌悪した。美しすぎる世界に自分が惨めで汚らしいと理解して。 我慢ならない。 復讐すると決めたが、大人たちだけを殺すなんてちっぽけなものでいいのか? そうだ あの世界そのものが悪いんだ だから 壊しちまえばいい どんな方法を使っても 「なぁ、そうだろ? グレイズ・トッド」 野良犬は冷やかに笑いながら決めた。世界への身勝手な報復を
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