インヤンガイには巡節祭がある。一年の暦が一巡することをお祝いするもので、壱番世界でいうところの正月だ。しかし、ここはインヤンガイらしくあけましておめでとうという挨拶のかわりに爆竹、龍舞に屋台が立ち並びかなり賑やかな催しとなる。 一年に一度土地の霊力も高まるために祭中、暴霊絡みのトラブルも多くある。また各地区で様々な祭りも違い、毎年、この季節になると司書はロストナンバーに現地調査を依頼するのだが「今回は、さるご婦人からの依頼なの。ええ、何度か依頼されたことのあるヴェルシーナというマフィア組織のボス、ハワード・アデルの奥様である理沙子さんから個人的な護衛依頼よ」 黒猫にゃんこ――現在は黒い着物の海猫が微笑んだ。「人によっては退屈、人によっては大変な依頼になるかもしれないわ」★ ★ ★ 依頼主である理沙子はベッドでロストナンバーたちを出迎えた。つい先日の事件で彼女は両足首から下を失い、もう二度と歩けないからだとなったのだ。「ごめんなさいね、わざわざ、お祭りの日なのに護衛を楽しんでしまって……今日、一日、私のそばにいてほしいの。それで」 理沙子は笑顔をくもらせた。「あの女から、守ってほしいの」「あの女?」「私と血のつながった……母親という化け物よ。ほら、もう門にいる」 理沙子は孤児だ。六歳くらいのとき刺殺された死体のそばで泣いていたのを保護された。「ひどい女よ、私は殴られたことぐらいしか覚えてない。ギャンブルに狂って男に貢いで、挙句に殺されたんだから本当にろくな死に方をしなかった。けど、それからよ」 一年に一度、霊力の増す夜に女が現れるようになったという。 夜叉のような形相をした女に、毎年、毎年理沙子は襲われる。「ハワードが、私の夫が言うには、もう自我とか人としての大切なものとか知識とか記憶もなにもないらしいの。ただひとつだけ、私に対する執念だけできているんだって。会話もできないし、なにを考えているのかもわからない。ただ私を襲うのよ、あいつは」 理沙子は疲れたように笑った。「憎んだり、戦ったりしてきたけど、私はこの足だから、もう逃げられないし、立ち向かえない……この屋敷は護符で守られているから入れないけど」 霊は実態を消滅しても、また現れるのは巡節祭によって霊力を得ているためだとも思われる。「出来れば、もう会いたくない。けどどうすればいいのかわからないし……だから屋敷にはいれないように守って、もしくはあの霊がはいろうとしたら……戦ってほしいの。あなたなら勝てるはずだから」
アイロンのかけられたぴしりとした背広、右目に片眼鏡をつけた知的な雰囲気を纏った黒豹が擬人化した姿のエク・シュヴァイスは内心ため息をついた。 女性は苦手なんだがな。 ターミナルに来てから運が悪い。以前は一人の少女に願われて行動をともにした。今回は人妻と一晩一緒とは、やれやれ、また女性絡みか。 それに 母親の話題には思わず顔をしかめていた。 「なにを見ているの?」 声をかけられてエクは振り返る。 クッションを背中に置き、上半身だけ起こした理沙子が伺うような黒い瞳でエクを見ていた。 今は人払いをしているのでここにはエクしか介助出来る者はおらず、巡り遊びの参加者たちを見送った車椅子の理沙子をベッドに運ぶには、ありったけの理性を働かせて逃げたい気持ちを抑え込まなくてはいけなかった。 「いえ、とくには」 「うそおっしゃい」 理沙子は唇に笑みを作った。 「怖い?」 エクがしかめ面を作る。眉間に太い皺が三つも刻まれれば誰でも不機嫌だとわかるだろう。 「ごめんなさい。あなたは紳士よ。だからとても信用してる」 「それは、どうも」 依頼人相手に口調は自然と丁重になる。 「だから、無理しなくていいわ。素はそれ?」 「依頼人相手に素を出すほどマナーは悪くないつもりです」 そっけないエクのしっぽは警戒に小さく揺れる。 「早速仕事にはいりますが、毎年のように現れる「女」が、貴女の母親だと思う根拠は何ですか?」 「根拠? 毎年赤の他人が現れる? もしくは毎年現れて殺そうとする?」 「あるかもしれません」 「あの女の死体のそばで私は見つかった。発見されたとき血液検査もして親子だと警察が証明したわ。霊は騙すものだけど、数十年も私の前でだけあの姿をとる?」 「確認のためでしたが不愉快でしたか?」 「いいえ。あなたの仕事の姿勢はいいと思っただけよ。けれどなぜそういうことを聞いたの? えーと」 「エク」 「エクは、どうしてそう思ったの?」 「執着心にも、種類がありますからね。憎悪であったり、愛情であったり……私では想像も付かない別の何かだったり。心当たりがあれば、ぜひお聞かせ願いたい」 エクの言葉に理沙子は肩を竦めて挑むように問いかけた。 「そんなの、私が聞きたいわ。毎年、隠れて、追いかけられて、殺されかけて、逆に殺したり……結婚してようやく自衛が出来るようになったわ」 そこで理沙子は言いよどんだ。 「けど、子供を産んで、少しだけわかったわ。執着心というものが」 エクは黙って視線だけで理沙子に続きを促す。理沙子は迷う素振りをしめしたが、ついには観念したように口を開いた。 「所有権とは違うわね。ただキサは、娘は私を裏切らないって思うのよ。ねぇ、あなたの母親は? どんな人?」 理沙子はあたりまえのように尋ねるのにエクは首を傾げた。 「本当の両親と言うものは知りません、私は生まれてすぐ孤児院に預けられたようで」 「母親みたいな人は?」 間髪入れずに理沙子は問いかける。 「いました。その女性は人間で私はご覧の通り、種族は異なりますが……彼女は私の母親でした。 いえ、母親だと思っていました。生活苦を理由に首を絞められて殺されかけるまでは」 エクは努めて冷静に、感情をこめずに口にした。母親だと思っていた女はエクを殺そうとした。自分のために。もしくは孤児院にいる他の子供たちのために。 なぜ自分だった? 種の違いなのか。たまたまだったのか――わからない。 そのあとエクは何かを探し求めるように堕落し、ぎりぎりのところで踏みとどまり、こうしていられるのは恩人である探偵のおかげだ。 「大変だったわね」 理沙子の目には驚愕も、同情もない。夕飯のメニューを聞いたように平然としている。それでも目は合わせないのは罪悪感を多少なりとも感じているのだろう。 表向き平気なふりをして、互いに一番重要な部分に触れれないでいるとエクは自覚し、思い切って切り込んだ。 「ひどい女だと思いますか? 大体の人は「YES」と答えます」 「いいえ」 「どうして」 「あなたは、その母親のことを彼女って呼んでるわ。大切なんでしょ?」 エクは目をわずかに開いた。理沙子は母親のことをあの女としか呼べていない。 「彼女は私の母親でした。どんなに傷付けられても、子は親を心のどこかで求めているものです」 ふっと理沙子はなにかを思い出して呟く。目はうつろに、過去を見ている。 「昔は、あの女のしていることがわからなかったわ。私が悪いのだと思った……けど、保護されて違うとわかった。理解したら、だったら、どうすればいいのかわからなくなった。そうして毎年、あの女は現れて……あれは、私の罪そのものだわ」 「罪?」 「私、きっと母親を、あの女を殺したんだわ」 沈んだ深海の底のような静寂に部屋全体が包まれる。冷たい空気にひげが震えた。 理沙子の仄暗い目がエクを見た。 「ずっと考えていたの。私は、あの女の死体のそばにいた。どうして? 殺すなら子供を殺すものだわ。誰だってそうでしょ? 子供がいれば邪魔でしょ? どうして私は生きているの? 私、あのときのことは覚えてない、けどきっと、嬉しくて泣いたんだわ。あの女を殺せて! この手をみて、私の右手の親指と人差し指には深い傷が残ってる。包丁を強く持って出来た傷がね!」 「証拠はありません」 エクは努めて冷静な態度を貫くのに理沙子は激昂に駆られたことを恥じ入るように俯いた。 「警察が調査したのでしょ? それで不可能と結論を出たなら、あなたの思い込みだ」 「そうかしら? あの事件のことはあえて知らないふりをしてきたけど、警察は信用ならない……あなたは殺したいほどに、母親を憎まなかったの?」 「どちらの母親を?」 「両方よ」 「恨まなかったといえば嘘になります。憎んでいないといえばさらに嘘になります。私は……孤児院を逃げるように出たあとは殺しだっていとわないほどに荒れていた。そうしていろんなもの傷つけるしかなかった」 あのときの痛みや孤独を言葉にすれば陳腐で、的確な言葉なんとないと思える。 ただ、幼い子供でも知る言葉で言い表すとすれば、寂しかったのだ。そして悲しかった。過去は刃だ。他人を傷つける事が出来るが持ち方を間違えば、自分を傷つけてしまう。あのとき、エクはどうしようもなく追いつめられて、過去という刃をその手にかたく握りしめ、見えない血を流して暴れまわっていた。 傷は癒えたわけではないが、刃を捨てれば血はとまって、時間が経てば塞がり、ゆっくりと古傷になっていく。時々爪をたてられたように古傷が痛むなら、上手に目を背けていけばいい。 「愚かさの代償は支払ました」 右目に触れてエクは告げる。 「あなた自身がね。それはあなたが支払うものなのかしら?」 理沙子は拳を握りしめた。 「あなたと私は違うことぐらいわかっているわ。あなたにはあなたの答えが出ているのでしょ?」 「どうでしょうか」 エクは素直に答えた。 「強いのね」 「そう、ですか?」 理沙子は微笑んだ。 「さぁ、エク。これ以上にまだ聞きたいことはある?」 「あともう一つ。貴女と、母親を関連付ける品、母親の遺品などはありますか? もしかしたら、それが「女」を退ける鍵になるかもしれない」 「そんなものがあったらとうの昔に捨ててるわ」 「では、これを」 エクは用意していた無線機を無礼にもならない程度の距離をとってベッドに置いた。理沙子は無線機を手にとるとまじまじと眺めた。 「それは常に開いているように、私はこれからあなたの過去を、本当に母親を殺したのか……事件を調べます。協力してください。いくら記憶がないといってもあなたは事件についてある程度調べたはずだ。死体の傍にいたと言ったのがなによりもの証です。教えてください」 エクの言葉に理沙子は頷くと、ベッドの傍らにある引き出しの一段目を開けると封筒を投げ寄こした。 「夫が当時の警察の調査結果を回収したの……私は、怖くて読めないから、ずっと引き出しのなかに置いてあったけど」 封筒の中身を見てエクは頷いた。 「お借りします」 「返さなくてもいいわ。捨てる時は燃やしてしまって」 理沙子は疲れたようにため息をついた。 「声をかけてもいいわよね? 私は依頼人よ。あなたにお願いしたのは護衛だもの。怖いときはエク、エク、エクって無線に言い続けるから」 理沙子はきっぱりと口にしたあと、その体がぶるりっと震えた。 本当はここに一人でいることが怖いのだ。けれど過去を清算するにはエクが現場を調べるしかないと理解しているのだ。 「あなたはあなたのできることをして。ここにいて私を守るより、力のない女の子を守ってあげて」 過去のなかで、力のない女の子が泣いている。 まるで水底のように、深く、静かな闇が広がっている。 理沙子の住む地区は七時から巡り遊びが開始されるのを合図に街全体が静まるようになっている。 エクは俊敏に駆けていく。建物の屋根を飛びながら目を凝らせば、いくつもの提灯がたてられ、そこだけほんのりと灯りに包まれているのだ。 古びた建物はピッキングする必要もなく侵入可能だった。ホームレスは幸いにも住み着いていない、小さなアパート。 玄関はひと一人が通れるほどの空間、真横には台所。ちらりと見上げれば干からびた鉄の蓋がしっかりとしめられたブレイカ―。 床には血がしみついているが、それ以外はなにもない。十年以上も過去の事件現場に何かが残っているほうがまれだろう。 記録では玄関口で下腹部を刺された女はうつ伏せに倒れ、傍らに足の膝、掌の親指と中指に怪我をした女の子と血まみれの包丁があったとされている。 鍵はかかっていた。室内の少女の泣き声がひどいから隣人が警察に通報した――エクは部屋のなかを見回し、鼻をうごめかせる。カビの匂いがする。 聞き込みもしようと思うが、祭なうえ、過去の殺人現場というので人の気配は少ない。 それでも諦めずエクは行動を開始する。 事件現場の真下の階の部屋に小汚い男がいたので事件について質問すると多少不思議そうな顔をした。 「なんでそんな古い事件を? 女なら男をとっかえひっかえしていて、あの日も男ともめていたぜ。借金取りがきてかなりドアを叩いてさ、そのあとなんか落ちる音がして……そのあとだよ、女の子の泣き声がうるさくなったのはさ。もういいかい?」 エクは仕方なく現場に戻ると、探りにかかった。警察はわからなくても第三者だからこそ見つけられるなにか隠されている可能性に賭けて。 玄関を探ってブレイカ―の蓋を開けてエクは真相に気がついた。 『エク! 助けて! ……エ、ク!』 エクは風のように、風よりも早く駆けだした。 窓から飛び込むと理沙子の首を女が絞めつけている。醜い、ミイラのような女にぞっとした。 「理沙子、聞くんだ。貴方は母親を殺していない。これは憶測だが、ブレイカ―のなかに金が隠されていた。この女はそこに金を隠そうとしていたんだ。しかし、女の身長では届くか、届かないかの高さだ。なにかを踏み台にして隠しているときドアが乱暴に叩かれた衝撃に女は倒れて、その拍子にそばにあった、もしかしたら自衛のために手をもっていたのかもしれない包丁が刺さった。不運にもうつ伏せに倒れたせいで深く刺さった……理沙子、貴方の手の傷は人を殺してつくようなものじゃない。逆に包丁を抜いたからついたものだ。幼い女の子に包丁を抜くのは難しかったはずだ。座って抜こうとすれば膝に傷を作る。持ち慣れないから指にも……母親を助けようとしたんだ!」 ミイラは笑う。それがどうしたのかというように。 「理沙子、貴方のせいじゃない! だから、もう捨てていいんだ! 私が……終わらせる!」 エクの手に纏う雷撃に女をひるんで理沙子を解放するのに、素早く隠しもっていた退魔銃の引き金をひく。 嘆きの声のような一撃のあと女は霧散した。 咳き込んだ理沙子は自力で起き上がり、ぼんやりとエクを見つめる。 「私……殺してなかったの?」 「私の推理が正しいのかは、来年にならないとわからないが、決して母親の死を喜んだわけじゃない。貴方のその罪悪感が女の執着と絡み合って、呼んでいた可能性は大いにある。もう許してあげるべきだ。六歳の女の子にはどうしようもなかった」 理沙子の瞳から零れ落ちる宝石のような涙を、あえて見えないようにエクは顔を逸らした。
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