ターミナルの空はいつもと変わらず気持ちのいい青色に染められている。 エク・シュヴァイスは黄昏色の瞳を眩しげに細めて帽子を深く被ると帰路についた。 ようやく慣れだしたターミナルの道を迷わずに進み、博物館に辿りつく。 0世界の片隅に、リーダーと慕う不思議な青年が営んでいる様々な世界の品、志半ばで散った旅人たちの、誰も引き取らなかった遺品がそっと飾られている施設。ときどき、物珍しさから立ち寄る者、危険な依頼に赴くため自分の品をリーダーに預けに来る者が稀に足を向ける以外は死んだように静かさを抱えてひっそりとたたずんでいる。 エクは建物を眺めて裏口にまわろうかと思案した。この建物の端にエクはリーダーの許しを得て部屋を借り受けている。 本来は裏口から入るものだが、今日くらいは表から堂々と入るのもいいだろう。 リーダーはそういう細かなことをいちいち気にしたりはしない。 透明な硝子扉を押し開けてなかにはいると、まるでターミナルが出来たときからあるかのような重く埃ぽい空気がエクの髭を震わせた。 「リーダー?」 出来れば一番はじめに挨拶をするべき人をエクは探す。 「いないのか……? た」 せめてただいまと口にしようとしたとき、背後から恐ろしく冷たい殺気を感じたエクは振り返る。 いつの間にかリーダーが立ってじっとエクを見つめていた。何か言おうとエクが口を動かす前に、リーダーが片腕をあげたのにエクはぎょっと目を見開いた。 リーダーの片腕にあるあれは――自分が苦労して集めた各世界のワインコレクションのひとつ、それも化け物と戦ったり女性に迫られたり犬に追いかけられたりの苦労の末に手に入れた伝説の赤ワイン「モンテレ」! 振り下ろされていくのにエクの頭のなかで素早い計算がなされる。 避けたら確実にワインが砕ける。 受け止めたら痛いけど、ワインは砕けない。 ごつっん。 結果、エクはわが身よりもワインを選んだ。 脳天を突き抜ける重い痛みにそういえばつい最近、これと同じ衝撃を受けたことがよみがえった。 そう、インヤンガイで、やはり問答無用に麻酔弾を撃たれて倒れて拉致されたあとはスイーツ責められて勘違いした怒り狂った勘違い男に撃ち殺されかけた。 後ろに倒れながら薄れゆく意識に思ったのは一つ ――なにコレデジャヴ? 出来れば、このあとの展開まで同じでないことを切実に祈った。 暗闇のなかでエクに微笑んでいる人がいる。 おかあさん 物心ついたときからエクは異端だった。まわりは毛のないつるつるの肌をした人間の子ともたちばかりで、エクは自分が彼らと違うことを不思議に思った。それを口にするたびにおかあさんは微笑んでエクの頭を撫でてくれた。 貧しい孤児院で与えられるものは限られていた。粗末な衣服、満足とは程遠い食事、足りない人手。 貧しさは諍いを生み、いつもエクは容易くスケープゴートにされて、ひどくいじめられた。どうして? この見た目のせい? おかあさんに尋ねても彼女はいつも微笑んで頭を撫でるだけだった。 彼女は種族の違うエクに対して優しかった。と思う。 エクのなかの些細な疑問や悲しみを彼女の手が撫でてくれると気にしなくてもいいのだと思えたから。 愛されている、守られている、この人は自分を包んでくれると信じていた。 けれど 彼女は眠っているエクの首に手をかけた。苦しさに目覚めたとき、それ以上の衝動が心に襲いかかった。 おかあさん 優しいはずの彼女の顔には笑みはなく、憎悪と嫌悪に満ちていた。いつも優しく撫でてくれた手は自分を押し潰そうと力がこめられて、 「っ!」 水のなかから飛び出したような窒息感を覚えたエクは目覚めると同時に息を深く吸い込んで吐いた。 たっぷり一分ほど使って、いま自分がどこにいるのか理解する。 見慣れた白い床、計算されて配置された品が遠目に見える――博物館のエントランス。その端にある待合のソファだ。 首に手をかけてエクは安堵に満ちたため息をついた。 「……ん、って! なんだ、頭が……あっ!」 一人だと思っていたら向いのソファにリーダーこと物好き屋が腰かけていた。気だるい猫のような表情で、膝の上に肘を乗せて頬杖をついてエクのことを見つめていた。 絶句するエクに物好き屋は微笑みもせず、静かに唇を開いた。 「殴る前に帽子は安全な場所へ転移させたから安心して」 静寂を破る、静かなピアノのような澄んだ声なのに言葉はいつもぶっきらぼうだ。 その言葉に頭の痛みがぶり返した。 ずきずきと痛む頭を抱えてエクは諦念のため息をついた。 「リーダー、いくら酒嫌いだからって人のワインを凶器にするな。頼むから、あれを手に入れるのは大変だったんだぞ、とくにあれはボトルに価値があって、だな」 「中身を抜いたらただの瓶でしょう」 「……酷い」 気持ちのいいほどの一刀両断に耳と尻尾が垂れた。 酒嫌いな物好き屋にワインとボトルは無価値でしかない現実にエクは泣きそうな顔をした。物好き屋は無言で、横に置いてあるボトルを手にとった。 びくっとエクは震える。下手に反論したら虫だって殺さないような顔をしてエクの大切なボトルを床に叩きつけて割るくらいは平然とやる。やってのける人なのだ。 長年の経験でエクは理解した。自分はかなり、いや相当に物好き屋を怒らせてしまったのだと。 「やめてくれ、やめてくれ、壊さないでくれ。わるかった。ごめんなさい、すいません、ゆるしてください、おねがいします」 「……なにを怒っているのかわかってるの」 物好き屋の言葉にエクは押し黙る。 「やっぱり割ろうか」 すぅとボトルを持ち上げられてエクは声にならない悲鳴をあげる。 全身の毛を逆立てて情けない顔を作るエクに物好き屋はふうとため息をついて片腕をおろして、ひょいとボトルを投げた。 「う、わっ!」 両手でキャッチしてエクは顔をしかめた。 「危ない」 「……自分から死にに行く人の“遺品”を飾る趣味はない」 ぎくりとエクは体を震わせて伺うように物好き屋を見つめる。 「部屋、とてもきれいだったね。死ぬつもりだったの」 「そんな、つもりはない……」 しかし、もうここに戻らない覚悟をして帽子をロストレイルに置いておこうとしていた手前、その発言はどこか弱弱しい。 じっと色のない瞳がエクを見つめる。いろんなものを見つめ続けたために無駄なものをそぎ落として澄んだ水のような静寂の色をたたえた瞳。嘘をついたり偽ることはどうしても出来ない。エクはボトルを抱いたまま俯きがちに言葉を吐いた。 「……帰らないつもりではいた」 「エク」 「死ぬつもりだったわけじゃない。これは本当だ。ただ……仲間たちがキサを殺すつもりなら、俺はここを、世界図書館を信用できない。俺はそんなやつらと一緒にいたくはない」 絞り出すようにエクは心のうちを吐き出す。これだけは物好き屋に理解してもらいたかった。 「わかった。それは信用する。どうして依頼を受けたの」 「目的があって、依頼を受けた。自分が生き残ること、キサを世界図書館に保護させること、理沙子が、無事かどうか確認したかったんだ」 「そっか。それはどうなったの」 物好き屋は女性恐怖症のエクがインヤンガイの依頼で現地人である理沙子という女性と珍しく縁が出来たことを知っていた。 「達成できた……一応は」 そのために払った犠牲は決して安くはなかった。 死人と行方不明者も出た。 帰路につきながらエクは死んだ仲間のことを考え、冥福を祈った。たとえ彼女がエクにとって許せない行動に出ようとしても、最終的にキサを守ってくれたことには心から感謝している。それと同時にそういう結末を迎えた彼女の心の痛みや経緯、葛藤は知らないなりにも察した。 あのとき、彼女が動いてくれなかったら理沙子を庇うのに必死な自分は何もできなかった。 いいや、違う。 キサが殺されそうになったとき自分は恐怖と嫌悪から動けなかった。 キサにエクは自分の、無垢に信じて愚かだから奪われた過去を見ていた。 「それでこれからどうするの?」 「と、いうと」 「このまま終わりってわけじゃないよね?」 「リーダーにはかなわないな」 エクは苦笑いを零した。 手をぎゅっと握りしめて見つめる。 「司書から聞いたが、キサの欠片をとるには時間がかかるそうだ。欠片はキサの深い部分と密着して、離すのはかなり難しい……だがいずれは穏便にキサのなかから取り出せる可能性がある」 「そっか」 ぴくりと耳を動かす。物好き屋の声に僅かな優しさがこもったようにエクには思えた。表情にこそ出さないが全幅の信頼を寄せる彼もまた赤ん坊が殺される可能性に不安を覚えていたと思うと心の底がほっとあたたかくなる。 「キサはいろんなことを体験して、学び、成長して、知識をつけていかなくちゃいけないそうだ。そのためにも今後は協力してほしいと言われた」 「するの?」 「俺は……出来れば、キサのことを理沙子に伝えたいと思っている。俺の知る限り理沙子は愛情深い、キサのことを支えにしていた。今回のキサの保護はかなり急ぎで、理沙子自身は重体だったからこの事態をどこまで知っているかわからない。だから、しっかりと俺の口から説明してやりたい、それに見舞いにもいきたい」 エクが最後に見たのは意識を失ったまま、病院に運ばれる理沙子の姿だ。のちほどノートで一命はとりとめたと連絡にほっと安堵を覚えたが、司書と話したとき理沙子が本当にこの保護に同意したのかを怪しく感じた。 今のところすべてを取り仕切っているのは理沙子の夫で、キサの父親であるハワード・アデルだ。 アデル家はインヤンガイにおいてかなり規模の大きなマフィア組織だが、今回の娘の保護と妻のことで世界図書館とかなり微妙な関係となった。 ハワード自身が旅人をどう考えているのかは不明であるが、一部の旅人を除けば好意を抱いていないようにエクには感じられた。 それも立場的に、また今回の一件を考えれば無理からぬことだと理解している。 インヤンガイは危険なところだ。平気で旅人相手にも嘘をついて騙し利用しようとする。 エク個人からいえば娘を殺す選択をした男を信用しきれない、というのもあった。 「考えたんだね」 「俺なりにな」 エクは顔をあげた。 「すまない、リーダー」 「その謝罪はなににたいして?」 「……勝手をして、心配をかけた。だが俺は依頼を受けたことを後悔はしていない。自分に出来る範囲で出来たと考えている」 真剣にエクは物好き屋を見つめる。 「なら謝ることはないよ。はい」 物好き屋が差し出したのは赤いリボンのついた大切な帽子。 いつの間に、どこに隠されていたのか。エクは驚いて目を見開くがすぐにふっと笑ってそれを受け取った。 「僕は第三者で直接知っているわけじゃないけど、キサのことは『仲間』に任せて、エクは理沙子さんの傍にいてあげれば」 「しかし」 「たぶん、一番今辛いのは理沙子さんで、エクのことを必要としているのも彼女だよ」 エクは帽子を撫でた。 「何が出来るのかじゃなくて、まずはそばにいて、彼女の必要としているものを知ってあげなくちゃいけないけど、それが今出来るのはエクだと思う」 「俺に出来る、だろうか」 「それは僕にはわからないよ。エク次第じゃないのかな。理沙子さんを助けたのは君だもの」 下手な励ましさも慰めもないぶん、素直にエクは受け止めた。 何もしていないうちから諦めてはいけない。 わからなければ考えればいい。自分はキサにそう言った。わからないならは考える。一緒に。 キサを大切に思い、助けたいと思う者はこのターミナルには自分以外にも大勢いるだろう。 けれど理沙子は、彼女を助けたのは自分で、まだ何も伝えていない、知ってもいない。 もしかしたら一緒に考えることがあるかもしれない。 そのためにも会いに行って、伝えなくてはいけない、自分の目で確認しなくてはいけない。 「けれど気をつけて、今回の出来事であの世界の情勢は変わってるから」 物好き屋の冷静な言葉がエクの心に水を落とす。 ここ最近のキナ臭い依頼、現地で謎の旅人の失踪事件――何かが悪意を持って事件を起こしている。 マフィアたちはぴりぴりと互いに牽制し、いつ、どこがぶつかりあい戦争になるとも限らない。 そして今回キサが起こした騒動で、また何かが変化したはずだ。 そのなかにいるだろう理沙子がやはり心配で焦る気持ちが産まれたがそれを宥め、慎重に動こうと自分自身に言い聞かせる。 「……わかった。ありがとう、リーダー」 力強いエクの返事に、じっと瞳を見つめて物好き屋は納得したように頷いた。 「さすがに疲れたから、一度部屋に戻る」 「うん」 エクは立ち上がると帽子を両手に握ったまま歩き出そうとして足を止めた。 「リーダー」 「なに」 物好き屋はまだソファに腰かけたままだ。悲しみを吸い取りすぎた瞳は鈍く、深く、不思議と安心させてくれる力を持っていた。 「……ただいま」 「おかえり」 物好き屋の表情は変わらないが、微笑んでいるようにエクには見えた。エクは微笑んで一礼したあと背を向けて歩き出した。 リボンのついた帽子を頭にかぶると自分の部屋に帰った。
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